合理的志向

人類は、8~11歳には三次、四次志向意識水準までは持てるようになりますが、シェイクスピアやモリエールとまでは行かなくても、これぞ人間の文化と呼べるような洗練された物語を、自ら志向して紡ぎだせるのは人類の成人だけであるとダンバーは言います。もっともほとんどの人は、5次志向意識水準までが能力の限界だろうと彼は言います。偉大なストーリーテラーは、その限界ギリギリのところまで観客を押しやってこころを揺さぶり、感情を掻き立てます。そのためには作者自身が6次志向意識水準まで持つ必要がありますが、それができる人間は全体の四分の一もいるかどうかだとダンバーは言います。そういう意味では、やはりシェイクスピアは天才なのだと彼は言います。

1906年、ニューヨークのブロンクス動物園で、ゴリラの折の隣にアフリカのピグミーの男性、オタ・ベンガが「展示」されて大人気になったそうです。彼はやがて自由の身になりましたが、2年後に自殺したそうです。アメリカの暮らしになじめなかったのか、一文無しで故郷コンゴに帰ることもかなわず、絶望したのかと思われていますが、ダンバーが振り返って考えてみると、このできごとはゆゆしき人権侵害であり、オタ・ベンガは露骨な人種差別と、残酷な仕打ちの犠牲になったと言えるのではないかと考えています。

人種に関係なく、すべての人に等しい権利を認めようという近代的な発想は、人間、みんな同じ「種類」だという信念を反映していると言われています。たしかに私たちは人種に関係なく、人間としての一定の特徴、特に道徳性は共有していると言われています。しかし、そうでない場合はどこで線引きするのか?これは何世紀も前から哲学者を悩ませてきた問題ですが、神経科学の目覚ましい進歩によって、ここに来てついに答えが得られるかもしれないとダンバーは言います。

18世紀スコットランド啓蒙主義を代表するデビッド・ヒュームは、道徳は基本的に感情の問題だと述べているそうです。自分や他者がどう振る舞うべきかという判断は、本能的な直感に突き動かされるのだと言うのです。ですから同情や共感が大きな役割を果たしているのです。ところが、同時代にドイツで活躍した大哲学者イマヌエル・カントは、そんなもので人生を構築するのはまかり成らぬと考えたのです。道徳的な感情は、様々な選択肢の長所・欠点を吟味しながら、合理的志向の産物としてあるべきだと強く主張したのです。

19世紀になると、カントの合理主義的な立場がぐんと優勢になります。それは、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルが唱えた功利論の後押しを受けたからだそうです。ベンサムやミルは、最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいものだと考えたのです。それが、現在の立法制度のもとになっている考え方だそうです。その後の哲学者たちは、ヒュームとカントをそれぞれの長所を論じながら世代を重ねてきたと言ってもいいとダンバーは考えています。

しかし近年、神経心理学の目覚ましい進歩によって、スコットランド啓蒙主義に最終的な軍配が上がろうとしているそうです。私たちはいかにして道徳的な判断を下すのか、それを突き止めるために、これ以上ないくらいシンプルな実験を行なったのが、ヴァージニア大学のジョナサン・ハイトを中心とする研究チームだそうです。

合理的志向” への13件のコメント

  1. 6次志向意識までを持っている人が全体の4分の1いるかどうかと言われているのですね。私の好きなアーティストと呼ばれる人の中にもきっとそのような人が含まれているんだろうなと思うと、あの人とか、あの人もきっとそうだと思える人が浮かんできて、なんだか楽しいです。「道徳は基本的に感情の問題」とデビッド・ヒュームという人が考えたとありました。そして、「ですから同情や共感が大きな役割を果たしているのです」ともありました。子どもたちが同情や共感という感情を産まれながら持っていますね。そんな感情がより高まっていくためには子ども同士の社会が必要だと考える、子ども同士が関わることのできる環境というのは道徳にも繋がっているということが言えるのですね。ですので、このヒュームの考え方を聞いて嬉しくなりました。しかし、「道徳的な感情は、様々な選択肢の長所・欠点を吟味しながら、合理的志向の産物としてあるべきだと強く主張したのです」というカントの主張の方が優勢になっていった歴史があるのですね。なんだかこのようなカントの主張では道徳は教えるもの、身に付けるものだという言い方に思えてしまような印象を受けました。そこには本来人が持っているという考えはなさそうですね。まだまだ現代でも道徳は教えるものだという風潮があるのかもしれませんね。

  2. デビットヒュームは道徳は基本的に感情の問題と述べています。それに対して最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいという考えも生まれたんですね。これについて考えてみたのですが、どうなのでしょう。こう言った問題こそ二極性で考えてはいけないと思います。道徳について何が正解で何が間違いかなんて時と場合によりますし、「これがあるべき人間の姿であり、とるべき行動だ」なんて一概に決められないと思います。道徳に同情や共感が大きな役割を果たしているとありますが、その通りだと思います。対して最大多数の最大幸福を生み出すことが大切ともあり、これもそうだと思います。こう言ったヒトの気持ちの問題を科学するのはとても難しいと思います。
    しかし、道徳的な判断をいかにして下すか、それを突き止めた研究チームがあるとあります。とても気になります。

  3. 藤森先生のお話で志向意識水準の1次から5次までの説明を聞かせていただいたことで、勝手に思考意識水準は5次までと思っていましたが、6次まであるのですね。偉大なストーリーテラーは6次志向意識水準まであり、それを持ち合わせている人は4分の1にいるかどうかとあったことには驚きました。5次から6次においては、より明確な差があることがうかがえます。
    ドイツで活躍した大哲学者イマヌエル・カントが登場し、カントの「人間は教育されなければならない唯一つの被造物である」という名言が印象的だったので、ふと思い出しました。この言葉からもカントの考える合理的志向では、道徳も教育していかなければ身に付かないと言っているようにも聞こえてきます。18世紀に起きたヒュームとカントの論争が現代でも行われていることに驚きましたし、近年では神経心理学の目覚ましい進歩によってヒューム側の啓蒙主義が有利なのですね。それの背景にある「私たちはいかにして道徳的な判断を下すのか」におけるシンプルな実験がどのようなものであったのかが気になります。

  4. 道徳について〝最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいものだ〟という考えと〝基本的に感情の問題だ〟という考え方があるのですね。
    このような問題は「どちらが正しいのか」と考えてしまうと二分法の考え方となってしまい、どちらかを切り捨ててしまいそうになりますが、どちらも良いものがあるというように考えていくと場面や状況により、使い分けができるのではないのでしょうか。それこそ、どのように振る舞うべきであるかを直感での判断が良い場面があるだろうし、みんなの幸せを願って判断することも必要なことであろうというのは想像できることです。
    道徳的な判断をどのように下しているのかということをつきとめるための検証が行われているということで、気になります。シンプルなものということで意外性がありますね。

  5. ブロンクス動物園に展示されてしまったピグミーの男性の気持ちを思うと、いたたまれない思いがこみ上げてきます。そのような露骨でむごい人種差別の歴史が、人類の歴史の中に刻まれているのですね。人類と動物との区別という面で、「どこで線引きするのか?」といったことが明確になかった時代では、そんなことがまかり通っていたのでしょうか。ただ、どこで線引きするのかということが現代でも未だ解明できていないということは、形は違っても、人類はそのような歴史を再び起こす可能性を抱いているということでもあるのでしょうか。そして、その線引きが「神経科学の目覚ましい進歩によって、ここに来てついに答えが得られるかもしれない」ということもありました。合理的志向の産物としてある道徳感情が、人生を構築する要因であるということですね。

  6. 「1906年」という時代。今から110年余前の時代、この時代には「ピグミー族」の男性を動物園のゴリラの隣に「展示」していた。私たち人間というものはおぞましいものだと思いました。同じ人間なのに出自、肌の色、身体的な特徴あるいは財産の有無等々によっては尊敬もされ「展示」もされる。動物園の檻の中で暮らす動物たち。彼ら自身が好むと好まざるとにかかわらず檻の中で人間の衆目に晒されている。こう考えてくると、動物園とはなんと罪な施設よ、と思われてきます。「神経科学の目覚ましい進歩」このことについてはとても関心があります。ヨーロッパ啓蒙主義に端を発する流れの中に、ヒュームやベンサム、ミル、そしてカントが登場してくる。その後はヘーゲルまで功利論と観念論が織り交ぜられて展開し、ヘーゲルに繋がる道筋の何と面白そうなことか。それでも「神経心理学の目覚ましい進歩」からは目を離せないような気がしてきます。

  7. 6次志向意識水準という領域というのは一体どんな感じなのでしょうか。やはり天才の領域なのでしょうね。ピグミーの男性の話は衝撃でした。少しネットを見ると人間動物園というのも検索で引っかかりました。なんだか寂しい気持ちにさせられます。まさに「露骨な人種差別」であることがわかります。「私たちは人種に関係なく、人間としての一定の特徴、特に道徳性は共有している」とありそれに対して、「そうでない場合はどこで線引き」が理解が難しいですね。そして「最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいもの」というのがなんとも理解しやすいのかなーと感じていますが、「私たちはいかにして道徳的な判断を下すのか、それを突き止めるために、これ以上ないくらいシンプルな実験を行なった」という最新の状況というのは気になりますね。

  8. ゛オタ・ベンガは露骨な人種差別と、残酷な仕打ちの犠牲になったと言えるのではないか゛ということは、人権、その一人一人が生まれながらにもつ権利に容赦のない差別だと思いました。人は生まれながらにして人格者だということをわたしたちは意識していますが、この時代には、格差社会、人種差別というものが根強かったことが読み取れます。オタ・ベンガという人を知らずに調べてみとも、奴隷商人に買われ、解放されたが、生まれ故郷に帰るときには第二次世界対戦もあってからか戻れず、そのまま、精神的に病み、死を選んだなど、人が人が生き方を失った末路のよつに考えられ、わたしたちは、上下ないフラットな関係性を重要視する必要があり、そのなかで、社会への貢献をしていかなければならないことを改めて感じています。
    人類というひとつの種でありながら、人種や格差、肌の色、住む地域などによって区別しているように考えられます。共生というものは、そういった道徳的部分を重要視したものでなければならないと思いました。

  9. ダンバーは、様々な知識を得ていることからそれに伴い様々な疑問を持ちさらなる深まりが出ています。これまでのブログやこれまでのものを思うと凄さを感じます。
    合理的なものは、この世でもよくありますが何が合理的なのかは個人によって違う場面が出て来ると思います。

  10.  「オタ・ベンガ」調べてみましたが、とても切ない出来事ですね。時代を感じますし、時代の犠牲になったともとれます。人権や、道徳心、そういったものがこの時代においては今日程に理解も整備もされていなかったのではないかと思えてきます。
     そこにきて「道徳は基本的に感情の問題」という言葉は相当なインパクトを放っていますね。とてもその時代を象徴するかのように、感情というものに理性や社会性を持たせようとする意図を感じるのは個人的な見解です。人権差別などが蔓延っていた時代においても、それを間違っていると感じていた人が必ずいたわけで、その人たちの道徳とは、その時代の人たちの最新の道徳とは、この言葉だったのだと思い、何か無性にやるせない気持ちになりました。

  11. 動物園に展示されたピグミーの男性の話にはとても悲しい気持ちにさせられました。どんなに辛かったでしょうか。「露骨な人種差別」とありましたが、同じ人間同士を差別し残酷な仕打ちをするなど許されることではありませんね。そういった意味でも、多文化理解や多様性というのは大切だと感じました。
    6次志向意識水準という言葉がありましたが、5次志向意識水準までが人の限界と言われていてもそれを持つ人たちが世界にはいるのですね。リミッターが外れるといいますか、天才には明確な差があることを感じました。自分は5次志向意識水準にまで達しているのだろうか?と気になります。

  12. 恥ずかしいですが、「オタ・ベンタ」について知らなかったので調べてみましたが、衝撃を受けました。生きている人間を展示するという考えなんで思いつきもしませんでした。人種差別というのは、学校で学んできましたが、私が思っている以上に酷い事が起きていると知り、心底恐ろしくなりました・・・。道徳的な感情がどこから出てくるのか?という議論でカントの合理的志向の考え方は間違ってはいないと思いますし、「最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいもの」というのも間違いではありませんが、なんだか個人的に腑に落ちない部分があります。やはりデビット・ヒュームの本能的に突き動かされ、相手に共感と同情が役割を果たしているという考え方がしっくりきます。関係ないのかもしれませんが、極端な合理的志向がかえって人種差別などを引き起こしているようにも思います。

  13. 「オタ・ベンガ」の話を知らなかったのですが、「人が人を展示した」というのはかなり衝撃的な話ですね。しかし、その反面、では同じ霊長類を展示しているのはどうなのだろうか?その差はどこにあるのだろうか?その線引きは「道徳」によるのでしょうね。また、今回はこの「道徳」について「本能的な直観に突き動かされる」デビット・ヒュームの話と「道徳的感情は、様々な選択肢の長所・欠点を吟味しながら、合理的志向の産物としてあるべき」というイマヌエル・カントの話がありました。この二人の道徳のあり方はさまざまな小説でも、「大をすくために小を犠牲にする」のか「直観的に大切なことはぶれてはいけない」というようにその対比を考えることがあります。そして、確かに社会的には合理的なカントの主張が優勢であるというのも確かですね。しかし最近では合理的な志向ではなくなってきているのですね。改めて考えてみても、その線引きは非常に難しいものです。人の道徳的判断がいかにして行われるのかその研究の方法がシンプルとありますが、一体どういったものなのか気になります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です