遺伝学

 かつて、シカゴのアイルランド系住民は、しばしば知能に関するジョークのだしにされる時代がありました。それは、求人広告に「アイルランド系の方は、応募ご無用のこと」という言葉で終わる広告があったそうです。それほど、知性が劣っているということですが、母方のアイルランド系の血筋を引くジェームズは、自分がアイルランド系の遺伝子をたっぷり受けついているのは明らかなものの、自分が鈍い部類に入る証拠はいっさいないことを承知していました。そして、こう結論します。「アイルランド人の知性は、不十分なことで有名だったが、アイルランドの環境によって形作られたものに違いなく、遺伝子のせいではない。生まれではなく、育ちのせいなのだ。」

 その彼は、のちにDNAの構造を発見した功績により、ノーベル賞を受賞します。また、ミシェルがマシュマロ実験について講演をするたびに、心配顔で親たちが口にするのは、それは、生まれのせいなのか、それとも育ちのせいなのか?という懸念です。特に、彼の講演で話が人間の行動の原因に向かうと出てくる質問です。ある人に、こう単刀直入に聞かれたそうです。「とにかく、これだけは教えてください。この子は馬鹿なんでしょうか、それとも、ただの怠け者なんでしょうか?」それは、もし馬鹿なら、なすすべがないと感じ、それを受け入れ、息子を大目に見ようとするつもりでした。一方、もし息子が「ただの怠け者」なら、息子に「焼きを入れる」ための躾の手段としては、相当思い切ったものを用いる覚悟のようでした。

 脳と行動に対する遺伝の影響と環境の影響をめぐる議論は、このブログでも何回となく繰り返されてきた問題ですが、その対象は、知能や気質、能力の源泉から、攻撃性や利他主義、良心、犯罪行為、意志の力、政治信条、さらには統合失調症や鬱、長寿に至るまで、人間の重要な特徴の事実上すべてについて、何世紀にもわたって激しく闘わされてきたとミシェルは言います。しかも、議論は、学問上の戦場に限られているわけではなく、社会政策、政治、経済、教育、子育てに関する考え方にも影響は及んでいると言います。たとえば、政治問題について、私たちがどう投票するかは、経済面や業績面の不均等を主に遺伝の力に帰するか、環境の力に帰するかによって左右されます。もし、生まれのせいで違いが出るのならば、遺伝子のルーレットで敗れてそういう生まれとなった不幸な人々を、社会に憐れむことにするかもしれませんが、彼らの不運は彼ら以外の社会のせいではないという感覚を人々が持つことにもなり得るのではないかとミシェルは考えています。

 もし、私たちが何者かや、何者になるかは、主に環境で決まるなら、環境が生み出した不公平を減らすように境遇を変えるのは、私たち自身の責任なのか?と問うています。意志の力や性格、人格における、遺伝や、あらかじめ組み込まれたものの役割をどう見るかで、人間の本質と責任についての抽象的な見方ばかりでなく、自分や子どもにとって、何が可能で、何が不可能かという認識までもが、変わってくると言うのです。

 1950年代まで、アメリカの心理学で幅をきかせていた行動主義では、BF・スキナーらの科学者は、新生児は白紙状態で誕生するので、環境がそれに刻印を押して、彼らがどうなるかを決め、おもに報酬や強化を通して彼らを形作ると考えました。これも、何度も強調してきたことで、ミシェルも振り返っています。