絆の形

ホームレスのゲイの少年たちの生活を報じた作家のレイチェル・アビブが紹介した、少年たちの絆の重要性を、哲学者たちはしばしば見落とすことがあるとブルームは指摘します。彼は、熱心な功利主義者であったウイリアム・ゴドウィンがあるとき読者に問いかけをした内容を紹介しています。「火事が起きて、一人しか救い出せないとしよう。一人は、大勢の人に喜びと知恵を授けてくれる優れた大主教、もう一人は、たまたま自分の父親であるに過ぎない大主教の従者。あなたはどちらを助けますか?」この問いに対して、ゴドウィンは、父親を見捨てるのが正解だと結論しているそうです。

しかし、多くの人にとって、この答えは道徳的とは感じられません。ゾッとするだろうとブルームは言います。アダム・スミスも「自分の父親や息子の死や難儀に、他人の父親や息子の場合と同じしか心を動かされないのなら、その人は、よい息子ともよい父親とも思われないだろう。このような自然に背く無関心は、喝采を浴びるわけもなく、最大限の否定を招くだろう。」と言っています。

現代哲学に大きな影響を与えたたとえ話に「トロッコ問題」があります。「制御不能に陥った一台のトロッコが線路を走っている。行く手には、線路に縛り付けられた5人がいる。スイッチを押せば、トロッコを別の軌道に誘導できる。残念ながら、そちらの線路にも一人の人が縛り付けられているので、スイッチを押すとその人はひき殺される。あなたはスイッチを押すべきか、押すべきでないか?」

もうひとつのケースではどうでしょうか?「制御不能に陥った一台のトロッコが線路を走っている。行く手には、線路に縛り付けられた5人がいる。あなたは線路に架かる橋の上にいて、隣には、面識のない、恰幅のいい男がいる。トロッコを止めるには、その男を橋から突き落としてトロッコの行く手をふさぐしかない。男は死ぬが5人は救われる。その時にあなた自身が橋から飛び降りても、小さすぎてトロッコを止めることはできない。あなたは、男を突き落とすべきか、突き落とすべきでないか?」という状況です。

このような問題は、有名ですので、以前のブログでも紹介したような気がします。この状況では、どちらも結果は同じです。スイッチを押しても、男を突き飛ばしても、5人が救われ、一人が死にます。しかし、ほとんどの人が直感的に、これらのケースは違うと判断します。スイッチを押すのは正しくて、男を突き落とすのは間違っていると感じるようです。ここから、私たちは、生まれながらの帰結主義ではなく、ある行為の結果よりも、その行為の道徳性を重く受け止めるようです。すなわち、この反応に対する一般的な解釈は、人間は、ベンサムやミルの系統に連なる、道徳的帰結主義者だというのです。というのも、情動をかき乱すものがなければ、私たちは、人が行動する、もしくは行動しないなら、世界にどんな影響が及ぶかに基づいて善悪の判断を下しているのです。5人の死は、一人の死よりも悪い。したがって、どちらを選ぶかは明白だと言うのです。

しかし、別の解釈もあるそうです。おそらく、スイッチケースでの私たちの直感は、道徳的熟慮に駆り立てられたものではないという解釈です。結局、ここに登場するのは、名前のない、抽象的な人間、すなわち赤の他人なのです。