韓国報告1

仁川空港
仁川空港

 日本では、最近の乳幼児問題というと、「待機児解消」があります。少し前までは、「少子化対策」が話題の中心でした。もちろんこの二つはリンクしている部分が多いのですが。しかし、この議論は、その中心になる観点が少しずれている気がします。私は、乳幼児問題を考える上で、大切なことは、「21世紀の知識基盤社会において国家の持続的な発展を確保するための重要な課題は、優れた人的資源を養成する」ことにあると思っています。その課題を踏まえた上での待機児解消であり、少子化対策を検討すべきであると思っています。

さらに、優れた人的資源の開発に最も効果的な手段の一つは、教育に投資することであり、特に、OECDでは、質の高い乳幼児教育・保育への提供が社会の経済的効果を高めるだけでなく、 親の育児支援、女性の社会進出支援、乳幼児の教育への機会の拡大と保障、低所得層の乳幼児の教育的な不利益を克服するための助けとなり、教育の機会均等と貧富の格差を解消するため、国家的次元での支援の重要性を強調しているからです。

以前、ブログでも紹介したと思いますが、ノーベル経済学賞を受賞したヘックマンの研究で、乳幼児期が他の時期に比べ教育の投資効果が最も高い時期であるという認識が示されました。そこで、先進国における取り組みとして、まず、乳幼児期の施設の一元化、そして、幼児教育及び保育の量的・質的サービス向上が挙げられているのです。

まず、一元化については、日本では、幼稚園と保育園という2元化についてかなり昔から議論されてきたところです。ドイツでは、フレーベルが「子どもの園」という施設を開園し、それがキンダーガルテンとして3歳以上就学前までの教育施設として学校局が管轄していました。それに対して、女性の社会進出が進み、乳児から3歳未満児の保育の要望が高まり、その年齢を対象にしたキンダークリッペとして生活局が管轄する施設が作られました。時代が進みに従って、未満児の保育の要望が高まり、学校局によって0歳から6歳までのコープという施設が作られ始めました。すると、0歳から3歳児までの子どもたちは、生活局管轄の施設と、学校局管轄の施設の2元化が起きました。また、生活局でも乳幼児教育が必要だということで、新たに陶冶スポーツ局(教育スポーツ局)を創設し、「子どものための家」という施設に一本化したのです。(これは、私が知っているミュンヘン市での取り組みですので、ドイツすべての州での取り組みではありません)

このように、幼児教育・保育の統合は、同じ年齢の幼児と保護者のためのサービスという側面から多くの国で重要な課題として扱われており、先進国において一元化が進められています。スウェーデンでは、 女性の子育て軽減と家庭の子育て支援のために保育分野での人材育成を強調した教育側面を強化することで、1997年幼児教育・保育の完全統合を成し遂げました。また、フランスとベルギーでは、年齢を中心に統合することで、同じ年齢の乳幼児の場合、共通な行政管理システムと教師養成システムを統合した教育課程を提供しています。ニュージーランドでは、ずいぶんと早い時期に取り組んでいます。1987年、社会福祉部で管轄していた児童保育サービスを教育部に切り替え、幼保統合を実現するとともに幼稚園教師と保育教師の養成課程を統合することで完全統合を果たしています。その他、台湾でも、幼・保養成課程と行政システムの統合及び教師養成の統合を試み、効率的で未来志向的な人材育成を追求する一方、 家庭の子育て支援にも力を入れ始めています。

嫌悪の対象

 嫌悪は、さまざまな種類の食べ物を口にしますが、その中には命に危険を及ぼす恐れのあるものもあり、ある特定の場所の環境で、何が食べられて、何が食べられないかを学習する過程で、生まれてきたという食べ物説があります。しかし、食べ物を根拠にした説は不完全であると主張する人たちもいるようです。嫌悪は、もっと広く、病原菌や寄生虫に近寄るなという警報も発するために進化したのだというのです。人類学者のヴァレリー・カーティスらは、インターネットを通じて、165カ国にまたがる4万人以上を調査し、どのような画像が嫌悪をもよおさせたかを明らかにしました。特に、気持ちの悪いと評価されたのは、病気が疑われる画像だったそうです。

 たとえば、膿やただれのある皮膚病の絵は、膿んでいない火傷の絵より、嫌悪をもよおすと評価されたそうです。また、熱っぽい顔や発疹のある顔のメーキャップをした人も、やや嫌悪をもよおさせたのです。この説から、不潔な赤の他人の匂いが、なぜ、これほど嫌悪をもよおさせるのかも説明がつくと言います。不衛生さは、病気の印だからだというのです。

 チャールズ・ダーウィンは、彼の人間性の鋭い観察から、自分自身が感じた嫌悪について、次のようなエピソードを語っているそうです。ある島で、1人の原住民が、彼が野営地で食べていた冷たい保存肉に指で触れたそうです。そして、肉の柔らかさに嫌悪感をあらわにしたそうです。一方彼は、裸の野蛮人に触れられた食べ物に激しい嫌悪を感じたというのです。その原住民の手は、まったく汚れているように見えなかったのにもかかわらずです。

 人は嫌悪の対象になり得ると言います。嫌悪が進化した理由の一つが、病気の予防というのが本当ならば、人間に嫌悪を感じるのは当然だというのです。私たちは、病気の運び屋なのだからとブルームは言います。しかし、私たちは、もっと基本的な意味で嫌悪感を感じていると言います。私たちは肉の塊であり、中核的嫌悪を引き出すあらゆる物質に関係していると言います。彼は、聖アウグティヌスの言葉である「糞と小便の間から生まれるのだから」を引用しています。

 死んだラットや、吐しゃく物のたまりによって引き出される嫌悪は、道徳的には中立的かもしれませんが、同胞である人間に向けられる嫌悪はもっと厄介だと彼は言います。ところで、嫌悪は、反感や憎悪と同じではないと彼は言います。あなたは、本能的にまったく嫌悪をもよおさせない人を憎むことができるというのです。軽蔑する相手には、嫌悪の言葉である「むかつく!」と言いたくなります。そして、憎悪や反感などのネガティブな感情が全くない状態でも、嫌悪を感じる場合はあると言います。子どものおむつを替えたり、吐いたものを片づけたりするとき、むかむかすることはあるかもしれませんが、そのせいでわが子を憎んだりはしません。ただし、嫌悪によって、憎悪を感じやすくはなります。誰かを気持ち悪いと思うのは、他の条件が同じであれば、その人に反感を持つということだと言うのです。

 嫌悪は、共感の反対だとブルームは考えているようです。多くの状況で、共感が思いやりに発展するように、嫌悪はたいてい反感につながります。共感は、他者の人格を認める糸口だと言うのです。しかし、嫌悪を感じると、あなたは他者を取るに足らない、むかつくものと見なし、人格を否定するようになるというのです。

トイレトレーニング

 「トイレトレーニング」について、もっと説得力のあるのが、中核的嫌悪は、適応上の目的として機能しているという説だそうです。この説によると、嫌悪は学習されるのではなく、むしろ、赤ちゃんが発達のある段階に達すると自然に生じると言うのです。このタイミングはある意味理にかなっているとブルームは言います。というのも、嫌悪の芽生える時期が早すぎると、赤ちゃんは自分のうんちに絶えず嫌悪を感じながらも、自分ではどうすることもできないからです。自然選択も、そこまでむやみと残酷ではないだろうと言うのです。

 嫌悪が適応ならば、それは何のための適応なのか?もっとも人気のあるのは、嫌悪は、悪い食べ物を回避させるために進化したという説だそうです。事実、英語の「嫌悪」という言葉は、「悪い味」という意味のラテン語に由来しているそうです。

 この説にはたくさんの根拠があるようです。一つ目は、ダーウィンによれば、嫌悪に特徴的な顔の表情は、臭いを嗅ぐまい、口に入れるまい、すでに口に入れたものを、舌を使ってはき出そうとする行為に似ているそうです。嫌悪を感じたとき、人が口を大きく開けないのは偶然ではないと言うのです。実際、「オエッの顔」は、現実に人がものをはくときの表情であり、それが起源なのでしょう。二つ目の根拠は、嫌悪と結びつく吐き気の感覚は、食欲を失わせるということです。三つ目は、私たちの嫌悪の反応は、悪い食べ物を食べるところを想像しただけで引き起こされることがあります。ダーウィンは、これを次のように説明しているそうです。「普段食べられていない動物など、変わった食べ物を口にしたと考えただけで、たちどころに吐き気をもよおし、実際には吐いてしまう人がいることには驚かされる」

 四つ目の根拠には、次のようなものがあります。妊娠中の女性は、妊娠期間を通じて吐き気をもよおす回数が増えることを考慮しても、胎児が毒に敏感な時期に、とりわけ嫌悪を感じやすくなるそうです。五つ目には、人に嫌悪をもよおさせる絵を見せると、匂いや味に関連する脳の前頭前皮質が活発化するそうです。

 もちろん、何に嫌悪を感じるかは個人差が大きいのですから、嫌悪は完全に固定されているわけではないと言います。ラット、甲虫、イヌを食べるところを想像しただけで、ブルームは吐きそうになるようですが、こうした食べ物を頬が落ちるほどうまいと考える文化で育った人もいます。なんらかの学習が行なわれるに違いないと考えます。その結論は、嫌悪・悪い食べ物説と合致します。

人は、ロジンが「雑食動物のジレンマ」と名付けた行動をとります。それは、私たちは実にさまざまな種類の食べ物を口にしますが、その中には命に危険を及ぼす恐れのあるものもあります。そこで、ある特定の場所の環境で、何が食べられて、何が食べられないかを学習しなくてはなりません。この学習の過程では、食べ物、特に肉は、無害であることが証明されるまでクロだったのです。私たちは誰からもドブネズミの唐揚げは気持ち悪いと教わらなかったですが、ドブネズミの唐揚げが気持ち悪いと知っています。食べ物の好みが決定される幼少の臨界期に、周りにいた人が誰もドブネズミの唐揚げを食べていなかったからだと彼は言います。

赤ちゃんの嫌悪

 人は様々なものに嫌悪を感じます。しかし、赤ちゃんは、嫌悪という感情を知らないと言われています。フロイトは、これについて「文化への不満」で触れているそうです。「子どもは排泄物に嫌悪を感じない。体の中から出てくる、自分の体の一部として価値あるものと考える」と言っているそうです。そばに誰もいなければ、幼い子どもたちは、嫌悪をもよおさせるあらゆるものに触れ、食べてしまいさえします。実は、よく考えられた発達心理学の研究で、ロジンたちが、2歳未満の子どもたちに、実際は、ピーナッツバターと匂いの強いチーズの混ぜたものを、「イヌのうんちだよ」と言って渡したものをほとんどの子は、食べたそうです。また、たいていの子どもが干した小魚を丸ごと食べ、三分の一がイナゴを食べたそうです。

 それが、その後、幼年期のどこかでスイッチが入って、子どもたちは大人のように、世の中の多くのものに嫌悪を感じるようになると言われています。何がこの変化のきっかけとなるのでしょうか?心理学者は、しばしばこの問題に頭を悩ませ、多くの人がフロイト説に従って、トイレトレーニングのトラウマのせいにしてしまいます。しかし、ブルームは、自分の子どもたちが幼かったとき、ペネロープ・リーチの優れた育児書を読んだときに、次のようなアドバイスに出会ったそうです。

 「子どもに、大人であるあなた方が抱いているような、大便に対する嫌悪を感じさせようとしてはいけません。子どもは、便が自分から出てくることを発見したばかりです。子どもは、便を、自分に属する興味深い物体として見ています。あなたが急いでおまるを空にしようとしたり、神経質な手つきでおむつを交換したり、鼻にしわを寄せたり、子どもがおまるの中身を調べたり、なすりつけたりするのを怒ったりすれば、子どもの気持ちは傷つくでしょう。大人が便で遊ばないのを発見することも成長の一環ですが、自分も子どもと同じように、楽しく興味があるふりをする必要はありませんが、大便が汚くて嫌悪をもよおさせるものだと感じさせようとしてはいけません。子どもは、自分の大便にあなたが嫌悪を感じていると知れば、自分にも嫌悪を感じていると思うでしょう。」

 彼の言っているように、親の行き過ぎた嫌悪感は、子どもに失礼だとブルームは同感します。しかし、その他の部分はすべて間違いだというのです。子どもは、「大人が大便で遊ばない」ことを、「大人は足指まですっぽり覆うパジャマを着ない」といった、恣意的な文化的慣習であるかのように発見するわけではないからです。いや、子どもたちは、大便は気持ち悪いとわかるようになるのです。そして、この洞察は、大人の反応を観察した結果ではないといます。何はともあれ、大勢の親がリーチの本を読み、そのアドバイスに従ったけれど、本が出版されてから20年以上が経った今も、人はいまだにうんちを嫌悪しているではないかというのです。

 トイレトレーニング説には、ほかにも欠点があるとブルームは思っているようです。排尿や排便に関する慣習は、社会によってかなり違います。トイレさえない社会もあります。しかし、嫌悪は普遍的です。血、としゃく物,腐った肉は、トイレトレーニングとは関係ありませんが、嫌悪をもよおさせます。仮に、子どもが、自分の体から出てきたものを気持ち悪いと思うのは、大人が気持ち悪いと思うからに他ならないという説が本当だとしても、「なぜ大人は排泄物を嫌悪するのか?」という疑問は振り出しに戻るだけだと言います。

嫌悪感度

 人は、共感によって道徳的行為が動機付けられます。共感は、人を思いやりへと駆り立てるとブルームは言います。そして、同情と利他性を強化します。しかし、嫌悪には反対の効果があるというのです。嫌悪は人を他者の苦痛に無関心にさせます。嫌悪を感じると、人は残酷な行為に及んだり、人を人と思わなくなったりします。

 ブルームは、人に嫌悪を感じ、差別を感じる、また、好き嫌いの感情に対して、根深いものの一つに「身体的な感覚」があると言います。人は、昔から人に嫌悪を感じ、差別するときに、その身体的な感覚を持ってきました。その代表が、「下層階級は臭い」という言葉であったことをオーウェルは思い出します。それは、今考えるとおぞましいことですが、彼が子どもの頃はそれを口に出していたそうです。人種憎悪、宗教憎悪、教養、気性、知性の差、道徳律の違いによる差別を乗り越えて身体レベルの不快感があると言います。

 ブルームはこんな例を出しています。嫌悪の感情を呼び覚ますのは簡単だというのです。タッパーを開けて、大きく息を吸い込んだら、ハンバーガーが腐っていたということを想像してみようと言います。ほとんどの人が、吐き気がこみ上げるなどの特定の感情に襲われます。この感情には、特徴的な顔の表情、たとえば、しわの寄った鼻、閉じた口、前に突き出した舌、といった「オエッ」の顔と、特有の動機「それをあっちにやって」が伴うだろうと彼は言います。そして、あなたはその匂いを嗅ぎたくない、それに触れたくない、もちろん、食べたくないでしょう。

 ある種の物体、物質、経験は、確実にこの反応を引き出すと言います。嫌悪問題の優れた研究者にポール・ロジンという人がいます。彼は、人の「嫌悪感度」を測定する尺度を開発したそうです。彼らが、被験者に評価するように依頼した質問項目があるそうです。皆さんは、これらの経験にどの程度嫌悪を感じるでしょうか?

 「公衆トイレで大便が流されていなかった」「友人の飼っていたネコが死んだ。その死骸を素手でつかまえなくてはいけない」「事故の後で、体から腸が飛び出している男性を見る」「鉄道下のトンネルを歩いていると、小便の匂いがした」という経験にどの程度嫌悪を感じるでしょうか?我慢できる範囲には個人差があります。教室や講演会で、これらの文を読み上げると、何を騒ぐことがあるのかと怪訝そうな顔をする人もあれば、吐き気を催す人もいます。心理学概論の大規模授業で、これらの文章をパワーポイントで表示したら、1人の学生が講堂から走り出ていったそうです。ロジンらは、嫌悪感度の評価は、ゴキブリを素手でつまむとか、殺されたばかりのブタの頭に触れるなど、嫌悪をもよおさせる活動に、その人が実際どのくらい積極的に関わろうとするかの指標となることを突き止めたのです。

 実験室での調査と比較文化研究により、世界中の人が、血、血のり、吐しゃく物、糞便、尿、腐った肉に嫌悪を感じることがわかっているそうです。これらは、ロジンの言う「中核的嫌悪」を引き起こすということのようです。しかし、残念ながら、こうした物質は生命の本質でもあるとブルームは言います。有名な絵本に「みんなうんち」というものがありますが、まさに、ありとあらゆる物質が、私たちの体から、そして愛する人の体からほとばしり、したたり、しみ出すのだと彼は言います。

嫌悪という感情

 私たちは、あるバイアスが間違っていると思ったら、慣習や法律を利用して、そのバイアスを根絶する状況を作り出すことが出来るようです。そのようにして、道徳的進歩は広がっていきます。しかし、一般に、善意や意志の力だけで、よりよくなることなどできませんが、人間は賢明な生き物であるので、知性を使って、情報を管理したり、選択肢を制限したりします。こうして、つまずきの原因になると思われる直感や欲望を乗り越えながら、少しずつ、よりよい自己に近づいていけるというのです。このように、私たちは、自分たちの集団を他者の集団よりひいきする人間の天性に対処していると言います。しかし、そう簡単ではありません。人間の本性には、乗り越えなくてはならない、さらに醜い面が存在するとブルームは言います。

それは、「嫌悪」という感情です。嫌悪は、悪を生み出す強力なエネルギーです。ある集団を根絶やしにしたいとか、爪弾きにしたいと思ったら、「嫌悪」という情動を引き出せばいいとブルームは言います。それを上手に使ったのが、ドイツのナチスがユダヤ人に行なった行為であると科学者で作家のプリーモ・レーヴィが指摘しています。それは、囚人であるユダヤ人にトイレを使わせないようにした時の効果です。「SSの護衛は、男や女が、プラットホームや線路の真ん中で、所構わずしゃがみ込むのを見て、喜びを隠さなかった。そして、ドイツ人の乗客は嫌悪をあらわにした。こんな連中が悲惨な末路をたどるのは当然だ。見ろよ、あのざまを。こいつらは人間じゃない。動物だ。火を見るよりも明らかだ。」

怖いですね。人の嫌悪を操作することによって、人に対する評価をコントロールしてしまうのですね。集団にたいしてのバイアスを構築してしまうのですね。ブルームは、こう言います。「こうした反応を引き出すためには、他者に実際に不快な思いをさせるまでもない。比較的よく用いられるのが、想像力に訴える方法だ。あなたは、その人たちがどんなに汚らわしく、嫌な臭いがするかを物語ることができる。」

その例として、ヴォルテールがユダヤ人について、語っているこんな言葉を引用しています。「この連中は、清潔な暮らしや礼儀作法にたいへん無頓着なので、律法者が、法律を作って、手を洗うことさえ強制しなくてはならなかったほどである」また、比喩を使ったこんな例も挙げています。ナチスは、ユダヤ人を「気色の悪いスポンジのようなもの、液体や粘り気のあるものを吸収する。湿っぽく、つかみ所のない点で女に似ている。ドイツ人男性の清潔な体に巣食う邪悪な寄生生物」というようにです。憎悪の対象となる集団は、ドブネズミやゴキブリなどの不快な生き物によく喩えられます。

このようなことは、近代でも見受けられます。特に最近は、情報が非常に速く、また多くの人たちに伝わりやすい環境にあります。そこで、このような嫌悪を誘発するような大衆操作は、容易に出来てしまうような気がします。そして、このような嫌悪を誘発する集団は、当時の多く行なわれたような民族集団や人種などを対象に行なわれるとは限りません。ジョージ・オーウェルは、階級差別において嫌悪が果たす役割を、彼の子どもの頃の体験から雄弁に語っています。彼は、それを今、思い出すだけでも口にするだけでもはばかれると言います。それは、「下層階級は臭い」という言葉だそうです。

知性によって克服

ベルビーは、私たちの集団に対する強い思いを、「自然が与えた、人間の想像力と創造的喜びの源泉の一つ」と言っています。内集団が存在するところには、必ず外集団があります。そこに問題が起きるとブルームは言うのです。ユダヤ人とドイツ人がいなければ、ホロコーストは起きなかったのです。ツチとフツがいなければルワンダの虐殺もなかったであろうと彼は言います。それでも、人類は仕分けする代わりの方法があるかどうかはあきらかではないと言います。

「真の意味で万人に適用される倫理が存在するのだろうか?」「人は、文化、国、血の絆に本当に無関心になれるだろうか?」「そうなっても、善良で良識のある人間でいられるだろうか?」という疑問をブルームは持ちます。哲学者のクワメ・アンソニー・アッピアもこんなことを言っているそうです。遠い国の赤の他人との関わりでさえ、「どんなときも、特定の他者との関わりになれるだろう。そして、アイデンティティを共有することによって、温かな気持ちが生まれる」と言うのです。

アメリカのキリスト教徒は、スーダンにいるキリスト教徒に義援金を送るだろう。作家たちは、世界中の作家の自由を求めて声を上げるだろう。スウェーデンの女性は南アジアの女性の権利を求めて活動するだろう。アッピアは、これに対してキケロの言葉を引用しています。「社会や人間の連帯は、もっとも密につながっている人たちに、もっとも思いやりを発揮するとき、もっともうまくいく」

これらの見解は、私たちに希望を与えます。なぜ、私たちが集団を形成して、長い間生存してこれたかがわかります。しかし、そこには、私たちはある努力をしなければならないでしょう。ブルームも、こんなことを言っています。「私たちは、自分の結託バイアスが暴走を始めたと感じたら、知性を使って克服できる」と言います。その例が、人は普遍的な人権を守るために条約を制定し、国際組織を発足させます。審査員の判断が、候補者の人種など、評価には関係のないものによって、意識的にであれ、無意識にであれ、歪められないように設計されたブラインドレビューやブラインドオーディションのような審査員には誰だかわからない状況で審査する手順を採用します。マイノリティー集団の代表をしっかり確保するために、割り当て方式や多様性義務を制度化し、それぞれの好みや思惑があります。個人の判断の及ばないところで決定を行なうのです。

この解決方法が必ずしも正しいというわけではないとブルームは言います。実際、これらは互いに衝突する場合があるため、常に正しいとは言えないと言います。例えば、大学には、人種を考慮しない入学措置と、人種に配慮する割り当て方式や多様性義務があるそうです。それよりもむしろ、私たちがあるバイアスが間違っていると思ったら、慣習や法律を利用して、そのバイアスを根絶する状況を作り出せるということが重要であるというのです。

そのようにして、道徳的進歩は広がっていきます。しかし、願望ややみくもな努力だけでは、ダイエットや禁煙が成功しないように、一般に、善意や意志の力だけで、よりよくなることなどできません。しかし、人間は賢明な生き物だと彼は言います。そして、知性を使って、情報を管理したり、選択肢を制限したりできるというのです。こうして、つまずきの原因になると思われる直感や欲望を乗り越えながら、少しずつ、よりよい自己に近づいていけるというのです。

根深いバイアス

一般化の中には、根強く残ると思われるものもあるとブルームは考えています。人種や民族と呼ばれる集団には、家族と呼ばれる集団と同じ理由から、いくつかの共通点があると考えています。肉親どうしは遺伝子を共有します。そのため、ある固有の形質を備えている確率が高まります。複数の家族が集まった、より規模の大きい集団の成員も同様です。とくに、生活を共にする人々は、家族であれ、家族の集団であれ、長い間にある特性を共有するようになります。固有の食べ物を食べ、特定の活動に従事し、独特の話し方をし、ある決まった価値観を持つようになります。文化の差異化はすみやかに生じます。まさにこれを体現したのが、一つの国が引き裂かれた、東ドイツと西ドイツ、北朝鮮と韓国だったと言うのです。

さらにブルームは、バイアスはなぜこのように根が深いのか、それは、人間の結託の性質とも関係していると見ています。私たちは、自分が所属する集団をひいきします。それは、最小グループ実験でも、現実の世界でも明白です。私たちは、国、近隣地域、血縁の絆に引き寄せられます。最も濃い絆は、血縁だとブルームは言います。人類史上何度も、家族の特別なつながりを解消させ、国家や教会などの別の集団と置き換えようとする試みが行なわれましたが、ことごとく失敗に終わりました。実は、人種と民族性は、血縁とあるものを共有しているのです。

人を分類してなんらかのカテゴリーに当てはめようとする作業は、あなたの生物学上の近縁は誰かという問題にほかならないとブルームは言います。もっともリベラルで、断固たる反人種主義者でさえ、その点は理解していると言います。心理学者のフランシスコ・ギル=ホワイトが指摘しているように、自分たちは、二分の一は、アイルランド人、残りの四分の一ずつはイタリア人とメキシコ人だと言う人がいたら、それは、その人たちの思想信条や出自ではなく、祖先の民族性の話をしているのだと言います。

ブルームは、集団に関する人間の性向をポジティブに捉えようとしています。自分たちと他者を別の集団に仕分けする人間の性向は、真の喜びを与えてくれると言います。人は、自分たちの文化や言語が絶滅してしまうことを望まないのです。なぜなら、私たちは、ある特定の共同体に属することで喜びを得るからだと言います。多くの人が、他者の集団の悪口を言う人に眉をひそめますが、自分が属する集団を誇りに思ったり、案じたりすることは、通常間違っているとはみなされません。フランス人は、フランス国民は外国政府に不当に監禁されれば憤慨します。イタリア人は、一度も会ったことがなくても、イタリア人が偉業を達成すれば胸をはります。それを見ても、誰も意外だとは思わないだろうとブルームは言います。

宗教やナショナリズムに激しい反感を抱く人も、肉親、友人、仕事仲間など、別のかたちで共同体の喜びを求めるだろうと言います。とは言え、自分を心理学教授のコミュニティの一員とみなすことと、たとえば、自分をカトリック教徒、ギリシア人、もしくはアメリカ人と見なすことは違うのかもしれないと言います。しかし、いずれにしても、人は、ぬくもり、誇り、一体感という同じ感情を経験しています。ベルビーは、私たちの集団に対する強い思いを、「自然が与えた、人間の想像力と創造的喜びの源泉の一つ」とまで言っているそうです。

無意識のバイアス

 私たちが意識できない思考や感情の根源を探る手段として開発されたテストにITAテストというものがあります。自分自身の非意識的な選好や信念についてより多くの自覚を得るためのツールとして使われます。ブルームは、これまで見たテレビドラマの中で最悪の例が「ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間」のエピソードに登場したケースだそうです。それは、一流の心理学者と捜査官のチームが、でたらめのIATを使って、どの消防団が憎悪犯罪に関与していたかを探り当てるという話だそうです。ある消防士が、仲間と比べて、「信念のある」などのポジティブな言葉と、バラク・オバマのような黒人の顔を結びつけるのに時間がかかることがわかって、事件は解決と相成ります。「俺は人種差別主義者じゃない」と抗議する男に、尋問官は、「あなたがそう思っていたいだけだ」とぴしゃりと言い返します。メディアのこうした描写に、社会心理学者はうんざりしているそうです。消防士たちに本物のIATを受けてもらうことがあるとしても、IATは、人種差別主義者をあぶり出す道具ではないとブルームは言います。これらの方法は、人間の無意識のバイアスに関するデータを集めるために開発されたのであって、人種差別主義者探知機ではないというのです。

 その一方、こうした知見は、現実社会のステレオタイプや偏見について、何も明らかにしていないと批判する人もいるそうです。反応時間、皮膚伝導性、扁桃体の活性化などの些細な測定値は、何も取り上げるほどのものではないとブルームは言います。しかし、実際に、これらの数値は、ある人が、別の人種の人とのやり取りにどの程度抵抗を感じるかといった、現実に重要な問題と関係していることは事実です。さらに、この潜在的なバイアスは、誰を採用するか、助けを求めて叫んでいる人に手を差し伸べるかどうかといった、現実の決定を下すときに顕在化するというのです。

 この調査は、人間の内的葛藤の有り様を明らかにしています。1人の人間の心の中に、人種が採用決定に影響するのはおかしいと考える部分と、黒人の採用に反対する意見に誘導する部分とがあると言います。この緊張関係が、正義とは何かについての表向きの意見と、直感が衝突する、道徳的葛藤を反映している場合もあると彼は言うのです。

 ブルームは、おそらく100年後も、人間は相変わらず集団の立場で思考を働かせている、すなわち、何かしらバイアスや偏見が残っている可能性は高いと考えているそうです。

 集団間の差が、現実に存在するというのも理由の一つだと彼は言います。たとえば、アメリカには、アジアのある国々出身の生徒は、学業面で平均より優秀だというステレオタイプがあるそうです。そして実際に、アジア系の大学志望者は、大学進学適性試験の点数が平均よりも高いそうです。さて、この話題を論じるのをタブーに、いや、アジア系以外の人が論じるのをタブーにすることはできるかもしれません。しかし、洗脳か集団催眠でも行なわない限り、その知識が消えてなくなるように脳を配線し直すことは出来ないというのです。

 そして、こうした一般化の中には根強く残ると思われるものもあると言います。人種や民族と呼ばれる集団には、家族と呼ばれる集団と同じ理由から、いくつかの共通点があると言います。人類は、進化の過程で、家族という集団を形成してきました。その家族が「族」を形成してきた経緯を知ることは、集団を相手にしている私たちの仕事では、大切なことかもしれません。

心理学実験

 ヒトは、外集団の一員と考えるだけで、その人に対する感情が左右されてしまいます。少し前のブログで、赤ちゃんや子どもたちが、耳になじんだアクセントのある人とやり取りしたがるということを紹介しましたが、同じく大人にも、ネイティブにない訛りのある相手を、能力、知性、学歴、魅力の点で劣っていると評価する傾向があると言います。ある研究によると、人間には、まったくなじみのない外集団の人たちには、羨望や侮辱といった人間にしかないと言われる情動がない、と考える傾向があるそうです。野蛮人と見なすか、せいぜいよくて子ども扱いすると言います。

 心理学実験の典型的な被験者は、北米かヨーロッパの大学生たちです。彼らは、世界で最も人種差別的傾向の少ない人たちだと言えます。匿名性が十分に保障されている調査であれ、反人種差別であることにこだわるようです。実際、この集団にとって、人種はタブーです。人種は、タブーの二つの基準を満たしているとブルームは言います。わいせつ性と喜劇性です。この二つの点によって、人種は、排泄物や性交と同じカテゴリーに分類されているそうです。

 幼い子どもたちは、人種をタブーと考えないと言われています。「だーれだ?」という、ひと頃はやったゲームに着想を得た研究で、研究者たちは、8歳から11歳の、白人の子どもが大多数を占める集団に、40枚の顔写真を、縦4列横10列に並べて見せます。研究者は、その中の1枚の写真を指さし、「その写真までできるだけ少ない回数でたどり着けるように、「はい」か「いいえ」で答えられる質問を考えてください」と子どもに指示します。写真すべて白人の顔だったときは、10歳と11歳のほうが、8歳と9歳の子どもに比べて成績が良かったそうです。これは意外でもありません。

 ところが、白人の写真と黒人の写真が混ざっていた場合、年上の子どもたちのほうが、成績が悪かったそうです。それは、「その人物は白人ですか?」といった質問を避けたからだそうです。その子たちは、人種を口にすることさえ心理的に負担になる発達段階に達していたというのです。実際、社会心理学者によれば、偏見を持たないと公言している白人被験者の多くは、黒人とやり取りをする際、人種差別主義者に見られはしまいかと、強い不安を感じていると言われています。

 さらに興味深い心理学の発見があるそうです。世界で最も人種差別傾向の少ない人たちにさえ、無意識の人種的バイアスがあるというのです。コンピューターの画面に、意識的に知覚できないほど短時間、黒人の顔を映し出すと、白人被験者の間に、攻撃的な考えが誘発される傾向が見られたそうです。たとえば、「HA_E」の空欄を「HETE」(憎む)として完成させる人が増えたそうです。黒人男性の顔は、恐れ、怒り、脅威と結びついている脳の領域、扁桃体を活性化させます。潜在連合テストでは、ほとんどの被験者が、白人の顔と「喜び」などのポジティブな単語、黒人の顔と「おそろしい」などのネガティブな単語を、その逆の組み合わせよりも短時間で結びつけたのです。

 これらの研究は、大衆向けのメディアで大々的に取り上げられたそうです。ときには、隠れた人種差別主義者を暴き出す方法であるかのように描かれているそうです。