効率重視

ヴァージニア大学のジョナサン・ハイトを中心とする研究チームが行なったのは、被験者を二つのグループに分けて、道徳的に首をかしげるような行動を評価させるだけのものだったそうです。ひとつのグループは臭いトイレや乱雑な机のそばに座らせ、別のグループは、もっと快適な環境に置いたのです。すると、最初のグループのほうが、あとのグループのほうより評価が厳しくなったそうです。そのときの感情に判断が左右されたのです。

道徳性の研究で使われる古典的な思考実験のひとつに、以前ブログで紹介した「トロッコ問題」があります。ここでダンバーもこの思考実験を紹介しています。そして、これと同様の実験を、脳卒中で前頭葉を損傷した人で行なった結果、意図の有無が大きな意味を持つことがわかったといいます。彼らは、功利性第一の合理的な選択をしたのです。前頭葉は、意図的な行動の評価を行なう場所です。意図性の重要さは、ハーヴァード大学のマーク・ハウザーとMITのレベッカ・サックスが行なった研究で明らかになったそうです。トロッコ問題のような道徳的ジレンマに直面した人は、意図性の評価に強く関わる脳の領域、それは、右耳のすぐ後ろに位置する右側頭頭頂接合部などですが、ここがことのほか活発になったのです。他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができるのだと言います。

ジグソーパズルを完成させる最後のピースは、カリフォルニア工科大学で最新の脳画像技術を活用しているミン・シューの研究グループが見つけたそうです。この研究では、ウガンダの飢えた子どもたちに食べ物を与えることに関して、被験者にさまざまな判断をさせ、そのときの脳の様子を調べたのです。効率重視で判断するとき、脳内の神経活動が盛んになるのは報酬に関係する領域、特に被殻だったそうです。そうではなく不平等感に強く支配されているときは、規範が破られたときの感情と結びついている場所が活発になったそうです。さらには、どちらの領域でも神経活動が強くなればなるほど、被験者の行動は適切なものになったそうです。道徳的な判断と、効率優先の功利主義的な判断は、脳の別のところで行なわれていて、同時に両方が働くとは限らないということだとダンバーは考えます。やはり、ヒュームに軍配が上がる、ということだろうかと彼は言います。

しかし、道徳心が、共感、もしくは同情、もしくはその両方の反映というだけならば、必要なのはせいぜい二次的な志向意識水準までで、それ以上のものを得ようとがんばることはないと言います。つまり、「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」ことさえわかっていれば十分だと言います。しかし、それをよりどころとする道徳心は常に不安定だと言います。

なぜなら許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるからだです。ものを盗むことは悪ではないと私は思っているかもしれないからだと言います。あなたから大切な宝物を盗み、あなたがそれで悲嘆に暮れても共感しないだろうと言います。もちろん、あなたが悲しんでいることは認識していますし、その感情がどういうものか自分に置き換えて想像することもできると言います。しかし、盗む行為に問題があるとは思っていないので、何でもないことであなたが大騒ぎしているとしか受け止めないと言います。たとえあなたに自分のものを盗まれても……お好きにどうぞ、なのだと言います。自分の所有物は守ろうとするだろうが、盗られたものは仕方がないと思うというのです。

 

効率重視” への13件のコメント

  1. 「道徳的な判断と、効率優先の功利主義的な判断は、脳の別のところで行なわれていて、同時に両方が働くとは限らないということだとダンバーは考えます」とありました。ということは道徳的な判断と、効率を重視するような合理的な判断は違うものということになるのでしょうか。なかなか難しい話ですが、トロッコ問題のような問題に直面した時に、人は道徳心ではない部分で判断しているということになるのでしょうか。「なぜなら許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるからです」という言葉も印象的でした。そうなると、社会の中で多くの人の道徳観や価値観に触れることが大切なのかなとも思えてきます。あなたと私の考えていることは違うということを知ることもとても大切なことですね。内容がなかなか読み取れていませんが、もっと具体的なことをイメージして理解していきたいです。

  2. トロッコ問題と同様の実験を行い、意図の有無が大きな意味をもつとあります。わかる気がします。バットで人を叩き怪我をさせていしまったと聞けば、怒りを覚えますが、偶然バットが当たってしまって怪我をさせてしまった場合では、今度から気をつけてね、と怒りはありません。結果として怪我をさせてしまったということは同じですが、その意図が違うと受け取り方が異なります。そう言った意図性の評価に強く関わっているところが右側頭頭頂接合部なんですね。他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができるとあり、なるほどと思いました。ミン・シューの研究グループが行った実験も非常に面白いと思いました。効率重視で判断するとき、脳内の神経活動が盛んになるのは報酬に関係する領域であり、不平等感に強く支配されているときは、規範が破られたときの感情と結びついている場所が活発になったんですね。なぜ、効率と報酬。不平等と規範を破るが結びつくのか疑問に思いました。人の脳は本当に面白いです。最後に書いてある許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるとありすごく納得しました。十人十色が人であり、子供も一人一人をしっかり見ていかないと思いました。

  3. 「たとえあなたに自分のものを盗まれても……お好きにどうぞ」考えには衝撃を受けました。そこまでお人好し?になれるかなと感じました。しかし、子どもの例をあげてみると、壊してほしくないものを子どもの手の届く場所に置いてはいけないとか、窃盗を生まないために施錠を怠らずに用心するとかなど、自分のものであっても盗まれても良いものは「お好きにどうぞ」という思考なのかなとも感じました。そうではないものに関しては、厳重な自己管理のものと好きにさせはしないでしょうね。そして、道徳心には「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」と理解することが大切であり、「他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができる」とあるように、相手が何を思って何を考え相手のことや自分のことをどう理解しているのかということが道徳心につながっていくのだとということが把握できました。

  4. 〝許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるからだ〟とあり、道徳心を培うには自分とは違う価値観を持っている人やちがう考え方、見方をする人などいろんな人と関わりを持つことが大切になってくるのかなと思いました。
    とはいえ、窃盗をされて〝何でもないことであなたが大騒ぎしているとしか受け止めない〟と考える人がいる可能性があるということを、自分も改めて思い知らされました。
    さらに、道徳心には〝他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができるのだ〟ということで、他者がどのような考えで、どのようなことを思い、理解している、されているのかということから繋がっていくということなんですね。

  5. ヒュームの「道徳心が、共感、もしくは同情、もしくはその両方の反映というだけならば、必要なのはせいぜい二次的な志向意識水準まで」とありました。そして「道徳的な判断と、効率優先の功利主義的な判断は、脳の別のところで行なわれていて、同時に両方が働くとは限らない」ことが、このヒュームの考えを後押ししているが、二次思考意識水準までで十分ということは、カントの合理志向の考えが三次以降を引き出すということになったりするのでしょうか。また、二次思考意識水準までだと道徳心は常に不安定とあり、「自分の所有物は守ろうとするだろうが、盗られたものは仕方がないと思う」という考え方には驚きました。そう考えると、窃盗罪を起こしてしまう人は二次思考意識水準までしか持ち合わせていないからということになるのでしょうか。

  6. 自分のモノが誰かに盗られたとわかった場合、いつも反省することがあります。それは、盗った人に盗るという行為を可能にしてしまった、ということです。本当に申し訳なく思うのです。人のモノを盗んではならない、ということは事あるごとに教え諭され大人になったような気がします。盗る人に自制を求めても無理な場合があるでしょう。それは「許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるから」。今、北朝鮮の脅威が叫ばれています。まずは北朝鮮の脅威を取り除け、そのためには先制攻撃だ、という論理。これはまさに「効率重視」の論理です。しかし、北朝鮮の人々の気持ちを考えてみます。戦争はしたくないでしょう。平和に暮らしていきたいでしょう。貧しくとも生きていたいと思うでしょう。脳神経系によってダンバー氏が伝えようとしていることを現実の場面に置き換える。「トロッコ問題」のような究極の選択はいずれも悲劇を生みます。白黒つけない、まぁまぁ文化、の意識化こそ今求められているような気がします。白黒決着をつけない子どもたちの世界に私たちは学ぶべきでしょう。その方が生きられるのです。

  7. 個人的な許容範囲を考えてしまうと、道徳心には定義をしようとすると難しいところでその人にとってはいいことであっても別の人にとっては許せる範疇でなければそれは道徳心はないものとなってしまいますね。
    実験では、環境の違いによって感情の違いが出てしまうのも雰囲気にのまれてしまっていることも表しているように思います。その、環境で左右されるということは私たちの普段の生活においても大きいのではと思ってしまいます。子どもにおいてもそういった面はあるのでしょうか。

  8.  「不平等感に強く支配されているときは、規範が破られたときの感情と結びついている場所が活発になった」不平や不満、不安や恐れを抱いた時に感じる場所なのでしょう。この一文を読んで、身分制度がどうして上手くいかないのか、歴史において必ず淘汰される制度なのかがはっきりとわかる気がしました。支配される側と、支配する側、どちらもそのルールを破ろうとすることに対して心を動かさざるを得ない制度だからですね。
     こういう脳の働きを知ることで、人間はもっと豊かになれると改めて思いました。保育ももちろんそうで、遺伝子の中に子育てのルーツがあり、それに沿わない保育は淘汰されていくのでしょう。藤森メソッドは、脳科学的にも何とも心地の良い保育であることを改めて思いました。

  9. 「他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができるのだと言います。」とあり、確かに人は起きたことに対してすぐに感情的になるのではなくなにがあったのかを気にすることがあります。そして、それが意図的なのか意図的でないかでその後の対応決めますね。また自分の置かれた環境や状況でその評価が左右されるというのは意外でした。そして、「許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるから」という考え方にはハッとさせられるような思いてます。そもそもその部分の考え方が違う場合があることを認識しておく必要性を感じるとともに育ってきた環境がそこで大きく影響ひてくるのかなとも感じます。そう考えるとまた子ども一人一人に対してもそういったところをよく見ていきたいものです。

  10. ゛意図の有無が大きな意味を持つことがわかった゛とある言葉が不思議と入ってくる部分があり、わたしたちは常に意味を持つような生き方をしているのではないのかという考え方でなければならないと思いました。子どもたちは、自発的であり、生まれながらに様々なことをできるという研究結果があるようにどうして行ったのか?という点を深めた観点をより持っていく必要性を感じています。また、゛許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるからだ゛このことは、社会では常に向き合わなければならなものであり、こまでが悪い、悪くないというような境界が様々で異なることを互いに擦り合わせているように思えます。その境界線を互いに知り合うことが互いの気持ちを汲み取ることができたり、共感できるキッカケになるように感じ、こうした中で道徳心が育つのかとも考えられました。

  11. 「許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性がある」確かに人によって価値観というか、器の大きさが違うというか、ある出来事に対して人によって感情の移入が違います。ブログに書いてあるように、盗んだものに対して仕方がないと思う人もいれば、悲嘆になる人もいます。保育中でいうと、子どもの行動に対して怒る人と、そうでない人がいると思います。そうなった時に、どちらが正しいのか?という議論になった場合、難しいですね。「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」と書いてあるように自分が信じている事をお互いに伝えあえばいいのかもしれません。

  12. 「道徳的な判断と、効率優先の功利主義的な判断は、脳の別のところで行なわれていて、同時に両方が働くとは限らない」ということが書かれていました。脳の不思議を感じます。
    「何でもないことであなたが大騒ぎしているとしか受け止めない」とありましたが、なんとなくわかる気がします。ものを盗むという行為はやはり、悪いことだと多くの人が感じると思いますが、同じ出来事でもショックを受ける度合いが違ったりすることがありますね。仕方がないと割り切ることができる人となかなか気持ちを切り替えることができない人など、個人差があるように感じました。

  13. 脳が行う判断は様々な領域の部分で判断を行っているのですね。他者の意図的な行動の評価を行う前頭葉の部分で行われていることがわかっているが、その反面で道徳的な判断と効率優先の功利主義的な判断を行うときは脳の別の領域で行われており同時に両方が働くとは限らないのですね。人は時として、道徳の判断を行う中でどちらを使うのか、それともどちらも働かせるのかということを行っているのですね。ひとえに「道徳」と言ってもその土台は「共感」や「同情」といったものが土台としてあったとしても、人の効率重視な計算なども判断の中にはあるということがわかります。それだけ人は様々な角度から、複雑な判断をしているのですね。道徳的な判断は人によって違います。どの回路を使うのか、どちらの比重が高いのかそれは人との出会いから影響を受けると思っているのですが、不思議ですね。やはり教育とは「もっている能力をどう引き出す」かが大切であって、「つける」ものではないように感じます。

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