私たちの善性

私たちの善性を、神の介入の証拠と考える人たちの主張を比喩として、すなわち、人間の驚くべき能力に対する畏怖を詩的に表現したものと解釈することもできるとブルームは言います。しかし、コリンズも、デスーザもウォレスも、みな、本気でそう考えているようです。ブルームは、彼らのことを、おそらく人間が他の類人猿と枝分かれしてからの数百年の間に、神が私たちに本当に何かをしたの言っているのだと思っています。私たちの信仰や選択は、肉体の一部である脳の働きから生じます。よって、人間の進化のどこかの時点で、神が修正した脳の領域を発見し、その神聖なるみわざが、もっと月並みな生物学的進化の産物とどう違うのかを観察できるはずだとブルームは考えているようです。

コリンズらが正しければ、人類の高度な道徳性から、科学史上最大の発見、神が存在する決定的証拠がもたらされるはずだというのです。しかし、ブルームは、彼らは間違っていると考えています。生殖という目的を果たさない、利他的な動機の存在そのものは、命の危険を冒して赤の他人を救う場合のように、自分や自分の遺伝子にとってまずい選択を動機づけるものであれ、完全に生物学的進化と一致していると彼は言います。自然選択は千里眼ではないので、予測される未来の環境ではなく、目の前の偶然の状況に反応すると言います。そこで、いま現在は不適応な行動も、進化論には完全に適っていると言うのです。

利他性の話でなければ、理解するのは簡単だと言います。情欲は、おそらく生殖に結びつく性行動に人間を駆り立てるために進化したのだろうと考えられます。しかし多くの男性は、ポルノに興奮して、子ども作りのチャンスを増やすわけではない方法で種子をまき散らしていると言います。この無駄な行為は、進化上のミステリーだというのです。ならば、神の介入の証拠になるのかとブルームは言うのです。もちろん、そんなことはないと彼は考えます。これと同じように、自動選択を通じて進化したある種の利他的傾向も、今では生物学的報いが全くない状況によって引き起こされるのかもしれないと言うのです。

では、コリンズらが唱えたことはまったく間違っているかというと、そうではないとブルームは言います。彼らは、人間の道徳の中に、謎に包まれている部分が偶然の産物ではないかと主張した点では正しいと言います。そして、彼らは、説明を要する設計と目的を明らかにしています。しかし、こうした高度な道徳能力が人間の本性の一部だと決めてかかるのは間違っていると言うのです。

奴隷制は不正であるといった洞察も、数百年前に認識されることがなければ、人々の心に根付かなかったであろうというのです。そして、赤の他人に対するやさしさといった、多くの人が人間の生得的な資質を考える、道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです。

コリンズらは、まるで、眼鏡に驚嘆して、「自然選択がこんな複雑な見事な代物を作り出せるはずがない。だから、これは神のみわざに違いない」と主張する人に似ているというのです。彼らは第3の選択肢を忘れていると指摘します。私たちが眼鏡を作ったということです。同様に、私たちの高度な道徳性も、人間のやり取りや創意工夫の産物であるのだと言います。私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っていると言うのです。

 

私たちの善性” への13件のコメント

  1.  〝道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです。〟〝私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っていると言うのです。〟赤ちゃんや子どもは真っ白なキャンバスではない、と教わり、考えてきたように思います。しかし、この道徳性というものに関してはそれは真っ白なキャンバスであり、そしてそれを備えた大人へとなる為に、私たちが用意できることは環境を作ることだという考えはとても衝撃的です。そして同時に納得してしまうのは、戦争へと心を駆り立てるような、好戦的な人間へと子どもを洗脳するような教育を子ども達は何の抵抗もなく受け入れます。それは即ち道徳的に合っているか、合っていないかの判断なく、大人の用意した環境に対し、純粋に報いるからでしょう。そう考えた時、〝道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです。〟という文章がにわかに信じられる思いがしました。次のブログではどんな展開が待っているのでしょうか。

  2. 「高度な道徳能力が人間の本性の一部だと決めてかかるのは間違っていると言うのです」とありました。この言葉からは、藤森先生が言われていた子どものあらゆる姿を全てひっくるめて子どもであるという(残酷性も含めて)ことを思い出しました。また「道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです」という言葉には驚きました。道徳性は備わっていないと考えることもできるのですね!備わっていると思いながら考えていたので、また新たな考え方を教えてもらったように思います。「私たちの高度な道徳性も、人間のやり取りや創意工夫の産物であるのだと言います」という言葉からは人類が道徳を長年の知恵で獲得してきたということを感じます。それはやはり集団の中で生きるということが大切になってくるのでしょうか。

  3. 「自然選択は千里眼ではないので、予測される未来の環境ではなく、目の前の偶然の状況に反応する」ということで、人間が目の前の状況に対応してきた結果が、現在であるということを感じさせてくれます。その機会に、「神」と呼ばれる存在が関連しているとすると、次はいつどのような形で人類に関わってくるのでしょうか。「いま現在は不適応な行動も、進化論には完全に適っている」という言葉には、人類はどんなに苦しくても、困難にあっても進化し続けるための行動を絶やさずしてきたということもあり、そう行った原動力が、「眼鏡」すらも造ったということでしょうね。その眼鏡自体を造った人類には、目には見えない「道徳」から、目に見える形の「思いやり」を生んだのかなとも感じます。

  4. 〝私たちの高度な道徳性も、人間のやり取りや創意工夫の産物であるのだと言います〟というところから、人間が高度な道徳性を身につけたのは、他者との関わりがそれをもたらした、と考えることができます。ということは、人間同士の関わりから道徳も生まれてくるということですね。ここでもやはり、「集団」というのがキーワードになってきそうです。
    そして、次に〝私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っている〟というのは、上のことを踏まえてみると、「道徳を教えてくれるのは、大人が作り出した環境」ということになるのでしょうか。
    確かに、好戦的なものばかり見せられた子どもはどのように育つでしょうか?虐待されて育った子は?…。そのように考えていくと、子どもはその環境に純粋でまっすぐですね。このことは、肝に命じておかなければならないと思いました。

  5. よくも人間とは変わった生き物であると今回のブログを読みながら思いました。「生物学的報いが全くない状況」によって「ある種の利他的傾向」が引き起こされる。おそらくこうした生き物は他には存在していないのだろうと推測されます。「多くの男性は、ポルノに興奮して、子ども作りのチャンスを増やすわけではない方法で種子をまき散らし・・・この無駄な行為は、進化上のミステリー」ですね。生物学的には無駄な行為を人類は行うという一種生々しい例。生物はほとんどの行動がある目的を果たすために行われるのに、人類のオスの「進化上のミステリー」行為は一体何のため?人間の善性と結びつく?快楽?楽しさ?ユーフォリア?すべてが必要必然ベストであるなら、やはりその行為にも意味がしっかりとあるということでしょう。なかなか考えさせられます。それから、神ならぬ「私たちが眼鏡を作った」という事実。「人間のやり取りや創意工夫の産物」によって今の私たちの文明が存在するのでしょう。そして、それも環境のなせる業。

  6. “自然選択は千里眼ではないので、予測される未来の環境ではなく、目の前の偶然の状況に反応する”とあることからも、その時々に起きることに対して道徳性を働かせていることが考えられます。そのときに、これが利他的に道徳性を瞬時に働くような場合というのは、自分にとって何らかの利益を考えているのでしょうか。生殖と言う考え方からすれば、血縁関係にあるものではなく、同じ集団にいるものだけではなく、子孫繁栄のために、赤の他人を選ぶことも選択肢の一つにあるような気がします。そうしなければ、子孫繁栄の糸口にはならないと考えらるからです。
    なぜ他人に優しくするのか、人の痛みに共感できるのか、人は初めての相手を見るときに、警戒心を抱くことは以前のブログの人見知りの無いようでありましたが、人は警戒心を抱くなかに相手を知ろうという意志が隠れていることが考えられました。

  7. 私たちの善性を、神の介入の証拠と考えることは、善性のルーツなどが解明できていないからであり、そういった未解明な部分を「神の介入」と言ってしまっては先に進めない気もしてしまいます。しかし、人間の道徳の中に、謎に包まれている部分が偶然の産物ではないかと主張した点では正しいと言えるのですね。進化上のミステリーとあった無駄な行為が神の介入でないのはわかります。これと同様に「善性」や「道徳」の謎な部分も現状では偶然の産物なのですね。今後この謎な部分が解明される時がくるのかなと考えるとワクワクしてしまいます。歴史上でも神の所業と称され、崇められてきた事柄が多くあるのではないかと思いますが、眼鏡同様にそれは意外にも私たち人類が作ったりしてきたものであることが多い気がします。神と言ってしまえば、手の届かない領域と考えてしまって諦めてしまいそうですが、第三の選択肢のように意外にも答えは足元にあるのかもしれないと思えました。

  8. 「道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっている 」というのが少し印象に残ります。必要なものを残していく赤ちゃんですが、道徳性のいくつかの特徴はまだ備わっていないのですね。「 道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っている」のが我々大人であり、その内容を大きくになってるいることがわかります。それは道徳に関わらず多くのことが言えると思いますが、人間の創意工夫をする中で眼鏡を使うようになり新たな変化をもたらしたということでしょうか。その眼鏡がどのように人類に影響をもらたしたのかというのも気になるところです。

  9. 自分たちの善性が神の介入によってもたらされたという主張をそれだけに留めておくというのは疑問が残ります。「高度な道徳能力が人間の本性の一部だと決めてかかるのは間違っている」とあるようにもともと備わったものではなく、偶然の産物として生まれてきたものとして進化してきたのかもしれません。「人間のやり取りや創意工夫の産物」とあるように社会の中で、道徳や文化が生まれそれが定着してきたものであると考えられます。最近の無差別殺人や自殺、引きこもりに関しても、どうも道徳性の話とは無縁ではないように思えてなりません。どこからこういった道徳性が生まれるのか、「高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境」とはどういったもので、どうあるべきなのかをしっかりと捉えることは今後の社会においてもとても大切なことであると思います。

  10. そもそも「善性」について調べてみましたが、色々と難しいようですね。紙そのものが善である、人間は神が作りあげたものだからもともと善は備わっている・・・。ここまで来ると私の頭の中では整理ができなくなるので、とめておきます。
    ブルームは「人間の道徳の中に、謎に包まれている部分が偶然の産物ではないかと主張した点では正しい」と言っていますが、それこそが少し前に藤森先生が言われていた「ダークセンス」のような気がしました。確かにブログを読んでいて、神の介入、神が修正、というのは正直信じにくいというのが個人的な感想です。しかし「謎に包まれている部分」というのは確かにあると思います。だからこそ研究にロマンを感じる気もします。また謎に包まれている部分と高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を意図的に作ることができる。その両面を兼ね揃えているのも、なんだか感動します。

  11. 「情欲は、おそらく生殖に結びつく性行動に人間を駆り立てるために進化した~子ども作りのチャンスを増やすわけではない方法で種子をまき散らしている」という所はいろいろと考えさせられますね。ふいにSFなどで出てくる全く欲情しない宇宙人をイメージしてそうしたことがないように欲情という能力が進化したのかとも感じましたが、社会という中で、子孫を残す関係を女性と作るために直接、生殖に結びつかない性行動をとっているとも考えてしまいます。少しわからなくなってしまいましたが、未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境をしっかりと意識して作っていきたいと思います。

  12. 神の介入と表現すると?マークが浮かびますが、「人間の道徳の中に、謎に包まれている部分が偶然の産物」と表現すると、曖昧な部分があるのが人間であり、それが人間らしさでもあるのかなと思います。
    「道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていないことがわかっていると言うのです」とありましたが、赤ちゃんには備わっているのではないかと勝手にイメージしていました。「私たちの高度な道徳性も、人間のやり取りや創意工夫の産物であるのだと言います。私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っていると言うのです。」とあり、環境つくりが大切ですが、実際にどのような環境が道徳性を備えた大人へと変身させられるのでしょうか?私が小学生の頃に受けた「道徳」の授業を思い出しますが、それが大きな影響を私に与えたとも感じません。どのように私が道徳を備えたのか、そして、この道徳は変化するのか、「道徳」について考えるほど、わからないくなります。

  13. 私は前回のブログで、人は生来、真に利他的な道徳的な資質を宿しており、それを引き出すことが必要だと考えましたが、「道徳性のいくつかの特徴さえ、実は赤ちゃんや幼い子どもには備わっていない」「私たちは、道徳的に未熟な赤ちゃんを、高度な道徳性を備えた大人へと変身させる環境を作っている」ということから、それはどうも間違った考えのようですね。道徳とは人の持つ他の力のように引き出されるのではなく、環境によって形作られていくもののようですね。このことからも、道徳とは異質な力であり、人の持つ力の中でも違った次元に存在しているもののように感じます。そのような力がどのような環境で、どのようにして身についていくのかということが非常に気になりますし、そこの部分をしっかりと考えた上での関わりというものが必要なのでしょうね。

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