共感による復讐

 公共財のように、払わなくても特に排除されないサービスについて、それを受けるための対価を支払わないで、その恩恵だけを受けようとする経済用語としてフリーライダーという言葉があります。これらの人に対して特別な排除がされませんが、世界中の人がフリーライダーを罰しようとしますが、では、罰を受ける側の反応はというと、その人がどの社会の成員かによって異なることがわかっているそうです。スイス、オーストラリアなどの国のフリーラーダーは、罰されると、態度を改め、きちんとお金を出すようになると言われています。しかし、ギリシアやサウジアラビアといった特定の国々では、ただ乗りを罰された人々は恥じるどころか、腹を立てて、仕返しをしようとすると言われています。いかにも罰を実行しそうな人物を探し出して、報復します。いわゆる「反社会的罰」だとブルームは言います。

 予想通り、この反応は事態をいっそう救いのないものにします。ゲームは完全に収拾がつかなくなります。よって、第三者による罰は、ただ乗り問題への解決策として進化したのではないかと考えられています。ブルームは、第三者の罰の心理は、相手の罪状を明らかにした上で、復讐を果たす心理と本質的な違いはないと考えているようです。私たちは、自分や、自分が愛する人に危害を加える者に復習する傾向を進化させたと言います。それは、将来的にこうした行為を牽制できるからだというのです。その感情を、自分に直接関係のないケースに当てはめるとき、私たちは共感を働かせているというのです。被害者の身に我が身を置き換え、あたかも自分が傷つけられたかのように反応します。よって、第三者による罰とは、復讐心に共感をプラスしたものだと考えているのです。

 これらの行為は、共感力を持った人類ならではのことになるのですね。忠臣蔵を見て、すかっとするのも、共感力による感情なのでしょう。アダム・スミスも似たようなことを言っているようです。「他者に抑圧され、傷つけられている人を見るとき、私たちが被害者の苦痛に対して抱く同情は、犯罪者に対する彼の憎悪との一体感を促すのに役立つだけだ。私たちは、時が巡って、その人が敵に仕返しするのを見て喜び、その人の力になりたいと願い、その準備をする」

 しかし、被害者の憎悪と受け取れるものが、罰に不可欠な動機と考える点で、スミスの意見は少々的外れではないかとブルームは言います。確かに、子猫をいたぶるものは罰されるべきです。しかし、それは、子猫が復習を欲している、と思うからではないのです。重要なのは、「犠牲者が何を欲しているのか?」ではなく、「私、もしくは私の大切な誰かが、犠牲者の立場だったら、私が何を欲するか?」ではないだろうかとブルームは考えています。

 第三者による罰への欲求は、共感に依拠しています。確かに、別への四級は、五世者と自分、もしくは犠牲者に危害を加える人物と自分の関係によって変化します。人間は、自然に共感が湧き上がる相手に危害が加える人物を罰したいと思います。共感が、危害を加える側と結びついている場合は、罰への意欲はそれほどでもありません。その例として、ブルームはこんな時を出しています。アメリカ海軍兵が、オサマ・ビンラディンを殺害したという報道を聞いて、兵士たちは罰されるべきだと感じたアメリカ人は、ほとんどいなかったのです。

利他的罰

利他的罰への欲求は、本当に、本能が進化したものなのでしょうか?この疑問には、一つの問題があるとブルームは考えています。それは、こうした行動が自然選択を通じてどう進化したかを説明するのは、極めて困難であるということだと言います。フリーライダーが、罰のおかげで協力するようになり、社会の歯車がうまく回るようになるとしても、誰かが罰を与えなくてはならないからです。そして、実験のゲームの場合と同様、代償を伴うのであれば、フリーライダー問題は、無限に繰り返されることになるのです。悪事を目撃したとき、陰に隠れて、他者の利他的罰の恩恵にあずかるのを思いとどまるということを果たしてできるのであろうかとブルームは問題提起をします。

 フリーライダーという言葉を聞いて、私はいつもドイツでの交通機関利用について考えてしまいます。ドイツでは、地下鉄や市電に乗るときに、改札口とか、車掌によりチケットの点検はありません。自分で刻印を押すだけです。すなわち、ただ乗りをしようと思えば、いくらでもすることができるのです。いわゆる、フリーライダーになるのです。しかし、こう言われます。もし、万が一での検札に会って、それがばれると、多大な罰金を払う羽目になると言うことを聞きます。すなわち、多大な罰を受けるわけです。しかし、十何回もドイツに行っていますが、まだ一度も会ったことがありません。ですから、みんなは、本当にチケットを買っているのだろうかと疑ってしまいます。しかし、この罰よりも、いやそれ以上に危惧するのが、自分自身の品位が落ちることです。捕まった時の自分の惨めな姿を想像するからです。これも、精神的な罰なのかもしれません。

 話はそれましたが、ブルームは、フリーライダーを罰するとき、フリーライダーにならずにいられるだろうか?仮にフリーライダーを罰することを逃れる人を罰することに意欲的だとしても、フリーライダーを罰することを逃れる人を罰することを逃れる人を罰することにも意欲的だろうか?こんな疑問がわいてくるようです。

 利他的罰は、ある種の群選択、それは、こうした処罰者がいる集団のほうが、いない集団より繁栄するということを通して、人間は進化してきたのかもしれないとブルームは言います。もしくは、処罰者は、第三者から好意を持たれ、関わろうとされるために、反映するのかもしれないと考えます。しかし、利他的罰を好む進化的性向などといったものは、そもそも最初から存在しないのではないかとも思ったりしています。この考えを裏付けるのが、近年行なわれた社会学や文化人類学の文献の見直しだそうです。哲学者のフランチェスコ・グアラは、利他的罰が、現実の小規模社会ではほとんど行なわれていないか、まったく行なわれていないことに気がついたそうです。

 フリーライダーをはじめ、悪事を働くのを懲らしめる方法は、直接的であれ間接的であれ、いくらでもあると言います。しかし、こうした現実の罰は、多くの場合、ゴシップのように顔を付き合わせなくて済むものだったり、集団が一丸となって行なうものだったりと、処罰者の負担にならない方法で行なわれる傾向があり、そのため、誰かひとりが損をすることはないのです。

なぜ、分担してきたか?

 公共財ゲームを実験室で行なってみたところ、被験者たちは、最初は礼儀正しく振る舞うのですが、そのうち誘惑に負けて、余計に儲けようとお金を出さなくなるものが必ず現われたそうです。そうと知ると、他の人たちもお金を出すのを止めてしまいます。離脱するものが増えると、お金を出し続けるのがばからしく思えてくるようです。かたくなにお金を出し続ける人もいるかもしれませんが、次第ににっちもさっちもいかなくなります。これが、ブルームのルームメイトのみに起きたことだと言います。ついに、彼らは、ホッブス流の万人の万人に対する闘争状態に陥り、むさ苦しいアパートで、惨めに日々を過ごしたとのことです。

 この話はぞっとするとブルームは言います。しかし、人類は、歴史の過程で、離脱とただ乗りの誘惑をどうにか乗り越えることをしてきました。そうでなければ、戦争、大型動物の狩り、子どもの養育の分担などを実践できたはずはないと言うのです。

 そこで、ブルームは、もう一度「罰」について考えています。政府が、脱税者を罰するのを止めれば、今以上に多くの人が税金をごまかすようになります。兵役拒否が違法でなくなれば、兵役を逃れる人が増えます。罰金や懲役という脅しが、ただ乗りの防止に役立っているのです。しかし、進化学的観点からすれば、国の制裁に訴えてもはじまりません。人類は、政府や警察が誕生する遙か昔から協力的な集団を形成していたのだからだと彼は言います。しかし、フリーライダー問題の解決の糸口にはなると考えています。互いを罰することに意欲的なのは個人なのです。そして罰と、罰に対するおそれが、よりよい行動を促しているのです。

 この考えをエルンスト・フェールとシモン・ゲヒターは、修正した公共ゲームを使って追求しました。通常のバージョンと同じく、参加者は、他の全員が何をしたかを知ることができます。しかし、今回は、参加者は自分のお金を使って、他の参加者からお金を奪うこともできます。具体的に言うと、前回誰かがお金を出さなかったことに気づいた人は、次の回でお金を払えば、ずるをした者の所持金を減らすことができます。これは、一種の第三者による罰です。

 肝心なのは、この罰が利他的である点であると言います。罰を与えることを選んだ参加者は、良い結果をもたらすために、何かをあきらめなくてはならないと承知しています。というのも、罰される参加者から取り上げられたお金は、ただ消えてしまったからです。お金はどの参加者のものにもならなかったのです。さらに、処罰者は、罰された人とそれ以降ゲームを続けないので、罰された人が行いを改めたとしても、処罰者が個人的に得るものは何もなかったのです。

 それでも、80%の参加者が、少なくとも一度は罰を与えたのです。そして、多くの場合、平均を下回る額しか出さなかった人たちに向けられたこの罰は、離脱問題を解決しました。ほぼ全員が、ただちにお金を出すようになったのです。このような罰が協力を実現させるのだと言うのです。

 ここで、ブルームは、このような利他的罰への欲求は、本当に、本能が進化したものであろうか?という疑問を持ちます。

公共財ゲーム

罰への衝動を調べることのできる「公共財ゲーム」と呼ばれるものがあります。このゲームでは、「より大きな善」のために人がどのくらい犠牲を払うかを調べられるそうです。ゲームに参加するのは4人で、互いの情報は何もありません。最初に参加者はそれぞれ20ドルを受け取ります。ゲームは何回か連続して行われます。各回のはじめに、参加者はお金を中央に起きます。このお金は2倍に増やされ、参加者に均等に分配されます。各回ごとに、参加者は自分の所持金が現在いくらで、他の参加者が何をしたかを報告されます。すると、次のような展開が考えられます。一つ目は、誰も中央にお金を置かない場合です。それは、全員が所持金の20ドルを取っておくというものです。二つ目は、全員が所持金を全額出す場合です。すると掛け金の80ドルは2倍に増やされ、それを4等分に分配されるので、一人当たり40ドルずつ手に入れることができます。

三つ目は、一人の人はお金を出さないでのですが、他の3人はお金を中央に起きます。すると、掛け金の60ドルは120ドルになります。それを4等分するので、一人当たり30ドルになりますが、最初に出さなかった人は、50ドルになります。四つ目の方法は、一人だけがお金を出しますが、他の3人は出しません。すると、掛け金の20ドルは40ドルになり、それを4等分するので、1人当たり10ドルずつ分配します。すると、最初に出した人だけが10ドルで、他の人の手元には30ドルになります。

こうして見てくると、全体として最善の策は、二つ目の方法である全員がお金を出すというものです。これを何回か繰り返すわけですから、全員が毎回2倍に増えていくことになります。しかし、3番目の方法である、お金を出さなければ、その人はもっと利益が得られることになります。例えば、他の3人がお金を出せば所持金は50ドルになりますし、もしほかの人がお金を出さなくても20ドルはあるわけですから損はしません。

この計算は、そっくりそのまま日常の状況にあてはめられると言います。つまり、不愉快で、時間のかかる活動に携われば、全員の利益につながりますが、利己的な人間は、ふんぞり返って、自分は代償を払わずにうまい汁を吸います。たとえば、私は、国民が税金を納めて、それによって、自分が、道路や消防署、警察などの恩恵に預かれる社会を望みます。しかし、利己的に考えれば、最も好ましいのは、自分以外の全員が税金を納める社会ということになります。同じ理屈が、リサイクル、選挙の投票、町内会のパーティの企画、兵役などにも当てはまるとブルームは言います。

彼は、大学時代のルームメイトが置かれた同じような状況を思い出しています。彼らは、家の掃除について、次のような選択を迫られていました。一つ目の選択は、誰も何もしないという選択です。アパートは汚れますが、誰も何もしなくてもいいです。彼らは、全員ちょっぴり不幸です。二つ目の選択は、みんなで掃除をするです。アパートは清潔です。彼らは、全員が少しずつ分担して作業します。全体としてみれば、これが最良の方法に見えます。三つ目の選択は、私は何もしません。そして、他の全員が掃除をします。私にとって最良の解決策です。私は清潔なアパートに住んで、何もしません。四つ目の選択は、私が掃除をしますが、他の人は何もしない場合です。清潔なアパートには住めますが、他の人たちよりずっとたくさん働かなくてはならないので、私はみじめです。

こんな状況は、人類の進化の中で何度も起きてきたことでしょう。その時に、どんな選択をしてきたのでしょうか?

復讐劇

 ブルームは、復讐についてある見解を持っているようです。彼は、このように考えています。現代の西欧社会では、当事者による復讐は、いわゆる「名誉の文化」の世界の中でほど大きな役割を果たしてはいないと言います。名誉の文化に生きる人々は、外部の権威に賞罰の執行を委ねることができませんので、自分自身や大切な人を各自の責任で守らなくてはなりません。こういった社会では、荒くれ者という評判がものをいいます。あなたを攻撃しよう、つけ入ろうとする輩をけん制できるからです。名誉の文化では、無礼な行為を非難し、復讐を許容する傾向が強いという心理学の知見は、この説を裏付けていると言います。

 心理学者のスティーブン・ピンカーは、歴史を通じて暴力が減少傾向にある原因の一つに、こうした文化の衰退を挙げているそうです。世界の多くの地域で、個人的な報復に対する欲望を抑制できるようになったと言われています。当事者の報復は、第三者の罰にほぼ取って代わられ、政府によって執行されます。ブルームもこんな経験をしたそうです。数か月前、自分の車の窓ガラスが割られ、持ち物を盗まれた時は、頭にカッと血がのぼったそうですが、実際には、警察の調書と有能な保険会社に任せて正解だったそうです。自分で直接復讐するよりも、警察が代わりに対処してくれるし、そのほうが犠牲者も少なくて済むと思ったそうです。

 それでも、ほとんどの人の心の中に、復讐への欲望はいくらか残っているとブルームは考えています。悪意に満ちたゴシップや怒りのメールといった、法の手の及ばない、様々な形のやり取りがあります。そして、私たちは、報復を求める性向、自分に無礼を働いた相手を対応に懲らしめてやりたいという衝動から恩恵を得てもいると言います。手荒な復讐を実行する度胸はなくても、想像の世界では体験して喜びに浸ると言います。これらの復讐劇を、ブルームも紹介しています。「ハムレット」「イーリアス」といった古典から、「目には目を」「死の願望」といったB級映画、「リベンジ」という、まさにそのままのタイトルがついたテレビドラマまで、フィクションに繰り返し登場すると言っています。

 個人的に被害を受けたわけではない第三者の罰は、復讐と同じではありませんし、復讐ほど説明は簡単ではありませんが、人間に、第三者の罰に対する欲望があるのは確かだとブルームは言います。この例も、最近の事件にも多く見られ、いくつか紹介しています。日本でも、ある犯罪を犯した人に対して、ネットで皆が非難するというのもよく聞きます。具体的にも、義憤に駆られ、見ず知らずの他人を脅迫したり、つけ回したり、石などを投げつけたりすることも聞くことがあります。

 この罰への衝動を調べることのできる、行動経済学者が考えたもう一つのゲームがあるそうです。それが、「公共財ゲーム」と呼ばれるものです。このゲームでは、「より大きな善」のために人がどのくらい犠牲を払うかを調べられるそうです。「公共財ゲーム」には、いくつかのバリエーションがあるようですが、ブルームは、その一つを紹介しています。ゲームに参加するのは4人で、互いの情報は何もありません。最初に参加者はそれぞれ20ドルを受け取ります。ゲームは何回か連続して行われます。各回のはじめに、参加者はお金を中央に起きます。このお金は2倍に増やされ、参加者に均等に分配されます。各回ごとに、参加者は自分の所持金が現在いくらで、他の参加者が何をしたかを報告されます。すると、その後、どのように展開されていくのでしょうか?

負の公平

 何か得になるものを与える時の公平性だけでなく、ヒトは、負の状況においても公平性を示すようです。ブルームは、「公平性は、プラスの何かを分配する最善策を決定するだけではない。私たちは、マイナスをどう分配するかも決めなくてはならない。」と言います。確かに、子どもたちは何か悪いことをしたときに、友達も一緒にそれをしたのに、自分だけ怒られるとしたら、それはおかしいと思うでしょう。忠臣蔵の中で、浅野だけが罰せられたときに、「喧嘩両成敗」ということが叫ばれました。そうでないと、公平ではないということです。

そこで、ブルームは、罰と復讐という、道徳の暗い側面に目を向けています。彼は、人間が常に互いに親切であったなら、罰の問題が生じるはずがないといます。「われわれは、堕ちた天使ではなく、進化したサルである」というバート・バードレイの言葉を引用しています。人間の中には、出来心で嘘をついたり、人を殺したり、利己的な衝動に負けてしまったりする人がいます。彼らに混じって、残りの人間が生き延びるには、これらの悪行に高い代償を課する必要があるとブルームは言います。実際、哲学者のジェシー・プリンツら一部の学者の中には、道徳にとって、激しい憤りは、共感や思いやりのような甘っちょろい感情より重要だという人もいるそうです。

まず、ブルームは「復讐」について考察しています。日本でも、昔から復讐劇が繰り返され、様々な小説や映画の題材にも取り上げられます。海外の映画の中に、復讐についての衝撃的な映画がいくつも上映されています。復讐は、自分に個人的に不当な仕打ちをしたか、自分の家族や友人に危害を加えた人物に直接向けられる。個人的な形の罰であるとブルームは言います。復讐には、いくつか際立った特徴があると言います。アダム・スミスは、愛する人を殺した人間に対し、私たちが抱く感情を次のように説明しているそうです。「怒りは私たちを駆り立てる。彼が罰せられるべきであるというだけでなく、私たちの方法で、それも、彼が私たちに対して為した特定の危害のために罰せられるべきであるという望みへと。そして、犯罪者が、因果がめぐって悲しむだけでなく、私たちが苦しみを受けた、その悪のために悲嘆にくれるのでなくては、恨みが完全に晴らされることはない。」

この復讐の必要条件を理解するには、復讐と地位のつながりを認識する必要があると言います。哲学者のパメラ・ヒエロニミは、「あなたを蹂躙した過去の悪事。それは、詫び、償い、報復、罰、賠償、非難、もしくは、それが間違いであることを認める他の何かがないかぎり、あなたの歴史に立ちふさがって訴える。あなたは、こんな風に扱われてかまわない、こんな扱いが許される存在なのだ、と。」と言っています。

被害者の立場の回復、これが、詫びの目的のひとつであると言います。ブルームは、こう言います。あなたが私を張り倒しても何も言わなければ、私の尊厳を踏みにじっていることになると。単純な「ごめんなさい」が奇跡を呼ぶと言います。われは、あなたは、私をひとりの人間として見なして敬意を示しているのだからというのです。あなたは私に、そしておそらく第三者に対して、理由もなく私に危害を加えることは許されないと認めていることになるからです。では、何も言わないということはどういうことになるのでしょうか?

意地悪な本性

 子どもは、見ず知らずの子が、自分より多くを手に入れるくらいなら、何も貰わない方がましと考えるという結果に対して、子どもたちは意地悪な選択をするというのですが、その意地悪さは、決して悪意を持っているという意味ではなく、私からすると、子どもは、信頼とか、仲間であるということを重視する特性を持っているということではないかと考えます。私の園で、職員が手にけがをしたときに、どのように思いやるかという調査をしたことがありました。すると、すべての子どもたちは、その怪我に対してそこに触れないような配慮をすることがわかりました。しかし、0歳児だけは、いつも面倒を見てもらっている担任に対してだけそのような配慮をすることがわかったのです。

 ブルームは、さらに子どもたちの意地悪な本性を裏付ける証拠であるという研究を紹介しています。それは、彼が、カレン・ウォン・イエール大学大学院生のマーク・シェスキンと協同で行った一連の調査です。5歳から10歳の子どもたちに、今後知り合う予定のない子と、後でおもちゃと交換できるトークンをどう分け合うかについて、様々な選択肢を提示します。たとえば、どちらの子も1枚ずつトークンをもらう場合と、どちらの子も2枚ずつもらう場合では、どちらを選択するかというものです。至極もっともなことに、このような選択を提示された場合、多くの子どもが後者を選んだそうです。自分も相手の子も、より多くのトークンをもらえる選択をしたのです。

 しかし、ブルームらは、社会的比較が重要であることを発見したと言います。自分と相手が、どちらも1枚ずつトークンをもらえる場合と、自分が2枚で相手が3枚もらえる場合では、子どもたちの選択はどうしたかという調査では、自分も相手もより多くのトークンをもらえる、つまり、よりよくばりで、なおかつ、より気前の良い選択であれば、当然、後者の方を選択するはずです。そのほうが自分は2枚もらえるのですから。しかし、11ではなく、23という後者を選べば、自分がもらうトークンは、相手より相対的に少なくなります。すると、多くの子が、自分が相対的に損しないように、1枚余計にトークンをもらうのをやめて、11を選んだそうです。この結果に対して、ブルームは、相手の方が多くもらうのは、面白くないので、そのような意地悪な選択をしたと言います。

 また、二人とも2枚もらえる場合と、自分が1枚で相手が何ももらえない場合では、どちらを選択するかを調査してみました。その時、22は、どちらにとっても絶対的により良い選択肢ですが、10の利点は、選択する子が、相手の子より相対的に多くもらえるという点にあります。そのときに、年齢が高い子たちは、22を好んだのですが、5歳児と6歳児は10の選択肢を好んだという結果が得られたそうです。代償を払っても、相対的に得する方を選んだのです。

 この結果は面白いですね。この行為は、何を表わしているのでしょうか?ブルームは、この子どもたちの反応から、ユダヤ人の間に伝わる中世の民話を思い出しています。それは、ねたみの深い男のもとに天使が現れて、「望みのものを何でも授けよう」と言います。ただし、「男の隣人にはその2倍を授ける」と言います。男はちょっと考えてから、こう頼みました。「目玉を片方引っこ抜いてください」と言ったという話です。

不公平に敏感

35歳児の子どもたちが、5分間積み木遊びをした後で、積み木を片付け、そのご褒美として、ステッカーをサリーには合計2枚、メアリーには4枚あげたときに、7秒後、子どもたちに分配が公平だったかどうかを尋ねてみます。すると、サリーの立場に置かれた子どもたちは、たいてい、公平ではなかったと答えたそうです。浮かない顔つきをして、多くの子がもっとちょうだいとせがんだのでした。一方、メアリーの立場の子どもたちは、質問されれば、ほとんどの子が分配は不公平だったと認めたのですが、この不公平さにサリーのように反応はしなかったそうです。彼らは、もらえなかった子の不満を聞いた後で、ステッカーを1枚手渡すものだったそうです。

ただし、そんな子どもは10人中1人にも満たなかったそうですが。それは、この子どもたちは、見ず知らずの誰かとやり取りしたのではありません。同級生同士、多くは友達とペアを組んでいたのです。この結果に、私は非常に興味を持ちました。特に、自分に少なく不公平された子たちは、もっとちょうだいとせがんだことです。それに引き換え、自分が多く不公平だった子たちは、不公平であることを認めたうえで、数は少ないとはいえ、少なくもらった子の不満に耳を傾けたということです。それは、相手が同級生ゆえに、不公平に対する不満に共感していることになるからです。

つまり、子どもたちは不公平には敏感ですが、心をかき乱されるのは、自分の取り分が他の子より少ない場合だけのことらしいようです。子どもたちはこの点で、猿やチンパンジー、イヌに似ているとブルームは言います。こうした動物はみな、自分のご褒美が他の個体よりも少ないと気を悪くした様子を示すそうです。例えば、2匹のイヌをペアにした研究で、イヌたちに芸当をさせ、片方に好物を、もう片方にはそれほど好きでないものを与えるとします。すると、ぱっとしないご褒美をもらったイヌは、腹を立て、褒美に口をつけないことがあるそうです。だからと言って、相手の気持ちに共感することはないと私は思うのです。そこが、私はブルームの見解と少し違っています。

また、子どもたちはときに意地悪な選択をすることもあるようです。心理学者のピーター・ブレイクとキャサリン・マコーリフは、4歳から8歳の子どもを対象に、ある調査を行いました。研究者は、初対面の子どもたちにペアを組ませ、飴の載った2枚のトレーが出てくる特殊な装置の前に座らせます。一人の子がレバーを操作して、2枚のトレーの中身をそれぞれ自分に近い側のトレーに載った飴をもらえます。それとも、トレーの中身を両方とも捨てるかの選択をさせます。その場合は、二人とも飴はもらえません。

どちらのトレーにも同じ数の飴が載っているとき、子どもたちは、まず中身を捨てたりはしません。分配が自分に有利な時も同様でした。たとえば、自分のトレーに飴が4個、相手の子のトレーに飴が1個のような場合です。しかし、分配が逆になって、相手の子に有利だと、どの年齢の子も、かなりの確率でトレーの中身を両方とも捨てる選択をしたそうです。子どもは、見ず知らずの子が、自分より多くを手に入れるくらいなら、何も貰わない方がましと考えるようなのです。

これは、なにも意地悪な選択ではないような気がします。さらに調査は続きます。

 

子どもにおける公平性

経済学者のエルンスト・フェールらは、3歳から8歳までのスイス人の子どもたちに、お金ではなく、飴を使い、経済ゲームでどう振る舞うかを調査してみました。まず、どの子にも飴を二つ与え、「一つは取っておいて、もう一つを誰かにあげるか、両方とも取っておくか、どっちにする?」と尋ねてみました。この条件では、7歳児と8歳児は気前がよく、およそ半数の子が飴を分けたのです。34歳児ではわずか10%に留まったそうです。幼児に見られる利己性は、近年、アメリカ、ヨーロッパ、中国、ベルギー、ブラジル、フィージーなどの国々でも行なわれた独裁者ゲームの調査と一致するそうです。これらの調査でも、幼い子どもたちは、もっと年齢の高い子どもや大人に比べて、自分の持ち分を、赤の他人に分けることにはるかに消極的だったのです。

幼い子どもは、自分の利害が関わると、平等などどうでもよくなるらしいと結論する人もいるだろうとブルームは言います。しかし、それは公平ではないだろうと彼は言います。おそらくごく幼い子どもたちにも、年齢の上の子どもたちと同じ、平等、親切、公平の衝動はあるとブルームは考えています。しかし、自制心があまり強くないため、年齢の上の子と違って利己心を克服できず、食欲が利他心を圧倒してしまうと言うのです。

この説を検証するために、フェールらは、利他性と自制心の葛藤を回避する「向社会性ゲーム」という別のゲームを考えたのです。このゲームは、子どもたちは無条件に飴をもらえます。選択はやはり、他の子にも飴をあげるかどうかです。この場合、子どもたちは代償を払わず、利他的になれます。

7歳児と8歳児の行動は、予想通りだったそうです。約80%が飴をあげたのです。ところが、それより幼い子どもたちでは、飴をあげたのは約半数に留まったそうです。つまり、比較的幼い年齢の子どもたちのうち、約半数は、失うものが何もなくても、見ず知らずの相手には飴をあげないという選択をしたのです。

その子本人に利害が及ぶ、公平な分配と不公平な分配への子どもの情動反応を調査した研究もあるそうです。心理学者のヴァネッサ・オブらは、保育園に通う35歳児を調査しました。今回の実験では、親密な関係にある子どもたちを対象にしました。すなわち、これまでの研究と違って、子どもたちに見ず知らずの誰かとやり取りをしてもらうのではなく、同じクラスの子どもたちを二人一組にしたのです。

子どもたちは、静かな部屋で5分間積み木遊びをした後で、積み木を片付けます。そこに実験者が入ってきて、部屋を片付けるのを手伝ってくれたご褒美にステッカーをあげようと言います。実験者は、二人の子どもにすっかり見えるようにして、ステッカーを1枚ずつ合計しながら手渡していきます。「メアリー1枚、サリー1枚、メアリー2枚、サリー2枚、メアリー3枚、メアリー4枚」というわけで、サリーのステッカーの合計は2枚、メアリーのステッカーは4枚となります。ここで実験者は7秒間、間を置きます。何もせず、アイコンタクトも避けます。その間の子どもたちの自発的な反応をビデオで撮影します。その後で子どもたちに分配が公平だったかどうかを尋ねてみます。

どんな反応が見られたのでしょうか?

子どもでは?

 電車に乗るときに、優先席に座るかどうかを考えるときがあります。いちばんいいのは、空いていれば座っていて、例えばお年寄りが来たらその席を譲るのがいいのでしょう。そうでないと、その席に席を譲ろうとしない若者が座ってしまうかもしれないからです。確実に席を譲ろうとしたら、自分で席を確保しておいてほうがいいというのがわかっていても、優先席に座るのをためらうことがあります。いくら空いていても、立っていることが多い気がします。人間は、頭ではわかっていても、そのように行動をしないということを経験しています。

 ブルームは、次に経済学者のジョン・リストが行なった実験を紹介しています。この実験では、最初に独裁者に10ドル、受取人に5ドルを渡します。通常の実験のように、独裁者は、自分のお金から希望する金額を相手に譲ることができます。この単純な条件では、譲った金額の平均は1ドル33セントだったそうです。

 実験の2番目のグループの被験者には、自分の希望する額を譲ることができますが、相手から1ドル奪うこともできると伝えます。この場合、譲った金額の平均は、33セントに減ったそうです。第3のグループには、希望する額を譲れますが、相手からも希望するだけの金額を、つまり最大で5ドル丸々奪えると伝えます。すると、独裁者たちは、平均2ドル48セント奪ったそうです。そしてお金を譲るものはほとんどいなくなったそうです。

 何という奇妙な現象であるとブルームは言います。独裁者ゲームの与えるという行為を、富から分かち合いたいという衝動の反映だとする従来の説明が正しいのなら、奪うという選択肢が加わっても影響はないはずです。しかし、与える行為が、よく思われたいという欲望に動機付けられているとすると、奪うという選択肢を加えると変化が生じます。なぜなら、可能性として最悪の選択は、何も与えないから、「他人のお金を全部奪う」になるからです。

 被験者は、こう考えているかもしれないとブルームは言います。「本当のろくでなしは、相手にビタ1文残さない人間のことだ。人でなしと思われるのはごめんだから、ちょっぴり頂戴するだけにしよう」この二つの研究を総合すると、独裁者ゲームでの振る舞いは、利他的で平等主義的な動機とはほとんど関係なく、むしろ利他的で平等主義的に見えることと大いに関係する要因に影響されているとわかると言います。

 子どもは、経済ゲームでどう振る舞うでしょうか?これにいちばん早く取り組んだのが、経済学者のエルンスト・フェールらでした。彼らが対象にしたのは、3歳から8歳までのスイス人の子どもたちで、お金ではなく、飴を使ったそうです。そして、こんな実験をしてみました。子どもたちにあらかじめ、あなたたちの決定が、同じ保育園の子に影響しますと伝えておきます。

 ゲームの一つは、独裁者ゲームを変形したものでした。どの子にも飴を二つ与えます。そして、「一つは取っておいて、もう一つを誰かにあげるか、両方とも取っておくか、どっちにする?」と尋ねてみました。この条件では、7歳児と8歳児は気前が良く、およそ半数の子が飴を分けたのです。34歳児ではわずか10%に留まったそうです。どういうことでしょう?