身近な問題

道徳について、私が国民性によって少し違和感を感じるのは、中絶や死刑といった道徳や政治上の大問題に関してです。しかし、道徳と言っても、多くは、身近な問題についてであり、日常の道徳的ジレンマを議論することが多いのです。それは、道徳というように構えないで、単に何が正しい行為かについて考えることも含まれるのです。すると、国民性によって違和感を感じるよりも、人類という大きな輪の中で共通なものが見えてきます。しかし、多くの心理学者は、これらの道徳をめぐる熟慮を見逃すことが多いとブルームは指摘します。一つには、みんなの受けがいいのは、直感に反する発見だからだと彼は言います。説明するのが難しい道徳的直感が人間に備わっているという発見は、刺激的なだけでなく、一流の科学雑誌にも掲載してもらえるというのです。飲酒運転は間違っているといった、簡単に説明のつく道徳的直感が人間に備わっていることを発見しても、あたりまえで、面白くないし、雑誌にも取り上げてもらえません。

犯罪者の刑罰を決める立場にある人の判断が、たとえば、部屋に国旗が飾ってあったというような、本人が意識していない要因や、たとえば、犯人の肌の色などのような、意識的に否定するであろう要因に影響されているという発見は人を惹きつけますが、刑罰の軽重が、犯罪の深刻さや犯罪者の前科などの合理的な判断材料に影響されるという発見は、退屈であるとブルームは言います。「焼きたてのパンの匂いがしたら、人助けの意欲が高まります」という研究は面白いですが、「過去に親切にしてくれた人には、助けようとする意欲が高まる」という研究結果は、あまり面白くないと彼は言います。

私たちはときおり、活字にされるものにこうした偏りがあることを忘れて、科学雑誌や大衆紙に掲載されたものを、心の働きの最良の知識を正確に反映していると考えてしまいがちであるとブルームは指摘しています。しかし、それは、夜のニュースを見て、レイプや強盗や殺人が、すべての人にとって日常的なできごとだと思い込むようなものだとブルームは言うのです。実は、夜のニュースでは、この手の事件がいっさい起きない圧倒的多数の事例は、報じないことを忘れているのです。

論理的思考力が芽生えるには時間がかかるとブルームは言います。そのため、赤ちゃんの道徳生活に限界があるのはしかたないと考えられます。赤ちゃんにも、私たちのような性向や感情はあります。赤ちゃんは、苦しんでいる他者をなだめようとします。そんな姿は、私たち現場ではよく見る光景です残酷な行為に怒りを感じる、悪さをする者を罰する者を好むということもわかっています。しかし、赤ちゃんには足りないものも多いのです。とりわけ公平という道徳原理、すなわち、共同体の全員に平等に適用される禁止と要求、そんなものは理解していないようです。

こうした原理が、方と正義のシステムの根幹にあるとブルームは考えています。ピーター・シンガーは、公平性の概念はどの宗教、どの道徳哲学でも明文化されていると指摘しているそうです。これは、さまざまな黄金律の形で表わされているそうです。たとえば、キリストは「人としてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」と命じているとブルームは言いますが、私も小さい頃からこんなことを言われて育った気がします。

論理的思考

ブルームは、多くの道徳的直感は説明ができると言います。そして、こうした論理的思考こそが、現実世界に変化をもたらすと言います。これについては、公民権運動の最中にアメリカ南部で、黒人と白人の子どもたちが味わった苦難を研究したロバート・コールズや、中絶するかどうかを決めようとしている若い女性にインタビューしたキャロル・ギリガンら、多数の研究に詳しくあるそうです。これらを含めて、道徳についての考察に対する宗教などの論理的思考を見ると、多分に国民性が影響している気がします。これらの研究は、私たちにもとても参考になりますが、読み進めるに従って、常に日本では、どうなのかを考えてしまう部分が多くあります。しかし、その違和感こそが、私は道徳について、ある意味、本質に関係する気がするのです。日本人が、道徳的問題を解決するために努力をしてきた例は、多分、彼らの研究と違う観点を持つであろうと思うのです。

それを踏まえて、アメリカでの研究を見てみると、そこには論理的思考が、周囲の意見と衝突する結論に、ときに人をどう駆り立てるのかを理解できるとブルームは言います。道徳的理由のために菜食主義者になった人たちが、なぜ、自分が菜食主義者になったかを、あるときは動物に加えられる危害を根拠にして、家畜に対して横行するサディズムや拷問に目が開かれた以上、動物を食べることは二度とありません。また、あるときは権利という言葉を使って、よどみなく理路整然と説明できることを明らかにした聞き取り調査もあるそうです。どのような権利という言葉を持ちいたかというと、公平に考えて、動物が、生きて、自分の生を享受する権利は、人間の、欲するものを手当たり次第に食べる「権利」に、優先されるべきだという考え方があるのです。心理学者のカレン・ハッサーとポール・ハリスは、菜食主義でない家庭に育ちながら、菜食主義者になった、6歳から10歳の48人の子どもを対象に、面接調査を行ない、子どもたちが全員、自分の決定を道徳的に説明できることを明らかにしたのです。

以前、私がインドに行ったときに、菜食主義者の多いことに驚きました。街の中のマクドナルドのハンバーガーショップにも、菜食主義者用のバーガーがありました。その点、日本人は、私から見ると道徳的意識が高く、動物も大切にする日本人でありながら、あまり菜食主義者には出会わないことを不思議に思っていました。その意識の違いから、よく海外と動物愛護について見解の相違を見ることがあります。特に、食はその国も文化ではあるのですが、どうして菜食主義に走らなかったのでしょう。たしかに、日本でもほ乳類の肉は食べませんでしたし、江戸時代生類憐れみの令が出されたときも、ほとんど道徳的動機はなかったように思います。

しかし、ブルームは、この種の熟考こそが人間の本質なのだと言います。子ども同士のやり取りを見ていて、生徒を罰するときに教師が意地悪ではなかったか、音楽を無料でダウンロードするのが正しいかといった日常の道徳的ジレンマを議論するときの熱心さに気づかない人はいないだろうと言います。言うまでもなく、大人も何が正しい行為かについて、1年中、反芻し、懸念し、議論していると言います。テーマは、中絶や死刑といった道徳や政治上の大問題ばかりではないといいます。アルコール依存症の同僚にどう接するべきか、借りたお金を返す気があきらかにない親戚にどう対処すべきか、原稿の締め切りを守らないのはどのくらい編集者に悪いか、といった身近な問題についても同様であるとブルームは言います。

理性と情念

ブルームは、理性を使って、道徳的発見を成し遂げてきたと考えています。しかし、こうした立場は、一部の人には奇異に思われるでしょうが、彼は、それは承知していると言います。確かにその考え方は、時代遅れだからです。直感や無意識の動機を重視し、合理的な熟慮を軽んじるのが、心理学や神経科学の今のトレンドだからです。政治・文化のコメンテーター、デヴィッド・ブルックスによれば、重要なのは冷静な理性ではなく、その下にある「情動、直感、バイアス、願望、遺伝的傾向、性格特性、社会規範」であり、心理学や神経科学は私たちに「純粋理性より情動、個人の選択より社会の絆、IQより性格が重要である」と言っています。

理性の凋落は、道徳心理学の分野で特に顕著だそうです。これに大きく貢献したのが、心理学者ジョナサン・ハイトの研究だそうです。ハイトは、2001年に発表した有名な論文で、「道徳的推論が、道徳的判断を導くのではない。むしろ、道徳的推論は、通常、判断が下された後で、後付けとして考え出される」と主張しているのです。ハイトによれば、道徳的直感が道徳的推論を促すのは、「イヌが尾を振るのと同じくらいたしか」なのだそうです。

理性がまったく無力だと主張する者はいません。ブルックスは、人は、ときには直感を覆すために知性を利用できると明言しているそうですし、ハイトは、一部の専門家、たとえば哲学の専門家などは、ときおり道徳的熟考を巡らすことを認めています。しかし、要は、理性は、道徳の舞台では端役に過ぎないということだそうです。この結論は、現代心理学と、道徳哲学の一大勢力、デヴィッド・ヒュームの「理性は、情念の奴隷であり、ただ奴隷であるべきである。つまり理性は、情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできない」という言葉をスローガンとして掲げる一派を結びつけているそうです。

ヒュームの主張になにがしかの真実があるのは、ブルームは認めています。思いやりが最初に湧き上がらなければ、そもそも人間が道徳的存在になれるはずがないからです。さらに、私たちの道徳的判断の中には、あきらかに、理性の結果でないものもあります。そしてハイトが言うように、こうした判断に対する説明は後付けにすぎない場合も多いと言います。さらに、私たちが自覚さえしないうちに、多くの要因が判断や行動に影響を与えていると言います。手を洗えば、道徳にやかましくなります。散らかった部屋を見たり、おならスプレーを嗅いだりしても同様です。香ばしいパンの匂いが漂っていたり、小銭を拾ったりすると、人助けをしようという意欲が高まります。

しかし、これらはいずれも、理性が無関係であることを示してはいないとブルームは言います。何はともあれ、多くの道徳的直感は説明ができます。なぜ飲酒運転がいけないのか、松葉杖をついている人のためにドアを開けておくのがよいことなのか、などについて聞かれても、言葉に詰まる人はいません。人に向かって怒鳴るより、人を殺す方が悪いのはなぜか、雇用主が、白人従業員より黒人従業員の給料を安くしようとするのが間違っているのはなぜか、そう聞かれて、答えに窮する人はいません。こういった問題について、例えば子どもから質問されたら、危害、公正、平等に関する懸念に触れれば、筋の通った説明はできるとブルームは言っているのです。

理性

 ブルームは、道徳性と宗教との関連についてかなりこだわっていろいろと考察しています。それは、多くの人の考え方からするとかなりひねくれた考え方であると言っているように、彼自身は道徳性に関して、宗教的な信念に影響がないと考えているようです。と言っても、まったく無関係であるというわけではないと言います。宗教的信念は、促進剤として、すなわち自己増強型システムの一環として作用しているのかもしれないと言うのです。ある集団を憎悪する個人や社会は、聖典の文言や、宗教的指導者の言葉によりどころを求めます。そして、ひとたびこれを見つければ、自分たちの憎しみを補強し、正当化し、強化します。思いやりや正義を求める人にとっても同様です。こうして宗教は、まったく宗教心のない人でさえ、道徳的に望ましいと見なすであろう大義の土台となり得るというのです。

 このように、ブルームは道徳の変化を促す原動力の一部を考えてきていますが、まだまだ道徳的決定にまつわる複雑さはたくさんあると言います。道徳の輪に関して、輪は大きければ大きいほどいいという、レッキーやダーウィンら学者たちの意見に従うのであれば、この点を特に考える必要があると言います。今日にいたるまで、人類の最大の問題は、私たちの思いやりの輪が非常なまでに小さくなりがちであることかもしれないと考えることは、スタート地点としては悪くないと言います。

 しかし、すぐにわかるのは、道徳の輪は大きいほどいいとは限らないということです。たとえば、では、私たちは、輪を胎児にまで拡大して、胎児を子どもと道徳的に同格と考えるべきだろうか?胎芽は?受精卵は?そこまで広げるべきだろうか?はじまりまでさかのぼるべきだという人もいるかもしれません。また、では人間以外の動物はどうだろうか?かつて、ネコを火にくべるのは大衆娯楽の一種と考えられていた時期もあったそうです。現在では、私たちはそんなことはしません。しかし、では動物を狩ったり、食べたり、医療研究に利用するのはやめるべきであろうか?それもやめるべきだと考える人たちもいます。では、皮膚細胞の適正な扱いと保護の問題はどうなるのか?パーソナル・コンピューターは?ウィルスは?

 すべてに道徳的な重みを考えてしまいような、大きすぎる道徳の輪は、あきらかに権利と道徳的価値を持つ、個人の生活の質を下げることになってしまいます。受精卵が子どもと同等に扱われるのであれば、妊婦に危害が及ぶおそれがありますし、動物実験を行なわない選択をすれば、人間の病気の治療の妨げになります。こうしたジレンマに、私たちは取り組まなくてはならないとブルームは言うのです。

 こう考えてくると、ブルームはこれらの問題を認識する上である要素に気がつきます。それは、「理性」だと言うのです。道徳を考えるとき、私たちは推論し、矛盾をあぶり出し、よく似ているものを検討します。衝突する主張を、現実の状況と仮想の状況に当てはめて、これらが自分たちの直感をどう捉えるかを確認して評価します。こうしたすべてを行なうとき、私たちは、科学的理論を組み立てたり、事業を立ち上げるとか、休暇旅行を計画するとかといった現実的な問題を処理したりするときに使う能力を働かせていると言うのです。この能力が人より発達している人もいるでしょう。しかし、どんな人にも、この能力は備わっていると考えています。これこそが、有史以来、道徳の進歩を駆り立てていると言います。私たちは、理性を使って、恐竜や電子や微生物の存在といった科学的発見を成し遂げたように、理性を使って、奴隷制度の悪といった道徳的発見を成し遂げてきたとブルームは考えているのです。

宗教の影響

ブルームは、現在肯定的に考えられている道徳的事業者の多くが、宗教的信仰を土台とし、宗教的指導者に支えられていると考えています。しかし、人類にとって、結局、宗教は得なのか、損なのか?という問いについては、誰もその答えを知らないし、いずれ誰かが答えを見つけるとも思えないと彼は言います。宗教がなかったら、人類はどうなっていたかという問いについても、人間に、男と女以外の第三の性があったなら、もしくは人間が空を飛べたなら、どうなっていただろうという問いに似ているとブルームは言うのです。

そこで、彼は、質問をもっと穏当なものに変えたら、もう少しうまくいくかもしれないと言います。世間の信心深い人は、無宗教の人より道徳的だろうか?と問うてみます。多くの研究者が、この問題を調査してきたそうです。そして、はっきり言えることは、興味深い知見はほとんどないということです。小さな影響はなくはないそうですが。例えば、いくつかの研究によれば、信心深い人は、少々偏見に陥りやすくなるといわれます。しかし、この影響は、年齢や政治的態度といった他の要素を排除すると弱まるそうですし、現われるのは、何らかの方法で信仰心が測定された場合だけだそうです。

唯一大きな影響は、信心深いアメリカ人は、無神論者よりも寄付をするということだそうです。調査の対象を、コントロールした場合も、結果は同じだったそうです。それは、信心深いアメリカ人は、高齢者、女性、南部出身者、アフリカ系アメリカ人の平均よりも多く寄付するそうです。

なぜ、こうした相関性が存在するかを調べるために、政治学者のロバート・パットナムと、デヴィッド・キャンベルは、死後の生や、道徳に対する神の重要性など、信仰にまつわる様々な問題について聞き取り調査を行ないました。その結果、こうした質問への回答は、ボランティア活動に参加したり、慈善金を寄付したりといった行為と何一つ関係ないことがわかったそうです。宗教的なコミュニティに参加しているかどうか、それがすべてだったそうです。パットナムとキャンベルが言うように、教会の出席率さえ知れば、信仰の中身についてあきらかにできるその他のことは、その人がどのくらいよき隣人かを理解したり、予測したりする上でまったく役に立たなかったそうです。

事実統計が示すように、信徒団の社会生活にたまたま、おそらく配偶者を通じてだと思いますが、関わるようになった無神論者は、一人で祈っているきわめて熱心な信者よりも、ホームレスの炊き出しにボランティアとして参加する確率が高いそうです。つまり、隣人精神に重要なのは、宗教的帰属感であって、信仰の篤さではないということがわかったのです。

共同体が重要であって、信仰心は関係ないと言うのです。この結果は、宗教のいとわしい影響にも当てはまるようです。心理学者のジェレミー・ジンジャズらは、パレスチナのイスラム教徒の間で、信仰心と自爆テロの支持の間の強い結びつきを発見しましたが、ここでも、鍵となる要因は、信仰心の篤さではなく宗教共同体だったのです。祈りの回数ではなく、モスクへ通う頻度が、自爆テロを支持するかどうかの目安だったのです。インドネシアのイスラム教徒、メキシコのカトリック教徒、イギリスのプロテスタント教徒、ロシアのロシア正教徒、イスラエルのユダヤ教徒、インドのヒンドゥー教徒の場合も、教会やモスクなどへ通う頻度が、「世界の騒乱の大半は異教徒たちのせいである」といった質問へどう回答するかの指標になるとブルームは言います。

宗教的土台

哲学者で、法学者でもあるジェレミー・ウォルドロンは、人間の、他者への思いやりを導く上で不可欠な道徳的洞察の多くは、偉大な一神教信仰の教えに起源があると主張しています。たしかに、ウォルドロンが正しければ、道徳的輪の広がりの、少なくともその一部を、宗教によって説明できるかもしれません。しかし、学者たちの中には、こうした意見に反対し、宗教は、「暴力的で、不合理で、不寛容で、人種差別、部族主義、偏見と結託し、無知蒙昧、自由な探求への敵意、女性蔑視、子どもに対する高圧的態度に権威を与える」というクリストファー・ヒッチェンズの意見に同調する者もいるそうです。

とはいえ、公平な観察者であれば、だれもが主だった国際慈善事業やアメリカの公民権運動など、現在肯定的に考えられている道徳的事業者の多くが、宗教的信仰を土台とし、宗教的指導者に支えられていることを認めるはずだというのです。しかし、歴史上もっとも凄惨な残虐行為のいくつかも、信仰に動機付けられていることは明白だと言います。宗教を支持する人たちは、聖書やコーランをひもとき、開明的な箇所を引用できると言います。宗教に批判的な人たちは、神が、大量虐殺、奴隷制度、集団レイプを承認するなど、現代人から見れば道徳的に歪んでいるように思えるくだりを長々とまくし立てることはできます。実際、その中には、道徳律が滑稽なほど残虐であることを反映した箇所もあります。たとえば、「小さな子どもたち」が、預言者のエリシャのはげ頭をからかったので、エリシャが彼らを呪うと、森の中から二頭のクマが現われ、「子どもたちのうち42人を引き裂いた」などという物語もあるそうです。

人類にとって、結局、宗教は得なのか、損なのか?とブルームは問いかけます。その疑問への答えはあるに違いありませんが、誰もその答えを知らないし、いずれ誰かが答えを見つけるとも思えないと彼は言います。問題は、宗教がどこにでもあるということだと言います。たったいまも、そして私たちの知る限りはるか昔からも、ほとんどの人が信仰心を持っていると言います。ほとんどの人が、一人の神、もしくは複数の神を信じ、なんらかの死後の世界を信じ、なんらかの宗教的監修を実践していて、そのため、人間であることのあらゆる宗教的でない部分から、宗教の影響を切り離すのは難しいと言います。

しかし、この主張は、以前ブログでも書きましたが、多くの日本人には当てはまらない気がします。それは、日本人だけでなく、そのような国も多いはずです。そのような国の人たちはどのように考えればいいのでしょうか?ブルームは、こう言っています。宗教を持たない社会や個人に関する主張を評価するのはとりわけ難しいと言います。たしかに、道徳的な無神論者はいます。しかし、その人たちの道徳を支えているのは、彼らが生活する社会の宗教性だろうというのです。たしかに、デンマークのように、人口の多数を無神論者が占めながら、良識ある国も存在すると言います。しかし、こうした国々は、国民が信仰を失ってからたかだか100年にもならないと言います。そのため、彼らの美徳は、信仰の厚かった過去から継承されているのだろうというのです。宗教がなかったら、人類はどうなっていたかという問いは、人間に、男と女以外の第三の性があったなら、もしくは人間が空を飛べたなら、どうなっていただろうという問いに似ているとブルームは言うのです。

道徳の輪

 アメリカのここ30年間の道徳的変化を支えてきた最大の原動力は、ひょっとすると連続ホームコメディだったかもしれないとブルームは言います。これが単なる直感であることを、彼は認めています。しかし、他の国々でも、テレビの導入が、道徳的信念に目覚ましい影響を与えたという証拠があると言います。ロバート・イェンセンとエミリー・オスターによると、インドの地方の村にケーブルテレビが普及し始めると、学校に通う女性の数が増え、配偶者に対する暴力は以前ほど容認されなくなり、娘より息子を欲しがる風潮が弱まったといいます。イェンセンとオスターは、こうした変化は、比較的グローバルな価値観が提示されることが多い、メロドラマに接したことが原因ではないか、と考えているようです。同様の知見が、ブラジルやタンザニアの調査でも得られているようです。

 ただし、物語を通して発進されるメッセージが、かならず道徳的に正しい、という自然法則は存在しません。聞き手を、自分と遠い他者の身になってみようという気にさせる、道徳の輪を拡大させるあらゆる物語の一方で、道徳の輪を縮小させる物語もあると言います。それは内集団の外側にいる人間が、いかに性悪で、嫌悪をもよおさせるかを描写する物語です。「アンクル・トムの小屋」や「シンドラーのリスト」に対して、「シオン賢者の議定書」「国民の創生」といった物語もあると言います。道徳は変化するという説は、なぜ、広がる輪の物語が残酷な物語より人の心をつかむのか、そもそも、なぜ人は、こういった正しい物語を作ろうと思うのかを説明しなくてはいけないとブルームは考えます。

 道徳をめぐる議論は、宗教抜きには完結しません。それは、多くの人が宗教を、道徳的進歩の主要な原動力と考えているからだとブルームは言います。実際、多くの人が、とくにアメリカでは、この考えをさらに推し進めて、神を信じなければ、よい人間になれないと考えているのです。アメリカ人の多くが、たとえその他の条件が満たされていても、無神論者の大統領候補には投票しないと言います。実際、この点について、無神論者は、モルモン教徒やユダヤ教徒、同性愛者よりも分が悪いようです。アメリカ社会の未来を誰と一緒に考えるか、という質問に対して、無神論者と答える人はまずいないそうです。無神論者は、犯罪予備軍や傲慢なエリート主義者と同様に、利己的で不道徳的だと考えられているそうです。

 人が、神がいなくても善人になれるとしても、その善性の何分の一かは、宗教的理想を基盤とした社会で育ったおかげだという人もいるくらいです。哲学者で、法学者でもあるジェレミー・ウォルドロンは、人間の、他者への思いやりを導く上で不可欠な道徳的洞察の多くは、偉大な一神教信仰の教えに起源があると主張しているそうです。「快適な共同体の中の、限定的な利他性に一石を投じたのは、西欧の宗教がなしえた偉業の一つである…私の念頭にあるのは、貧しい人を虐げ、見知らぬ人をうち捨て、はみ出し者を追い立て、その上に富を築く者たちを不安に陥れることを目的とした、トーラー(ユダヤ教の宗教上・生活上の教示)の定めであり、預言者たちの断固たる説教であり、詩編作者の詩である。また、社会の底辺で蔑まされている者たちの仲間であったイエス・キリスト、私たちに、飢えた者に食べさせ、裸の者に衣服を与え、赤の他人を家に泊め、よそ者扱いされて獄に繋がれた人を見舞おうという意欲を与える、彼の教えと手本である。」

フィクションの影響

 ポズナーは、さらに続けます。読書家がそうでない人より思いやり深いという証拠はないというのです。ナチスの高官には教養人が多かったと言われています。ヨーゼフ・ゲッペルスは、ギリシア悲劇を愛読していたそうなのにです。心理学者の中には、これに反対して、フィクションをよく読む人は、ノンフィクションを好む人に比べて社会的能力がやや高いという最近の知見を引き合いに出す者もいるそうです。また、こうした相関関係が何によるのかもはっきりしないと言います。おそらく、フィクションを読むから社交的になるのではなく、社交的な人がフィクションを好むのだろうと言います。女性は男性よりフィクションを読みますが、それは、おそらく女性には男性より社交的なところがあるからだろうと思われるからです。

 これを裏付けるかのように、ブルームの研究室にいた大学院生のジェニファー・バーンズは、軽度の自閉症を持つ成人、すなわち社交能力に少々問題がある人は、正常な人に比べてフィクションへの関心が低いことを発見したそうです。よって、人の社会的能力や共感能力が、フィクションへの関心に影響するのは確かなようですが、その影響が別な方面にまで及ぶかは定かではないとブルームは言います。

 ただし、時宜に適った正しいフィクションには効果があるようです。文学、映画、テレビ番組などの物語が、人類史の軌跡に、実際に影響を与えてきたことを示す、重大な歴史的証拠が存在するようです。これが、ポズナーに対するヌスバウムの反論である、ナチスの高官が読書家だったかもしれないが、読む本の選択が間違っていたという根拠になっているそうです。

 1852年に発表されたストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」は、19世紀のベストセラー小説でした。この作品を通じて、白人は奴隷制度を奴隷の立場から想像できるようになったため、この作品は、奴隷制度に対するアメリカ人の態度を変える上で大きな役割を果たしたのです。ディケンズの「オリバー・ツイスト」は、19世紀のイギリスで、子どもの待遇を見直すきっかけとなりました。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの作品は、ソ連の強制収容所の恐怖を世に知らしめました。「シンドラーのリスト」や「ホテル・ルワンダ」のような映画が、おそらく現実に会うことはないであろう人々の球場に関する私たちの認識を広げました。

 私もこれらの作品を、中高校時代に夢中になって読んだ経験があります。その頃は、日本の作品でも、住井 すゑの「橋のない川」などの差別に苦しむ主人公の小説を読むことによって、いろいろなことを考えさせられました。

 さらにブルームは、もっと最近の例も挙げています。アメリカでここ数十年、人種的マイノリティや同性愛者のとらえ方が劇的に変わったことを考えてみると、これに大きく貢献したのがテレビだというのです。人はよく、お気に入りのテレビドラマの登場人物に対して、その人たちが自分の友人であるかのような親近感を抱きます。そして、数百万人ものアメリカ人が、「コスビー・ショー」や「ウィル&グレイス」などのテレビドラマに登場する、感じがよくて、愉快で、無害な黒人やゲイに毎週接していました。効果は絶大だろうとブルームは言うのです。

文学作品

哲学者のマーサ・ヌスバウムは、物語は子どもに、自分とまったく違う見方や、アイデンティティを持つ人に、どうすれば共感できるのか、どうすれば相手の身になれるのかを教えてくれると言います。では、物語がなければ、他者の心とつながることが出来ないわけではないと言います。1歳児でさえ、身の周りにいる「人に似た」形を、自分と別の、情動、願望、計画を持つものとして考えています。しかし、ヌスバウムが話しているのは、能力ではなく、習慣なのです。そこで、物語に触れると、私たちは、他者の心について考えてみようとするようになる、というその主張をしっかり考えてみようとブルームは提案します。

「人に似た形」の中には、私たちが自然に考えてみようという気にならない人もいます。ブルームは、自分の体験を振り返ります。彼は、独房に監禁された囚人の境遇についてほとんど考えたことがなかったそうですが、感動的な報道記事を読んでから、考えが変わったそうです。

彼は、物語は、そのつど思いやりを呼び覚ますと言います。しかし、同時に、自分たちの道徳原理や行動の習慣を見直しきっかけを与えてくれます。心理学者であるスティーブン・ピンカーは、「外国人、探検家、歴史家の目を通してしか見ることのできない世界に触れることによって、これまでこうしてやっていたというような絶対視されてきた規範が、筋道の通った意見、これは、私たちの部族が、いま、たまたま行なっていることであるような意見になる。」と言っているそうです。これが、まさしくヘロドトスが、ギリシア人とインド人の逸話を紹介したときに行なっていたことであるとブルームは言うのです。旅は、世界を広げます。そして本を読むこともまた一つの旅であると彼は言うのです。

実際にいろいろなところに行くことができない場合には、一つの記事から、物語から道徳的な刺激を受けるような世界と出会うことができるというのです。本の中での体験が、自分の体験を振り返ることになり、一つの手本となり得るのかもしれません。そういう意味では、最近の本離れは、道徳的原理を構築する上では問題かもしれませんね。だからといって、どんな本でもいいというわけではなさそうです。

しかし、こうした説明は、文学作品の道徳的複雑さをないがしろにしているという批判もあるようです。文芸批評家のヘレン・バンドラーは、「フィクションを、道徳の覚醒剤や道徳の催吐剤のように扱うことは、芸術作品に内包される複雑な精神的・道徳的動機を認識している者にとっては不快であると記しているそうです。法学者のリチャード・ポズナーは、多くの偉大な物語に描かれているのは、ろくでもない価値観と指摘しているそうです。たとえば、「イーリアス」には、レイプ、略奪、殺人、生贄とされる人間や動物、内縁関係、奴隷制度が出てきますし、シェイクスピアやディケンズの作品には、ユダヤ人差別、人種差別、性差別などが描かれています。ポズナーは、「文学の世界は、道徳の無法地帯である」と結論しています。

日本でも、バトルロワイヤルという小説や映画が放映されたときに、賛否両論でした。ここから暴力反対という気持ちが生まれるという意見と、逆に暴力的な心が呼び覚まされてしまうという意見がありました。しかし、出版の自由ということで、制限はできないのです。それは、映画でも年齢指定をするに留めています。

物語に触れる

19世紀の歴史家ウィリアム・レッキーは、道徳的態度の変遷に関する考え方の一つとして、「道徳の輪」ということを考えました。道徳の輪の内側にいるのは、私たちが、その運命に関心を寄せる人々、すなわち私たちによって大切な人々であるとしたのです。そして、この輪は、最初は小さく、歴史の歩みと共に拡大すると考えました。ダーウィンは、「人間の進化と性淘汰」で、レッキーの言葉を肯定的に引用して次のように続けています。「人類の発達の過程で、私たちの思いやりは、さらに慈愛に満ち、広く行き渡るようになり、あらゆる人種の人間、知的障害者、身体障害者、その他の社会の無用の成員にまで拡大され、ついに下位の動物に及ぶ」と言ったのです。

この「その他の社会の無用の成員」という発言から、この本が発表された1871年以来、社会のあるグループに対する言葉遣いがずいぶんと変わったものだと、あらためて気づかされるとブルームは言います。現在では、知的、もしくは身体的な障害を持つ人を不用意に「無用」などと言う人はいません。さらに、そしてこちらの方が重要だが、ダーウィンの言葉は、道徳の輪を拡大させる原動力が、完全な利己的性だけでないことも思い出させると言います。道徳の輪を広げる行為が、私たちに物質的利益をもたらすとは限らないのです。「知的障害者」「身体障害者」をより思いやることで、私たちが得をするわけではないのです。

輪を拡大させる原動力の一つが、生身の接触だと言います。人が互いに対等な立場で、共通の目標に向かって働いているとき、個人同士の交流が偏見を減らす場合が多いのです。よく引き合いに出される例が、軍隊とスポーツチームだそうですが、1950年代以降、さまざまな研究が、あらゆる環境で、生身の接触が効果的であることを確認しているそうです。たとえば、人種差別が撤廃された公営住宅に住む白人の主婦、黒人とペアを組んだ白人警察官などです。つまり、親が、子どもの人種的偏見をなくすために、さまざまな人種の子が通う学校へわが子を入れるのは正しいのだとブルームは言います。適切な接触状況下で、子どもたちは、自分の道徳の輪を拡大し、輪の中に、他の人種の成員を入れるようになるのです。

このことは以前のブログでも取り上げました。そのために、子ども集団を、男女によって分けたり、障害があるなしによって分けたり、年齢によって分けてはいけないということがドイツでは決められているのです。

輪を拡大する、もうひとつの重要な要因があると言います。物語に触れることだというのです。哲学者のマーサ・ヌスバウムは、物語は子どもに、自分とまったく違う見方や、アイデンティティを持つ人に、どうすれば共感できるのか、どうすれば相手の身になれるのかを教えてくれると言っているそうです。「私たちは、周囲のいたるところで、人に似た形を見ます。しかし、どうすれば彼らとつながれるだろう?……幼少期の物語の読み聞かせは、私たちに、仮面の後ろの人生、すなわち形の向こうにある内面世界について、疑問を持つことを教えてくれる。物語に触れることで、私たち自身とよく似たこの形が、私たち自身のものといくつかの点でよく似た、情動、願望、計画の住みかであると推測し、しかし同時に、その内面世界は、異なる社会環境によって異なる形に成形されていると理解する習慣が身につく」と言っているのです。