感情の鈍化

ある研究で、片方のグループに、病気の子を一人救う薬を開発するお金を寄付するように、別のグループには、病気の子を8人救う薬を開発するお金を寄付するように頼んだところ、どちらのグループも提示した金額は同じだったそうです。この数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらないそうです。西アフリカの深刻な干ばつ危機を伝える報道を呼んだします。犠牲者は8万人にのぼる恐れがあります。もしくは、40万人、もしくは160万人、そう聞いてあなたは違いを感じるだろうか?とブルームは問いかけます。160万人が命の危険にさらされていると思ったら、8万人の20倍心配するだろうか?2倍心配するだろうか?おそらく、数はまったく関係ないだろうというのです。

こう考えると、スイッチケースでの典型的な反応は、道徳ではなく、無関心を反映しているのだと言います。すると、それを不可解だった一連の発見が明らかになると言います。脳の前頭前皮質腹内側部に傷を持つ患者には、サイコパスのような、感情の鈍化がしばしば認められることがあるそうです。そして、こうした人々は、正常な人に比べ、橋ケースで人を突き落とす行為を支持する傾向が高いそうです。すなわち、橋ケースでも、スイッチケースとまったく同じ反応をするようです。サイコパス的な傾向が強い大学生も同様の反応を示すようです。これらの知見は、悪人や脳を持つ人たちも、ベンサムやミルのように、最大多数の最大幸福を求める証拠だとして、帰結主義者たちをいじめてやれという喜びを込めて、よく引用されるそうです。

しかし、こうした人たちは、はなから道徳的な推論を行なっていないのではないか?ブルームは考えています。彼らには正常な共感反応がないので、正常な人がスイッチケースを考えるように、橋ケースも数学の問題と同じように考えているのだとブルームは言います。一、小なり五、よって突き落とせ、と。

それ以外のほとんどの人は、橋ケースでの突き落としを正しい行為と考えません。赤の他人であることに変わりはありませんが、生身の人間であると感じられるため、五人を救うために一人を殺す行為が正当化されると思えなくなると言います。ジョシュア・グリーンが、言うように、この状況が強い情動反応を引き出すからだろうと言います。誰かを突き飛ばして死なせる行為が間違っているとは感じられないのと同じ理由からです。しかし、疑問は残るとブルームは言います。なぜそうなのか?近くにいる、人格を備えた人間に危害を加えることは、なぜ悩ましいのか?と彼は考えます。

もしかしたら、私たちは、同じ理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれないと考えます。道徳性はさておき、こうした行為は、赤の他人に向けられるものであれ、きわめて危険だからと考えられます。失敗して逆に殺されてしまうかもしれないのです。成功したとしても、犠牲者の家族や友人の復讐が待っているかもしれないのです。したがって、こうした反感は、進化適応上、理にかなっていると言います。あるいは、こうした情動反応は、幼少期に受けるしつけの成果かもしれないと言います。周りの人に危害を加えようとするたび、身近な人たちから罰されたり、非難されたりすることで形成されるのかもしれないと言います。

感情の鈍化” への12件のコメント

  1.  〝理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれないと考えます。〟〝こうした情動反応は、幼少期に受けるしつけの成果かもしれないと言います。周りの人に危害を加えようとするたび、身近な人たちから罰されたり、非難されたりすることで形成されるのかもしれないと言います。〟往々にしてテレビの影響だと思うのですが、子ども達は無邪気に戦いごっこをやり始めるようになります。年度によって違いがあることだと思うのですが、わいわい組(3歳児クラス)のこの時期でも見られ、その遊びを他の遊びに転じさせることで、他の遊びへ促すことで回避させられるように仕向けてきたつもりでしたが、ある意味ではそういった〝理由もなく他人を攻撃すること〟や〝周りの人に危害を加えようとする〟という行為をしっかりと非難することも大切なことである、と認識を新たにしました。それはつまり、道徳的判断の場面においての感情の鈍化を防ぐことであり、人の痛みについての無関心さを助長させない為にも、アプローチせねばならない大切なことであると思いました。

  2. 「8万人の20倍心配するだろうか?2倍心配するだろうか?おそらく、数はまったく関係ないだろうというのです」とあり、確かに「8万人の20倍」というような心配の仕方はしたことがないし、よく感情としても分からないなと感じました。病気の子1人、病気の子8人とありましたが、私たちは「その子に」対して具体的なイメージを持つことができないのでしょうか。「赤の他人であることに変わりはありませんが、生身の人間であると感じられるため、五人を救うために一人を殺す行為が正当化されると思えなくなると言います」とありました。これが普通の感情ですね。数の問題ではなく、生身の人間に対する行為としてあってはいけないという感情を持つのが普通の感情ですね。「周りの人に危害を加えようとするたび、身近な人たちから罰されたり、非難されたりすることで形成されるのかもしれないと言います」ともありましたが、こういった感情を持つことも正常な感覚で、こういった感情を持てない人もいるということになるのですね。

  3. 「病気の子を一人救う薬を開発するお金を寄付する」一連の流れの中にある、人数に比例して人が与える寄付金の額が反応したり、心配する度合いが変わるというのはないように、人は数に対しての鈍感さを持ち合わせていることを理解しました。それは、一種の自己防衛反応でもあるのでしょうか。一人の人間が背負える気持ちや金額に見合わない場合、勝手に防衛反応として自己抑制するのか、はたまた、そこに道徳感情を共わせることを避けようとしているのかなどの様々な思いが出てきますが、そこではなく、逆に無関心さを把握できる要素として顕著に表れてくるものであることが伝わってきます。その無関心さは、心情疾患やサイコパスなどでよく見られるということで、感情の鈍化がどのように始まるのかといったことへの興味が湧いてきました。

  4. 〝数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらないそうです〟とあり、確かに干ばつの例えである通り、〝8万人の20倍心配するだろうか〟というような形で心配したことはありません。というより、どんな心配の仕方をすればいいのかわからないというのが本音でしょうか。人間は数に対しては鈍感なんだということが理解できますね。
    そして、数の問題よりも「目の前の」ものに対して抱く感情が〝五人を救うために一人を殺す行為が正当化されると思えなくなる〟ということなのでしょう。こちらは、自分の中でも何となく理解できるものです。
    ですが、そのような感情が表れない人もいるということのようです。それが〝サイコパス〟と呼ばれる人たちなんですね。

  5. “数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらない”このことは、確かに数が変わろうが、寄付をする額は、変わらないようにきがしました。金額ではなく、道徳的にどれくらいの額をしようかという判断をしているような気がしました。数ではなく、道徳感と言えるべきものだと考えられます。”同じ理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれない”そして、それが幼少期に受ける成果かもしれないことを背景にあると考えると人格形成をより、作り上げるのがこの時期にあり、その時期に相手を思う気持ち、情というものが表出されるように思えました。この相手自身のことだけでなく、周りの家族や友人はどのように考えるのかと道徳感の中で私たちがどう感じているのかを知っておかなければならないと思いました。相手へ暴力を振るう行為や相手へ罰を与える行為など、感情の部分の難しさを感じます。

  6. 感情の鈍化も非常に興味深いものです。「160万人が命の危険にさらされていると思ったら、8万人の20倍心配するだろうか?」とありましたが、そんなことはありませんね。命の危険にさらされている事実には心配の目がいきますが、数がそれに比例しないことがわかりました。また「私たちは、同じ理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれない」とありました。これは理に適っていますね。この反感が正常に反応しない環境下だと「いじめ」などの問題や昔で言えば「戦争」が起きるのかもしれないと感じました。そして「こうした情動反応は、幼少期に受けるしつけの成果かもしれない」とあり、改めて幼児教育の重要性も感じています。この点で家庭内でも重要ですが、むしろ少子化の進行により兄弟が少なかったり、いなかったりすることが多くなってきた現代では、集団における幼児教育に携わる保育園等の役割を時代の背景からも感じています。

  7. 仕方がない、どうしようもない、と諦めてしまうことが普通にあります。でも、本当はそう思っていない。できれば、何とかしたい、状況を改善したい、あるいは、生き続けたい、と思う気持ちがその諦念の土台にあります。「感情の鈍化」というタイトルを目にした時、私たちは往々にして、見て見ぬふりをする、ということに思い当たりました。「仕方がない、どうしようもない」という感覚を抱く自分を知っています。「サイコパスのような」患者でなくても、感情の鈍化状態に身を置くことはあり得るでしょう。私は、みんなが心地良く暮らせる集団、相手の気持ちを察し慮る集団、そしてそのような社会の創造を理想として生きてきたつもりです。人に裁かれ、罰せられ、非難され・・・そうした環境で成長した子どもは、他者を裁き、罰し、非難した子どもと同じくらい、「一、小なり五、よって突き落とせ、」となるのでしょうね。「かもしれない」心情は+に働く場合はいいのですが、-に作用した場合は、良心や共感の心を停止して負のスパイラルを駆け抜けていきます。

  8. 「 数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらないそうです。」とあるように確かに犠牲者の人数を言われたところで細かく心配する度合いは変わらないかもしれないですね。その数に対して一人一人のことを調べ心配するということはまずしません。ある意味自分のキャパシティを越えてしまうとそういった判断になってしまうように感じます。「 私たちは、同じ理由もなく他人を攻撃することに対して、特別な反感を進化させたのかもしれないと考えます。」というのは、その進化の理由として「 周りの人に危害を加えようとするたび、身近な人たちから罰されたり、非難されたりすることで形成されるのかもしれない」ということなのでしょうか。正しい行為が伴うような人間であるためにはやはり人に危害を加えてしまった時の周りの反応というのが重要になってくるのでしょうね。

  9. 「160万人が命の危険にさらされていると思ったら、8万人の20倍心配するだろうか?2倍心配するだろうか?」確かに数は問題ではないのかもしれません。例えば東北大震災の時は多くの方が犠牲になりました。とても悲しい出来事です。しかし・・・申し訳ないのですが瞬間的に自分や家族が被害に遭わなくて良かったと思いました。また知り合いがSNSで美味しいものや楽しい出来事をアップしていると、誰かから「今、この時期にそういう投稿するのはおかしいのではないか?」と非難されていました。おそらく彼もそんなつもりで投稿していたわけではないと思いますし、非難しや側の気持ちもわかります。繋がるのかどうか分かりませんが、「感情の鈍化」と書いてあるように、何でもかんでも敏感に反応してしまうと、かえって自分自身の感情が精神的にまいってしまうのではないでしょうか。とは言え、サイコパスのように正常な共感反応ができないのは問題がありますが・・・。ちょうどいい鈍化と言ったほうがいいのかわかりませんが、ある程度は感情が鈍いほうがいいのかもしれません。

  10. 「スイッチケースでの典型的な反応は、道徳ではなく、無関心を反映している」とあります。紛争や難民などの世界的な問題にかんしても、「大変だ」と思いながらもどこかで無関心に物事を見ていることがあります。「数字の問題と同じように考えている」ともありました。正常な共感反応がないサイコパスはまさにこういった目線でヒトを見ているのですね。きわめて合理的な見方です。しかし、目の前にある他人を生身の人間と感じると普通人は5人をすくうために一人を殺す行為が正当化されるとは思えないでしょうね。その理由に「周りの人に危害を加えようとするたびに、身近な人から罰されたり、避難されたりすることで形成される」とあるように幼少期のしつけの成果であるからなのですね。最近の「いじめ」を考えると今の社会どれほどこういった経験ができているのかと考えてしまいます。いじめのある社会ではまさに「身近な人から罰されたり、非難される」環境ではなくなっています。最近の社会問題や地域の関係性の希薄の裏側には感情を鈍化させる環境が今この社会で起こっているのかもしれません。改めて環境の大切さや大人の価値観で子どもを縛るのではなく、子どもたちが価値観を選ぶことができる環境づくりの必要性を感じました。

  11. 病気の子を1人救う薬と病気の子を8人救う薬だと自分も同じように同じ額の寄付をしてしまうような気がします。知らず知らずのうちに感情が鈍化していると言うことですね。自分一人ではどうしようもないと感じているところもあると思いますが、こうした問題に対して、「何とかしなければ」と感じすぎて、自らのすべてを寄付するとなってもおかしな気もするので、程よい感情の鈍化は必要なのかもとも感じます。ただ人を攻撃するような感情の鈍化が出てきてしまうのは明らかに良くないことで、こうしたことに対する感情に関してはしっかりとおかしいと感じられるようなかかわりをしていきたいものですね。

  12. 数に対する鈍感さは、数字が大きくなっても変わらないとありますが、確かに数がどれだけ大きくなったとしても、それに対する感情はほぼ変わらず同じであるように思えます。それはやはり自分自身が当事者ではないからではないでしょうか。スイッチケースでの典型的な反応は、道徳ではなく、無関心を反映しているとあるように、その状況に心を痛め悩みはすれども、どこか他人事であるために、単純に数字を見た上での判断がなされる気がします。これが自分の家族や親しい身内であったならば、全く別の判断や感情を抱くのではないでしょうか。赤の他人に対して、自分の身内や血縁者とどれだけ同じような感情を抱き、関わることができるのかということが、道徳に関係しているようにも思えます。

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