嫌悪反応は何のため?

 そもそも、なぜ性的行為は嫌悪をもよおさせるのでしょうか?ロジンらは、こう説明しています。嫌悪は肉体を守るために進化しましたが、歴史の過程で、より抽象的な、魂の砦に変化したのだというのです。私たちは、いまや清浄で高尚な存在というセルフイメージを脅かし、自分たちが動物であることを思い出させるものすべてに嫌悪を感じようです。そのため、文化が定めた性的境界を逸脱する人間は、いとわしい、獣のような存在とみなされます。「人間が動物のような振る舞いをする限り、人間と動物の区別が曖昧になり、人は自分たちを、卑しめられ、おとしめられ、死を免れないと感じる」からだというのです。自分は人間で、本能だけで動く他の動物と違うのだという意識が働くのですね。ただ、生殖のためにだけ生きているわけではないのだという一種のプライドがあるのでしょうか?

 哲学者のマーサ・ヌスバウムも、糞尿、血といったものに引き起こされる「一次的嫌悪」は、汚染物質を避けるために進化しましたが、人間に向けられる嫌悪は、他の社会集団の成員をおとしめないという欲望に動機付けられている、と主張しているそうです。これは、「優勢な集団を、それ自身が恐れる獣性から、より安全に隔離するために採用された戦略」なのだと言うのです。この理屈は、「このエセ人間どもが、私をいとわしい動物界の間に立ちはだかるなら、私は、死を免れない、腐りかけた、臭い、ドロドロした自分からずっと離れたところにいられる」と言い換えられると言います。

 こうした仮説に、ブルームは少し疑問を持っているようです。あまりにも抽象的で、頭でっかちだと思っているからです。7歳児が、シラミのイメージにゾッとしたり、両親が寝室で何をしているのかを聞いて、嫌悪に息を呑むとき、その子は自分が動物であることを思い出したり、死について不安になったりして動揺するわけではないのです。実際、動物であることや、死すべき存在であることについての抽象的な心配は、そもそも嫌悪と関係ないと言うのです。

 自分が動物であることを思いだして、嫌悪に襲われるのなら、人間の生物学的本性を容赦なく突きつける、系統図やDNAの二重らせん構造の図に吐き気をもよおすはずだとブルームは言います。死も、人をおびえさせたり悲しませたりしますが、むかつくことはありません。死体は、確かに気持ち悪いものです。しかし、死亡残存表を見て吐き気をもよおす人はいません。

 セックスが嫌悪をもよおさせるのは、もっとずっと単純な理由からだとブルームは言います。セックスには、肉体が関わっています。そして肉体は嫌悪を感じさせる場合があります。体液の交換が問題なのは、私たちが肉体を持つ存在であることを思い出させるからでなく、こうした体液が、私たちの中核的嫌悪反応の引き金を引くからだと言います。愛や情欲といった別の衝動は、嫌悪反応を停止したり、弱めたりすると考えています。しかし、嫌悪が自然のデフォルトであるとブルームは付け加えます。すなわち、人類に組み込まれた初期設定だというのでしょう。

 そうは言っても、ブルームは、道徳にまつわる私たちの直感が、清浄さに関する懸念に影響されるという点では、ロジンやヌスバウムはいいところをついていると言います。

嫌悪感受性

近親相姦という行為に対する嫌悪は、決して理屈からではなく、本能的嫌悪だとブルームは考えています。そこには、進化論的にもっともな理由があるのではないかと言うのです。近親者との間に子をもうけるのがまずい考えであるのは明らかです。生まれてくる子どもが、単独では無害であっても、対になると有害になる対立遺伝子のコピーを両親から受け継ぐ可能性が高くなるということはわかっています。血縁者とセックスしたという人は、幼い頃に生き別れ、その後再会し、結婚した後で初めて血のつながりがあるとわかったきょうだいのように、過ちが原因である場合が多いのです。幼少時代の共同生活が、近親相姦を避ける心理的システムを作動させると思われるスイッチの一つだと言います。実際に血のつながりがない人たちもこの合図に反応するそうです。

継父が、ある一定の年齢を超えた娘と家族になった場合、赤ちゃんのときに家族になった場合に比べて、のちのち性的にひかれる傾向が高いのも、こうした理由によると言われています。義理の娘を殺害する傾向も高くなるようです。もちろん、ほとんどの継父は、たとえば子どもが大きくなってから家族になったとしても、性的であれ、何であれ、子どもを襲ったりはしないとブルームは付け加えています。それは、たいがいの人間は道徳的な生き物で、欲望と行為の間に大きな隔たりがあるということもわかっているのです。

しかし、これはいずれも、なぜ私たちが、他人の近親相姦にこれほど嫌悪を感じるのかを説明していることにはなりません。だからと言って、説明することは困難なようです。どんなに合意のもとであろうが、避妊の手段をこうじようが、間違っていると感じ、不道徳と考え、嫌悪を感じます。それは、「むかつく」と感じるものとぴったりと重なるのです。嫌悪は、性の道徳問題に対する一つの解決策なのだとブルームは言います。

嫌悪は、ある種の性行為に対する自然のデフォルトだと言うのです。そして、嫌悪は反感や拒絶のスイッチを押すのです。心理学者のニランジャナ・ダスグブタらは、嫌悪をもよおさせる画像を見ると、同性愛に対するネガティブな潜在的態度が高まることを発見しました。また、ブルームは、心理学者のヨエル・インバーやダヴィッド・ピザロと行なった研究では、嫌な臭いを嗅がせると、同性愛者の男性に対する温かい気持ちが減ることがわかったそうです。

この結果から、次のことを予想しています。個人の嫌悪感受性は、性的行動に関する態度と相関しているに違いないと。これを調べるために、彼らは、アメリカの成人の大規模なサンプルを対象に嫌悪感受性を測定し、その結果、嫌悪感受性が高いほどさまざまな政治問題に保守的であり、その相関性は、中絶や同性婚といった性に関する問題について特に強固であることがわかりました。性別、年齢、宗派といった要素を除外しても結果は変わらなかったそうです。

イエール大学の哲学者、ジョシュア・ノーブが加わり、第二段階の研究が始まりました。それは、カリフォルニア大学のアーバイン校とコーネル大学の学生を対象に行ないました。この母集団は、極めてリベラルで、口答で質問されると、自分には同性愛者に対する偏見はないと答える人が多かったと言います。それでも、学生たちの嫌悪感受性と、同性愛に対する潜在的態度には相関関係があったと言うのです。すなわち、嫌悪感受性が高い人ほど、同性愛に否定的だったのです。

嫌悪本能

 人の嫌悪について考察することは、赤ちゃんが持っている善悪の起源を考える上で、大切なことなのです。そうした考察の中で、さまざまなセックス行為に対しての嫌悪を、人類の進化から見てみると、不思議なことがあります。その判断は、単純でないからです。たとえば、排他的な同性愛は、個人レベルでは、生殖にマイナスの結果をもたらすと考えられます。しかし、配偶者をめぐる競争の厳しさを考えれば、排他的な同性愛者である男性を、そうでない男たちが腹立たしく思うのは理屈に合わないとブルームは言います。模範的なダーウィニストであれば、逆を予測するはずだというのです。おとことセックスする男性は、配偶者市場から、いち抜けて、他の男性の立場を有利にしているというのです。男性同性愛者は、非難ではなく、感謝されてしかるべきだとブルームは言います。男性同性愛者に腹を立てていいのは女性だけ、同じ理屈で、女性同性愛者に腹立てていいのは、男性だけだということになります。

 というわけで、進化論的説明はますます難しくなります。おそらく、私たちが同性愛を道徳的に非難するのは、文化的なルーツがあるのだろうと考えられます。しかし、この制約が文化的にどんな機能を果たしているのか?それを明らかにするのも容易ではないのです。社会が同性愛に批判的なのは、生殖目的のセックスを奨励することが、人口増大を維持するからだという説があるそうです。しかし、出生数を制限する要因は、男性でなく女性なので、この説は、女性同性愛者に対する批判にしか当てはまらないはずです。実際、人類の歴史を通じて、女性の性生活の管理に重点が置かれていたことを考えれば、道徳的非難の的とされるのは、レズビアンの女性だけで、ゲイの男性は対象外のはずだとブルームは言います。

 近親相姦も、ほぼあらゆる文化で非難されています。こちらの制約については、ほとんどの人が理路整然と説明できます。しかし、その説明も民族によって違うようです。西欧社会では、本人の意思、心の傷、障害を持つ子どもが生まれる可能性が高いことを懸念します。ある民族は、妹と結婚しても何の得もないと言います。それは、もしよその男の妹と結婚して、妹が別の男と結婚すれば、少なくとも義理の兄弟が二人できることになります。ところが、自分の妹と結婚すれば、一人も兄弟ができません。そうしたら、狩りには1人で行かなければなりません。1人で畑を耕さなければなりません。ですから、妹と結婚するのは何の得もないと言います。

 しかし、近親相姦に反対する、完璧に筋の通った理由があるにせよ、近親相姦という行為に対する本能的嫌悪は、もっと根源的な場所から湧き上がるものだと言います。それは、通常自分の子どもたちが兄弟でセックスするためにこっそり家を抜け出すのではないか、と心配したりはしません。それは、十代の若者がきょうだいでセックスしないのは、何も一緒に狩りをしたり、耕したりする義理の兄弟ができないからとか、障害を持つ子が生まれるかもしれないからではないからです。きょうだいによる近親相姦が稀なのは、ほとんどのきょうだいが、そんなことをしたいと思わないからだと言うのです。

 この嫌悪本能について、進化論的にもっともな理由があるとブルームは言います。

不道徳

 嫌悪を感じると、人は他者への評価が厳しくなり、嫌悪に敏感な人は、道徳的に厳しくなるようです。また、嫌悪は、人を意地悪にするようです。

 ここで、ブルームは面白い見解を示しています。いろいろな人の特性を知るとき、それは人類の進化、生存戦略にどのような意味を持ってきたかという観点から推測することがあります。そうする中で、矛盾を感じることがあります。こんな道徳規範でもそれをブルームは思います。それは、ロジンの実験です。彼は、こんな質問をしてみたそうです。成人女性が、父親とセックスをするとか、30歳の男性が80歳の女生徒との性関係を持とうとするといった行為に、どの程度嫌悪を感じるかといった質問をすると、多くの人が、こうした行為に嫌悪を感じると回答し、不道徳でもあると考えたそうです。

 ある種の性行為に対して示す道徳的反応は、進化の視座からすれば、まったく不可解であるとブルームは言います。そのほかの点で、道徳的判断の大半は、進化上の適応として理解できると言います。私たちが、親切な人や正直な人に対して抱く温かい感情、嘘つきやフリーライダーに対して覚える憤りは、小規模な社会で共同生活を営む人間に課せられた試練への適応解と考えられます。不公平に敏感なのは、地位への執着が進化した結果なのです。

 襲撃や殺人への厳しい態度は、自分自身が生き残ること、自分の血脈を絶やさないことが重要だからです。故意に人を殺すのは、みすみす人を死なせるより悪いと考えられているのは、個人が好き勝手に殺し合う社会は衰退しますが、互いに救い合う義務はそこまで重大でないからだというのです。

 人間の道徳的思考のその他の部分は、適応そのものではなく、適応が自然に拡大したものだと考えられています。私たちの脳は、放火や飲酒運転など、現代の犯罪を非難するために進化したわけではありませんが、これらの行為は、故意や不注意による危害という大きなくくりに入るため、道徳的に間違っているとみなされます。ブルームは、贈り物を贈る論理が人間の遺伝子に組み込まれているという説を怪しいと思っていると言います。何を与えるのが適当かについての直感や、感謝や失望といった感情は、地位、名誉、互恵性に対する懸念が進化したものと考えると、説明できるのではないだろうかと考えているようです。

 しかし、性の道徳は違うのではないかと言います。セックスによって繁殖する生き物が、セックスに対する欲望と同時に、たとえば人間以外の動物とのセックスなどのような繁殖に結びつかない行為や、きょうだい、もしくは成人した息子や娘とのセックスのような、まともな繁殖に結びつかない行為といった、ある種の性行為を避けようとする欲望を進化させるであろうことは、容易に理解できると言います。道徳心理学者にとっての謎は、なぜ私たちが、あるタイプのセックスに励む一方、別のタイプのセックスを避けるのかではなく、なぜ、私たちが、他人のセックスにこれほど関心があるかだといいます。

 たとえば、同性同士の性交は、世界の多くの地域で禁じられており、死刑に処せられる場合もあると言います。アメリカでは、2003年にはじめて同性愛などを禁止した法律を最高裁が違憲と見なしました。それまで、全米13の州には、同性間の性行為を禁止する法律がありました。今でも、同性愛者は差別されたり、2012年の国勢調査でも、成人の42%が、ゲイ、もしくはレズビアンの関係は道徳的に間違っていると回答しているそうです。その道徳感は、どこから生まれてくるのでしょうか?

嫌悪に敏感な人

 この世には、互いに対立する属性を持った言葉があります。積極的と消極的、受動的と能動的、それは、日本語だけではなく、英語にもネガティブとポジティブなど相反する言葉があります。中国の易学では、宇宙の万物を作り、支配する二つの相反する性質を持つ気があるとし、積極的なものを陽、消極的なものを陰としました。このことは、ずいぶんと前になりますが、ブログで取り上げたことがありました。そのときのブログで、「桃太郎は、なぜ、桃から生まれなければならなかったのでしょうか?」ということを書いています。今、園では来週の土曜日のおたのしみ会の準備をしています。昨年から伝統がテーマですので、各クラス昔話を取り上げています。桃太郎は、昨年年中さんが演じました。

この話は、よく考えると不思議な内容です。なぜ桃から生まれたか?という疑問だけではなく、桃から生まれた桃太郎が、「なぜ、鬼退治に出かけたのか?」といった疑問もあります。平安時代、天文暦学の道に精通し、さまざまな奇跡を起こした陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社の境内には、「厄除桃」があるそうです。陰陽の世界でも、桃が重要な役目を持っていると考えられていたようです。ですから、リンゴからでもなく、梨からでもなく、桃から生まれたのです。

なんだか、話はそれましたが、ひとの他人に対する気持ちとして、「共感」があります。そして、この共感は多くの状況で思いやりに発展します。それは、他者の人格を認める糸口でもあるのです。それに対立する言葉として、「嫌悪」がありますが、この気持ちは、たいてい反感につながります。そして、嫌悪を感じると、他者を取るに足らない、むかつくものと見なし、人格を否定するようになると言います。さらに、嫌悪を感じると、他者への評価が厳しくなります。

これについてのさまざまな実験が行なわれてきたようです。この線に沿って行なわれた初期の実験で、クリア・ウィートリーとジョナサン・ハイトは、被験者たちに、ある任意の単語を見たら必ず厳しい嫌悪を感じるように催眠をかけました。そのあとで、被験者たちに、ささやかな道徳違反の物語を読んでもらいました。すると、例の単語を目にした被験者は、単語を見ていない被験者たちよりも、その行為をより不道徳と評価したのです。別の実験では、被験者たちに、散らかった不潔な机で、もしくはおならスプレーを噴射した部屋で、もしくは映画「トレインスポッティング」の、大使が詰まったトイレに登場人物が手を突っ込むシーンを観てもらった後で、もしくは嫌悪を感じた体験について書いてもらった後で、判断を下してもらったところ、こうした環境に置かれた被験者たちは皆、他者の行為について道徳的に厳しくなったそうです。

苦い食べ物を食べたときでさえ、人は、道徳違反により厳しくなったと言います。そして、これらの実験の知見が示唆するとおり、嫌悪に敏感な人は、移民や外国人といった特定の他者に対して、より厳しい態度を取るというのです。

この見解に納得するところが多いですね。園や地域のなかで、違反に対して厳しくなる人や、強く苦情を言ってくる人の中で、思い当たるふしが多々あります。こちらは、「こんな些細なことで」と思っていることについても、厳しい態度を取る人は、嫌悪に敏感な人なのかもしれません。

韓国報告26

 韓国の3歳以上児に対して「ヌリ課程」というカリキュラムが定められており、それに沿った保育をすることが義務づけられています。そのヌリ課程には、かなり詳細に書かれてあるようです。保育の内容だけでなく、保育者の言葉がけ、保育室の構成、装飾に至るまで具体的に書かれてあるようです。そして、それを作るに当たって、先駆的な各国の保育を参考にし、特にレッジオにおけるプロジェクト保育を参考にしたようです。  その根底にあるのは、子どもの自発的な遊びを中心に、主体的に生活することであり、それを原則にしています。それは、世界中のすべての幼児教育の原理原則であると捉えています。しかし、烏山大学の大学院教授の孔教授によると、日本には、それを原理原則とした日本独自の保育カリキュラムが少なく、私たちが提案する「見守る保育」には、まずその原理原則があるということで、その本の韓国語版を出版してくれたのです。そして、そこにある保育者と子どもの距離感、子ども同士の関係の構築、そんな現在の韓国の抱える課題を見つけ、今後、日韓で連携をしていくことを今回の韓国視察ツアーで約束してきたのです。 もうひとつの課題は、保育の独自性であり、保育者の柔軟な保育を可能にするカリクラムの作成です。19世紀1800年代の末、多くの国で公教育制度が整備され、20世紀初頭には、公教育制度の量的な制度は完成しました。日本でも、学制ひかれ、日本一律の教育が行なわれました。まずは、具体的に、細かく決めることで、日本中の教育水準の引き上げを行なったのです。それが、行き渡った頃、次の課題が見えてきました。それは、「もっと子ども一人ひとりの個性を伸ばしていこう」というスローガンのもと、「個性の尊重」、「自主的・主体的な活動の尊重」が叫ばれることになったのです。

 これらの経緯を振り返ってみると、現在の日本の課題が見えてきます。日本では、戦後の幼児教育では、その原理原則に沿ったスタンダードな形が行き渡らないまま、独自性を重んじた大綱化による要領が作られたために、戦前の幼児教育を残してしまっている園が多く存在しているような気がします。大きな改革をするためには、韓国のような詳細に記載したカリキュラムで、まず日本における幼児教育のスタンダード化を計り、それが行き渡った後、大綱化した要領を出すべきである気がします。いくら、保育所保育指針や幼稚園教育要領の中で、子どもの自発的な遊びが大切であるとか、主体的な生活をすることが大切であると書いても、それのより具体的な保育の取組みが書かれていないため、現場では、なかなか改革が進まないのが現状です。新しい、幼稚園教育要領、保育所保育指針が現場で具体的に活かされていくことを望んでいます。

 そんなことを考えた今回の韓国視察でしたが、保育に関係のないところでも、韓国の文化を知ることができました。まず、毎朝の食事ですが、ホテルの食事は摂らずに、街に出て、一般の人たちがよく食べている食堂に行って、その代表的なメニューを食べることにしました。もちろん、夕食も代表的な韓国料理ですので、韓国を堪能しました。しかし、私はあまり辛いものは得意ではありませんので、なるべく辛くないものにしてもらいましたが、それでも毎日キムチ付けでした。1031日の夕食は、「鶏なべ」、111日の朝食は、「タラの粥」、昼食は、「豚カツ」か「うどん」が「ビビンバ」、夕食は、「辛い鍋+ラーメン」、2日の朝食は、「コムタン」、昼食は、「石焼ビビンバ」、夕食は、「サムギョプサル」、3日の朝食は、「アワビがゆ」、昼食は、「サムゲタン」でした。そして、最後の夜は少し贅沢に「カルビ焼き肉」、韓国最後の朝食は、「味噌立てクッパ」や「うどん」など本人の選択でした。

11月1日の朝食の、「タラの粥」と、昼食の「ビビンバ」と「うどん」
11月1日の朝食の、「タラの粥」と、昼食の「ビビンバ」と「うどん」
11月1日の夕食の、「辛い鍋+ラーメン」と、2日の朝食の、「コムタン」と、昼食の、「石焼ビビンバ」、
11月1日の夕食の、「辛い鍋+ラーメン」と、2日の朝食の、「コムタン」と、昼食の、「石焼ビビンバ」、
3日の朝食の「アワビがゆ」と、昼食の「サムゲタン」と、最後の夜の「カルビ焼き肉」
3日の朝食の「アワビがゆ」と、昼食の「サムゲタン」と、最後の夜の「カルビ焼き肉」

4日の朝食の「味噌立てクッパ」と、毎回でるキムチ

4日の朝食の「味噌立てクッパ」と、毎回でるキムチ

韓国報告25

韓国のイファ(梨花)女子大学付属の幼稚園は、韓国では幼児教育界において、常に先駆的な取組みをし、先導してきているようです。そのために、世界中から見学者を受け入れているようで、普段の子どもたちの活動を、見ることが出来るような参観室が、どの部屋にも用意されていました。そこには、階段式の椅子が並べられ、マジックミラーで保育の様子を子どもに見られることなく観察することが出来ます。この部屋は、月に1回行なわれる保護者のための保育参観日のためだけではなく、研究用にも使われるそうです。

もちろん、日本でもこのような研究はしているでしょう。世界の保育を視察しているでしょう。また、これからの時代に必要な幼児教育も検討しているでしょう。私は、それほど研究しているわけでもありませんし、それほど専門知識もありません。保育の仕事を始めて、現場の中で試行錯誤し、子どものためにどのような保育が望ましいのか、どのような社会を創るべきかを考えて、ある保育に確信を持ち始めました。そんなとき、ドイツを知りました。そして、ヨーロッパのいくつかの国の保育を見に行きました。そして、びっくりしました。それぞれの国で行なっている保育が、基本的に私が試行錯誤して構築してきた保育に非常に似通っていたからです。

それまでの日本の保育の多くは、黒板の前に先生が立ち、広い空間の保育室の中で、子どもたちに一斉にやることを指示し、または、子どもたちに画用紙を配って「さあ、遠足の時の絵を描きましょう。」などと指示することから始め、「ピアノを弾きながら、「さあ、何々の歌を大きな声で歌いましょう」と指示して歌い出す保育でした。1日の流れの中で、子どもたちが自発的に遊び出すことも、主体的に生活することもなく、自ら選択することもなく日々を送ります。

その保育室の壁に取り付けられた遊具をしまう家具を部屋の中にしきりとしておき、棚の遊具を自分で選択をし、自分で取り出し、自分で遊び出すことを考えたのです。それが、コーナーと呼ばれていることを知り、そこでの活動をより深めるためにゾーンと名付けたのです。このような保育は、ヨーロッパでは今やスタンダードになっています。私が訪れたヨーロッパの国と、アメリカでは、すべてと言っていいほどそのような保育室になっているのです。それが、今回、韓国でも質の高い保育園、幼稚園を見学したところ、やはりすべての園がそのような保育室環境だったのです。

日本では、なかなかそのような保育に変わっていかない中、韓国ではどうしてどの園でもこのような保育に変わっていったのでしょうか?それは、ヌリ課程という国で検討されたカリキュラムがあるからでしょう。日本でも、保育所保育指針や幼稚園教育要領があり、そこには、子どもの自発性や、主体性を大切にすることが書かれてあります。そして、それは告示化されています。しかし、これらは、ドイツのバイエルンや韓国のヌリ課程に比べて独自性を重んじるという趣旨のために大綱化されています。これは、大切な考え方です。現在、ヌリ課程は、あまりにも細かく書かれているために、各園、各保育者による独自性が発揮できないという課題を持っています。柔軟な取組みができないということで、改訂が予定されているそうです。

では、もしヌリ課程が大綱化されたとしたらどうなるでしょうか?一斉指導の保育に変わるのでしょうか?コーナーが保育室からなくなり、子どもたちの選択や自発性が損なわれる保育に変わるでしょうか?

韓国報告24

  kankoku11.3rikagenkan 今回の韓国視察ツアーの最後の視察先は、韓国最初に開園したイファ(梨花)女子大学付属幼稚園です。園長先生の説明では、基本的に室内、屋外で子どもたちは選択し、自発的な遊びを保障していると言います。ですから、今までのオリニジップと違って、非常に広い園庭を持っています。しかし、その園庭は、日本の多くの園に見られるような小学校の校庭に近いものでした。kankoku11.3enteiまた、保育室内には、さまざまなコーナーが設置され、子どもたちは自由に自分がやりたいコーナーで遊びます。そして、3歳以上児には、毎月決められているプロジェクトについて、先生は、歌や絵本などでイメージを膨らませ、さまざまな素材を用意します。この大学は、ミッション系女子大学ということもあって、45歳児の保育室には、ノアの箱舟をテーマにした大きな船が造られていました。しかし、園長先生は、その活動も、子どもたちが自発的に行動し、選択して活動していると言っていましたが、実際はどうもその取組みのときには一斉保育をしているようです。kankoku11.3kankyo

 デイリープログラムは、9時までに登園し、朝のお集まりをするようです。そこでは、朝の挨拶したあと、名札をつけ、1日の日課、興味のある活動などを紹介し、子どもたちはどれを選ぶかの計画を立てます。これは、朝のお集まりの時の重要な役割だと思います。子どもは自らその日一日の見通しを立てることが重要です。私は、保育における計画は、PDCAサイクルという事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務を円滑に進める手法が提案されています。それは、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)と言うことですが、私は、まず子どもたちの活動を見て、その活動を検証し、そこから引き出して計画を立て、子どもたちの遊びをより発展させていくことが大切だと思っています。しかし、子どもの活動においては、子ども自らのPDCが必要だと思っています。そのP(計画)が「朝のお集まり」、D(活動)が日中の保育活動、C(振り返り)が夕方の「終わりの会」だと思っています。

 この幼稚園では、朝のお集まりのあとは、室内の自由遊び(美術、科学、言語、音楽、パソコン)を、各コーナーでします。そして、10時ころにお片づけ、トイレに行き、午前のあやつを食べます。その片付けを当番の子がして、他の子は、再び、遊びに入ります。どうも11時頃までは、プロジェクトなどの保育者が計画した活動をするようです。そして、11時頃から12時頃までは、室内の自由選択活動をするそうです。そして、1155分から12時までは、「評価」の時間と書かれてあります。ここでは、今日のまとめと明日の連絡をするようです。そのあと、全日制の子どもたちは昼食を取って、午睡をした後、午後の自由活動をするようです。

 この園では、あまり写真は撮らないようにと言われたので、子どもたちの姿や、作品などは写真で紹介できませんが、1日の流れを見ることでも、室内環境の様子が少し想像付くと思います。また、図書室も充実しており、たくさんの本が並べられていました。建物もとてもモダンなデザインが施され、子どもたちにも本物を与えようという姿勢が現われていました。kankoku11.3rikatatemono

韓国報告23

 いよいよ、韓国視察の最後の園訪問です。三日目の午前中に訪れました。今まで5園見てきました。1日目の午前中、公立ソガンオリニジップ(ソガン子どもの家)、午後は、スンミョン(淑明)女子大学内オリニジップでした。二日目の午前中は、ハンソル教育希望財団が運営受託している企業所内オリニジップの国会内第1オリニジップ、そして、午後からは、プルニー財団が受託している企業所内オリニジップを2園、延世(ヨンセ)大学内のオリニジップと現代海上保険株式会社内オリニジップでした。

 最初のブログで紹介しましたが、韓国の幼児教育の施設は、基本的には日本と類似していて、幼稚園とオリニジップの二つに大別されています。オリニジップとは、ハングルで「子どもの家」を意味し、0歳から小学校就学前までの子どもが対象であり、日本の保育所にあたります。これまで見学した5園は、このオリニジップです。それに対して、満3歳から小学校就学までの子どもが対象の幼稚園があります。最後の訪問先は、この幼稚園でした。rikajosi

 日本では、1876年、日本で最初に設立された幼稚園として東京女子師範学校附属幼稚園が開園しました。韓国では、今回訪問した韓国ソウルにあるイファ(梨花)女子大学付属の幼稚園が、1914年に韓国最初に開園した幼稚園だそうです。梨花女子大学校は、1945年に設置された私立大学ですが、女子大学としては世界最大規模だと言われています。その園の園長先生は、来年からオメップ(世界幼児教育・保育機構)の会長を務める予定だそうです。

3歳児はひとクラス20名が2クラス、全日制の4歳と5歳が混合クラスと半日制クラスが2クラス、総勢144名が在園しているそうです。この園は、私立ですが、教育費43万ウォンのうち政府からその半額の22万ウォンの補助があり、残りの半額を親が負担しているそうです。ちなみに、韓国では、すべての年齢において保育料無料化を進めているために、普通の区立や公立はほとんど親の負担はないのですが、私立幼稚園の場合は、独自に保育料を徴収しているようで、高い私立幼稚園は80万ウォンかかる場合もあるそうです。

 この幼稚園は名門ということもあって、全国からの応募があり、競争率は約10倍で、日本でも国公立の幼稚園では入試の一部で抽選が採用されていますが、この園でも地域や親の職業に関わらず、抽選で入園児を決めているそうです。それでも、ここの在園児の中で、全日制のクラスでは大学関係者も多く含まれており、全体的に高学歴な保護者が多いことが特徴的です。この園の45歳児に全日制と半日制があるのは、時代の要請に合わせて延長クラスが導入されたということで、日本で言う預かり保育のようなもののようです。保育時間は、半日制の3歳児は912時、4歳児は913時、5歳児は914時で、全日制の45歳児は、917時だそうです。

保育内容としては、国が定めた教育カリキュラムであるヌリ課程に沿って保育することを基本とし、他に梨花独自に定めたカリキュラムによって保育されているそうです。園長先生の話では、子どもたちは、基本的にすべて自分たちでやることを決め、室内と園庭での自由活動が中心だそうです。そのために、室内には、他園同様、コーナーが充実しており、同時に4歳と5歳はテーマを決めたプロジェクトに取組み、現在、交通に関するテーマと、環境と消費をテーマとして保育しているということでした。

韓国報告22

 kankoku    二日目の午後の2園目は、1園目と同じ法人であるプルニー財団が運営している現代海上保険株式会社の企業所内オリニジップです。この園は、園児数は45人で、職員は9名、地下1階、地上3階の建物で、ずいぶんと都会の中にあるオリニジップです。地下には、職員室・多目的ホールがあり、1階には、9人の1歳クラスと9人の2歳クラスがあります。2階は、共用施設スペースになっており、3階は、3歳児と4歳児の異年齢クラス18名、そして、5歳クラスが9名です。韓国では、基本的に保護者の要望があるということで年齢別保育をしていますが、この園では、3,4歳児は、異年齢でした。kankoku11.2-2kankyou2

この園の室内環境は、非常にきれいに整頓されていました。そこにあるさまざまな教材、遊具も整理され、子どもたちはこれらをどのように使っているのだろうかと思うほどで、また、掃除は誰がいつしているのだろうかと思うほどきれいにしてありました。見学した時間は、16時から1645分までと慌ただしかったのですが、子どもはまだ在園している時間にもかかわらず、園全体にザワザワ感がありませんでした。その整理さは、教材庫の中にも現われていて、ずいぶんときちんと整理されていました。kankoku11.2-2souko

また、この園で、初めて乳児室らしい室内環境を見ることができました。以前、ブログで書いたように、韓国では年齢別の保育室にもかかわらず、それぞれの部屋に用意されている教材は、さほど差は感じられませんでしたが、この園の環境は、後でその写真を見ても、それとわかる環境で、私たちにもずいぶんと参考になるものがありました。

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その中にも手作りの物もいくつかありました。kankoku11.2-2nyujikyozai1また、ランチルームには、乳児用の椅子も置いてあり、乳児も保育室内ではなく、この部屋で食べるようです。kankku11.2-2tyori

 

また、しゃれた空間も室内、屋外にも用意されていました。kankoku11.2-2syaretakukan1kankoku11.2syaretakuukan2kankoku11.2-2syaretaguzzu