道徳的態度

他者を見る経験は、寄付するように言葉で勧めるよりも強力だったのです。実際、説教が逆効果であることを明らかにした研究もあるそうです。保育でも、子どもにお説教するよりも、自らお手本を示した方が効果があるということは、知っておきたいことです。しかし、気をつけなければいけないこともあるようです。それは、子どもはよい行いだけでなく、悪い行いも吸収するということです。手本になる人が募金箱に何も入れなければ、えてして子どもも何も入れなくなるそうです。何も見せないときは、いくらか寄付をする場合でも、だそうです。さらに、興味深いことに、子どもたちはよい行いより悪い行いに影響されやすいそうです。

最近、心理学者のピーター・ブレイクらは、次のような研究を行なったそうです。3歳児と6歳児に、親が別の大人に資源を譲るところを見せます。子どもたちは、母親、もしくは父親が、非常に利己的に振る舞う様子、たとえば、10枚の切手の内1枚しか譲らなかったというような様子を、もしくは、非常に気前よく振る舞う様子、例えば、10枚の切手の内9枚を譲るという様子を見せます。その後、子どもたちによそのこと資源を分けあわせると、気前よく分けた親を見ていた子より、少ししか分けなかった親を見ていた子の方が、あきらかに親の手本を真似しました。まるで、子どもたちは利己的に振る舞う言い訳を捜していて、親の悪い行いが格好の口実となったかのようだったそうです。

というわけで、人間は、たいした道徳的動機がなくても、他人のよい行いを真似るだけでいい人になれるとブルームは言うのです。しかし、これでは、問題は振り出しに戻るだけだと彼は言います。なぜ、他人は、そんなに親切なのか?こうした慣習はどこから生じるのか?と言う疑問がわいてきます。200年前のアメリカでは、白人が黒人奴隷を所有するのが慣習でした。実際、多くの人が、奴隷制度は道徳的な制度だと考えていたと言います。これは、聖書による正当化や、この取り決めは、奴隷を含む社会の全成員にとって最良であるという純粋な思い込みから導かれた結論だったのです。こうした社会で育った白人の子どもは、話し方やチップの渡し方、知らない人との距離の取り方を学ぶのとまったく同じように、社会の考え方を吸収しがちであると言うのです。

道徳的態度の変遷に関する考え方の一つが、「道徳の輪」」と呼ばれるものだそうです。この比喩は、19世紀の歴史家ウィリアム・レッキーが考えたもので、ピーター・シンガーが1981年に発表した著書「広がる輪」によって、広く知られるようになったそうです。道徳の輪の内側にいるのは、私たちが、その運命に関心を寄せる人々、すなわち私たちによって大切な人々であると言います。

レッキーは、この輪は、最初は小さく、歴史の歩みと共に拡大すると考えました。「この世に生まれてくるとき、人間の慈悲深い心は、利己的な心に比べてまったく非力である。道徳の役割は、この順序を逆転させることにある。…ある時点では、慈悲心が及ぶのは家族だけだが、すぐに、拡大する輪の中には、まず階級、次に国、同盟する国々、そして人類が入る。そしてついにその影響は、人間と動物世界とのつきあい方に感じられるようになる。」と説明しました。

経験からの影響

私たちは、思慮深いよい行いを機械的な習慣に変えル必要があるようです。すなわち、意識しなくても正しいことを行える人間になろうとすることだというのです。しかし、よいと考える行動の多くは、自分たちの文化の一部として、すなわち慣習として取り入れられていて、けっして熟慮されたりはしていません。ブルームは、言語を獲得するときとそれは似ていると言います。ほとんどの2歳児は、イヌは「イヌ」というと学ぶとき、なぜイヌには「イヌ」という特定の名前があるのか、そもそもなぜ物に名前があるのかと尋ねたりはしないだろうと彼は言います。これはいい疑問なので、もっと大きくなってから悩んだりするかもしれませんが、幼い子どもは無限に言葉を覚えなくてはいけませんので、言葉の背後にある論理を理解するより、他人が話すことをひたすら模倣しなくてはなりません。実際、私たちが学習することの大半は、無意識です。

たとえば、ブルームは自分を振り返ってみて、自分が受けたしつけの結果、他人とある程度物理的な距離を保つことを好むようになったと言います。しかし、異なる文化で育った人と接するまでそのことには気がつかなかったそうです。これは、英語以外の言語を話す人が、ある物を別の言葉で呼ぶのを聞いて、英語での呼び方を意識するようになるのとまったく変わらないと言います。

ヘロドトスの逸話に登場する、ダレイオス王が引き合わせた、父親の亡骸を火葬するギリシア人と、父親の亡骸を食べるインド人の話を思いだしてみるようにと言います。どちらの集団も相手の行為に怖気をふるったのです。それは彼らが、自分たちの習慣が、死者を弔う唯一の正しい方法だと信じていたからだというのです。死者を弔う方法をいろいろ試して、その中から選ぶというプロセスを踏んだわけではなく、そもそも他の方法など考えたこともなかったからだというのです。ヘロドトスは、この話を「習慣が何を行ないうるかを知ることができる」と結び、続けて習慣を「万物の王」と呼んでいます。

私たちは、繰り返し目にする行為からもっとも影響を受けます。しかし、短時間の経験が影響を及ぼす場合もあるとブルームは言います。そのことは、私たちはよく目にします。例えば、1習慣40時間の保育よりも、1週間の内たった30分の番組の影響を子どもたちは受けて戦いごっこをする姿をよく見ることがあります。こんな研究があるそうです。6歳から11歳までの子どもたちが、見ず知らずの他人の慈悲深い行動を目撃した後で、どう振る舞うかをまとめた研究です。典型的な調査では、子どもたちはボーリングで遊んだ後で、賞品と交換できるトークンなどのちょっとしたご褒美をもらうようにします。まず子どもたちには、遊ぶ前に、大人、もしくは子どもの他の人が遊んでから、自分のご褒美の何分の一かを貧しい人のための募金箱に寄付する様子を見せます。研究者は、手本になる人の寄付する額が多ければ多いほど、子どもが寄付する額も増えることを発見したそうです。他者を見る経験は、寄付するように言葉で勧めるよりも強力だったのです。実際、説教が逆効果であることを明らかにした研究もあるそうです。このことは、保育の中で大いに参考になりますね。児童でさえそうですので、幼児ではなおさらかもしれませんね。しかし、これには注意が必要なようです。

高度な道徳性

私たちの高度な道徳性は、人間のやり取りや創意工夫の産物であり、私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っているのです。ブルームは、道徳感情や道徳判断を強調しています。しかし、これらはいずれも、よい行いに不可欠というわけではないと言います。たとえば、チップは純粋に利他的な行為です。目に見える見返りなしに、費用を負担して他者に奉仕するという行為です。しかし、通常、チップに道徳的動機はありません。何ドルかテーブルに置いたり、クレジットカードで少し余計に支払ったりするとき、自分に給仕してくれた相手の立場になって、チップをけちられたときの怒りを想像して身をすくめたり、適正なチップをもらったときの喜びに共感して、温かい気持ちになったりする人はまずいないとブルームは言います。ウェイターは薄給なのでその分余分に手渡した方がいい、といったチップの道徳的論理を考える人も、その他の目的に動機付けられている人もまずいません。私たちは、たんにチップの額を計算して置いていくだけだと彼は言います。頭の中には算数しかないというのです。

日本には、チップという習慣がないために、私は、海外に行ってチップを払うときには、もっと道徳的感情はまったくありません。ただ、忘れないように気をつけることと、いったいいくら払えばいいのかを計算するのに必死なだけです。確かに現在、チップという習慣は日本にありませんが、私が子どもの頃には、旅館に泊まるときに、部屋に挨拶に来た仲居さんに心付けをあげる習慣がありましたし、観光バスに乗るときに、運転手さんやガイドさんに心付けを用意しています。しかし、いつの間にか、それは費用に含まれていますから、いりません、と言われ、次第に払わなくなりました。しかし、今でも演劇を見たときとか、地域で獅子舞を見るときなど、心付けを払うように言われます。たしかに、その時にも何も道徳的感情があるわけではありませんね。

とは言え、ブルームが言うように、この無自覚な行為は、あらかじめ熟慮された結果かも知れないと考えているようです。そして、彼は、誰もが一度は、チップという行為の論理や道徳性について考えたことがあるのではないだろうかと言います。そして、これは正しい行為であると結論を下し、やがてこの村切な行為が反射的に変わったのではないだろうかと、彼は推測しています。

彼は、それからの経緯を推測しています。まず、このようにして、私たちは靴の紐を結ぶといった、複雑な行為を習得していきます。最初は、自分の行為に意識的に注意を向け、次第に意識しなくなります。そうやって、自動でことが済ませられるようになります。おそらく同じ原理が、道徳にもより広く当てはまります。アリストテレスが言うように、徳の高い人物の特徴の一つは、思慮深いよい行いを機械的な習慣に変えようとします。すなわち、意識しなくても正しいことを行える人間になろうとすることだというのです。

とはいえ、私たちがよいと考える行動の多くは、自分たちの文化の一部として、すなわち慣習として取り入れられるのであり、けっして熟慮されたりはしないと考えます。これは言語の習得に似ているというのです。それは、どういうことなのでしょうか?

私たちの善性

私たちの善性を、神の介入の証拠と考える人たちの主張を比喩として、すなわち、人間の驚くべき能力に対する畏怖を詩的に表現したものと解釈することもできるとブルームは言います。しかし、コリンズも、デスーザもウォレスも、みな、本気でそう考えているようです。ブルームは、彼らのことを、おそらく人間が他の類人猿と枝分かれしてからの数百年の間に、神が私たちに本当に何かをしたの言っているのだと思っています。私たちの信仰や選択は、肉体の一部である脳の働きから生じます。よって、人間の進化のどこかの時点で、神が修正した脳の領域を発見し、その神聖なるみわざが、もっと月並みな生物学的進化の産物とどう違うのかを観察できるはずだとブルームは考えているようです。

コリンズらが正しければ、人類の高度な道徳性から、科学史上最大の発見、神が存在する決定的証拠がもたらされるはずだというのです。しかし、ブルームは、彼らは間違っていると考えています。生殖という目的を果たさない、利他的な動機の存在そのものは、命の危険を冒して赤の他人を救う場合のように、自分や自分の遺伝子にとってまずい選択を動機づけるものであれ、完全に生物学的進化と一致していると彼は言います。自然選択は千里眼ではないので、予測される未来の環境ではなく、目の前の偶然の状況に反応すると言います。そこで、いま現在は不適応な行動も、進化論には完全に適っていると言うのです。

利他性の話でなければ、理解するのは簡単だと言います。情欲は、おそらく生殖に結びつく性行動に人間を駆り立てるために進化したのだろうと考えられます。しかし多くの男性は、ポルノに興奮して、子ども作りのチャンスを増やすわけではない方法で種子をまき散らしていると言います。この無駄な行為は、進化上のミステリーだというのです。ならば、神の介入の証拠になるのかとブルームは言うのです。もちろん、そんなことはないと彼は考えます。これと同じように、自動選択を通じて進化したある種の利他的傾向も、今では生物学的報いが全くない状況によって引き起こされるのかもしれないと言うのです。

では、コリンズらが唱えたことはまったく間違っているかというと、そうではないとブルームは言います。彼らは、人間の道徳の中に、謎に包まれている部分が偶然の産物ではないかと主張した点では正しいと言います。そして、彼らは、説明を要する設計と目的を明らかにしています。しかし、こうした高度な道徳能力が人間の本性の一部だと決めてかかるのは間違っていると言うのです。

奴隷制は不正であるといった洞察も、数百年前に認識されることがなければ、人々の心に根付かなかったであろうというのです。そして、赤の他人に対するやさしさといった、多くの人が人間の生得的な資質を考える、道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです。

コリンズらは、まるで、眼鏡に驚嘆して、「自然選択がこんな複雑な見事な代物を作り出せるはずがない。だから、これは神のみわざに違いない」と主張する人に似ているというのです。彼らは第3の選択肢を忘れていると指摘します。私たちが眼鏡を作ったということです。同様に、私たちの高度な道徳性も、人間のやり取りや創意工夫の産物であるのだと言います。私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っていると言うのです。

 

人間の善性

 社会学者のソースティン・ヴェブレンは、「慈善として寄付するのは、富や地位を宣伝する最良の方法なのだ。セックスや恋愛の相手も惹きつけるうまい手でもある。気前が良くて、思いやりがあると見られて損にはなるまい。」と言っています。

 とはいえ、人は、自分には得にならない方法で他人を助けたりもするとブルームは言います。まったく名前を明かさない場合もあります。イエール大学のスタンレー・ミルグラムは、実験に参加した被験者の多くが、実験者に言われるがままに、命に関わる恐れのある電気ショックを、見ず知らずの相手に流すことを明らかにした服従実験で有名だそうです。

しかし、人間のやさしさにも関心があったミルグラムは、1965年、ある実験を行ないました。切手を貼り、住所を書いた手紙をニューヘイブン中にばらまきました手紙は歩道に落とされたり、公衆電話ボックスやその他の公共のスペースに置かれたりしました。そのほとんどは宛名に届いたそうです。つまり、ニューヘイブンの親切な人が、手紙を拾って、郵便ポストに入れたのでしょう。これは、報われる見込みの全くない、単純な親切行為でした。この親切は選択的です。封筒の宛名が「ナチ党の友人たち」ではなく、「ウォルター・カルナップ様」だったほうが、手紙を配達される確率は高かったからです。

人間の善性は、他の点でも明らかだそうです。ほとんどの社会では、人を罰するために手や足を切り落とすなどという真似はしません。一夫多妻の罪に対して、女性の「鼻の骨を、少なくとも直径1.5センチほどの穴が開くほど切り落とすべし」というトーマス・ジェファーソンの提案が、現代社会で採用されることはないだろうとブルームは考えます。家族に対する考え方も変わりました。多くの国で、男性が自分の妻をレイプしたり、親が子どもを殴ったりすることは、もはや法律で認められていません。一部の人は、人間以外の動物の運命を深く案じて、仔牛のスカロッピーのようなおいしい料理や、毛皮のコートのような快適な服をあきらめています。多くの人が、言語の自由、宗教の自由などの権利を当然とみなし、奴隷制度や人種差別は間違いだと信じています。

私たちの善性を、神の介入の証拠と考える人もいるようです。生物学者のフランシス・コリンズは、こういった開明的な道徳性は、生物学的進化では説明できないと主張し、慈悲深い神が、私たちの魂に道徳律を埋め込んだに違いないと言っているそうです。社会評論家のデニッシュ・ラッセル・デスーザによると、「高度な利他性」をもっともうまく説明する言葉は、CS・ルイスの「私たちの魂に宿る神の声」なのだと言います。「高度な利他性」とは、遺伝的にも物質的にも報われる見込みのない、非血縁者に向けられた善性のことを指すようです。CS・ルイスと言えば、私が200635日のブログで取り上げた「ライオンと魔女」など7部作からなる「ナルニア国ものがたり」の作者として有名ですね。

また、1869年には、自然選択の共同発見者であるアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、人間性は、「より高度な道徳能力」を含む多くの点で、進化を超越していると述べ、私たちの種の発達を決定する、高度な知性が存在するに違いないと結論づけているそうです。私からすると、どうも欧米では、理解できない行為は、神が何らか影響していると考えるようです。それは、道徳という能力は、理解に苦しむものであったのでしょうね。しかし、現在は、どのように説明されているのでしょうか?

道徳的な力

 いよいよブルームは、彼の持論である「赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源」に迫っていきます。これまで見たきたように、私たちは、赤の他人を殺すことに気乗りしないばかりではなく、赤の他人、特に視覚化できる特定の個人に対しては親切な場合が多いようです。被験者に、ある子の写真を見せて、名前を教えると、顔も名前も知らない8人の子を救う場合を少し上回る位の額を寄付したそうです。もし、家の近くの森を散策していて、湖で溺れかけている子どもを見かけたら、即座に湖に入っていって、その子を救うだろうと言います。たとえ、そのせいで靴が台無しになるとしてもです。子どもをひき殺させないために、必ずや列車の進路を切り替えるでしょう。たとえ、そのせいで自分の大切な車が木っ端微塵になるとしてもです。

 孟子もこんなことを言っています。「人皆な人に忍びざるの心有り。―略―  人皆な人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕たる惻隠の心有り。交りを孺子の父母に於いて内る所以に非ざるなり、誉れを郷党朋友に於いて要むる所以に非ざるなり、其の声を悪にくんで然るに非ざるなり。是れに由りて之を観れば、惻隠の心無きは人に非ざるなり、羞悪の心無きは人に非ざるなり、辞譲の心無きは人に非ざるなり、是非の心無きは人に非ざるなり。」

これは、「人には誰しも、忍びざるの心というものがある。この忍びざるの心というのは、幼児が井戸に入らんとするのを見れば、心配して気遣い、惻隠の心が自然と生じるようなものである。これが生じるのは、その幼児の父母と交わりを結びたいが為ではない、救って名誉を得るためにするわけでもない、救わぬことで不評を買うことを恐れたわけでもない、単に人の心に自然として来たるものなのである。」と言うのです。これを「惻隠の情」と名付けています。

しかし、ブルームは、私たちは、自分たちの道徳的な力を過信すべきではないと注意しています。彼は毎日、遠い国で知らない人たちが苦しんでいるという記事を読んでいます。そして、彼らの生活を改善させるために、力になれると知りながらほとんど努力をしていないと言います。大都市に行くと、自分が福音書の物語に登場する、よきサマリア人と同じ立場に置かれていると感じることが多々あると言います。歩道の端に力なく倒れている人がいます。病気かもしれません。空腹なのかもしれません。それとも、単に助けを求めているのかもしれません。その人が、自分の妹、父親、いとこ、つまり血縁者なら、駆け寄って手を貸すでしょう。隣人、大学の同僚、ポーカーの相手、つまり内集団の成員なら、やはり手を差し伸べるでしょう。しかし、そこにいるのは決まって赤の他人で、彼は、いつも顔を背けて歩き続けてしまいます。おそらく、あなたも同じに違いないと彼は言います。

彼は、利他的に思える行為の多くは、私利私欲から生まれると言います。「そんな馬鹿な!」という人がいますが、彼が言うのは、「慈善金の多くは、もっと困窮している人、もしくはもっともふさわしい人のためでなく、寄付をする当事者が得するために贈られると言います。たとえば、金持ちが名門大学に多額の寄付をするのは、自分の子どもを入学させてもらえないかと期待しているからだというのです。

感情の鈍化

ある研究で、片方のグループに、病気の子を一人救う薬を開発するお金を寄付するように、別のグループには、病気の子を8人救う薬を開発するお金を寄付するように頼んだところ、どちらのグループも提示した金額は同じだったそうです。この数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらないそうです。西アフリカの深刻な干ばつ危機を伝える報道を呼んだします。犠牲者は8万人にのぼる恐れがあります。もしくは、40万人、もしくは160万人、そう聞いてあなたは違いを感じるだろうか?とブルームは問いかけます。160万人が命の危険にさらされていると思ったら、8万人の20倍心配するだろうか?2倍心配するだろうか?おそらく、数はまったく関係ないだろうというのです。

こう考えると、スイッチケースでの典型的な反応は、道徳ではなく、無関心を反映しているのだと言います。すると、それを不可解だった一連の発見が明らかになると言います。脳の前頭前皮質腹内側部に傷を持つ患者には、サイコパスのような、感情の鈍化がしばしば認められることがあるそうです。そして、こうした人々は、正常な人に比べ、橋ケースで人を突き落とす行為を支持する傾向が高いそうです。すなわち、橋ケースでも、スイッチケースとまったく同じ反応をするようです。サイコパス的な傾向が強い大学生も同様の反応を示すようです。これらの知見は、悪人や脳を持つ人たちも、ベンサムやミルのように、最大多数の最大幸福を求める証拠だとして、帰結主義者たちをいじめてやれという喜びを込めて、よく引用されるそうです。

しかし、こうした人たちは、はなから道徳的な推論を行なっていないのではないか?ブルームは考えています。彼らには正常な共感反応がないので、正常な人がスイッチケースを考えるように、橋ケースも数学の問題と同じように考えているのだとブルームは言います。一、小なり五、よって突き落とせ、と。

それ以外のほとんどの人は、橋ケースでの突き落としを正しい行為と考えません。赤の他人であることに変わりはありませんが、生身の人間であると感じられるため、五人を救うために一人を殺す行為が正当化されると思えなくなると言います。ジョシュア・グリーンが、言うように、この状況が強い情動反応を引き出すからだろうと言います。誰かを突き飛ばして死なせる行為が間違っているとは感じられないのと同じ理由からです。しかし、疑問は残るとブルームは言います。なぜそうなのか?近くにいる、人格を備えた人間に危害を加えることは、なぜ悩ましいのか?と彼は考えます。

もしかしたら、私たちは、同じ理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれないと考えます。道徳性はさておき、こうした行為は、赤の他人に向けられるものであれ、きわめて危険だからと考えられます。失敗して逆に殺されてしまうかもしれないのです。成功したとしても、犠牲者の家族や友人の復讐が待っているかもしれないのです。したがって、こうした反感は、進化適応上、理にかなっていると言います。あるいは、こうした情動反応は、幼少期に受けるしつけの成果かもしれないと言います。周りの人に危害を加えようとするたび、身近な人たちから罰されたり、非難されたりすることで形成されるのかもしれないと言います。

道徳的判断

スイッチケースでの私たちの直感は、道徳的熟慮に駆り立てられたものではないという解釈があります。結局、ここに登場するのは、名前のない、抽象的な人間、すなわち赤の他人なのです。リチャード・シュウェーダーは、こんなことを言っています。「こんな時私たちは、このジレンマを、数学の問題と大差ないものとして処理しているのかもしれない。どちらが少ない?一、それとも五?といった具合に。正しい行いはトロッコの進路を切り替えること、と答える人の大多数は、何かを一つ壊すか、それと五つ壊すかと尋ねられた場合と同じように推論しているのだ。」

実際、これを確かめる実験も行なわれているそうです。トロッコ問題と同じシナリオで、人間の代わりに、線路の端にティーカップを置いた場合、スイッチを押して、ティーカップを五つではなく、一つ割ったというのです。

しかし、この解釈は、人間の道徳的な帰結主義者だとする見方に反します。そして、道徳的判断と、道徳と関係ない判断は違うので、確かめることができると言います。たとえば、「私はレーズンが好きではありません。しかし、これは好みであって、道徳的態度ではありません。そのため、他の人が、レーズンを好きかどうか気にしませんし、レーズンを食べる人は罰されるべきだとも思いません。レーズンを食べても罪悪感を覚えませんし、レーズンを我慢して食べる人を尊敬もしません。ブルームがレーズンが嫌いなのは、道徳的判断を示すものではないからです。

彼は、赤ちゃん殺しも好きではありません。ただし、こちらは道徳的態度です。そこで、この言葉には次のような含みがあるとブルームは言います。それは、「私は、他の人も赤ちゃんを殺すべきではない、赤ちゃんを殺した人は罰されるべきだと信じている。もし自分が赤ちゃんを殺してしまったら、罪悪感を覚える。赤ちゃん殺しを思いとどまらせた人を尊敬する。」

彼は、スイッチケースの直感は、赤ちゃん殺しより、レーズンを食べる行為に対する直感に近いのではないだろうかと考えています。人は、スイッチを押す行為は、「正しいこと」であると同意するかもしれませんが、これは抽象的な机上の決断であり、道徳的判断ではないと言うのです。そのため、スイッチを押さない人を非難することはまずありませんし、その人たちを罰したいとも思いません。現実にも、十分な寄付をせず、見ず知らずの人を見殺しにする選択をした人を責めたりしないのですから、トロッコ問題で、一人を殺さない選択をし、それによって見ず知らずの人たちを見殺しにする人を責めるのは、おかしいと考えるのです。

また、私たちが、五人の赤の他人の死と、一人の赤の他人の死を道徳的に常に区別しているかどうかも怪しいと言います。たしかに、五と一のどちらかを選べと言われれば、数に注目します。しかし、このように、はっきり比べられるのでない限り、数はほとんど問題とされません。ある研究で、片方のグループに、病気の子を一人救う薬を開発するお金を寄付するように、別のグループには、病気の子を8人救う薬を開発するお金を寄付するように頼んだところ、どちらのグループも提示した金額は同じだったそうです。

絆の形

ホームレスのゲイの少年たちの生活を報じた作家のレイチェル・アビブが紹介した、少年たちの絆の重要性を、哲学者たちはしばしば見落とすことがあるとブルームは指摘します。彼は、熱心な功利主義者であったウイリアム・ゴドウィンがあるとき読者に問いかけをした内容を紹介しています。「火事が起きて、一人しか救い出せないとしよう。一人は、大勢の人に喜びと知恵を授けてくれる優れた大主教、もう一人は、たまたま自分の父親であるに過ぎない大主教の従者。あなたはどちらを助けますか?」この問いに対して、ゴドウィンは、父親を見捨てるのが正解だと結論しているそうです。

しかし、多くの人にとって、この答えは道徳的とは感じられません。ゾッとするだろうとブルームは言います。アダム・スミスも「自分の父親や息子の死や難儀に、他人の父親や息子の場合と同じしか心を動かされないのなら、その人は、よい息子ともよい父親とも思われないだろう。このような自然に背く無関心は、喝采を浴びるわけもなく、最大限の否定を招くだろう。」と言っています。

現代哲学に大きな影響を与えたたとえ話に「トロッコ問題」があります。「制御不能に陥った一台のトロッコが線路を走っている。行く手には、線路に縛り付けられた5人がいる。スイッチを押せば、トロッコを別の軌道に誘導できる。残念ながら、そちらの線路にも一人の人が縛り付けられているので、スイッチを押すとその人はひき殺される。あなたはスイッチを押すべきか、押すべきでないか?」

もうひとつのケースではどうでしょうか?「制御不能に陥った一台のトロッコが線路を走っている。行く手には、線路に縛り付けられた5人がいる。あなたは線路に架かる橋の上にいて、隣には、面識のない、恰幅のいい男がいる。トロッコを止めるには、その男を橋から突き落としてトロッコの行く手をふさぐしかない。男は死ぬが5人は救われる。その時にあなた自身が橋から飛び降りても、小さすぎてトロッコを止めることはできない。あなたは、男を突き落とすべきか、突き落とすべきでないか?」という状況です。

このような問題は、有名ですので、以前のブログでも紹介したような気がします。この状況では、どちらも結果は同じです。スイッチを押しても、男を突き飛ばしても、5人が救われ、一人が死にます。しかし、ほとんどの人が直感的に、これらのケースは違うと判断します。スイッチを押すのは正しくて、男を突き落とすのは間違っていると感じるようです。ここから、私たちは、生まれながらの帰結主義ではなく、ある行為の結果よりも、その行為の道徳性を重く受け止めるようです。すなわち、この反応に対する一般的な解釈は、人間は、ベンサムやミルの系統に連なる、道徳的帰結主義者だというのです。というのも、情動をかき乱すものがなければ、私たちは、人が行動する、もしくは行動しないなら、世界にどんな影響が及ぶかに基づいて善悪の判断を下しているのです。5人の死は、一人の死よりも悪い。したがって、どちらを選ぶかは明白だと言うのです。

しかし、別の解釈もあるそうです。おそらく、スイッチケースでの私たちの直感は、道徳的熟慮に駆り立てられたものではないという解釈です。結局、ここに登場するのは、名前のない、抽象的な人間、すなわち赤の他人なのです。

穴だらけのカテゴリー

他人の苦しみは共感を呼び覚まします。たとえ、今まで会ったことのない相手であっても、赤ちゃんでさえ、苦しんでいる人を見れば苦痛を感じます。サルやラットのような動物も同様だそうです。しかし、共感は思いやりとは別なものだと言います。共感が、助けたいという欲求に結びつくとは限らないからです。小規模な社会で暮す成人は、よそ者に対して憎悪や嫌悪をあからさまにします。幼児は、知らない人に会うと、激しい不安に襲われます。彼らが感じているのは、好意ではなく、恐怖だとブルームは言います。私たちは、幼い子どもたちが、様々な形で、自発的にやさしさ、たとえば、なぐさめたり、分け合ったり、助けたりなどの行為を発揮するのを現実に目にしますが、これらは家族や友人に向けられるものだとブルームは言うのです。

もちろん、今まではゼロが数だと理解されているように、多くの大人は、赤の他人に最初に向けられる無関心を乗り越えているのです。しかし、これは、わたしたちが受けたしつけや、暮している社会のおかげであるとブルームは言っています。人間は元来こうではなかったというのです。

血縁、内集団、赤の他人、というカテゴリーは穴だらけだとブルームは言います。道徳的な説得の大半は、人々をある枠から、別の枠へ移すことを目的としています。大量虐殺を先導しようともくろむ者は、かつて自分たちの内集団の成員とされていたはずの人々が、じつは赤の他人であると言いくるめようとしますし、遠い国にいる人々への思いやりを促そうとする人々は、その逆を行なおうとするのだと彼は言います。写真や身の上話、個人の詳細な情報を利用して、赤の他人という意識を弱め、自分たちの集団の仲間だと感じられるようにすると言います。そして、多数の研究が、見ず知らずの相手であれ、顔を見たり名前を聞いたりすると、その人を助けようとする意欲が高まることを明らかにしているそうです。

ブルームは、血縁関係の比喩も強力だと言います。集団の絆を強める方法としてよく利用されるのが、自分たちを家族や兄弟、姉妹になぞらえる方法だそうです。多くの社会に、遺伝的につながりのない人たちが、血縁であるかのように呼ばれ、考えられている「架空の血縁」システムがあるそうです。彼が幼少期を過ごしたモントリオールでは、近所の人たちや両親の友人たちは、「おじさん」、「おばさん」と呼ばれていたと言います。そしてあきれるほど大きくなるまで、本当の親戚が誰なのかわからなかったそうです。

架空の血縁は、上から押しつけられるものばかりではありません。ニューヨークの街角で暮す、ホームレスのゲイの少年たちの生活を報じた作家のレイチェル・アビブは、少年たちは、複雑な架空の家族をつくっていたと語っています。母親や父親といった役割は、年齢ではなく、知識と能力、そして指導者として役に立ちたいという意欲によって決定されていたそうです。こうした関係が拡大され、複雑になっていくと言います。アビブは、ライアンというホームレスの少年が、父親になり、次に、彼が面倒をみた子どもたちが他の子どもたちの世話役になると、祖父になった経緯を紹介しているそうです。

「ゲイの家族の素晴らしいところは、ユニオンスクエアに行けば、もう仲間だ。一人じゃないってところさ」とライアンは言っています。「知らないやつに会うだろ。そしたら、おまえのゲイのおふくろさんは誰だって聞けばいい。そうすりゃ、まじか、俺、おまえのおじきだぜ!ってな具合になる」そして、こう付け加えたそうです。「血のつながった家族がいないやつも多いんだ。そして、ぽっかり開いた穴を埋めてくれるのがゲイの家族なのさ」