宗教上の信念

ヒト以外の種に対して、その利益に配慮するのは私たちの義務であろうとダンバーは言います。それは、同じ認知能力を備えた種を扱うときの考え方です。しかし、だからといって、彼らも人間同様に道徳的な判断ができると考えるのはどうかと言います。しかし、中世には実際にそんな例があったそうです。1頭のブタが飼い主を突き殺したとして裁判にかけられ、有罪を宣告され、死刑に処せられたことがあったそうです。いまから見ると滑稽であるとダンバーは言うのですが、私たちはそれだけ、ほかの動物に人間並みの能力を持たせたがるということではないかと言います。人間以外の種が、道徳的な感覚を持つという有力な証拠はありません。その意味では、私たち人間は唯一無二の存在かもしれないと言います。道徳的な感覚を持つ上で不可欠な二次以上の志向意識水準は、人間にしかできない芸当なのだと彼は言うのです。人間とは、切っても切れない宗教に、高次の志向意識水準が求められるのも偶然ではないだろうとも言うのです。道徳規範も宗教上の信念と強く結びついていると考えるからです。

どうしても、海外、特に欧米では宗教との関係についての考察が必要になるようです。以前のブログでも取り上げたように、チャールズ・ダーウィンの進化論は、ビクトリア朝の人々から大歓迎を受けたわけではなかったのです。進化論は、聖書の世界創造譚を覆すものであり、さらに悪いことに、ほかの生き物と違って人間は別格という主張も脅かしたからです。ダーウィンが賢明だったのは、宗教に関する意見を自分の胸にしまっておいたことだろうとダンバーは考えています。先達の態度にならったのか、その後の進化生物学者も注意深く神を避けてきたようです。そういう不穏な論争は、社会学者や人類学者に任せていたのです。

しかし数年前から、神をいうテーマがついに取り上げられ、詳しく論じられるようになってきたようです。そうなった直接のきっかけははっきりしていないそうですが、宗教も進化をめぐる謎のひとつという認識が広がったことが背景にあるだろうとダンバーは考えています。人間はときとして、不可解な行動をとることがあります。この先二度と会わない人のために力を尽くしたり、もっと不思議なのは、自分を押し殺してコミュニティの意向を優先させたりすることだと言います。信仰が絡んでいるときは、とくにそうなる傾向が強いようです。人間は自尊心があるにもかかわらず、善だけでなく悪に対しても、また醜悪なものに対しても追従することがあります。ヒヒやチンパンジーに自尊心はありませんが、彼らは決してそんなことはしないのです。

ダンバーは、信仰心は厄介なものだという印象を持っています。ふだん私たちは、自分の主張や意見がまっとうなものか多少は吟味しています。ところが宗教がらみのことになると、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わないというのです。人類学者スコット・アトランとパスカル・ボイヤーが実験的な研究で示しているそうですが、水の上を歩く、死者を生き返らせる、壁を通り抜ける、未来を予言したり変えたりするといった超自然的行為の話は、ことのほか信用されるのだと言います。それでいて私たちは、神にも人間と同じ感情と心があると思っています。奇跡や、奇跡を起こす存在に対しては、世俗の超越と等身大の人間らしさの両方を求めてやまないのだとダンバーは言うのです。

心の理論の獲得

ダンバーは、そもそも私たちを人間たらしめているものは何なのか?その答えを探っていくと、他者の心を理解できる能力にどうしてもたどりついてしまうと言っています。発達心理学の最近の研究によって、人間の子どもも生まれたときはその能力を持っていないことが明らかになっています。すなわち、「心の理論」が獲得できていないというのです。4歳くらいで急に出現するのだと考えられています。それまでは、自分が見たり、聞いたりするのとは別の世界が存在することが理解できないというのです。缶の中のお菓子を誰かがこっそり食べたのを目撃したら、ほかのみんなもその事実を知っていると思うと言うのです。しかし、成長するにつれて、お菓子が食べられたことを知らない人もいるのだとわかってくると言われています。

心の理論は、人間らしさを構成するすべてのものの入口であると言われています。文学作品が生まれるのも、宗教が出現するのも、科学が実践できるのも、すべて心の理論あればこそだと言うのです。政治的なプロパガンダや広告は、他者の心の内側を理解すること、その中身に手を加えて行動を変えさせることが二本柱になっていると言うのです。

心の理論は、独特の能力であり、言葉それ自体も心の理論に支えられていると言います。しかし、すべての人がこの能力を有しているわけではないのです。自閉症患者には心の理論が欠如しています。というより、そのことが自閉症の決め手となる最大の特徴なのです。しかし、自閉症患者は、それ以外の知的能力は正常だったりしますし、ときにはずば抜けた能力を発揮することもあります。そのことを、ダンバーは映画「レインマン」を例に挙げています。この映画でダスティン・ホフマン演じたのは、数字に関しては超人的な記憶力を持つ自閉症患者でした。そのいっぽう、自閉症患者は人間関係を築くことが極端に苦手です。他者の心情や考えに思いが至らないので、人と人が接するときの微妙な反応が理解できないのです。

ここで浮上してくるのが、「心の理論は人間にしかない能力か?」という疑問です。イヌやネコが飼い主の心を見透かしたかのような賢い振る舞いをすることがありますが、人間以外の動物が他者の考え方や気持ちを読めるという明確な証拠はありません。唯一の例外は、大型類人猿だけですが、人間で言うならばせいぜい4歳児並みだそうです。その年齢ですと、心の理論はまだ発達途上なのです。

しかし、ここで疑問が立ちはだかります。私たちが道徳心を持ち、人間らしくいられるのは、心の理論をはじめとする特別な認知能力に支えられているからだというのです。そうした認知能力は、人間以外では大型類人猿も持っていると言われています。大型類人猿しか持っていないと言うべきかもしれないとダンバーは補足しています。そのいっぽう、人間なら全員あるかというとそうではなく、幼児、自閉症患者、精神面で重いハンディキャップを持つ人は、この能力が欠落しています。大型類人猿とヒトのあいだにはむろん遺伝子的な隔たりがあるはずですが、ではいったい誰が道徳的な存在で、誰がそうではないのでしょうか?

自閉症患者が人間であることを疑う人はいません。1歳児についても同じことです。もちろん、すべての人権は両者に保障されてしかるべきであるとダンバーは考えています。彼らがコミュニティの正当かつ対等な構成員であることを認めるのであれば、むろんそうすべきですが、遺伝子的にはいささか離れるとはいえ、同じ認知的能力を備えた種はどう扱えばいいのでしょうか?

精神的能力

つい20年ほど前まで、類人猿は、外見の特徴から、ひとつは現生人類とその祖先、もうひとつは大型類人猿の四種(チンパンジー二種、ゴリラ、オランウータン)に、大きく二系統に分かれるとされていました。ところが、遺伝子解析が導入されたことで、この分類が実は的外れであることが判明したそうです。そのことは以前のブログで紹介したことです。系統がふたつあるというのは変わりませんが、ひとつはアフリカ類人猿であるヒト、チンパンジー二種、ゴリラで、もうひとつはアジア類人猿であるオランウータンという分け方になったのです。進化の枝分かれを調べるとき、外見は必ずしも正しい手がかりにならないようです。この類人猿、あるいはアフリカ類人猿に限定してもいいかもしれませんが、その種は「道徳的な存在」と呼んでもよいのではないかとダンバーは考えています。なぜなら、道徳感を持つ、あるいは道徳的な行動や態度が取れるからです。

人はみな平等であると私たちは確信しています。その理由のひとつは、共感能力から言語能力に至るまで、各種認知能力を全員が同じように持っているからだと彼は言うのです。となると、ヒト以外の大型類人猿にもそうした特徴があるかどうかが問題になります。

まず、類人猿に言語はあるか?ということを考えてみます。彼らに言葉を教える試みは、1950年代から始まりましたが、最初は惨憺たるものだったそうです。もともと類人猿は発声器官が人間と違うため、人間の言葉と同じ音を出すことがそもそもで来ません。それなのに、英語を教え込もうとしたのですから、挫折しても無理はなかったと振り返ります。しかし、話し言葉はひとまず脇にやって、手話に切り替えてからは成果が目に見えてあがり始めたそうです。これまでにチンパンジー数頭、ゴリラとオランウータン各一頭がアメリカン・サインランゲージを教わっています。また、言葉代わりの図形を用いてコンピューターのキーボードを操作させる方法は、ボノボとチンパンジー合わせて十数頭が挑戦していました。

このなかでいちばんの成功例は、まちがいなくカンジという名のボルボだったそうです。話された英語文をほかの類人猿にしても、私たちが使っているような言語を持っているわけではありません。彼らの言語スキルは、人間でいうとせいぜい3,4歳児程度だったのです。

しかし、大事なことを忘れてはならないとダンバーは言います。言葉は目的を果たすための手段にすぎません。よくできた手段ではありますが、言葉自体は、あくまで個人から別の個人に知識を伝達するメカニズムでしかありません。重要なのは、言葉の根底に横たわる精神的な能力なのだとダンバーは言うのです。こうなるといよいよ、言葉の助けを借りることなく、精神を掘り下げるという困難な問題と立ち向かうしかないというのです。

この見解は、とても重要な指摘だと私は思います。それは、グルーバルな時代に向けて、英語教育を早くから教えるということに対する警告でもあると思うからです。英語が話せるということは、知識を伝達するメカニズムを習得したに過ぎません。話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えることなのです。それをダンバーは、「言葉の根底に横たわる精神的な能力」と表現しています。

ですから、ただ言葉を話せるからといって、人間たらしめているかというと疑問なのです。

新皮質の能力

大型類人猿やヒトでは、脳の新皮質の大きさのわりに一次視覚野と呼ばれる線条皮質が小さくなっているそうですが、それは、おそらく、視覚処理の第一段階は、もっぱらパターン認識を行うのですが、一定のところまで発達したら、それ以上充実させる必要がなかったのだろうとダンバーは推測しています。それでも脳全体は、少なくとの新皮質は発達を続け、腺上皮質より前側の領域では、たくさんニューロンが使えるようになったそうです。この部分は、認識されたパターンに意味を付与するところです。この領域でとりわけ重要なのが前頭葉なのです。それも高度な遂行機能を行なうところだそうです。脳の発達は後ろから前へと進んできました。霊長類になってからの脳は、前頭葉と側頭葉が突出して大きくなっているそうです。そして大型類人猿の大きさになったところで、社会的な認知機能を司る領域が広がったというのです。その意味で大型類人猿の脳は、線条皮質以外の部位、特に前頭皮質がずば抜けて大きくなる境目だったのではとダンバーは言うのです。

そのあたりから、ヒト以外の動物で社会的な認知能力へ、つまり心の理論が出現するわけだそうですが、これは偶然でも何でもないとダンバーは言います。サル、類人猿、ヒトが到達した志向意識水準のレベルと、それぞれに前頭葉の容量を並べたら、きれいに比例するはずだと彼は言います。これもまた偶然ではないというのです。

ヒトはなぜ道徳的な判断を下せるのか、なぜそれはヒトにしかできないのか……この疑問にも、そろそろ答えが見つかりそうだと彼は言います。ヒトの脳の新皮質が劇的に増大したのは、ほかの霊長類よりずっと大きい集団で生きる必要があったからだろうと考えられます。手ごわい外敵を相手にしなくてはなりませんし、遊牧生活にも対応しなくてはならなかったのです。ところが、もとは周囲の世界についての情報を処理したり、操作したりするためだった新皮質の能力が、ある一定レベルを超えたところで、自身の胸の内を見つめるためにも使われるようになったというのです。

大型類人猿はその一歩手前で立ち止まっているわけだというのです。もし彼らの脳が、限界を飛び越えてさらに大きな処理能力を得たならば、複雑に重なり合う関係を行きつ戻りつしながら、一対一のレベル、それは「きみがやりたいことを私に察してくれときみは思っているんだな……」というレベルや、第三者を交えたレベル、それは「きみはこう言いたいんだろう?ジェームズは、アンドルーがこうしたいと思っているって……」というようなレベルで、志向意識水準を発揮できるようになったはずだと言います。

そうなったときにははじめて宗教が誕生し、宗教とも密接に結びついた道徳観念が生まれてくると言うのです。化石人類の頭骨を調べると、前頭葉が大きくなり始めたのは人類の歴史のなかでもかなり後のことだそうです。50万年前に古代型ホモ・サピエンスが出現したことと深い関係があるだろうと言います。では、ヒト以外の種にも、道徳心があるのでしょうか?

いま生きている中で私たち人間に一番近い親戚は、まぎれもなく大型類人猿です。つい20年ほど前まで、類人猿は、外見の特徴から大きく二系統に分かれるとされていました。ひとつは現生人類とその祖先、もうひとつは大型類人猿の四種、チンパンジー二種、ゴリラ、オランウータンです。

道徳と宗教

今回の小学校学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針の改定にあたり、道徳が強化されています。しかし、道徳というものが大切であるということはわかるのですが、何が道徳かということになると難しい気がします。それは、時代によって、立場によって違ってくるからです。古くは、儒教における論語などは道徳的な心構えが書かれてありますが、その多くは為政者としての心構えです。ダンバーは、この道徳についてこう考えています。

道徳心が、共感、もしくは同情、もしくはその両方の反映というだけならば、必要なのはせいぜい二次的な志向意識水準までで、それ以上のものを得ようとがんばることはないと言うのです。つまり、「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」ことさえわかっていれば十分だと言います。しかし、それをよりどころとする道徳心は常に不安定だと言います。

そうではなくて、もっと確固たる道徳感がほしいのであれば、もっと高い次元での正当化が必要であるというのです。民事法は集団の総意を遂行する優れたメカニズムですが、絶対不変な哲学的真理とか、神などの至高の宗教的権威を信仰することも同じような役割を持っていると言います。とくに信仰に関しては、その認知構造を分析していくと、私たちの志向意識水準が様々な角度から試されていることがわかると言います。信仰システムが何らかの力を持つためには、一段高いところであなたや私の望みを理解し、くみ上げてくれる存在がいると信じなくてはならないと言うのです。

このシステムが機能するには、最低でも四次志向意識水準まで設定することが不可欠だとダンバーは考えています。そのうえで、あちこち枝分かれしたところも含めてすべてを見渡し、まとめあげる五次志向意識水準の能力を持つものが求められるというのです。つまり、宗教、及び道徳体系は、人間が生まれながらに対応できる社会的な認知能力のギリギリの限界のところで勝負しているのだというのです。

このことは、サルや類人猿と人間の社会的認知の違いに立ち返るとよくわかると言います。人間は五次志向意識水準まで到達することが可能ですが、類人猿は二次志向意識水準までが限界で、サルはどうあがいても一次志向意識水準から抜け出すことができないのです。それは、自分がいま経験している以外の世界があることなど想像も付かないのです。神々や精霊など、目には見えないけれど私たちの心を見透かし、この世を考えられる存在があるとは思いもしないのだというのです。

たしかに、道徳心というものは、人との関係で必要なものであることが多いために、他者が自分とはちがう考えを持っていることを理解できなければなりませんし、その能力でも3歳児くらいに身につくであろう二次志向意識水準なのです。このような志向意識水準のレベルを上げていくことが必要になるのですが、それは、どういうことなのでしょうか?

それを、ダンバーは、脳の構造に関して考察しています。脳の新皮質と一次視覚野と呼ばれる線条皮質の大きさを霊長類で比較してみたそうです。すると、両者は正比例の関係にないことがわかったそうです。大型類人猿やヒトでは、新皮質の大きさのわりに線条皮質が小さくなっているのです。おそらく、視覚処理の第一段階は、もっぱらパターン認識を行うのですが、一定のところまで発達したら、それ以上充実させる必要がなかったのだろうとダンバーは推測しています。

効率重視

ヴァージニア大学のジョナサン・ハイトを中心とする研究チームが行なったのは、被験者を二つのグループに分けて、道徳的に首をかしげるような行動を評価させるだけのものだったそうです。ひとつのグループは臭いトイレや乱雑な机のそばに座らせ、別のグループは、もっと快適な環境に置いたのです。すると、最初のグループのほうが、あとのグループのほうより評価が厳しくなったそうです。そのときの感情に判断が左右されたのです。

道徳性の研究で使われる古典的な思考実験のひとつに、以前ブログで紹介した「トロッコ問題」があります。ここでダンバーもこの思考実験を紹介しています。そして、これと同様の実験を、脳卒中で前頭葉を損傷した人で行なった結果、意図の有無が大きな意味を持つことがわかったといいます。彼らは、功利性第一の合理的な選択をしたのです。前頭葉は、意図的な行動の評価を行なう場所です。意図性の重要さは、ハーヴァード大学のマーク・ハウザーとMITのレベッカ・サックスが行なった研究で明らかになったそうです。トロッコ問題のような道徳的ジレンマに直面した人は、意図性の評価に強く関わる脳の領域、それは、右耳のすぐ後ろに位置する右側頭頭頂接合部などですが、ここがことのほか活発になったのです。他者の意図を了解し、評価できるからこそ、私たちは感情移入ができるのだと言います。

ジグソーパズルを完成させる最後のピースは、カリフォルニア工科大学で最新の脳画像技術を活用しているミン・シューの研究グループが見つけたそうです。この研究では、ウガンダの飢えた子どもたちに食べ物を与えることに関して、被験者にさまざまな判断をさせ、そのときの脳の様子を調べたのです。効率重視で判断するとき、脳内の神経活動が盛んになるのは報酬に関係する領域、特に被殻だったそうです。そうではなく不平等感に強く支配されているときは、規範が破られたときの感情と結びついている場所が活発になったそうです。さらには、どちらの領域でも神経活動が強くなればなるほど、被験者の行動は適切なものになったそうです。道徳的な判断と、効率優先の功利主義的な判断は、脳の別のところで行なわれていて、同時に両方が働くとは限らないということだとダンバーは考えます。やはり、ヒュームに軍配が上がる、ということだろうかと彼は言います。

しかし、道徳心が、共感、もしくは同情、もしくはその両方の反映というだけならば、必要なのはせいぜい二次的な志向意識水準までで、それ以上のものを得ようとがんばることはないと言います。つまり、「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」ことさえわかっていれば十分だと言います。しかし、それをよりどころとする道徳心は常に不安定だと言います。

なぜなら許される行動の範囲があなたと私で異なる可能性があるからだです。ものを盗むことは悪ではないと私は思っているかもしれないからだと言います。あなたから大切な宝物を盗み、あなたがそれで悲嘆に暮れても共感しないだろうと言います。もちろん、あなたが悲しんでいることは認識していますし、その感情がどういうものか自分に置き換えて想像することもできると言います。しかし、盗む行為に問題があるとは思っていないので、何でもないことであなたが大騒ぎしているとしか受け止めないと言います。たとえあなたに自分のものを盗まれても……お好きにどうぞ、なのだと言います。自分の所有物は守ろうとするだろうが、盗られたものは仕方がないと思うというのです。

 

合理的志向

人類は、8~11歳には三次、四次志向意識水準までは持てるようになりますが、シェイクスピアやモリエールとまでは行かなくても、これぞ人間の文化と呼べるような洗練された物語を、自ら志向して紡ぎだせるのは人類の成人だけであるとダンバーは言います。もっともほとんどの人は、5次志向意識水準までが能力の限界だろうと彼は言います。偉大なストーリーテラーは、その限界ギリギリのところまで観客を押しやってこころを揺さぶり、感情を掻き立てます。そのためには作者自身が6次志向意識水準まで持つ必要がありますが、それができる人間は全体の四分の一もいるかどうかだとダンバーは言います。そういう意味では、やはりシェイクスピアは天才なのだと彼は言います。

1906年、ニューヨークのブロンクス動物園で、ゴリラの折の隣にアフリカのピグミーの男性、オタ・ベンガが「展示」されて大人気になったそうです。彼はやがて自由の身になりましたが、2年後に自殺したそうです。アメリカの暮らしになじめなかったのか、一文無しで故郷コンゴに帰ることもかなわず、絶望したのかと思われていますが、ダンバーが振り返って考えてみると、このできごとはゆゆしき人権侵害であり、オタ・ベンガは露骨な人種差別と、残酷な仕打ちの犠牲になったと言えるのではないかと考えています。

人種に関係なく、すべての人に等しい権利を認めようという近代的な発想は、人間、みんな同じ「種類」だという信念を反映していると言われています。たしかに私たちは人種に関係なく、人間としての一定の特徴、特に道徳性は共有していると言われています。しかし、そうでない場合はどこで線引きするのか?これは何世紀も前から哲学者を悩ませてきた問題ですが、神経科学の目覚ましい進歩によって、ここに来てついに答えが得られるかもしれないとダンバーは言います。

18世紀スコットランド啓蒙主義を代表するデビッド・ヒュームは、道徳は基本的に感情の問題だと述べているそうです。自分や他者がどう振る舞うべきかという判断は、本能的な直感に突き動かされるのだと言うのです。ですから同情や共感が大きな役割を果たしているのです。ところが、同時代にドイツで活躍した大哲学者イマヌエル・カントは、そんなもので人生を構築するのはまかり成らぬと考えたのです。道徳的な感情は、様々な選択肢の長所・欠点を吟味しながら、合理的志向の産物としてあるべきだと強く主張したのです。

19世紀になると、カントの合理主義的な立場がぐんと優勢になります。それは、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルが唱えた功利論の後押しを受けたからだそうです。ベンサムやミルは、最大多数に最大幸福を生み出す行為こそが正しいものだと考えたのです。それが、現在の立法制度のもとになっている考え方だそうです。その後の哲学者たちは、ヒュームとカントをそれぞれの長所を論じながら世代を重ねてきたと言ってもいいとダンバーは考えています。

しかし近年、神経心理学の目覚ましい進歩によって、スコットランド啓蒙主義に最終的な軍配が上がろうとしているそうです。私たちはいかにして道徳的な判断を下すのか、それを突き止めるために、これ以上ないくらいシンプルな実験を行なったのが、ヴァージニア大学のジョナサン・ハイトを中心とする研究チームだそうです。

志向意識水準

ダンバーは、ここでこんなことを言います。文化こそ、ヒトとそれ以外の動物を線引きするものである、そんな主張にいつまでもこだわっていると、遺伝的排他主義と言われるだろうと危惧します。もちろん、言語と同じように、人間の文化にはほかの動物には見られない側面がたくさんあると言います。ただしそれは、文化という連続体の頂点に近い部分に過ぎないと言います。おそらく問題はそこにあると言います。私たち人間は連続性でものを考えることがとにかく苦手で、すぐに単純な二分法で済ませようとするのだというのです。しかし言語の文化も単体ではありません。それを支えているプロセスの多くは、人間以外の動物、少なくとも一部と共有しているのだと言います。

これだけは人間以外にはできないと断言できるものがあるとダンバーは言います。それは、フィクションの世界を構築することだと言います。そもそも動物は、物語というものを理解できません。言葉を持たないことももちろんありますが、想像の世界だけのお話、という概念がはなから理解できないのだと言います。もし言葉を持っていても、額面どおりの意味に受け取ってしまい、存在しない世界の記述に戸惑うばかりだろうとダンバーは言うのです。

ウィリアム・シェイクスピアの「オセロ」という舞台劇があります。この話の設定を観客が素直に信じてくれなければ、舞台は台無しになります。となると、観客の心理、それは、舞台を見る人はこう感じるだろうという予想も計算に入れる必要があります。もっとも自分の意図だけなら、平均的な成人は誰でもやっていけることなので、難しくはありません。ただシェイクスピアは、観客を限界に挑戦させます。観客に五次志向意識水準まで了解させつつ、物語を進行していかなければなりません。それを見事にやってのけたからこそ、シェイクスピアは偉大な劇作家として歴史に名を残しているのだとダンバーは言うのです。

私たちの目下の問題は、それができるのは人間だけということだとダンバーは言います。チンパンジーが認知できるのは、せいぜい二次志向意識水準、つまり自分の意図を認識し、相手の意図を見透かすことまでです。ですから、チンパンジーがタイプライターをいくら叩き続けても、「オセロ」を書き上げることはできないのです。何百年もやっていればひょっこり同じものができ上がるかもしれませんが、それはあくまで統計的にはありうるという話だとダンバーは言います。「オセロ」を書き上げたチンパンジー自身は話の展開を「志向」していたはずがないし、観客がそれについてこられるかといった発想ももちろんありません。イアーゴーがオセロに何か言おうとすることまでは理解できても、イアーゴーが自分の言葉をオセロにどう解釈させたいのかまではわからないであろうと言います。三次志向意識水準を持たないかぎり、それを理解することはできないというのです。

文学作品をちょっと読みかじるとき、たき火を囲んで物語を披露するとき、私たちは空想の世界に遊んでいます。それができるのは人間だけで、現存するどんな動物もそこまでの認知能力は持っていません。大型類人猿であれば、他者の心境を想像してごく単純なお話を組み立てることはできそうだと言います。ただ、登場人物は一人が限界です。もしかすると、人間でいうと、8~11歳の認知能力に相当する三次、四次志向意識水準までは持てるかもしれないと言います。けれども、シェイクスピアやモリエールとまでは行かなくても、これぞ人間の文化と呼べるような洗練された物語を、自ら志向して紡ぎだせるのはヒトの成人だけであるとダンバーは言います。

客観的な視点

動物の発声には、私たちが思っている以上に豊かな意味があるようだとダンバーは言います。しかし、ヒト以外の動物の言葉に関して、解決できるようになるのは、まだ先のことだと言っています。それでも、チンパンジーに言葉を教える試みは、かなりの成果を挙げているようです。これまでにチンパンジー数頭と、ゴリラとオランウータンが1頭ずつ訓練を受けているそうですが、目覚ましい成果を挙げているのはチンパンジーだけだそうです。出された指示に従い、質問に答えるチンパンジーの認知能力は人間の幼児と同じレバルだそうです。しかし、さらに驚きなのは、チンパンジーとほぼ同等のことをこなす鳥がいたということです。みんなに愛され、惜しまれながら世を去ったオウムの一種、ヨウムのアレックスは、英語での会話までやってのけたと言います。

それでも動物には決定的な障壁があるとダンバーは言います。もっと高次元の文化に進んで、宗教的な儀式とか、文学とか、さらに科学を生み出すには、自分の殻から出て客観的な視点で世界を眺めることが不可欠だと言います。それには、「何が起こったのか?」だけでなく、「どうしてそうなったのか?」という問いかけが出来なくてはならないと彼は考えています。しかし、動物は、あるがまま世界を受け入れているようだと言います。自分の利害だけを気にする小さい視点を離れ、いまとはちがう状況を想像できるのは人間だけの能力だろうと言います。子どもの「どうして?」攻撃におとながいらだつのも、人間ならではのことなのだとダンバーは言います。

一歩下がって物事を見られる能力を社会的な場面で発揮できれば、「心の理論」が充分に発達していることになると言います。心の理論ができていれば、他者の心の内を理解したり、さらにはその知識を武器に相手を利用したり、意のままに動かすことも可能です。この能力は、生まれたときにはなく、だいたい四歳頃に獲得しますが、なかには自閉症者のように一生身につかない者もいます。心の理論がまだできていない子どもは、巧みな嘘がつけないし、なりきり遊びもできません。そればかりか心の理論がないと小説は成り立たず、科学や宗教も存在しない。どちらもありえない世界を想像できないと話にならないからだとダンバーは言うのです。

これほどの高みに到達した動物はいません。サルは相手を欺くことはしますが、それはせいぜい3歳児レベルのものです。他者の行動を読んでつけ込むことはできても、他者が自分とはちがう考えを持っていることは理解できないと言います。それに対して唯一の例外は、大型類人猿ということになるそうです。

人間と動物の境を知るにつけ、何度も思うことですが、私たちは果たして人間の領域になっているのだろうかということです。三歳以上にもなると、人間であれば、他者の行動を読んでつけ込むことが出来るだけでなく、他者が自分とはちがう考えを持っていることを理解できるはずだと言うのです。また、これらの能力を考えるとき、こんな疑問が湧いてきます。それは、能力は個人によって違っていますが、他の動物も個によって違いがあるのでしょうか?種によっての違いではなく、同じチンパンジーでもできる個とできない個が、人間ほどの違いがあるとは思えないのですが。

個人によって、持っている能力が大きくちがうのは人間の特徴かもしれません。

動物の発声

ダンバーは、合理的かつ操作的な定義をもってすれば、チンパンジーには文化があることになると言います。しかし、トマセロが指摘するように、チンパンジーが文化を学習する方法がヒトと同じかどうかは、疑いを持ってしかるべきだろうと言います。そこで、「文化を生み出す能力」と「文化を発展させる潜在性」を区別するのも一つの考え方だと彼は言います。類人猿は野球帽を後ろ向きにかぶるなど、環境とのからみでさほど必然性がなくても、成り行きで新しい行動を身につけることがあると言います。けれども過去に誰かが達成したことを土台にして、新しいことを切り開いていく能力は人間にしかありません。もし文化というものがあるとすれば、科学はその代表選手だとダンバーは思っていますが、アイザック・ニュートンは、科学が進歩するには、「巨人の肩」に乗ることが不可欠だと考えました。まさにそれが、「文化を発展させる潜在性」と言うことだろうというのです。

では、人間を区別するものは何かというときに何度も出てくる「言葉」について、最近の知見ではどうなのでしょうか?当然のことながら、私たちが人間の文化と見なすものは、言葉に深く根ざしていることはたしかです。何かを説明するとき、教えるとき、儀式で詠唱するときに私たちは言葉を使います。デカルトが言うように、動物はそんなことはしません。しかし、彼らは声を出さないわけではないとダンバーは言います。イヌは吠えるし、サルはキーキー鳴きます。こうした泣き声は彼らの情動と直結しているというのが、これまでの常識でした。イヌが吠えるのは、興奮が一定レベルを超えたときに声帯が震えるから、というわけでした。ヒトも叫んだりうなったりして似たような声を出しますが、それ以外にも意味のある一連の音を任意で発声することができます。ミツバチが花蜜のある場所の方角と距離を伝える羽音もよく話題にされますが、これも言葉とは呼べないだろうとダンバーは言います。限られた特定の状況でしか使われないからです。相手の健康を気遣ったり、お悔やみを伝える羽音というのは存在しません。

それでも最近の研究結果から考えると、少なくともサルと類人猿に関しては、これまでの常識をひっくり返す必要がありそうだとダンバーは考えています。ペンシルヴェニア大学のドロシー・チェイニーとロバート・セイファースは、ケニアのアンボセリ国立公園で独創的な実験を行なったそうです。対象は野生のサバンナモンキーです。隠したスピーカーからサバンナモンキーの鳴き声を流して反応を調べたところ、彼らの泣き声は多くの情報を伝達しており、しかも発声者の行動に大きく左右されることがわかったそうです。彼らは、ヒョウ、猛禽、ヘビを泣き声で正確に表わしていたのです。ほかの仲間が何かやろうとしているぞとか、自分に近づく仲間が上位か下位かといったことを、グラントと呼ばれる低いうなり声のちょっとした違いで表現するのです。チェイニーがボツワナで行なった最近の研究では、ヒヒは、怒らせてしまった相手をなだめるためにグラントを発するのですが、それはもう謝罪と呼んでいいレベルだったそうです。かつてヒヒのグラントは、これ一種類しかないと思われていたのです。

どうやら動物の発声には、私たちが思っている以上に豊かな意味があるようだとダンバーは言います。無知な者が聞いたら同じような音でも、実際はとても複雑なやり取りが行なわれているようです。ヒト以外の動物の言葉に関しては、私たちはまだ初心者に過ぎないと彼は言います。それを解決できるようになるのは、まだ先のことだと言っています。