将来の自分

私たちはぞっとするような出来事が差し迫っていれば、すぐに心配になるのに、将来については、バラ色のめがねと、気分を良くさせる心理的な免疫系のおかげで、ホットなかたちで鮮明に思い浮かべることはめったにありません。ですから、癌や貧窮、孤独な老年期、不健康といった恐ろしい見通しのことばかり考えるのが避けられ、もし、そうした不安が生々しいものになることがあっても、たいていの人はすぐに自ら気をそらすことができるのです。

こうして、私たちはフロイトが患者に見出し、ムンクが「叫び」で描いた不安をやり過ごしたとミシェルは言います。私たちの防衛機構は、そのような光景にいつまでもとらわれるのを、防いでくれるのですが、私たちが放埒なキリギリスではなく、先見の明のあるありのように振る舞う可能性を低めてしまうと言います。その結果、私たちは食べ過ぎや、度を超えた喫煙や、飲酒など、ありとあらゆる種類の危険を冒し続け、それらがもたらす長期的な結果は、先のことで、不確実で、簡単に頭から追い払えるため、無視してしまうと言います。アメリカ人の大多数は、自分が慣れ親しんだ生活様式を、とうてい維持できない資金しかない状態で、退職年齢を迎えるとミシェルは言います。この問題のおおもとは、将来の自分について私たちがどう考えがちであるか、そして、その将来の自分が脳の中でどう表象されるかにあると言うのです。

このミシェルの分析は、アメリカ人に対してのものですが、日本人はどうでしょうか?一概に言えないかもしれませんが、私は、日本人の方が、おおむねアメリカ人よりも先を見て、将来を思い描いて現在を生活する気がしています。それは、今の裕福さや、豊かさはいつまでも続くかわからないという経験をしているからです。しかし、こういう言い方はあまり好きではありませんが、どうも最近の若者たちを見ていると、アメリカ人の考え方に似てきている気がしています。それは、先延ばしする力と関係している気がしますが、将来どうなるかわからないから、今を楽しく過ごすという考え方です。

ミシェルは、現在の自分と、将来の自分をどのように考えるかということを問うています。「歳をとるにつれ、私たちの肉体は完全に変わるが、私たちが経験する自分も変わるのだろうか?」「想像の中で、時間を旅し、将来の自分について考えるとき、何が起こるのか?」

まず、現在の自分と将来の自分が、まったく重なっていないと思うか?ほぼ重なり合う状態だと思うか?10年後の自分と想定しているものに、今の自分がどれだけ類似し、結びついていると感じているか?という度合いに応じて、自分の最もふさわしいのはどれかを考えてみます。

今度は、fMRI装置に入って、脳の活動をスキャンしてもらうことに同意したところを想像してみます。頭が装置の奥深くに収まり、狭苦しい空間に慣れてきたときに、スピーカーから指示が聞こえてきます。「自分について考えてください。」言われたとおりにすると、あなたの前頭皮質の中部で、脳活動の明確なパターンが見えてきます。これを、「自己パターン」と呼ぶことにします。見ず知らずの人について考えるように指示されると、同じ大脳皮質の領域が、はっきり異なるパターンで活性化し始めます。これを「他者パターン」と呼ぶことにします。最後に、「今から10年後の自分について考えてください。」と言われたとします。この実験の結果は、どうなったでしょう。

 

幼い頃の体験

成功するだろう、あるいは、失敗するだろうという一般的な見通しは、私たちが新しい課題にどう取り組むかに、重大な影響を与えます。一方、具体的な見通しは、自分が本当に成功できるのがわかったときには、変わることができます。これが意味するところは明白で、一般に楽観主義者は悲観主義者よりもうまくやっていますが、悲観主義者でさえ、成功できるとわかったときには、期待を高めるようです。

これらの考察からいろいろなことがわかりました。幼い頃に成功体験や自己効力感を自覚する体験をした人は、その後、根気よく目標を追求し、成功に対する楽観主義的な見通しを育み、成長の過程で避けられない挫折や失敗や誘惑に対処する意欲や能力が高まることがわかったのです。このような研究結果を見て、私たちが配慮しなければならないのは、私たち幼児教育に携わっている人は、幼い頃の体験を意図しているわけですから、子どもたちには、成功体験や自己効力感を自覚する体験を意図することが大切であるということがわかります。

ミシェルは、未就学児の時にマシュマロ2個を手に入れるために待てる秒数と、その後の人生に見られる多種多様なポジティブな結果には、関係があると言うのですが、「自分には物事をコントロールする力がある」「自分が主体である」という、次第に深まる感覚や、楽観的な見通しは、彼の主張を裏付けることになっています。肝心なリンクとなると言うのです。そして、子どもたちは、対人関係を築くのを危うくしかねない衝動的な反応を抑制する能力があれば、自分のことを尊敬し、自分の価値を認めてくれる人々と、互いに支え合う、思いやりに満ちた友情を育てることができると言うのです。

自分の子どもたちに望むような、そしてまた、子どもたちの中に育むべきである、成長の好循環とは正反対なのは、一貫して基本的な自制のスキルを欠き、何もかもが手に負えないように感じ、自分の能力を悲観し、自尊心を維持するのに苦労している子どもたちが直面する悪循環です。適切な自制のスキルや、楽観的な見通し、成功体験、他人による助けや支援がないと、子どもたちは、主にホットシステムにコントロールされたままになり、効力を得ようとすると言います。ごく幼いときの努力が、実を結ばない可能性が高く、選択肢が狭められるにつれ、希望よりも絶望の感覚や態度を発達させがちになりかねないのだとミシェルは考えています。

以前のブログで取り上げたありとキリギリスの寓話の中の「あり」は、将来に備えるために何をするかを寓話の中では分かっているように描かれますが、実際は、本能的に知っていて、夏がやってくると、冬に必要になる食べ物を巣へ運ぶのです。しかし、ミシェルは、私たちには「あり」の本能はありませんし、進化はまだ私たちの脳を、遠い将来に具体的に対処するために適応させていないと言います。

ミシェルは、こんなことを言っています。私たちはぞっとするような出来事が差し迫っていれば、すぐに心配になるのに、将来については、ホットなかたちで鮮明に思い浮かべることはめったにありません。バラ色のめがねと、気分を良くさせる心理的な免疫系のおかげで、私たちの大半は、将来への不安に悩まされ続けずに済みます。癌や貧窮、孤独な老年期、不健康といった恐ろしい見通しのことばかり考えるのが避けられ、現にそうした不安が生々しいものになることがあれば、たいていの人はすぐに自ら気をそらすと言うのです。

成功の見通し

セリグマンが、「説明のスタイルからは、粘り強くことに当たる人物かそうでないかがわかります。成功へと導いてくれるのは、適度の才能と、失敗に直面したときに進み続ける能力の組み合わせです。」と話していますが、それは、マシュマロ実験の時に待ち続けられる未就学児にも同じくらいよく当てはまる説明だとミシェルは言います。待てる秒数は、先延ばしにできる能力を測定しているだけではなく、何秒待てたかから、その子がどれだけ粘り強いかがわかりますし、先延ばしにすることのいらだたしさと、がんばり通すのに必要な努力が刻々と増していく中で、どれほど我慢できるかも予想できると言います。

楽天主義者は、成功への全般的な期待が強いので、たとえ欲求充足を先延ばしにするのが難しいときにも、進んでそうするそうです。首尾よく待って、後で実験者が戻ってきたときにマシュマロを二個もらえるという見込みがない限り、子どもたちには、マシュマロのために待ったり、努力したりしようとする理由はないと言います。自分が望ましいと思った報酬を得るためなら必要なことは何でもできるという見通しを持った子どもは、それを手に入れるためには、待ったり、努力したりすることを選ぶようです。そういう見通しのない子ども、あるいは、実験者を信頼していない子どもは、ベルを鳴らして、ただちに得られる少ない報酬を選んだそうです。

さらにミシェルは、スタンフォード大学で、彼が担当した大学院生であったアーヴィン・ストウプと一緒に、成功の見通しが、先延ばしにされた報酬を得るために努力して待つのに必要な自制や意欲に、どのような影響を与えるかを調べました。すると、自分がやらなければならない具体的な課題を目にする前でさえ、たいてい自分は成功するだろうと見込んでいる14歳の男の子たちは、ただ待つだけではなく、うまくやり遂げないと、多いものの先延ばしにされた報酬が手に入らない、そんな認知的課題に進んで取り組むことが分かったそうです。これは、少ないものの、ただちに手に入る報酬では手を打たないということであり、彼らは成功をあまり見込んでいない子どもと比べて、この選択肢を選ぶ割合が2倍近かったそうです。

成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだのです。彼らはしくじると思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険を冒したのです。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだったのです。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからです。それまでの成功が、彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励したのです。それがすべて合わさって、楽観主義者をなおいっそうほほえませる結果を生むというのです。

この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかったそうです。しかし、そういう子どもも、現に首尾よく課題を成し遂げたときには、ポジティブな反応を見せ、この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高まったそうです。成功するだろう、あるいは、失敗するだろうという一般的な見通しは、私たちが新しい課題にどう取り組むかに、重大な影響を与えることがわかりました。

セリグマン

 極端な悲観主義者は、無力感を覚え、意気消沈し、自分の人生をコントロールできないと言います。自分の身に悪いことが起こると、何が悪かったのかについて、状況に即した説明や、あまり自分を責めないような説明は受け入れられず、自分が一貫して持っているネガティブな特性のせいにします。幼いときに、この悲観的な説明のスタイルが極端だと、将来が危ぶまれると言います。そのスタイルが固定化して深刻な鬱にも陥りかねないと言います。

 何度もこのブログで取り上げたマーティン・セリグマンが、クリストファー・ピーターソンと共に、25歳の健康な大学卒業生にやっかいな個人的体験について文章を書かせ、彼らがその体験をどう説明するかを調べたことについてミシェルは紹介しています。悲観主義者は、物事が決して良くならないだろうと信じており、いつまでたっても、それから逃れることは出来ない、個々の出来事を広く一般化し、人生のさまざまな面について陰鬱な結論に達し、そのすべてが自分のせいだと考えます。

 その後、研究の参加者全員を対象に追跡調査を行ない、健康診断をしてかかった病気を調べると、卒業後の20年間は、健康状態に有意の差は見られなかったそうです。ところが、45歳から60歳までの期間では、25歳の時に悲観主義の傾向が強かったヒトは、病気になっている割合が大きかったというのです。ミシェルは、セリグマンとピーターソンが、20世紀前半に新聞に載った、野球の殿堂入りを果たした選手たちのインタビューを分析して結果も紹介しています。この研究については、私も以前、ブログで紹介しました。それと同じになりますが、もう一度振り返ってみたいと思います。

インタビューには、なぜ、どのように試合に勝ったり負けたりしたかについて語っているときの、選手たちの説明が引用されていました。選手はみな、殿堂入りを果たすほど優秀だったにもかかわらず、負け試合を自分個人の失敗が原因と見なし、たとえば、「あの日の午後は、風向きが良かった」というように勝利をそのときの外的原因のおかげと考えていた人は、自分の成功は自分の手柄とする人ほど長生きではなかったというものです。

セリグマンは、楽観的なスタイルと悲観的な説明のスタイルに関する、こうした研究の大半で、指導的な役割を果たしたとミシェルは言っています。そして、セリグマンらは、自分の成功や失敗をどう認識し、説明するかという点で、楽観主義者は悲観主義者と違っていると主張したのです。楽観主義者は、失敗すると、自分の行動あるいは状況を適切に変えれば次回は成功できると考えます。彼らは、拒絶された経験や就職活動の頓挫、投資の失敗、お粗末な試験結果を活かして、次に試みるときに成功する可能性を高めるのには何をする必要があるかを突き止めようとします。それから代替案を考え出し、重要な目標に到達する別の道筋を見つけたり、もっと良い戦略を立てられるまで、必要な助言を求めたりすることがわかりました。

楽観主義者が失敗には建設的に取り組むのに対して、悲観主義者は同じ経験を使い、自分の陰鬱な見通しを裏付け、自分のせいだとばかり思い、自分にはどうしようもないと決めてかかって、失敗について考えるのを避けると言われています。セリグマンは、次のように述べているそうです。「大学の入学試験は、才能を測定するものです。一方、説明のスタイルからは、粘り強くことに当たる人物かそうでないかがわかります。成功へと導いてくれるのは、適度の才能と、失敗に直面したときに進み続ける能力の組み合わせです。……人について知っておくべきことは、思うに任せぬ状態になったときにも、その人がやり続けられるかどうか、なんです。」

楽観と悲観

楽観とは、最良の結果を予想する傾向を言います。心理学者は、人が自分の将来に対して好都合な見通しを持つ程度というふうに定義しますが、それは、本人が本当に起こると信じている見通しで、「できると思う!」というマインドセットと密接に結びついていると言うのです。この見通しは、ただの希望というよりも、確信に近いものです。楽観のもたらす婦児ティブナ結果は、目もくらむほど素晴らしく、研究による十分な裏付けがなめれば、とうてい信じられないほどだとミシェルは言います。

 たとえば、シェリー・テイラーとその共同研究者たちは、楽観主義者のほうがストレスに効果的に対処し、その不都合な影響を受けにくいことを示しています。楽観主義者たちは、楽観の度合いが小さい人と比べると、自分の健康と将来の幸せを守るために多くの手を打ち、全般に、より健康な状態を保ち、鬱になりにくい、心理学者のチャールズ・カーヴァーとその共同研究者たちは、楽観主義者が冠状動脈バオパス手術を受けると、悲観主義者よりも早く回復することを突き止めています。

これは、以前紹介したマーティン・セリグマン著の「オプティミストはなぜ成功するか」という本の中でもこのような研究が示されています。人生は、楽観主義者であるオプティミストにも悲観主義者であるペシミストにも等しく挫折や試練が訪れますが、その時にオプティミストの方が上手に切り抜けて生きていくことができ、また、オプティミストは、職場でも学校でも、スポーツでもよい成績を上げることもわかりました。また、オプティミストの方が、健康状態もよく、長生きするという説の有力になってきたことが書かれてあります。

これと同じですね。ミシェルも、楽観主義の恩恵については、例を挙げればきりがないほどであり、ようするに、楽観は、適度に現実に即しているかぎり、望んでしかるべき恵であると言っているのです。そして、楽観の真価を認め、楽観がなぜ、どのようにその持ち主を助けるかを理解するには、その対極になる悲観について考えればいいとミシェルは言います。

悲観とは、ネガティブな面に焦点を当てたり、最悪の事態を予期したり、このうえなく陰鬱な解釈をしたりする傾向をいいます。意気消沈した悲観主義者に、「私は□□□が大嫌いだ。」という文を示して、まず、頭に浮かんだ言葉で空白を埋めるように言うと、「自分」「自分の外見」「自分の話し方」などを入れる可能性が高かったのです。極端な悲観主義者は、無力感を覚え、意気消沈し、自分の人生をコントロールできないと言います。自分の身に悪いことが起こると、何が悪かったのかについて、状況に即した説明や、あまり自分を責めないような説明は受け入れられず、自分が一貫して持っているネガティブな特性のせいにするそうです。試験に落ちれば、「私は無能だ」と考え、たとえその試験が、重要な事柄を何一つまともに測ってはいない場合でさえ、悲観主義者は、指示がまぎらわしかったり、選択肢の違いが不明瞭であったり、時間のプレッシャーが過剰であるような、試験自体についてのものであろうと、たとえば、おなかの調子が良くなかったりする個人的な問題であろうと、もっと自分に優しい説明は、たとえそれがたまたま真実だったときでさえ、思いつかないと言います。

行動の原因

1974年に、ミシェルは学生たちとスタンフォード大学で、未就学児が自分の行動の原因を、どう認識しているのかを評価する基準を開発しました。まず、彼らにこんな質問をしてみました。「クレヨンを折らずに、絵をまる1枚描ききったときには、それはあなたがとても注意深かったからですか?それとも、良いクレヨンだったからですか?」「誰かがプレゼントを持ってきてくれたときには、それはあなたが良い子だったからですか?それとも。その人がほかの人にプレゼントをあげるのが好きだからですか?」

このような質問をした後、ミシェルらは、こうした質問に対する子どもたちの回答が、彼らの行動をどう結びついているかを検証したのです。その際に、評価する行動も、自制を必要とする別の状況でのものとしたのです。この研究の結論は、自分の行動によって、結果はコントロールできるという未就学児の信念でさえ、彼らがどれだけ一生懸命試みるかや、どれだけ長くがんばり続けるかや、自制がどれだけ得意かとかなり関連していたそうです。自分がポジティブな結果の原因であると見なす度合いの大きい子どもほど、マシュマロ実験で欲求充足を先延ばしにしたり、自分の衝動的な傾向をコントロールしたり、望んでいる結果に行き着くために、自分の行動が役に立つさまざまな状況で、粘り強く取り組んだりする可能性が高かったそうです。彼らは、自分たちにはそれができると信じており、実際にそれをやってのけたのです。

 自分はできる、努力できるし、粘り強く取り組めるし、ポジティブな結果を生み出す行為者たり得る子どもの自己認識は、成功を助ける自制スキルによって、育まれるようです。スタンフォード大学のサプライズ・ルームで、首尾よく待って、手に入れたお菓子をただ食べてしまわずに、自分が勝ち取ったものを親に見せたがり、かばんにしまって家に持ち帰ることを選んだ、一部の未就学児たちのプライドに満ちた振る舞いに、それが見て取れたそうです。幼い頃に、より効果的に待って、より多くのお菓子をもらうためにがんばれるほど、また、そうした成功を可能にする、認知的スキルや情動的スキルが優れているほど、「そう、私にはできる!」という感覚を伸ばし、新たな、より困難な課題に立ち向かう準備が出来るということがわかりました。

 やがて、自分には物事をやってのける力があると自覚する経験と、新たに身につけるスキルそのものが、報酬となり、その活動自体から満足が得られるようになると言います。ミシェルは、こんな例を挙げています。「バイオリンの弾き方を習う」とか、「レゴで一大帝国を作る」とか、新しいコンピューターのアプリケーションを発明する」などを身につけるスキルそのものが、報酬となり、その活動自体から満足を得られるようにあります。保育という仕事は、まさにこのような満足が得られる可能性が高い職業のような気がします。

 子どもの自己効力感や、主体性の感覚は、成功経験に根ざしたものとなり、現実に基づく楽天的な見通しと抱負につながり、一回成功するごとに、次の可能性が高まるというのです。このときの「楽天的な見通し」とは、楽観であり、最良の結果を予想する傾向を言います。心理学者は、人が自分の将来に対して好都合な見通しを持つ程度というふうに定義しますが、それは、本人が本当に起こると信じている見通しで、「できると思う!」というマインドセットと密接に結びついていると言うのです。

拡張的か固定的か

自分の知能が、まわりの世界をコントロールする能力、社交性、その他の特徴は、生まれたときから逃れようのないもの、あるいは、恵まれているものではなく、鍛えたり、発達させたりできる筋肉や、認知的スキルのように、柔軟性を持っていると、幼い頃から考える子どもを、「拡張的知能観」の持ち主と呼び、一方、自分の能力、賢いか愚かか、良いか悪いか、協力は無力か、を自分には変えられない、生まれてこのかた固定された水準に凍り付いているものと見なすのが、「固定的知能観」の持ち主と呼びます。この二つの知能観にどんな差が出るのでしょうか?

まず、固定的知能観から脱せない子どもは、学業が次第に難しくなったとき、特にアメリカでは小学校からジュニアハイスクールへの進級時に、学校での経験は、楽しくて楽なものから、きつくて負担の大きいものに変わり、大きなプレッシャーがかかり、落ちこぼれるかもしれないという不安を生みます。そして、まもなく成績が落ち始め、ジュニアハイスクールでの2年間、悪化の一途をたどることが、多いということが研究で明らかになりました。

 一方、拡張的知能観を持った生徒は、同じ2年間に成績がどんどん上がり続けたそうです。ジュニアハイスクールに入学したときには、過去の学校成績は区別がつきませんでしたが、卒業時には、明確な格差ができていたのです。

 能力は変えられないというマインドセットの生徒は、新しい学校の厳しい負担に手を焼いているのは、自分に能力がないから、たとえば、「数学は全然だめだ」とか「自分はいちばん馬鹿だ」と思い、あるいは、教師が悪いから、たとえば、「あの先生はコカインをやっている」というように言い訳をします。拡張的知能観を持った生徒は、やはり新しい負担に圧倒されるように感じることはあるものの、せっせと勉強し、新たな状況に対応するのに何が必要かを突き止め、それを実行することで対応しようとします。

 ミシェルは、それを未就学児に理解できるレバルで言えば、「できると思う!」という信念は、幼児向けの名作「ちびっこきかんしゃだいじょうぶ」という本に書かれていると言います。その内容は、子どもたちのためのおもちゃとご馳走を満載した列車が、最後の急な山を登ろうとしているときに、動けなくなってしまいます。客車を引っ張る真新しいぴかぴかの機関車と、貨物列車を引っ張る強力な機関車と、古いくたびれた機関車が、みな手をさしのべるのを拒んで通り過ぎてしまいます。そこへようやく、心優しい小さな古い機関車が、通りかかります。その機関車は、「僕にはできると思う  できると思う  できると思う」という拡張的知能観のスローガンを唱えながら、苦闘に苦闘を重ねた末、とうとう首尾よく列車を引っ張り上げ、山の向こう側で待ち受け手いる子どもたちに贈り物を届けるといったストーリーです。

 1974年に、ミシェルは学生たちとスタンフォード大学で、未就学児が自分の行動の原因を、どう認識しているのかを評価する基準を開発しました。彼らは、良い出来事が起こったとき、自分自身がそれをもたらしたと見なすか、それとも、外部の要因のおかげと考えるか?そして、原因の帰属のさせ方のこうした違いは、彼らの自制心や発育状況と結びついているか?「行動の内部コントロールvs外部コントロール」の認識についてのこの基準では、彼らがどこに位置するかを測定することをしたのです。

 

知能観

 当時、コロンビア大学にいたキャロル・ドゥエックは、自律感と自己効力感というトピックに関して、現代の心理学の分野でも、指折りの、強力で効果的な発言者でした。2006年の著書「やればできる!の研究  能力を開花させるマインドセットの力」の中で、彼女は、自分はどれだけ自他をコントロールし、変え、学べるかについて、そして、自分の振る舞いや経験、未来の姿をどれだけ改善できるかについて、人々の考え方が、彼らが現に達成したり、なったりできるものに影響を与えることが書かれてあります。ドゥエックとその共同研究者たちは、人間の特徴の順応性、あるいは、不変性についてのこうした考え方は、自制や意志の力、知能、精神状態、人格のどれに関してであろうと、重要であることを立証しました。そうした考え方のありよう次第では、自分の業績をどう評価するかや、自分自身や他人についてどんな判断を下すか、そして、今度は社会の方が私たちにどう反応するかが変わってくるのです。

 自分の知能が、まわりの世界をコントロールする能力、社交性、その他の特徴は、生まれたときから逃れようのないもの、あるいは、恵まれているものではなく、鍛えたり、発達させたりできる筋肉や、認知的スキルのように、柔軟性を持っていると、幼い頃から考える子どももいます。ドゥエックは、そういう子どもを「拡張的知能観」の持ち主と呼んでいます。一方、自分の能力、賢いか愚かか、良いか悪いか、協力は無力か、を自分には変えられない、生まれてこのかた固定された水準に凍り付いているものと見なすのが、「固定的知能観」の持ち主と呼びます。

 幸い、ドゥエックの研究は、こうしたマインドセットの重要性を示すだけにとどまらず、これらのマインドセットには、変化の余地があることを明らかにし、マインドセットを考え直したり、修正したりするための多くの方法を説明しています。

 ドゥエックによれば、固定的知能観から脱せない子どもは、学業が次第に難しくなったときには、とりわけ苦労することになると言います。このつまずきは、アメリカでは小学校からジュニアハイスクールへの進級時に目立つそうです。この進級に伴い、成績が突然、子どもを安心させるのではなく、優劣をはっきりさせるかたちで付けられるようになる場合が多いようです。学校での経験は、楽しくて楽なものから、きつくて負担の大きいものに変わります。難しい宿題がたくさん出され、周りも競争的になります。大きなプレッシャーがかかり、落ちこぼれるかもしれないという不安を生む、新しい学校環境では、自分の能力は変えようがないと思っている生徒、固定的知能観の持ち主は、まもなく成績が落ち始め、ジュニアハイスクールでの2年間、悪化の一途をたどることが、ドゥエックの研究で明らかになったのです。

 一方、拡張的知能観を持った生徒は、同じ2年間に成績がどんどん上がり続けたそうです。両者がジュニアハイスクールに入学したときには、過去の学校成績は区別がつきませんでした。しかし、卒業時には、明確な格差ができていたのです。成績ではなく、どんなところに差が出たのでしょうか?

できると思う!

カリフォルニア大学ロサンジェルス校の教授であるシェリー・テイラーが率いるチームは、自己効力感や楽観的な期待があれば、ストレスの有毒な影響を和らげ、健康に関連した、望ましい神経生理学的・心理的な結果を多く招くのが見込まれることを証明しました。彼女らは、2011年に、こうした信念はそれぞれ、相当の遺伝的要素を持っているものの、環境条件によって修正されたり、影響を受けたりする余地もあることを、アメリカ科学アカデミー紀要誌で発表したのです。人生の質と長さを、こうした信念が左右することを踏まえ、これから一つ一つについてミシェルは検討していくのです。

これらの研究は、確かに保育に当たる私たちには参考になります。というのも、遺伝的な要素を修正するためにどのような環境条件を整える必要があるのかと言うことが、保育の一つの役割でもあるからです。それが、乳幼児期における教育と呼ばれることかもしれません。

 「自己効力感」や「楽観的な期待」があることが必要であるとしましたが、これも、必要であるという他の研究をブログでも紹介しました。ミシェルは、この「自己効力感」をこう説明しています。「自分の行動を決定するにあたり、能動的な行為者となれるという信念や、自分は変わったり、成長したり、学んだり、新たな難題を克服したり出来るという信念だ。」以前のブログでは、この「自己効力感」を持つことで、病気を克服し、健康になったり、寿命を延ばすことにもなるという研究を紹介しました。また、「楽観的な期待」は、オプティミストはなぜ成功するかということから、楽観的な期待が、いかにストレスを退け、物事を成功に導くかという研究を紹介しました。

 ミシェルは、こんな体験からその重要性に気づいたと語っています。それは、彼が、オハイオ州立大学の臨床心理学の博士課程に在籍して、指導教官のジョージ・A・ケリーが、苦悩に満ちた「テレサ」という若い女性を治療するのを見守っていたときのことでした。テレサは、次第に動揺し、不安になり、もう自分の人生が手に余ると感じていました。3回目のセラピーセッションの時、どうやら興奮が頂点に達したようで、自分は正気を失いかけているのではないかと涙ながらに声を張り上げて訴え、ケリー医師に、どうか答えて欲しいと懇願し、こう尋ねました。「私は気が変になりかけているのでしょうか?」

 ケリーは、ゆっくりとめがねを外し、彼女の顔に自分の顔を近づけ、まっすぐ目をのぞき込んで訊きました。「そうなりたいですか?」

 テレサは、ハッとしました。肩から大きな重荷を降ろしたかのように、途方もなく気が楽になった様子でした。どう感じるかを変える力が自分にあるかもしれないなどということは、思ったためしがなかったのです。突如として、「気が変になる」というのは、避けられようのない運命ではなくなり、一つの選択肢に変わったのです。自分はこれまでの経歴の受動的な犠牲者として、人生が崩れていくのを、指をくわえて眺めている必要などありません。彼女にしてみれば、これが、「わかった!」の瞬間だったのです。これをきっかけに、彼女は自分について別の、もっと建設的な考え方を探し始め、それまでは不可能だと思って考えもしなかった行動の道筋が開けたのでした。

 「できると思う!」という信念が、人生をがらりと変えたのです。

恵まれた信念

ミシェルは、サルも人間もミラーニューロンを持ってはいますが、私たちの方が共感するのがはるかに得意で、その違いは、人間らしさの重要な要素だというのです。人間のミラーニューロンの役割については、まだ論争が続いているそうですが、ミラーニューロンは、他人が考えたり感じたりしていることの軽いバージョンを、私たちが経験するのを可能にする神経構造の一部らしいと彼は言います。心の中にあるこの鏡のおかげで、優しげな人に微笑みかけられると、私たちは思わず微笑んでしまいます。また、他人が怖がっていると、私たちも恐れを感じ、他人が痛みや喜びを感じていれば、私たちも同じように感じます。リゾラッティの言うように、この鏡は私たちが、「概念を使う論理的思考ではなく、直接のシミュレーションを通じて、他者の心を把握する」ことを可能にしてくれます。「考えるのではなく、感じることによって」ミラーニューロンは、社会の中で相互に依存する社会的な生き物として私たちが機能し、生き延びるための土台なのだとミシェルは言います。

このミラーニューロンについては、このブログで、何度も取り上げ、その機能、また、その反論などを紹介してきましたので、その役割については納得がいきます。また、生き延びるための土台が、社会の中で相互に依存する社会的生き物として機能することにあるということも、同意することができます。

人生の初期に、実行機能が十分に発達すると、子どもたちは望むとおりの人生を築く可能性が高まるとミシェルは言います。そうした子どもたちには、私たちが自分の愛する人には備わって欲しいと願うもののリストで当然高い順位を占めると思われる自己信念を築くための基盤ができています。この自己信念とは、自分には自制能力や問題解決能力があるという意識や、将来に対する楽観的な見通しといった、相互に関連した信念だと言います。このような恵まれた「資源」は、各自の自分についての信念であり、外部の評価でも、達成度や力量の客観的なテスト結果でもないことが、是非とも理解しておかなければならないとミシェルは言います。

ストレスのネガティブな作用が、本人がそのストレスをどう認識しているか次第であり、誘惑の影響が、本人がその誘惑をどう評価し、どう頭の中に思い描くか次第なのとちょうど同じで、私たちの能力や業績や将来の見通しがもたらしうる健康上の恩恵は、それらを私たちがどう解釈したり、評価したりするかにかかっていると言います。とても力量があるのに、ネガティブな自己評価を下し、身のすくむような自己疑念を抱いて、自らを害している人を、知っているでしょうから、そんな人のことを考えてみるといいとミシェルは提案します。自己についての信念は、力量や問題解決能力の客観的測定値と相関しているものの、その相関は、完全にはほど遠いとミシェルは考えています。

心理的にも生物的にも首尾よくやっていくためには、こうした信念が重要であることを裏付ける、目を見張るような証拠は、増える一方であると言います。健康心理学という分野の創始者で、カリフォルニア大学ロサンジェルス校の教授であるシェリー・テイラーが率いるチームは、自己効力感や楽観的な期待があれば、ストレスの有毒な影響を和らげ、健康に関連した、望ましい神経生理学的・心理的な結果を多く招くのが見込まれることを証明したのです。