セリグマン

 極端な悲観主義者は、無力感を覚え、意気消沈し、自分の人生をコントロールできないと言います。自分の身に悪いことが起こると、何が悪かったのかについて、状況に即した説明や、あまり自分を責めないような説明は受け入れられず、自分が一貫して持っているネガティブな特性のせいにします。幼いときに、この悲観的な説明のスタイルが極端だと、将来が危ぶまれると言います。そのスタイルが固定化して深刻な鬱にも陥りかねないと言います。

 何度もこのブログで取り上げたマーティン・セリグマンが、クリストファー・ピーターソンと共に、25歳の健康な大学卒業生にやっかいな個人的体験について文章を書かせ、彼らがその体験をどう説明するかを調べたことについてミシェルは紹介しています。悲観主義者は、物事が決して良くならないだろうと信じており、いつまでたっても、それから逃れることは出来ない、個々の出来事を広く一般化し、人生のさまざまな面について陰鬱な結論に達し、そのすべてが自分のせいだと考えます。

 その後、研究の参加者全員を対象に追跡調査を行ない、健康診断をしてかかった病気を調べると、卒業後の20年間は、健康状態に有意の差は見られなかったそうです。ところが、45歳から60歳までの期間では、25歳の時に悲観主義の傾向が強かったヒトは、病気になっている割合が大きかったというのです。ミシェルは、セリグマンとピーターソンが、20世紀前半に新聞に載った、野球の殿堂入りを果たした選手たちのインタビューを分析して結果も紹介しています。この研究については、私も以前、ブログで紹介しました。それと同じになりますが、もう一度振り返ってみたいと思います。

インタビューには、なぜ、どのように試合に勝ったり負けたりしたかについて語っているときの、選手たちの説明が引用されていました。選手はみな、殿堂入りを果たすほど優秀だったにもかかわらず、負け試合を自分個人の失敗が原因と見なし、たとえば、「あの日の午後は、風向きが良かった」というように勝利をそのときの外的原因のおかげと考えていた人は、自分の成功は自分の手柄とする人ほど長生きではなかったというものです。

セリグマンは、楽観的なスタイルと悲観的な説明のスタイルに関する、こうした研究の大半で、指導的な役割を果たしたとミシェルは言っています。そして、セリグマンらは、自分の成功や失敗をどう認識し、説明するかという点で、楽観主義者は悲観主義者と違っていると主張したのです。楽観主義者は、失敗すると、自分の行動あるいは状況を適切に変えれば次回は成功できると考えます。彼らは、拒絶された経験や就職活動の頓挫、投資の失敗、お粗末な試験結果を活かして、次に試みるときに成功する可能性を高めるのには何をする必要があるかを突き止めようとします。それから代替案を考え出し、重要な目標に到達する別の道筋を見つけたり、もっと良い戦略を立てられるまで、必要な助言を求めたりすることがわかりました。

楽観主義者が失敗には建設的に取り組むのに対して、悲観主義者は同じ経験を使い、自分の陰鬱な見通しを裏付け、自分のせいだとばかり思い、自分にはどうしようもないと決めてかかって、失敗について考えるのを避けると言われています。セリグマンは、次のように述べているそうです。「大学の入学試験は、才能を測定するものです。一方、説明のスタイルからは、粘り強くことに当たる人物かそうでないかがわかります。成功へと導いてくれるのは、適度の才能と、失敗に直面したときに進み続ける能力の組み合わせです。……人について知っておくべきことは、思うに任せぬ状態になったときにも、その人がやり続けられるかどうか、なんです。」