実行機能の訓練

 脳科学の研究によって、今日では、未就学児がマシュマロを二個手に入れるために、なんとか待とうとするときには、脳の前帯状皮質や外側前頭前野がしっかり活性化する必要があることが明らかになっているようです。これらの領域は、未就学児が情動的なホットシステムの衝動性をコントロールするのに必要な、クールな認知システムの要であるとミシェルは言います。彼が、観察窓から子どもたちを見つめていたのは、fMRIの画像が使えるようになる何十年も前のことで、サプライズ・ルームでご馳走を目の前にして座っている子どもたちの脳内で何が起こっているかなど、当時は想像の糸口さえつかめなかったと振り返っています。その後、実行機能を直接訓練すれば、自制心が向上するだけでなく、それに呼応する脳の神経機能の変化も起こることが、適切な対照条件を使う実験室での介入によって明らかになってきたのです。

 2005年、マイケル・ポズナーが率いる研究チームが、未就学児がホットシステムを「冷却」するのを可能にする認知的スキルや、注意コントロールスキルに、訓練と遺伝的特徴が相まってどのような影響を及ぼすのかを示す実験を行なったそうです。ポズナーらは、4歳から6歳の子どもたちに、五日にわたって140分の注意訓練を受けさせました。この訓練で子どもたちは、注意コントロール能力、とくに、目標を念頭に起き続け、妨げとなる衝動を抑制しながら、その目標の追求に注意を向ける能力のさまざまな側面を引き出して向上させるようにデザインされた種々のコンピューター・ゲームをしました。例えばあるゲームは、ジョイスティックを使って画面のネコのキャラクターを動かすものだったそうです。そのネコを、ぬかるみを避けながら草地へ移動させなければならないというものです。ぬかるみが大きくなる一方で、草地は次第に狭くなっていくので、課題は段々と難しくなるというものです。

 ポズナーらが答えを出そうとしていた疑問は、このような訓練の経験が、のちに行なう別の標準的な注意コントロールのテストで、子どもたちの得点に影響を与えるかどうか、だったのです。その結果、子どもたちの注意コントロールの能力は、訓練していない対象群と比べて、大幅に向上していたということがわかったそうです。訓練が単純で短期間だったことを考えれば、期待が持てる結果であるとミシェルは考えています。そして、彼がいちばん意外だと思ったのは、この短期間の訓練でさえ、知能の非言語的な面での測定の得点を上げるのに役に立ったということだったそうです。

 ポズナーのチームは、さらに、ネガティブな情動を「冷却」してコントロールしたり、多動性を改善したりする子どもの能力に影響を及ぼす特別な遺伝子が、注意力と自制の能力にも影響を与えることを、関連する研究で発見したそうです。とくにDATI遺伝子は、ADHDや双極性障害(躁鬱病)、臨床的鬱、アルコール依存症を含む、ドーパミンが関係する様々な機能障害に関与していることを発見したのです。公共政策にとっての朗報は、遺伝的な脆弱性を持った人々でさえ、介入、それもとくに、成長期に優れた教育や子育てのテクニックを通しての介入をすれば、注意のコントロール能力が大幅に向上しうるという発見なのです。生まれと育ちが、たえず影響を及ぼし合っていると言うのです。

脳の可塑性

 ミシェルは、研究成果からこんな結論も導き出しています。「私たちは、自分の社会的な履歴や生物学的な履歴に翻弄される必要はない。自制のスキルは、私たちを自分の持つさまざまな弱点から守ってくれる。その弱点を完全に排除するのは無理だとしても、自制のスキルは私たちが弱点を抱えながらもよりよく機能するための助けとなる。たとえば、拒絶感受性の高い人が自制心も十分に持っていたなら、自分が失うのではないかと恐れている人間関係そのものをもっとうまく守ることができる。」

 自制のスキルは、研究から様々なところで私たちを守ってくれることがわかったようです。生まれつきである弱点をも守ってくれるというのです。それは、「自制には決意以上のものが求められる。意志の力をもっと楽に発達させ、粘り強さ(「根性」と呼ばれることも多い)をそれ自体で報われるものにするためには、戦略と洞察、そして目標と動機づけが必要となる。」

 研究は、研究室だけのものではありません。また、研究者のためのものではありません。実生活の中で、それをどのように活用するか、どのように公共政策に直接関わるのか、そして、最も興味あるところとして、では、日常生活で子どもたちや私たち自身が今ほど苦労せず、より自然に意志の力を発揮できるようになるのかということです。それを、最後にミシェルは説明しています。

 現在、幼稚園教育要領、保育所保育指針の改訂作業が行なわれています。そのヒアリングで、私は、これらの海外における研究結果について、もう少し検討し、反映させていく必要があるのではないかということを述べました。アメリカでは、自制心に関する研究の成果を教育的介入に取り込む方法と、それが公共政策に対して持つ意味合いを考え始めているようです。

 人間の脳の可塑性が科学によって解明されるにつれて、人間の本質についての考え方における静かな変化が、この20年間でじわじわと勢いを増してきているとのミシェルは見ています。意外にも、実行機能を司る前頭前皮質領域には大きな順応性があることがわかったのです。そのメカニズムのおかげで、自分の目標や価値観のために、衝動的でホットな反応を「冷却」して抑えることが可能で、柔軟性に富んだやり方で情動を調整できるのです。

 私たちの人生がどう展開するかにとって、刺激にコントロールされている状況を自制心によって克服する能力にとってはとくに、実行機能が重要であることについては、議論の余地はないとミシェルは言います。ではそれは、公共政策に対してどんな意味合いを持つのだろうかと問いかけています。それは、実行機能のスキルと自制心の潜在力は、本質的にはあらかじめ組み込まれていて、一定不変だと私たちが考えるかどうかにかかっているとミシェルは言います。

 もしあらかじめ組み込まれていて、一定不変なら、介入しても出来ることはほとんどないと考えています。しかし、もし順応性があるのなら、それが公共政策のあり方に及ぼす影響は重大で、人生のなるべく早い時期に、実行機能のスキルの向上を目指す教育的取り組みが求められると言います。この「早い時期」が、「Early Childhood」であると思うのです。

自制の習得

 ウォルター・ミシェルは、「マシュマロ・テスト  成功する子・しない子」というタイトルの本を昨年日本で発行されました。このタイトルを見ると、マシュマロ・テストは、成功する子としない子が、このテストによってどう区別されるのかということが話の内容のような気がします。しかし、実は、この原題を見ると、少しその趣旨が違っています。原題は、「The Marshmallow Test」というのはいいのですが、そのテストの意味は、サブタイトルの「Mastering Self-Control」とあるように、「自制心をどのようにつけるか」ということになります。

そのために、まず、未就学たちがどんな方法を使って自分をコントロールしたのかを明らかにしているのです。そして、大人においても、子どもと同じ方法を使って、人生における満足を先延ばしにできるということを示しました。そして、自制を成功に導く戦略の根底にあるのと同じメカニズムが、打ちひしがれた人々の心の痛みに打ち勝ったり、拒絶されることに敏感な人たちが、人間関係を維持したり、意志が疲弊したときに、その意志を持ち続けるにはどうしたらよいかを検証しました。

そして、自制の習得について重要なことが明らかになり、彼は、その結論をまとめています。

まず、「誘惑に耐え、つらい情動を調整する能力が他の人よりもすぐれている人たちがいる」ということです。ミシェルは、これはとくに驚く結果ではないと言っています。それよりも驚く結果は、「こうした違いが就学前という早い時期から明らかになり、全員ではないにせよ、ほとんどの人で長年変わることがなく、その違いによって、心理的、生物的にどのような結果がもたらされるのかを生涯にわたって十分に予想できることだ。」と言っています。これは、ある意味では、未就学の頃が将来を左右するほど重要であるということを言っています。しかし、それは、生まれつきのもので、仕方ない、どうしようもないと言っているわけではありません。それは、次のミシェルの出した結論から判ります。

「意志の力は生まれ持った特性で、十分に持っているか持っていないかのどちらかだ。ですから、どうにもならない。というのは従来の考え方で、それは間違っている。それどころか、認知と情動の両面における自制のスキルは、必要なときにそれを自動的に活性化できるように、身につけることも高めることも役立てることも可能だ。これを、人よりもたやすくできる人たちがいる。なぜなら、彼らにとっては情動的にホットな報酬や誘惑はさほどホットではなく、また、そうした誘惑を人より簡単に冷却することもできるからだ。だが、たとえ生まれつき自制するのがどれほど得意あるいは不得意だとしても、私たちは自分の自制のスキルと導くことができるし、子どもたちがそうするのを助けることもできる。加えて言うと、自制のスキルを伸ばすのに失敗することもあるし、たとえそのスキルを十分に持っていても、それを前向きに使うための必要な、目標や価値観や社会的支援を欠いていることもある。」

この結論から考えると、たとえ生まれつき自制するのがどれほど得意あるいは不得意だとしても、子どもたちがそうするのを助けることもできるというのです。ということは、保育の力で、将来に影響する自制心を育むことができるということのようです。

自分に厳しく

 ミシェルは研究の中で三つのシナリオを考えました。「厳しい基準」のシナリオでは、モデルは自分自身に厳しくし、子どもにも同様に厳しくしました。彼女は、自分のスコアが20点という、とても高いときだけチップを取り、「これは良いスコアだわ。これなら、チップを一つもらってもいいわね」とか「このスコアは自慢できるわ。自分にご褒美をあげなくちゃ」というように、自分を褒める言葉を述べました。スコアが20点に満たない場合はいつも、チップをもらうのを控えて、「あまり良いスコアではないわね。これでは、チップはもらえないわ」というような自分への批判を口にしました。彼女は、子どもの成績もまったく同様に扱い、高いスコアの時には褒め、低いスコアの時には批判的でした。

 「モデルに厳しく、子どもに甘い」シナリオでは、モデルは自分自身には厳しいが、子どもには寛大で、子どもには、スコアが低くても自分にご褒美を与えるように仕向けました。「モデルに甘く、子どもに厳しい」シナリオでは、女性は自分自身には寛大で、子どもには最高点の時だけ自分にご褒美を与えさせる厳しい基準を置きました。

 これらの条件下で行なわれた実験のどれかに子どもたちを参加させたあと、チップを自由に取れる状態にして置くという条件は変えずに事後テストを行ない、子ども一人だけでプレイしたときの、自発的な自己報酬の行動をこっそりミシェルは観察しました。自分にも子どもにも厳しかったモデルから学んだ子どもは、最も厳しい基準を採用しました。この条件では、モデルは子どもが最高のスコアの時だけ自分にご褒美を与えるように促し、同じ基準を自分自身にも課しました。モデルが自分に採用した基準と、子どもに強いた基準に一貫性がある場合、基準が厳しく、ご褒美は望ましいものだったにもかかわらずモデルが不在でも子どもたちは一度として逸脱せずに、その基準を採用しました。モデルが絶大な力を持ち、とても望ましいご褒美や報酬を管理していると子どもが思っているときにはとくにこの結果がはっきりと出ることも、この研究から明らかになったそうです。

 自分に甘くするよう促された子どもたちは、モデルが自分自身に厳しかったのを見ていても、事後テストで子どもだけになったとき、自分に甘かったそうです。ゲーム中、自分自身には甘いのに、厳しい自己報酬の基準を押しつけてくるモデルから学んだ子どものグループでは、半数が教えられた厳しい基準を守り続け、残る半数は、モデルが自分自身に採用しているのを見た甘い基準を使ったそうです。

 自分の子どもにも厳しい自己報酬の基準を採用させたいのなら、この基準を採用するように子どもを導くのと同時に、自分の行動でもその基準を手本にするのがいいことが、この研究から窺われるとミシェルは言っています。大人に一貫性がなく、子どもに厳しいのに自分には甘い場合、子どもは押しつけられた基準ではなく、大人が採用していた自己報酬の基準を使う可能性が高いという結果が出たのです。

 この研究も面白いですね。また、保護者に対してや保育において参考になります。子どもに厳しい基準を自ら課すことをさせたいのなら、きつく言うとか、強要させるよりも、自分の行動でもその基準を手本にすることが必要だというのです。自分だけ甘くして、子どもに厳しくても、決して子どもには伝わらないのです。まず、我が身からですね。

社会化の経験

 ミシェルが、この分野で興味を持つようになったのは、彼の娘さんが小学校に入学して早々に、とても自慢の作品を家に持ち帰った時のことだそうです。それがきっかけとなり、幼いころから自分が成し遂げたことに対してどのように価値基準を設けるのか、そしてその基準を満たしたとき、どのように自分にご褒美を与えたり与えなかったりするのかを調べるために、一連の研究に取りかかったのです。

 そして、次のような疑問に取り組むことになったそうです。「こういったかたちの自己報酬や自己制御を導く社会化の経験や、暗黙のルールとは何だろう?」「子どもが意志疲労を起こして、自分はよくやったと喜び、少々自分を甘やかしてご褒美を上げる頃合いだと判断するのはいつだろう?」「もっと厳しい基準を満たすまで粘って、欲求充足を先延ばしにするのは、いつだろう?」「それとも、努力を続けること自体が喜びになるのだろうか?」

 モデルは、私たちがどんな人間になるかに多大な影響を与えるので、私たちが子ども時代から、自分自身を評価したり調整したりするために発達させる価値基準が、モデルによってどう導かれるのか、というようなことをミシェルは研究したくて仕方なかったそうです。大人のモデルの特徴や行動は、幼児が何を習得したり、真似たり、ほかの幼児に広めたりするかに影響を与えます。スタンフォード大学で、ミシェルは学生たちと、マシュマロ実験の研究と同時に、子どもがどうやって自己基準を獲得するのかを調べる実験を開始したそうです。この研究では、モデルの特性や自己報酬の行動に変化を持たせて、大人が部屋を出ていったとき、幼児たちが自分の基準に取り込んだものに大人がどんな影響を与えたかを調べたのです。

 調査は、大学のそばにある地元の複数の小学校から、4年生の少年少女を選び出して行なわれました。個別のセッションで、子どもを一人一人、モデル役となる若い女性に引き合わせ、女性は子どもに「一種のボウリング・ゲーム」を見せます。子どもたちがどれだけそのゲームを気に入るかを、おもちゃ会社が調べているということにして、調査をしたのです。

そのゲームとは、長さ1メートル弱のボウリング・レーンの小型模型で、1投ごとにスコアを示す電光表示板が先端についています。レーンの先のピンが置かれる場所は遮断されていて、プレイヤーにはボールがどのピンに当たったのかが見えないようになっているため、結果を知るには、電光表示されるスコアが頼りでした。このスコアはあらかじめ設定されており、実際の成績とは結びついていませんでしたが、プレイヤーが信じて疑わないようにうまくできていました。すぐ手の届くところには、大きな器があって、チップがたくさん入っており、子どもやモデルの女性が成績に応じて自分へのご褒美として使えるようになっていました。チップは、ゲーム終了時に価値ある賞品と引き換えることができ、多ければ多いほど良い賞品がもらえると子どもたちには伝えます。きれいに包装された賞品が、部屋のよく見えるところに置かれていましたが、それについて説明はしませんでした。

ゲームは、モデル役の女性と子どもが一度に一投ずつ交替でプレイしました。さまざまな子育てのスタイルをシミュレーションするために、モデルが自分の成績に対してどのように自分にご褒美を与えるのか、そしてまた、どうやって子どもに自分の成績を評価させたり、自分にご褒美を与えさせたりするのか、三つの異なるシナリオを考えておきます。どの子どもも、これらの条件のうち一つだけに参加しました。

子育てへの影響

世界では、育児についての考え方が若干違うようです。その中で、ミシェルラの研究によって、少しずつ変わり始めていますが、まだまだ帰ることに抵抗しようとする人たちがいることは、どの国でも同じような状況です。アメリカの上位中流階級の親たちは、子ども中心の生活を送っていると言われており、仕事から急いで家に帰り、子どもに捧げる最高に「充実した時間」を確保し、愛情とご褒美をたっぷり与え、子どもに好きなようにさせているようです。ですから、マクドナルドでハンバーガーが出来てくるまでの数分間さえ待てない子どもに、発作的な金切り声を上げ放題にさせている親の姿もしばしば見かけるそうです。一方、フランス式の育児では、未就学児もしっかり躾けるので、パリの洗練されたレストランに一緒に連れて行くことができ、両親が食前酒を楽しんでいるあいだ、子どもたちは見せかけだけでもおとなしく座り、インゲン豆を添えたステーキがくるのを待っていられるという評判だそうです。

ある中国系アメリカ人の母親は、理想的な子どもを育てる上で禁止すべき事項について、友人宅でのお泊まりやプレイデイトという親同士の合意のもとに約束を取り付けて子どもたちだけで遊ぶこと、テレビ、コンピューター、ゲーム、Aよりも低い成績などからなる、長いリストを用意しました。これは、エイミー・チュアが、2011年に出版された著書「タイガー・マザー」の中で示した、バイオリンかピアノを弾くのに秀で、どの授業でもいちばんになりそうな子どもを育てるための基本原則だそうです。この本については、私は、出版直後の2011220日のブログで取り上げています。

その十数年前、ジュディス・リッチ・ハリスは、同年代の仲間集団による社会化や遺伝子的特徴こそが子どもの人生を形作る二つの重要な要素ですから、親がどうやって育てようとあまり関係ないと主張しています。逸話や個人の意見の範疇を超えるためには、実生活でさまざまな子育ての条件下で起こることを慎重に操作した実験を行なわなければならなくなりますが、そのような研究は不可能であるとミシェルは言います。それでも、子育ての営みに関連した問いを投げかけ、その答えを得ることはできると言います。子どもにとって意味ある現実的な条件の下で、大人を手本とした短期間の実験をすればいいのではないかとミシェルは考えているようです。

最近の見解について、私は同じようなことを考えていて、同じ見解を持っています。最近の私の主張は、ハリスと同じように、「集団による社会化や遺伝子的特徴こそが子どもの人生を形作る二つの重要な要素」というところは同意するのですが、違うところは、「同年代の仲間集団」ではなく、私は「さまざまな年齢からの影響を受ける仲間集団」というところと、「親がどうやって育てようとあまり関係ない」というところです。これについては、少し前のブログではありませんが、「同時に、育つ中での環境の影響が関係してくる」と思っているところです。

もう一つ同意するところは、それも以前のブログでも書きましたが、ミシェルのいう「そのような研究は不可能である」というところです。私もそう思っています。それは、子どもの社会化、集団による影響、それらは、客観視、定量化は出来ないものだと思うからです。しかし、「大人を手本とした短期間の実験」ということがミシェルから提案されていますが、それは、どのような実験なのでしょうか?

 

何もしない喜び

 いつも仕事で忙しい未来志向のアリであるのをやめて、キリギリスのように行動する資格が自分にあると感じるのは、どういうときだろうかという疑問をミシェルは持ちます。自分をリラックスさせ、ホットなシステムを優勢にして、心底好きな「マシュマロ」を自分に与え、返事をしていない電子メールや明日やるべきことのリストなど忘れてしまっていいのは、どういうときだろうかという疑問です。

 何もしない喜び、予定も立てずに海辺で過ごす週末、大都会へのお出かけ、あるいは人生を称えるためにただ家で過ごす休暇といった楽しみを、自分に許す気持ちは何が引き起こすのだろうか?ミシェルは、こう言っています。「地に堕ちてトップ記事を飾るヒーローたちのような愚かな振る舞いをする必要はさらさらないが、どんなときに自制を一時的に中断して、面白いことを今楽しむのを自分に許すべきかを、あるいは、逆にどんなときにこういった喜びを先延ばしにして、将来得られるもっとたくさんの大きな報酬のために、先に進み続けるべきかについて、私たちはみな暗黙のルールを持っているように思える。」と言います。

 保育室内を、子どもたちが何かをやりたいと思うことをやることができるゾーンを作ります。そのゾーンでは、熱中し、遊び込みます。しかし、子どもたちだって、その日によって、その時間によって、何もしたくないときもあります。気分が乗らないときもあります。何も考えず、ただ「ぼーっ」としていたいときだってあります。そんな子を、何もしない子、集中しない子、やる気のない子として決めつけ、追い立てるかのように、何かをやらせようとすることがあります。しかし、やりたくないときだってあるのです。その気持ちが保障できるスペースも保育室には必要な気がしています。

 また、いくら時間が押しても、次の活動の時間になっても面白いことに取り組んでいる子もいます。先日、夜遅く、出かけた帰りに二歳児の孫が少し立ち寄りました。もう遅いから早く帰りなさいと言っても、おもちゃの車に乗ると言ってききません。そんなときに無理矢理にやめさせても、ぐずるだけなので、少し相手をしてあげました。すると、5分もすると、満足して、自分からもうやめると言って、さっさと帰る支度をします。きっと、もう帰る時間であるということは承知していたのでしょう。きっと、自分の中に、暗黙のルールがあるのでしょう。

 私たちは、このようなルールをどうやって作り上げるのだろうか?という疑問をミシェルは持ちます。これらの疑問に対する答えは、子どもの育て方や、自分自身の扱い方に直接影響を与えるとミシェルは考えています。

 今日、アメリカの上位中流階級の親たちは、子ども中心の生活を送っていると言われており、仕事から急いで家に帰り、子どもに捧げる最高に「充実した時間」を確保し、愛情とご褒美をたっぷり与え、子どもに好きなようにさせているようです。マクドナルドでハンバーガーが出来てくるまでの数分間さえ待てない子どもに、発作的な金切り声を上げ放題にさせている親の姿もしばしば見かけるそうです。しかし、子育ての考え方は、ずいぶんと国によって違うようです。それを、ミシェルはどう考えているのでしょうか?

度を超す

スタンフォード大学で、キャロル・ドゥエックとその共同研究者たちは、次のようなことを突き止めたそうです。頭を酷使したあと、活力は自動的に補充されると思っている人たちには、消耗するような経験をしたあとに自制心の低下が見られませんでした。それとは対照的に、骨の折れる経験をしたあとには活力が尽き果てると思っている人たちには、自制心の低下が見られ、エネルギー補給のための休息が必要だったということを突き止めたのです。

さらに、彼らのチームでは、三つの時点にわたって大学生の追跡記録をしてみたそうです。最後の時点は、厳しい自己制御が求められる最終試験の時期でした。意志の力は無尽蔵であるという考え方を暗黙のうちに持っている学生たちは、限られた資源だと思っている人よりも、ストレスの多い試験期間をはるかにうまくこなしたそうです。試験の準備をしようとしているときに、後者のほうが不健康な食べ物を多くとり、やるべきことをぐずぐず遅らせ、うまく調整できないと報告しました。これらの発見を見れば、自分自身や自制能力についてどう考えるかが重要であることは明確であり、目標を追求するために努力する能力は変えることのできない、生物学的に引き起こされるプロセスだという考え方は怪しくなるとミシェルは言います。

これらの結果は、とても面白いものですね。生物学的よりも心の持ち方のほうが優位に作用するということのようです。病に対してもそうでしたが、「気の持ちよう」という研究結果は、人間の奥深さを感じます。

意志の力も度を超すと、それがない場合と同様、墓穴を掘る結果になりうることを理解するには、実験も哲学者もいらないとミシェルは言います。いつも欲求充足を先延ばしにし、たえず働き続け、もっと多くのマシュマロをひたすら待つのが賢明な選択でないときもあると言います。歯止めのきかないインフレや銀行の破綻、果たされることのない将来の支払いの約束が世の中に満ちあふれているとき、いつまでも待っていられるかとベルを鳴らすのには、もっともな客観的理由があると言います。そして、そうすべきだという主観的理由にも同じぐらい説得力があると言います。

度を超して欲求充足を先延ばしにすると、息が詰まり、喜びがすべて後回しになった暮らしからは、面白みもゆとりも消え、楽しい気分転換もなく、さまざまな情動も味わわずじまいで、人生の可能性が閉ざされてしまいます。ミシェルは、私たちはアリでもあり、キリギリスでもあるから、待ち受けているかもしれない未来のために、ホットな情動システムを失い、クールな認知システムに従って生きてばかりいると、その逆の場合と同じぐらい、人生の物語は不満足な物になってしまうとミシェルは言います。

私も、このミシェルの考え方に賛成です。人間としての面白みは、バランスを取ることが大切で、何かがいいと言っても、それだけでは息が詰まってしまいます。「まっ、これでいいか!」ということも必要です。それは、「寛容の心」とも言えますし、「ゆとり」、「遊び心」にも通じます。これは、保育にもとても大切なものだと思っています。規則、規則ではなく、「喜び」、「面白み」、「楽しい気分転換」、そんな余裕を持って、保育に当たりたいものです。子どもたちが、「時には、遊びに夢中になって、少しぐらい食事に行くのが遅くなってもいいじゃないか」と思うこともありますし、そんなときに、注意するだけでなく、たまには一緒になって少し遊んでもいいのではないかと思うときもあります。

意志の疲弊

私たちが発揮できる、欲求充足の先延ばしや自制の能力には限界があり、やがて意志が疲弊してしまうということが、さまざまな研究から明らかになりました。今では、使いすぎたせいで意志が疲労困憊するというのは、意志の力や自制心の性質に関する、今日の有力な科学理論の根底にある、基本的な考え方であるとされているようです。しかし、のちの調査で、努力の減退の理由は、研究者たちが当初推測したものとは違っていたということがわかったのです。

努力を要する自制や退屈な作業への要求が高まったのにインセンティブが高まらなかったため、調査対象の学生たちの注意や意欲が変化したのです。彼らの意志の力の「筋肉」が消耗したというより、彼らはおそらくすっかり飽きてしまい、退屈な課題をやって欲しいという実験者の要求には、もう十分応えたと感じたわけだったのです。たとえば、ある課題では学生たちが、文章に出てくる「e」をすべて斜線で消すという作業を5分間行なってから、「e」の後に母音が続いていたら消してはいけないという条件を与えてみたそうです。このような課題でさえ、続けるための強いインセンティブを与えられさえすれば、長く継続できると言います。

自制心を働かせる動機付けが増せば、学生は努力を続けました。動機付けが増さなければ、努力は続きませんでした。このように解釈すれば、自制心の減退は心の「資源」が失われるせいではなく、動機付けや注意の変化を反映しているということがわかるとミシェルは考えています。

疲労感、つまり、努力を要する作業のせいで、「消耗」したという感覚は、現実のものであり、決して珍しくはありません。とはいえ、十分に動機を与えられていれば、倦むことなくやり続けられることもわかっているそうです。ますます熱中していくことすらあると言います。恋愛中には、一日か一週間か一ヶ月、くたくたになる経験をした後でさえ、どこだろうと最愛の人のもとに夢中で駆けつけられます。人によっては、疲労感がテレビを付ける合図ではなく、ジョギングでジムに行く合図となります。努力の持続を動機付けの観点から解釈するというのは、努力によって疲れるのではなく、むしろ元気になるのはいつなのかくつろいだり、昼寝をしたり、自分に報酬を与えたり、自分の内なるキリギリスの登場を許したりする必要があるのは、いつなのかは、態度や個人の基準、目標によって左右されると主張することにほかならないとミシェルは言います。

厄介な課題を続けると消耗するよりむしろ元気になると思えば、意志の疲弊は妨げることができるようです。努力を要する課題によって疲労困憊するのではなく、むしろ活気づくのだと思わされた人は、そのあとの課題の成績が良くなるそうです。たとえば、自分の経験している情動を顔に出さないように、表情を抑えれば元気になると思い込ませておいた人は、ハンドグリップを握るという、のちの課題でより良い結果が出たのです。あとの成績はその前の努力によって損なわれず、自我は消耗しなかったのです。

子どもたちを見ていると、一生懸命にやって、それが次第に疲弊してはいかないように思えることがあります。それは、次々と動機が生まれてくるからです。倦むことなくやり続けているだけでなく、ますます熱中していくことすらあります。それを、私は「遊びの回遊性」と名付けました。子どもたちにおいて、自制心の減退は心の「資源」が失われるせいではなく、動機付けや注意の変化を反映しているということを心に留めておく必要があります。

自制能力の限界

 ミシェルは、ロックコンサートに行って、バンドが聴衆の興奮を引き起こした場面に遭遇します。聴衆は、おのおの自制心の発揮しすぎで疲れ、そろそろ深刻な意志の疲弊状態にあったように見えたそうです。毎日意志の力を使った努力を続け、ストレスの多い長い一日の仕事をやり通すだけでも、人は疲弊してしまいます。聴衆は、内なるキリギリスを今すぐ喜ばせてやりたくてうずうずしていたので、羽目を外せ、陽気にやれ、ホットシステムを楽しませろというバンドの誘いを嬉々として受け入れ、そのあいだ、働き過ぎたクールシステムは一休みしていたように見えたのです。

 ここで、疑問を持ちます。私たちが発揮できる、欲求充足の先延ばしや自制の能力には限界があり、やがて意志が疲弊してしまうのだろうか?という疑問です。使いすぎたせいで意志が疲労困憊するというのは、意志の力や自制心の性質に関する、今日の有力な科学理論の根底にある、基本的な考え方であるとミシェルは言います。そしてそれは、自己制御する自分の能力について考えるときに重要な意味を持つと言います。

 ロイ・バウマイスターとその共同研究者たちは、意志の力は極めて重要ですが、一時的に使い果たしてしまいやすい有限の生物学的な資源だと考えているようです。彼らは、「自制心の強度モデル」を提唱し、自制の力は限られたエネルギー量に依存するなんらかの内部能力によって決まるとしていると言っています。これは、「意志」を一定の大きさを備えた存在とする従来の考え方にとても近いようです。意志がたっぷりある人もいれば、ほとんどない人もいると言います。このモデルによると、自制心は筋力に似ていると言います。積極的に使うと、「自我消耗」が起こり、この筋肉はすぐに疲弊してしまというのです。その結果、衝動的行動を押さえる意志の力や能力は、自制心を必要とする多様な課題を行なうときに、一時的に弱まると考えます。そうなると、心身の耐久力から論理的思考や問題解決、反応抑止や情動抑制から選択の善し悪しまで、あらゆることに影響が出かねないとミシェルは考えます。

 年に一度の職場のレセプション・パーティのとき、あなたは空腹で、何か食べ物を口にしたくてたまらない時を想定するようにミシェルは言います。目の前にある焼きたてのチョコチップクッキーへの誘惑をどうにか抑えて、野菜だけで我慢をしたとしたら、その直後に、この状況とは関連がないものの、やはり自制心を必要とする課題をやる場合、先ほどのようには努力できないだろうということが、強度モデルから見込まれると言います。

 この考えの正しさを示す証拠は、自我消耗の研究の原型となった有名な実験で示されているそうです。この実験とは、「ラディッシュ実験」と呼ばれるもので、食事を控えた空腹の大学生に、チョコチップクッキーやキャンディを我慢して、その代わり無理をしてでもラディッシュを食べて欲しいと言います。そのあとすぐ、じつはその問題は解けないようにできていた幾何学の問題に取り組むように指示します。彼らが、クッキーやキャンディを食べるのを許されていた学生たちよりもはるかに早く解くのをあきらめることが、この研究によって明らかになったのです。

 このほか100以上の実験で、研究者たちは同様の結果を実証したそうです。