自己高揚が大きい

最も印象的な発見は、次のようなものでした。悲しい気分の学生は、できが悪いというネガティブなフィードバックにとても過剰に反応し、同じフィードバックを受けたもののポジティブな気分だった学生と比べて、自分のできの評価や、次回の課題でどれだけできそうかという見通しを、ずっと大幅に下げました。幸せな気分に誘導された学生は、将来の成績に関して、はるかに大きな期待を抱き、成功体験のほうを多く思いだし、より好意的な自己描写をしたのです。彼らは、自らネガティブな情動を引き起こした学生と比べて、自分は聡明で魅力的で、自信にあふれ、人気があり、多くの成功を収め、人付き合いに長けていると評価する度合いが高く、将来の成果について大きな期待を抱いていたそうです。

以前にも書きましたが、幸せな気分に誘導されたときに抱く気持ちに、果たして日本の若者はなるでしょうか?自分は「聡明で」「魅力的で」「自信にあふれ」「人気があり」「多くの成功を収め」「人付き合いに長けている」と評価するでしょうか?単純に「自分は偉い」とか「自分は間違っていない」とか思うことはあっても、「将来の成果について大きな期待を抱く」というようなことを思う人は少ないように思えます。自尊感情が、日本の若者は世界一低いと言われ、自己肯定感が低いと言われているのです。また、日本の若者の自殺が多いのも、このあたりのことがあるかもしれません。

ミシェルは、金融の世界で財を成したたたき上げの人物である「ジェイク」を対象に、自己高揚の利点についていろいろと考察しています。彼の自己高揚はあまりに過剰だったので、そのおかげで多くの点で大成功を収められたかもしれないとはいえ、少なくともホットシステムにとっては、鼻持ちならないと感じていました。彼は、自分が人を惹きつけてやまないとばかり思っていたようで、彼が自然にかく汗にはフェロモンが放出されており、そのため若い魅力的な女性がそばにいたがるのだという話から始めて、自分の際立った特性について、のべつ幕なしに語り続けたのです。

自己高揚に利点のあることが立証済みであることを考えると、ミシェルはなぜたちまちジェイクを嫌うようになったのか、あれ以来ずっと不思議だったそうです。ミシェルの目には、彼は自己肯定の塊のように見えたからだそうです。自己肯定の度合いが大きい人は、より健康ですが、友人がいない、ということがあるかもしれないと考えます。自己高揚が極端な人は、自分に夢中になりすぎ、共感がほとんどできず、人をうんざりさせるのかもしれないと考えます。

自分を高揚させるのに忙しすぎて、目の前の人々の心中で何が起こっているのか、認識できないのではなかという疑問を持ちます。研究者たちが調べてみると、友人たちよりも自分のほうが自分自身を好意的に眺めている人は、自己高揚の度合いが小さい人と同じぐらい長続きする、強固で、ポジティブな交友関係を維持していることがわかったのです。

 自己高揚の度合いが大きく、しかも適応性のある人の大半は、公然と自己高揚するのが適切な状況と、そうでない状況とを、あるいは慎みが期待されている場面とそうでない場面とを、鋭敏かつ自動的に区別していることがわかったのです。私たちは、普通、自己高揚を自分の頭の中でやり、大っぴらにではなく、密かに自尊心を強め、自分の気持ちを落ち着かせているのです。

感情と思考

 鬱の人は、自分のことをどのように見ているのだろうか?それは、他者から見た姿とどう違うのだろうかというような研究は、多くのコメントに見られるように、私たちが、特に日本の教育の中で身についた考え方を覆すことが多いような気がします。しかし、子どもたちを見ていると、人類の進化の中で、どのような力を身につけてきたかを感じることができます。それを、長い間、子どもの行動は、未熟だとか、幼いからということで片付けてきた気がします。「哲学する赤ちゃん」の著者であるアリソン ゴプニックは、講演の中で、「もっと大人たちは、赤ちゃんから様々なことを学ぶべきである」と言っていました。

 この研究結果についてミシェルは、「この研究における精度の基準だった観察者たちに、自分を評価するように頼んだら、たぶん、対象群の参加者と同じで、誇大な方向に傾いていただろう。私たちは、他人は正確に見えるが、自己評価をするときには、運良く鬱でなければ、バラ色のめがねをかける。実際、自己評価でこの種のかさ上げは、たいていの人が鬱になるのを防ぐ役に立っているのかもしれない。」と言っています。

 この研究をしているミシェルでさえ、強いネガティブな情動が、クールな思考を打ち負かしてしまうという現象には、驚かされるようです。そうした情動は、私たちが経験していることだけでなく、将来に見込んでいるものや、自分をどう評価するかまでゆがめるような、思いがけない悪影響を及ぼしうると考えられます。どうしてそうなるかを調べるために、ミシェルは、ジャック・ライトと共に、難しい問題解決課題の出来に、嬉しい気持ちや悲しい気持ちがどう影響するかを研究したのです。

 ジャックは、二つの条件を設定し、大学生のボランティアに、一方ではとても幸せに感じるような状況を、もう一方では、とても悲しい気分になるような状況を、詳しく鮮明に想像するように指示しました。「心の目」で周囲の人や物をありありと思い浮かべ、その場面を眺め、音声を聞き、その出来事を経験し、頭に浮かぶことを考え、本当にその場にいたなら抱くだろう感情を抱くように促しました。たとえば、幸せな気分を湧き上がらせるには、ある学生は将来ロースクールを卒業するところを想像し、「努力を重ねて目指してきた、待望の」卒業式の日、「やり遂げた、ついにやり遂げたのだという事実をかみしめながら、その場に立っている」自分を思い浮かべました。悲しい気分を湧き上がらせるために、「志願したロースクールに一つ残らずはねられた」ところを想像した学生もいました。

 その気分を保ったまま、参加者たちはコンピューターの画面に映し出された3次元の立体のペアを次々に眺め、違う角度から映っている二つの立体が同じものかどうかを判断してもらいました。問題は、とても簡単なものから回答不能のものまで、さまざまでした。実験参加者は、多くの課題をこなした後で、「あなたは難度の高い課題を見事にこなした」、あるいは、「難度の高い課題に歯が立たなかったようだ」と知らせます。偽りなのですが、もっともらしいフィードバックを受けます。

最も印象的な発見は、悲しい気分と、問題が解けないという思い込みの組み合わせは、不幸な影響をもたらすというものだったのです。悲しい気分の学生は、できが悪いというネガティブなフィードバックにとても過剰に反応し、同じフィードバックを受けたもののポジティブな気分だった学生と比べて、自分のできの評価や、次回の課題でどれだけできそうかという見通しを、ずっと大幅に下げたのでした。

バラ色のめがねを使う

こんな疑問がわいてきます。ネガティブな自己像は、自分にはポジティブな対人関係のスキルや力量が不足しているという、鬱の人の現実的な認識を部分的に反映していないだろうか?ひょっとしたら、鬱の人は現に対人関係のスキルが稚拙で、そのため彼らを目にした他の人と、本人の両方に、よりネガティブに認識されているかもしれません。

この可能性を解明するために、ミシェルは、1980年代に、オレゴン大学心理クリニックのピーター・レウィンソンらとともに、臨床的鬱の患者が自分の評価と、彼らのできばえを目にした中立な立場の観察者による評価を比べ、両者がどれだけ一致しているかを調べたそうです。それからそのパターンを、同じぐらい深刻な精神的問題を抱えてはいるものの、鬱ではない、精神科の患者のパターンや、患者ではなく、現在も過去にも鬱とは無縁の対象群である、年齢や人口統計学的データが似通った人たちのパターンを比べてみたそうです。

研究の参加者たちには、気楽で堅苦しくない座席配置で、数人ずつ着席してもらい、見知らぬ人どうしがどう接するかについて詳しく知るための研究であることを告げました。小グループの各メンバーは、手短に自己紹介し、あとは20分間、自由に会話をしてもらいました。入念な訓練を受け、参加者たちの病状や病歴についてまったく知らない観察者たちが、その様子をマジックミラー越しに見守り、評価してもらいました。評価は、標準的な尺度のもので、以下のような望ましい特性が多く含まれています。愛想の良い、人気のある、積極的な、魅力的な、温かい、明快にコミュニケーションができる、人付き合いがうまい、他人に興味がある、他人のいうことが理解できる、ユーモラスな、流暢に話す、率直で隠し立てしない、人生に関してポジティブな展望を持っている……。各セッションの直後、参加者も観察者が使ったのと同じ尺度を使い、グループ会話での自分自身のできを評価してもらいました。

すると、鬱の人は、ミシェルらが予想していたように、暗いレンズを通して自分をネガティブに眺めるのにはほど遠く、むしろ完璧な「視力」に祟られていたそうです。ほかの患者や対象群と比べて、ポジティブな特性に関する彼らの自己評価は、観察者による評価に最も近かったのです。これとは対照的に、鬱でない神経科の患者や対象群は、自己評価の時に水増しし、観察者が見て取った以上に自分のことをポジティブに見ていたのです。自分を評価するときに、鬱の患者は他の人が使っていたようなバラ色のめがねをまったく使わずに自分を眺めていたそうです。

それから数ヶ月、鬱の患者たちはオレゴン大学の心理クリニックで認知行動療法の治療を受けているあいだに、自己評価を向上させ初め、人付き合いの能力を徐々に高く見積もるようになっていったのです。治療が行なわれていることを、観察者たちは知りませんでしたが、彼らも鬱の患者たちを前よりポジティブに捉え始めたのです。しかし、鬱の患者は、治療のあとには自分をいくらポジティブに見えるようになったとはいえ、自己評価に関しては、相変わらず他の人よりも現実的で、他人が見えるのと同じような目で見ていたそうです。

ミシェルは、この研究で重要なのは、三つのグループのあいだで、自己評価の差が縮まった点であると言います。鬱患者は、気分が上向き、おそらく心理的な免疫系が強められ、それが彼らの自己評価の水準を上げたのではないかと考えています。

自己認識

 ここ数日のブログで紹介している研究結果は、多くのサイコセラピストが相変わらず信奉している伝統的な考え方と矛盾します。その考え方によれば、ポジティブな幻想と自己高揚は、自らを守るためにネガティブな個人的特徴を否定するもので、誇張と神経症的なナルシシズムの表われであり、自分のネガティブな特性を抑圧する試みには、大きな生物学的代償が伴うということが言われています。しかし、実際には、ポジティブな幻想を含め、ポジティブで自己肯定的な精神状態は、現実を極端にゆがめていない限り、健全な生理的機能や精神内分泌機能を高め、ストレスのレベルの低下につながるというのです。それに対して、自分のことをもっと正確に認識している現実主義者は、自尊心が低く、鬱を多く経験し、一般的に心身の健康状態が劣るというのです。逆に、より健康な人の自己認識には、たとえいくぶん幻想が混じったものであっても、温かな幸福感が伴うと考えられているのです。

 心理的な免疫系と生物学的な免疫系の働きは、よく似ているようです。ともに私たちの役に立ちますが、過剰に反応したり、十分に働かなかったりすれば、どちらも害をもたらしかねないと言います。ダニエル・ギルバートは、両者はともに、二つの競合する必要性のはざまで、均衡をとらなければならないと指摘しています。生物学的な免疫系は、ウィルスのような外部からの侵入者があれば、それを識別して破壊する必要があるのですが、体内の善玉の細胞を殺すことは避けなければならないとミシェルは言います。

 同様に、心理的な免疫系が、ほとんどの同輩よりも自分は優れていると、あなたに信じ込ませたとしても、それは適応的であり、自尊心にとっては望ましいのですが、あなたが自分はほかの誰よりも優れていると考えるのなら話は別だとミシェルは言います。ここが大切なのかもしれません。

 たとえ、心理的な免疫系が自己高揚と現実主義の均衡をうまく保っていたとしても、何か悲惨なことが起こったらどう感じるかという私たちの判断を、この免疫系がしばしば狂わせるのも事実であるとミシェルは言います。両脚が麻痺してしまったらどう感じるか想像するように言われたら、ギルバートやほかの研究者たちが示したように、私たちはどうしても恐ろしく不幸せな人生を予想してしまうでしょう。しかし、現にそうなったら、わたしたちが最善の対処ができるよう、幸いにも心理的な免疫系が助けてくれ、まもなく、考えていたよりもずっとましな気分になれるというのです。この免疫系は、将来の幸せについて、私たちの予想を誤らせるのが難点ですが、人生が暗転したときにも、うまく生き延びられるようにしてくれるのが長所だというのです。

 では、このような心理的な免疫系が働いてくれなかったら、どうなるのだろうかという疑問が生まれてきます。それに答えて、1970年代以降、今世紀に至るまで認知行動療法開発の最先端に立ち続けている人がいます。それは、アーロン・ベックで、彼は深刻な鬱の人は、世の中や自分、将来について非現実的なまでにネガティブな見方をすると主張しました。彼によれば、鬱とは、あらゆるものを薄暗くしてしまうサングラスのようなもので、彼は、鬱を一般化されたネガティブな心構えというふうに概念化したのでした。

 

自己高揚

 アメリカの自己評価に関する多数の研究の結果、90%あるいはそれ以上が、自分は平均的な同輩よりも優れていると評価しました。それに対して、日本人は、自己評価には厳しい気がします。それは、自分に厳しくという日本人の気質によるものもあるかもしれませんが、それ以上に、評価という言葉に抵抗があるようですし、時に自己評価となると自分を客観的に見つめることが苦手のようです。そこで、私の園では、子どもたちには、本を読んだ後、その本を自分はどう感じたかとか、お手伝いをした後などに、それぞれの点でどうだったかを自己評価してもらっています。すると、子どもたちは、どうもアメリカ人に近い自己評価をします。自分に甘いというように、他人から見ての評価よりも、自分では高い評価を付けるのです。それは、子どもだからなのか、最近欧米化しているのかはよく分かりませんが。

日本人と違っているからと言っても、アメリカにおいても、彼ら全員が、平均を上回ることはあり得ません。しかし、この結果の肝心なところは、自尊心にまつわるこの幻想が、最終的には私たちにとって良いのか悪いのか、だとミシェルは言います。「私たちは、この種の自己高揚を歓迎し、それに「自己肯定」のようなポジティブな名称を与え、子どもたちに見られれば喜ぶべきで、自分の場合にはそれを取り除いてはいけないのではないのだろうか?」とミシェルは考えます。

さらに、こうも思います。「それとも、このように自己を過剰評価する傾向は、神経症的なメカニズムであり、こうした防衛システムは、私たちが自己の正確な姿を捉えるためには、克服すべきなのだろうか?」この傾向自体を裏書きするかのように、案の定、どちらの意見の擁護者も、自分の側の見方は鋭い洞察として熱烈に支持し、敵対陣営の見方は愚の骨頂とこき下ろしたのです。シェリー・テイラーとその共同研究者たちが、自尊心の影響について、1990年代後期から何年も一連の実験を続け、調べた結果から、この議論に新たな証拠が提供されたそうです。

テイラーのチームによる調査によって、自分を同輩と比較したときに自己肯定するような点の高い人である自己高揚の度合いが大きい人のほうが、じつは慢性的な生物学的ストレスのレバルが低いことがわかったのです。生物学的に言うと、こうした結果になるのは主に、消化や体温から、気分、性衝動、身体的エネルギー、生物学的免疫系まで、ありとあらゆるものを調整するようなのです。

視床下部、下垂体、副腎軸の動きが原因だそうです。人がストレスやトラウマにどれだけ上手な、あるいは、下手な対応を見せるかもこの副腎軸が左右するのだそうです。自己高揚の度合いが大きい人は小さい人よりも、この軸が健康的だというのです。彼らは、脅威に反応する際にホットシステムを抑えるのが得意だそうですが、それは、鎮静作用のある副交感神経の活動が増え、快適さの度合いが大きくなるからだそうです。その結果、ストレスが減り、自己高揚の度合いの大きい人は、自分の気持ちを落ち着かせ、回復させるモードには入れるというのです。すると、彼らは、祖先の時代であればハイエナに、今日であれば、その現代版に立ち向かうための次の戦いに備えて、緊張する代わりに、元気を取り戻し、快癒するというのです。

この研究は、面白いですね。逃れようのない困った状況になったり、厳しい目に遭わされても、それに対抗し、立ち直ることのできる能力が、人のせいにしたり、自分を甘く見ることだということなのですね。子どもが困難さに強いのは、悪いのは人にせいにすることであると考えたら、なんだか、物事を広く見ることが出来るような気がしてきます。

甘い自己評価

 人間は、悪い成り行きになっても、自分を憎まずに済む方法を見つけてくれると言います。それは、心理的な免疫系と呼ばれています。たとえば、自分では良いアイディアだと思っていたものを、同僚からさんざんこき下ろされても、「たしかに、あまり良いアイディアではなかったかもしれないが、インフルエンザにかかっていたのだから、大目に見てもいい。」と思えば、それほど落ち込まないで済みます。

 社会心理学者のエリオット・アロンソンとキャロル・タヴリスとの共著に「ミスがあった(私ではないけれど)」という本があります。この本の日本版のタイトルは、「なぜあの人は過ちを認めないのか  言い訳と自己正当化の心理学」ですが、この通りだと言うのです。

 心理的な免疫系は私たちに、自分は善良で聡明な、ひとかどの人物だという感覚を持ち続けさせてくれるのです。私たちは、深刻な鬱、あるいは機能不全に陥っていない限り、この免疫系のおかげで、同輩たちに比べて自分にはポジティブな特性が多く、ネガティブな特性が少ないと思うことができると言うのです。ただし、万事これほどうまくいくわけではありません。それは、あなたは全体として聡明ですが、テクノロジーには弱い、あるいは、仕事に関しては自制が得意ですが、チョコレートとなると苦手だというふうに自分を見ているかもしれないのだからと言います。

 シェリー・テイラーは、「陽気な」「学業成績が優秀な」「知的に自信のある」「他人を気遣う」「物事を達成することを望む」などの21の特性を挙げて、「自分をこう見る」という質問紙で自己採点をしてもらったそうです。すると、6796%の人が、同輩よりも自分を高く評価したそうです。ホープ・カレッジの社会心理学者であるデイヴィッド・G・マイヤーズは、自己評価に関する多数の研究の要点をこのようにまとめました。

 「アメリカの大学入学資格試験委員会がハイスクールの最上級生829000人を対象に行なったある調査によると、「他人とうまくやっていく能力」で自分を平均以下と評価した人は、誰もいず、60%が自分を上位10%に、25%が上位1%に位置づけた。私たちの大半は、平均的な同輩と比べて、自分は聡明で、容貌が優れ、偏見が少なく、倫理的で、健康で、長生きすると思い込んでいる。この傾向は、ある男性についてフロイトが述べたジョークにも反映されている。その男性は、妻にこう言ったという。「もし私たちのどちらかが死ぬことがあれば、パリに引っ越そうと思う。」……日常生活では、10人中9人以上が、他の人より運転がうまいと思っている。これまでに行なわれた大学の教員の調査では、90%あるいはそれ以上が、自分は平均的な同僚よりも優れていると評価した。……夫と妻が、家事に対するそれぞれの貢献の割合を推定したり、職場のチームのメンバーが自分の貢献度を推定したりすると、その自己評価の合計は、たいてい100%を超える。」

 この調査結果については、私は少し疑問に思うところがあります。それは、自己評価に関しては、日本人とアメリカ人と若干意識が違うように思っているからです。日本人の自己評価においては、アメリカ人よりも自分に厳しい気がします。それは、卑下しているということではなく、自分に対する自信がない気がしています。自分への評価があまいか厳しいかということは別としても、私はもう少し日本人は、自分を見つめることが必要な気がしています。そんなこともあって、園では、子どもたちに対して自己評価を多く取り入れているのです。

心理的な免疫系

自制の能力は人を保護する力を持っており、気質に由来する弱点が有害なかたちで表れるのを防ぐ助けになるというわけで、わが子の中でも、自分自身の中でも育む価値があるとミシェルは主張します。

しかし、自制の努力が頓挫してしまって、困ったことになったり、厳しい目に遭わされてしまうことがあります。しかし、そんなときでも、やがて気分を良くしてくれたり、少なくともあまりひどい気分にならないようにしてくれる、隠れた味方がいるとミシェルは言います。人類は、きっと、進化の過程でさまざまな目に遭ってきたはずです。それを、私たちの先祖は乗り切ってきたはずです。そんなときに、私たちに自動的な防御メカニズムを、進化の過程で得てきたと思われます。自分ではどうにもコントロールしようのない恐ろしい打撃を人生に見舞われたときや、力が足りず、クールシステムが疲れ切っていて、誤りを犯しがちな自らの行動や気持ちのもろさのせいで、やっかいな事態に陥ったときに、そのメカニズムが救いの手をさしのべてくれるというのです。

このメカニズムは、かつては「自我防衛」と呼ばれていたそうですが、今世紀に入って早々に、ヴァージニア大学のティモシー・ウィルソンらと共同研究をしていたハーバード大学のダニエル・ギルバートが見直しの幅を広げ、より適切な「心理的免疫系」という名前にあらためたそうです。この系は、私たちを慢性的なストレスの影響から守るためのセイフティネットを作り出し、定期健診を受けたり、癌の診断を下されたり、老後のための蓄えの価値が暴落したり、オフィスから退却することを求める解雇通知を受け取ったり、愛する人が急死したのを知ったりといった、悲惨な事態に対処できるように私たちに抵抗力を与えてくれるようです。

生物学的な免疫系が、私たちを病気から守って、生命を保ってくれるのに対して、心理的な免疫系は、認識されるストレスを軽減し、鬱になるのを防いでくれるというのです。心理的免疫系によるストレス軽減と、抗鬱の作用は、生物学的な免疫系を強め、これら二つの免疫系はたえず相互作用して、人生がとりわけ過酷なときにさえ、私たちが笑顔と健康を保てるように計らってくれると言います。

考えてみると、当然のように思います。私たちの生存を脅かすものに、例えばケガをして血が出るということがありますが、それを固まらせ、血を止める機能を自ら持っています。しかし、生存を脅かすのは、必ずしも身体的なことだけでなく、気持ちが傷つくというような精神的なものもあります。そのダメージを少なくする機能も同様に自ら持っていても不思議ではありません。

心理的な免疫系は、悪い成り行きになっても、私たちが自分を憎まずに済む方法を、良い成り行きになったときには、自分を褒める方法を見つけてくれると言います。この免疫系は、私たちに、悪い成り行きを政府や無能な部下、あるいは嫉妬深い同僚から、自分にはどうしようもない、巡り合わせの悪さなどの外的条件まで、ありとあらゆることのせいにするように促すと言います。ですから、たとえ職場のグループミーティングで、自分のアイディアを「この通りにしたら惨憺たる結果に終わるのは必至だ」と同僚にこき下ろされたことを寝床で思い返しても、眠れぬ一夜を過ごさずに済むというのです。

別の場所での研究

先延ばしにするスキルを使えば、攻撃的な衝動を、それとは両立しない別のホットな考えを活性化させることで「冷却」することもできるようです。先延ばしにする能力のおかげで、実際に行動に移す前に、一瞬の反省が可能になるというのですが、このとき機能するメカニズムは、ほかの弱点である、たとえば、境界性パーソナリティ障害や、肥満、薬物中毒になりやすい傾向などを持った人が、自分の行動をもっとうまく調整したり、コントロールしたりするのを助けるメカニズムと同じであると言います。

2013年、ターニャ・シュラムとその共同研究者たちは、スタンフォード大学のピング保育園の園児がマシュマロ実験で待てた時間から、30年後の彼らの肥満指数が予想できたことを、ジャーナル・オブ・ペディアトリックス誌で報告しました。「未就学児が、1分長く欲求充足を先延ばしにできるたびに、成人になったときに肥満指数が0.2ポイント減ることが予想できた」と言うのです。

シュラムらは、これほど長期にわたる有意の相関関係は、驚異的で珍しいものの、因果関係があることを意味してはいないと注意をしているそうです。それは、もっともなことだとミシェルは言います。とはいえ、教師や教育者、親に、幼い子どもの自制スキルを伸ばすための介入を発展させ続けるよう、奨励する助けにはなるのではないかとミシェルは考えています。

彼は、科学者は常に、研究成果が自分の研究とは独立したかたちで再現されることを熱望していると言います。できれば、別の母集団で、別の状況で再現できたらと思っているようです。ですから、ミシェルは、マシュマロ研究の開始から何十年も経った2011年、地球の反対側でまったく異なる母集団を対象にした別の研究チームによって、幼児の自制能力が本人を守る役割を果たすという同様の結果が確認されたとき、ミッシェルはほっとしたと言っています。

あるニュージーランドのダニーディンで生まれた1000人以上の対象の生活を長年にわたって綿密に観察し、32歳の時の状況を調べてみたのです。彼らが自制と長期的な結果を測定するために使った基準は、ミシェルらとは違っていました。彼らは、多種多様な観察による採点と、親や教師、子どもたち本人の報告によって、人生最初の10年間の自制を評価したのです。質問した項目は、攻撃性や多動性、粘り強さの欠如、不注意、衝動性などだったのです。

健康面での成り行きを評価するために、薬物依存や喫煙、肥満や高血圧、高コレステロールなどの代謝異常を測定したそうです。また、所得水準や家族構成、貯蓄週間、クレジットにまつわる問題、金銭的依存など、豊かさに関する成り行きも調べたそうです。さらに、犯罪歴のような、反社会的行動も評価しました。しかし、どんな基準を使おうと、幼児期に自制能力が乏しいと、不健康、金銭的上の問題、犯罪歴など、成人後のネガティブな成り行きが有意のかたちで予想できたそうです。

この2011年の結果が、1960年代後期にスタンフォード大学のサプライズ・ルームに始まった研究の結果と一致したのです。自制、それもとくに幼児の自制から、将来が予想できるのです。さらに重要だとするのは、自制の能力は人を保護する力を持っており、気質に由来する弱点が有害なかたちで表れるのを防ぐ助けになるというのです。したがって、自制のスキルは、わが子の中でも、自分自身の中でも育む価値があるわけなのです。

先延ばしするスキルを使う

 ミシェルらは、マシュマロ実験を、それまで行なってきたスタンフォードの学校とは正反対の、非常に荒廃していたブロンクスの学校を対象に行なってみたのです。すると、スタンフォードの恵まれた子どもたちとまったく同じように、拒絶感受性の高いブロンクスの8年生は、自分の自尊心を低く評価し、同輩や教師からも、できを低く評価されていました。しかし、やはり、2年前にマシュマロ実験で欲求充足を効果的に先延ばしにできなかった子どもたちにだけしか、この相関関係は見られなかったそうです。いくら拒絶感受性が高い生徒でも、欲求充足を先延ばしにする条件で測定されたように、興奮やストレスを「冷却」できるかぎり、対人関係で問題を起こさずに済んだのだったのです。

 ブロンクスの学校の生徒たちが、年月とともにどう成長していくかを追うために、彼らが対人関係でどれだけ受け入れられているかを同級生に評価したもらい、また、どれだけ攻撃的かを教師に評価してもらったそうです。すると、これらの二種類の評価には、相関関係があったのです。教師に攻撃的だと見られている子どもは、あまり受け入れられておらず、同級生にはネガティブな評価を受けたそうです。拒絶感受性が高い子どもは、同級生にはあまり受け入れられておらず、教師にははるかに攻撃的だと見放されてはいたのですが、それは、さっさとベルを鳴らしてわずかなm&m’sをもらうことにしていた場合に限られていたそうです。

 他人に拒絶されるのを心配しているものの、ストレスを「冷却」して、m&m’sのために待てた子どもは、教師には攻撃性が最も低いと認識され、同級生には、対人関係で最も受け入れられているとみられたのです。これらの子どもは、拒絶されるのを避けようという強い動機付けと自制スキルを兼ね備えていたおかげで、渇望していた対人関係での受容を勝ち取ることができたと言うのです。拒絶されるのがおおいに不安でも、それが自己成就予言となるのは防げるのだということがわかります。そして、この組み合わせは、拒絶感受性の高い子どもが、人気コンテストで優勝する後押しにさえなり得るのではとミシェルは言います。

 拒絶感受性の高い人は、しばしば腹を立て、敵意を感じるものの、深呼吸したり、政略的に自分の思考を調整したり、長期的な目標について考えたりすることで、自分を「冷却」して、落ち着かせれば、優位に立てるというのです。たとえば、新聞を読んだりするような自分のホットシステムの引き金や、もし怒り始めたというような内面的なキューを、例えば深呼吸をして、100から0まで逆に数えていくなどという自制戦略と結びつける「イフ・ゼン」実行プランを立てて練習すれば、そうした戦略は努力しなくても自動的に実行に移せるようになるとミシェルは言います。

 先延ばしにするこれらのスキルを使えば、攻撃的な衝動を、それとは両立しない別のホットな考えを活性化させることで「冷却」することもできるのだとも言います。たとえば、以前、例に出したビルのような人が自制スキルを伸ばせたなら、自分が物の弾みで卵を投げつけたりすると、その晩、帰宅したときには妻のクローゼットが空で、絶縁状を読む羽目になると、鮮明に想像できるかもしれないというのです。

m&m’s実験

 未就学児が、マシュマロ実験でしたことと、その後の人生が展開していく中で、彼らに起こったこととのあいだのつながりが明白で、広範になればなるほど、ミシェルはある疑問がわいてきました。それは、これまで行なってきた実験で得た結果は、これらの恵まれた選り抜きのコミュニティの外でも通用するだろうか?ということでした。それを確かめるために、彼は、スタンフォードのキャンパスから、地理的にも人口統計学上も、できる限りかけ離れた学校での実験の必要性を感じます。

 そこで、そのような学校を探し始めます。スタンフォードの学校と対照的な学校は、サウス・ブロンクスの公立ミドルスクールが適していますが、どこも協力を拒みます。4年間探し回った結果、やっと見つけます。そのミドルスクールの校長は、教育委員会の怒りを買う危険を進んで冒し、自校の暗い色をした要塞のような石の外壁の内側でミシェルらが研究するのを許可してくれたのです。それは、1990年代初期で、ニューヨークが史上指折りの不況からかろうじて立ち直り始めた頃のことで、ここも含め、市内の公立校の大半はひどく荒廃していました。教室も惨憺たるありさまで、天井の漆喰は矧がれ落ち、高窓は割れてふさがれ、電球も半ばは切れており、薄暗かったのです。ミシェル自身の子どもが通っていたのもスタンフォード地区の公立校でしたが、そことの比較だけでなく、何十年も前にブルックリンの労働者階級居住区で彼自身が通った公立校とさえ大違いでした。

 このミドルスクールをミシェルが最初に訪れたとき、有刺鉄線を載せた金属フェンスの脇には、警察の車両が何台も止まっていました。子どもたちが列を成し、警備された入口の金属探知機を通って、ゆっくり中に入っていく様子を眺めながら、彼がかつて目にした州の重警備刑務所を思い出したそうです。このブロンクスの学校に入ると、今度は、大きな行動から聞こえてくる喧噪に耳を奪われたそうです。そこでは、あふれかえった生徒たちが大声でしゃべったり、叫んだりしていたのです。混紡を手にした男性教師たちが通路を行き来しながら、生徒よりもさらに大きな声で、「席に着け!黙れ!」と繰り返し怒鳴っていました。訊いてみると、これは授業が始める前の学習時間だったそうです。この騒々しい全くの混乱状態を目にしたミシェルらは、必要としていた学校のサンプルが見つかったことを確信したそうです。期待通り、これはスタンフォードの学校とは正反対でしたが、このブロンクスの学校は、ミシェルらが予想していたよりもなお、思わしくない状態にあったのです。

 ミシェルらは、子どもたちが6年生になって12歳で入学し、8年生の学年を終えて14歳で卒業するまで継続して調査をしました。5年にわたるプロジェクトのあいだ、翌年の入学生にも、翌々年の入学生にも同じことをしたそうです。入学した6年生には、まず、マシュマロ実験を受けてもらいました。ただ、子どもたちが、若干年齢が高いために、マシュマロをあげるのではなく、ご褒美はm&sのチョコで、ただちにいくつか食べるか、あとでたくさんかを選ぶようにしたそうです。生徒たちの3年間の在学中、ミシェルらはその実験の結果に基づいて、後の行動を予想できるかどうかを確かめるために、さまざまな結果の測定値を集めたのです。

 すると、同じような結果が出たようです。