相互作用

 マサビュオーは、なぜ日本では、伝統的家屋が日本全体で一つにまとまって成立しているのかということについて、こう考察しています。ユダヤ教、キリスト教的文明が、受動的な自然に対して人間の積極的な役割を強調していて、そのために、自然や時間に挑戦していくような建築物を考えるようになったのだとすれば、日本人たちは、厳格な意味での合理性には無縁の諸条件によって拘束されていて、そのために自分たちの技術上の方法を選択しているように思えると言います。合理的ではない、別の象徴的な論理があって、その効力のほうが優れていると思われていて、日本人たちはそちらの論理に従っているようだというのです。

 ここで言う「合理性には無縁の諸条件」とか「象徴的な論理」とは、どのようなものであるかは、いままでの考察でだいぶわかってきました。それは、日本の家のあり方なのでしょう。そのあり方は、日本の家族制度の厳格な儒教的枠組みが考えられます。日本では、住居を家族に同一化する傾向がこのうえなく強く、こうした住居と居住者の二項のつながりは、両者が相互に絶えず作用し合っていることによって、活発なものになっているとマサビューは言います。彼は、日本全国どこでも、家族生活の住居への影響は重要だと見ています。

日本では、家族が共に生活する習慣があるために、中仕切りは軽快で、部屋は互いに通り抜けになっています。並んで寝る習慣があるために、いろいろな家具を大規模にそろえることはできないと言います。また、住居は、家族成員間の上下関係をはっきりと表現しているとも言います。女性が仕事をする場所、土間、台所は、家の中でもっともなおざりにされていて、寒く、外気が吹き込んできます。西洋の住居の場合とは逆に、女性の存在が、快適さと温かさとして表現されることはほとんどないと言います。

「床の間」の花は、表面にあらわれた唯一の慰みの調べなのだが、これもその機能は、座敷という栄誉ある部屋を飾ることがあって、女主人の個人的な好みを表現したり、満足させたりするものではないと言います。

また、家族生活の住居への影響とは逆に、家族生活が住居の枠組みからはっきりした影響を受けるといった面もあると言います。日本の住居は、戸外に向かって大きく開いているために、家の中にいても、季節の変化や戸外の物音が生き生きと感じ取れます。また、家の中の仕切りも、中に住んでいる人間の間をあまり隔てるようにはなっていません。部屋は、紙製の戸だけで区切られ、欄間は吹き抜けになっていて、外部からの断絶という点ではあまり堅固ではありません。こうした部屋にいると、ちょっとした動作でも他人に聞き取られてしまう。こうした環境では、家族の成員は互いのことを何でも知っていて、特に気をつけていなくても、思想上の真の共同体が作り上げられると言います。同じ家に住む人間同士は、たいへんに素直でなければならず、いつも自然に振る舞っており、特に睡眠と入浴の時には気取りがありません。また、夏の間は建具を取り払ってしまうので、外から内部が見えてしまい、家の中で暮している人たちの私的な生活の秘密を厳格に守るというわけにはいかないというのです。

この両者が相互に絶えず作用し合っていることを知ることは、たいへん面白く感じます。

日本の家についての考察2

多くの西洋の国々では、石造りや煉瓦造りの家、また、粘土製の家でさえ、頑丈な殻を形成して、中に住む人の生活を保護していますが、日本の家屋は違う様相をしているとマサビュオーは言います。日本の伝統的な家は、軽く、はかない姿ですし、塗装をしていない壁は数年もすると、みすぼらしくなってしまうように思われると言います。こうしたもの悲しい印象は、日本の伝統的な住居が並ぶ町が、薄茶色や灰色を基調にした色で覆われていることで、いっそう強められると言います。また、戸外に対する断絶性がたいへん弱く、道にのぞんだ側面は、すべて閉じられているのに、戸外の騒音を大量に通してしまい、さまざまな匂いが容赦なく侵入してきてしまうことも、このもの悲しい印象をさらに強めているというのです。

この説明だけを読むと、なんだか情けなくなります。住むのに、本当に適さないことを感じますし、少しは何とかどうしてしてこなかったのか、改善を試みてこなかったのかと疑問に思ってしまいます。これほどまで徹底していると、かえって、何か意図があるのではないか、そこに何か価値を持ったのではないかと思ってしまいます。

さらに、マサビュオーは、こうした印象を抱くばかりでなく、多少とも長い滞在の経験をしてみたり、昔ながらの旅館で1泊だけ過ごしてみたり、とにかく実際の生活を経験してみる必要があると勧めています。日本の伝統的家屋では、しきいを越えてすぐに靴を脱ぐという最初の不可欠な動作からしてすでに、彼の祖国であるフランス人のものと根本的に異なる居住のあり方が立ちあらわれると言います。さらに、床に座ったままで、主要な日常的行動が行なわれていくことに驚くであろうと言います。かつて紹介したように、日本の伝統的家は、人間の五感に訴えます。畳や内壁や建具の地味の色合いによって視覚に訴え、家の枠組みのきしみ、靴を履いていない足が床や畳にすれる音、庭に砂を打つ雨の音、他人のちょっとした体の動きが出す音によって聴覚に、畳の匂い、便所の匂いなどによって臭覚に、それら独特な感覚の世界ができ上がっていて、室内の気温が実際的には戸外と同じであることから、日本の伝統的家屋は、春と秋には心地よいものだが、冬はたいへん寒く、夏は暑苦しいと言います。

そして、「畳」と呼ばれる厚い敷物が、床を覆っていて、床下が高いために、床が冷えすぎるのを抑えているくらいで、北国の長い寒さを和らげるために、何もされてきていないように思われるとマサビュオーは言っています。さらに、日本では絶え間なく地震があるのですが、日本の家屋には、本格的な基礎がなく、骨組構造に斜めの建材が入っていないために、簡単に地震の犠牲になってしまいますし、すべてが植物性の材料でできているために、地震の時に発生する火事で何の抵抗もなく、焼失してしまうと言います。

自然からの保護がほとんど欠如したこうした家空間のあり方が、北国のほとんどシベリア的な気候の海岸沿いの地帯から、沖縄の環礁のある地域まで、一貫して支配していると言います。日本の家は、入口から奥の部屋に至るまで、三つの部分からなっていて、この構造は、どの地方へ行ってもほぼ変わることがないと言います。外の道からつながって、土間があります。床の高さには、縁側、台所、通路、畳の部屋があります。座敷には、上座のさらに上等の位置に「床の間」と呼ばれる一段高い床があって、装飾的な棚が設けられており、美しさ、華やかさの中心になっていると言います。また、炉床の形、建物の開口部の形、生活に必要なありとあらゆるものの形態が、どこに行っても同じ動作を要求しているというのです。

日本の家屋についての考察1

 マサビュオーの日本の家についての考察を読むことで、あらためて日本の伝統的な美や文化を見直すことができると同時に、それを保育にどう生かすかを考えてきました。日本における家という空間が、どのような役目を担ってきたかを見ることで、保育室という、子どもたちが生活する空間をどのように考えたらよいかを知ることができました。最後に、繰り返す部分があると思いますが、彼がまとめた最後の言葉で整理してみたいと思います。それは、「日本に一つの独創性、つまり他の民族に比して、少しは違っていると言える一点があるとしたら、それはおそらく日本の伝統的な家のあり方である。」という言葉につきるようです。

 彼は、日本の伝統的な家の第一印象として、このようなことを言っています。それは、保育室を考える上でとても参考になります。まず、住居とは、さまざまなスタイルや建築様式はいろいろとありますが、どこにでも共通の二つの要求があります。それは、「身を守るところ」と「くつろげるところ」という役割です。この二つを満足させるために、人類は誕生以来すみかを求めてきました。それが、かつて紹介したような「家」という漢字の語源です。

 ところが、日本では住居について昔から別の機能を満足させることが大切であるとされてきたと、マサビュオーは考えています。それは、家は何よりも、宗教的、倫理的、美的な意味を表現すべきものだと考えているといことです。日本の住居の歴史を見ると、生活する空間を、合理的に整えることは後回しにされてきていて、そうした状態が、ごく最近まで続いていたというのです。住居建築の発展の歴史の中で、何か画期的な要素が取り入れられる際にも、ほとんどすべての場合、それらの要素は、宗教的、倫理的、美的な要求だけに従って取り入れられていると言うのです。そして、17世紀になると、住居建築は、厳しく画一化されて、その状態が長く続くことになったと言います。

 空や、高い建物の上から日本の伝統的な町を見下ろすと、褐色の瓦でできた、同じ形の殻のような屋根が、ほぼ同じ高さに並んでいて、ところどころ寺院の背の高い建物の屋根や、白い漆喰塗りの倉のかたまりが突き出ているのが見えると言います。道を歩くと、連なった家の正面は、木製の格子戸で守られていて、その格子戸の奥には、半透明の紙が貼られた窓枠があり、この窓はたいてい閉められています。家の中に入ると、人間は薄暗がりの中に包み込まれてしまい、奥の部屋へ行くと、暗さが少しずつ薄れてきて、そして、緑に覆われた小さな庭に出るのです。

 いたるところに建築現場があって、明るい色の軽やかな骨組が建てられています。柱や梁が、まだ透かして見えるそのほっそりとした骨組の上に、すでに屋根が載っているものもあります。もっと多く見受けられるのは、古くなって傷んだ家だと言います。家の基礎が剥き出しになり、板塀は下のほうが腐り、間仕切りの襖の紙は破れ、瓦にはひびが入っています。風、雨、雪、地震に痛めつけられて、こうした家の寿命は、平均50年と短いのです。

 マサビュオーは、こうした日本の伝統的な家を、観察に来た外国人は、家のもろさ、実体の欠如に、まず驚かされると言います。多くの西洋の国々では、石造りや煉瓦造りの家、また、粘土製の家でさえ、頑丈な殻を形成して、中に住む人の生活を保護しているのです。ところが、日本の家屋は違う様相をしているというのです。

家とは?

マサビュオーは、日本の家の国の諸価値の番人としての役割を、無感動に放棄しつつあるような動きは、まだ完了してしまったわけではないというのです。1993年現在(彼がこれを書いた時期)においても、伝統的なスタイルの住居がいたる所で、特に地方において、数多く建てられていると言います。しかし、危険な可能性を感じると言います。このように危惧しています。「展覧会や演劇公演、文芸作品の翻訳、外国人の日本への観光旅行などによって、日本芸術の希有な美しさが、世界中に浸透しつつあるときに、日本人の日常生活の枠組みである日本の家が、日本人の文化の価値を具体化する必要はもはやないと、日本人たち自身が決定してしまったかのようである。こうした観察は、おそらく正しいだろう。とするならば、何が家の代わりになるだろうか。」

最近、世界ではmade in Japanが評価され、同時に日本の文化、芸術が認められてきた時代、その発信元である日本から、それを支えてきた「家」という教育力を持った空間が消滅してしまったら、何が、その役割を担っていくのであろうかと言うことをマサビュオーは危惧しているのです。

マサビュオーは、著書「家屋(いえ)と日本文化」のなかで、最後にこうまとめています。「家は、何よりもまず、各人が生まれ育つ場所である。人は誰も、いわば家の子である。自分の家の形、装飾、物音、匂いなどが感覚を鍛え、世界についての教えを与えてくれる。城であろうと、あばら屋であろうと、テントであろうと、またイグルーであろうと、各人にとって自分の家は、自分の属する共同体が与える構造を備えた空間であって、この最初の家の刻印が、各人に消しがたく押される。そして、この家から、各人は、人間社会へ入り込むべく出発するのである。」

このことは、何も日本だけに限ることではなく、各民族は、自分たちに伝統として受け継がれてきた家の「子ども」であるという言い方を、マサビュオーはします。家は、いわば無数の鏡であって、民族がどのような性格を持っているのかを、目に見える直接的な形で民族の成員たちに見せてくれているというのです。巧みな建築方法や、気候の厳しさに対する賢い適応の仕方などの中に、民族が美をどのようなものと考えてきたかについての印を、民族全体が再発見すると言います。そして、各民族が、自分たちの社会での生活の決まり、それは、礼儀作法、他人との関係、プライバシーについての考え方、客の接待のしかたなどについての教えを受けるのも、家においてであると言います。そして、これらのすべてのことを教えてくれるのは、各人が家で暮しているときなのだというのです。

ですから、それぞれの国の伝統的な家は、何よりもまず、現在に存続し続ける「過去」であるということができるのではないかと言います。伝統的な家は遠い昔からあるので、その起源については、誰も正確に知らないと言います。それで、民族とその文明そのものが、誕生のあり方をその姿にとどめており、その本来的で変わることのない象徴であるように思えるほどだというのです。それぞれの民族が、自分たちの伝統的な家に、自らの起源を見出そうとしなかったことがあるだろうかと考えています。

諸価値の番人

 マサビュオーは、日本の住居の歴史をこのように捉えています。平安時代の「寝殿造り」の大邸宅から、鎌倉の「武家屋敷」、仏教僧院起源の「書院造り」を経て、茶の湯のために発展した「数寄屋造り」に至るまで、どの形式もごく普通の建物に美的かつ宗教的な痕跡を残し、それが市民の住居の形態や装飾の中に永遠に刻み込まれたのだと考えています。そして、これらの形態や建材や色合いが、少しずつ田舎の住居にも移っていき、一つの共通した美的な趣味が日本の住居のほとんどすべてにまで及んだのだと言います。

 こうして、日本の伝統的な家が、竪穴式住居、高床建築などの原始的なひなびた家や、中国の大規模な建築物や、茶道などからのさまざまなメッセージを一つ一つ集め、それらの担い手となったのだと言います。芸術家たちに注文ができるような財産家がいなかったために、宮殿、城、絵、彫刻、金属器、漆器などの芸術作品の数が、他の多くの国のものと比べて、相対的にも非常に少ないとしても、日本においては、美的なメッセージの本質はおそらく他の多くの国よりも、はっきりとした形で、各人の住居の中に刻み込まれていたのだと考えています。このことはさらに、江戸時代に出されたいくつもの贅沢取締令のために、建築の方法や形態を画一化されたことによっても助長されたとみています。これらの考え方が、これまで彼が言ってきたことです。

 このようにして、伝統的な建築の標準化が、西洋諸国におけるよりも、日本では明らかに入念に実施され、江戸時代のそれぞれの藩において強化されたことによって、家の諸形態の中に、日本的な美的趣味と芸術の正式なあり方を完全に「固定化」することになったのだと言います。このように、日本では長い間いろいろな形でありながら、常に「家」というものを媒体として、伝統的な文化をつないできたのです。

 ところが、マサビュオーのみた当時の日本では、このような傾向はどれも逆転しているように見えました。日本は、自国の芸術的文化の影響を、地球全体に及ぼし始めたのですが、それと同時に、日本の伝統的な家は変化する傾向を見せていたのです。家は現代的になり、そのために、これまですべての日本人のために維持されてきた美についての諸価値を、彼は、おそらく一つ一つ失いつつあるように見えました。

西洋化し、国際化することによって日本の家は、かつて住人が享受していた魅力と晴れやかな力との秘密を捨て去ることになったと考えます。地味で華麗だった壁の上塗りは、面白みのない壁紙に替わり、半透明の紙である「障子」は、ありふれていて神秘のないガラスになったと言います。さらに、畳の香りと織目とは、ありきたりの絨毯に替わってしまい、屋根の瓦や藁は、赤、緑、青などの雑色のトタン板に取って代わられ、「床の間」や「書院」も、普通の絵や写真に席を譲って消えてしまっていると言います。日本において、現代化は、伝統的な「美」を捨て去ることになったのですね。私は、園作りの中に、これまでの日本がつないできた日本的な伝統的「美」を少しでも子どもたちに伝えたいという想いで、この消えてきたものを少しでも再現しようとしています。

このような動きは、少しずつ生まれ始めているようです。彼は、一見、日本の家の国の諸価値の番人としての役割を、無感動に放棄しつつあるように見えますが、こうした動きは、まだ完了してしまったわけではないというのです。

担い手

 世界への発信力は、世界への影響力ということにもなるでしょう。しかし、それもいろいろあって、例えば、一時期、世界征服を試みた時代がありました。そして、各地に植民地を作りました。それは、直接的な世界進出であって、その強引さによって、その国の文化までも侵略するのは難しいことだったでしょう。それは、言語一つとっても、以前のブログで紹介したように、そこに長く住んできた人たちにとっては、抵抗します。ですから、自国の文化の影響を外国へも及ぼすことができるのは、その国が、強力な政治的、軍事的、経済的力によって、その文化を支えているときだけでした。

 その条件を、マサビュオーは、二つに整理しています。一つ目は、例えば、芸術や文字、音楽などの普遍的な広がりを持つ作品を生み出すための文化の特別な飛躍的発展の場合。もう一つは、あちこちの国々に影響を広めるのを助けるための非文化的な種類の力です。この二つが同時に満たされる事が必要だと言います。一つだけしか実現できないために、文化的な移動が生じなかったり、経済的に豊かで軍事的に強力な時代であっても、その時に芸術や文芸の分野で非凡な作品が生み出されていないために、世界的影響を及ぼすことができなかったという状況は、多くの国で生じていると言います。

 昔の日本にこのことが当てはまると言います。明治以降の産業的躍進が生じるまでのいく世紀もの間、日本は貧しく、その時期に日本の芸術家たちは多くの斬新な傑作を生み出したのですが、国の政治的力が弱く、また、250年間の孤立の時代があったために、その影響が東アジアに広がることはなかったとマサビュオーは見ています。東アジアでは、中国のいっそう多様で輝かしい文明の影響力が強く、強力な競争相手であったことも指摘しています。しかし、19世紀末には、経済力が強力となり、特に1960年から72年にかけての高度成長によって、この強力な経済力がさらに発展して、日本は単に経済的影響力を持つだけでなく、純粋に文化的な影響も及ぼすようになり、他の国々の文化に、有効に働きかけるようになりました。

 尾形光琳や乾山やその他の芸術家たちが輝かしい活躍をしていたときに、日本が孤立していて、国際的な力が弱くて、日本以外では彼らの傑作が享受できなかったことは、残念であったとマサビュオーは言います。日本はその文化の影響を他国へ及ぼすことができず、また、日本に十分な富の蓄積がなく、芸術愛好家や顧客の数も十分でないために、日本の文化的生産は、数少ないモデルに限られて、多くの作品を生産できなかったと見ています。しかし、それにもかかわらず、武士や商人や職人、また農民も含めた中堅の日本人は、伝統的な文化や芸術の諸要素から隔離されていたのではなかったのだと言います。というのは、彼らの住んでいる家が、伝統的な文化や芸術の諸要素についての教えを与え続けていたからだと考えています。

彼は、日本の住居の歴史を見ることで、さまざまな影響を受けながら、いかにして画一的な唯一の形の家が次第に作り出され、そこに少しずつ日本の美的価値のほとんどの要素が具体化されていったかを考察しています。彼は、この経緯こそが、家の空間が日本の文化の担い手であったかという主張の根拠なのです。

発信の条件

 日本では、保育について保育所には、「保育所保育指針」が告示化され、幼稚園には「幼稚園教育要領」が告示化され、保育についての方針などが定められています。しかし、指針、要領と言っても、具体的な保育の内容は示されていません。そこで、各園では、一貫した保育を行なおうとするときには、さまざまなカリキュラムとか、保育方法を取り入れています。モンテッソーリ保育とか、シュタイナー保育、フレーベル保育、テファリキ、レッジオ、さまざまな海外の保育を取り入れ、参考にしています。しかし、日本で長く行なわれ、世界に誇る教育であった、藩校、寺子屋での教育、また、例えば薩摩で行なわれていた郷中教育などを参考にし、日本の伝統的な文化、育児を基盤とした保育を、世界に発信することは行なわれていません。これは、どうも日本人の特徴かもしれません。

 このことについて、マサビュオーは、やはり250年続いた「鎖国」を考慮に入れなければならないと考えているようです。しかし、彼は、その件について少し違った見方をしています。鎖国が開始された時点で日本は、それまで少なくとも78世紀の間に、すでにかなりの造形芸術を作り出していたというのです。ということは、日本が彼らにもたらすことになったものは、彼らの時代の要求だけにちょうど合っていたのであって、19世紀末以前では、時期尚早で、したがって有効に機能するべくもなかったということになるであろうかと考えています。私は、日本の文化、芸術は神秘的こそあれ、実用的ではなかったでしょうし、西洋の芸術のような華やかさや、贅沢さ、光り輝いてはいないために、わび、さびという心や、自然に逆らわず、自然を生かすような芸術は、それほどもてはやされるものではなかったのだと思います。それでも、日本では、それほど外国と交流がなかったために、外国に媚びることなく、外国受けするものを作るのではなく、日本的なものを深めていったのでしょう。

 そのあたりの経緯を、マサビュオーは、こう説明しています。「簡素さと厳格さ、純粋な素材と色という根本的な美的原則が、われわれの感覚にうったえるようになるのは、様式が複雑化し、装飾が過剰になった時代が来て、そうした雰囲気とは対照的で、刷新的なものとしてあらわれることが必要だったのだろうか。そうなのかもしれない。しかし、アール・ヌ-ボーの時代に、西洋の魂に触れたのは、日本芸術が生み出したもののうち、浮世絵や、複雑で繊細な漆器、象牙細工といった、もっとも単純なものだったのである。」

 彼は、生の素材を使うことや、構造を剥き出しにすること、それらを「自然な」ことと呼んでもかまわないが、そうしたことに対する美的な趣味が成長したのは、貧しい時代が長く続いたからであって、貧しいために、美を、気取らない状態の中に探し、芸術家の仕事の精細さのうちに求めざるを得なかったのだと言います。しかし、私の考えでは、貧しいために仕方なくではなく、日本における芸術、文化は、貧しい民衆の生活から生まれたものであり、誰かに気に入られたく制作したのではなく、自分に納得する、自分のうちから出たものの芸術であり、西洋のように富裕層のための、贅沢な芸術ではなかったのではないかと思っています。

 ですから、マサビュオーが言うように、作品の量が乏しく、注文が少なかったのだろうし、文化の拡大に必要な経済的な支えが存在しなかったのだと思います。

文化の発信

日本文化の特徴である、「自然な」と言われる人間的なものの枠を超えた一つの次元を美に与えるということは、外国の人からすると難しいことかもしれません。日本では、茶道において千利休がそれを大成したことが大きく貢献しましたが、それ以前からもマサビュオーが指摘しているように、家から学んで暮らしてきたということもあるでしょう。マサビュオーは、「これを自然から再創造するのは困難で微妙な作業を必要とする」と言います。

漆器や陶器のなめらかな美しい素材、金や銀の大きな一色塗りは、アール・デコやデュナンの屏風や、マコドンの壺が出現して以来、西洋で高く評価されていますが、これらも日本由来のものであることは確かであると彼は言います。

日本の文化が外国の国々に影響を与えていることは判りますが、実は、それはそれほど古くは内容です。タウトが桂離宮を再発見したということは、それまではそれほど知られていなかったようです。日本は島国で、単一民族です。また、江戸時代は鎖国をしていたため、一部の外国としか交流をしていませんでした。従って、日本の文化は、一部の人たちに珍重されただけで、西洋の文化に積極的に影響を与えたということはありませんでした。しかし、逆に日本では、中国や韓国からの影響はもちろん、遠くオリエント、西洋の影響を受けたであろう芸術品を多く見ることができます。まず、日本では発信よりも受け入れることに積極的であったのでしょう。その経緯を、マサビュオーは、こう説明しています。

「日本民族は、何世紀にもわたって、外国からの様式を取り入れて成長したのち、ようやくわれわれにその資質の一部を伝達し始めた。このことの重要性を示すために、もっと多くの例を挙げるのは容易である。したがって、芸術家の数が少なく、また特に作品の数が少ないことは、それがいかに残念なことであるにしても、そして、その理由を明らかにしなければならないだろうけれども、だからといって日本では、創意工夫が本当に「貧しい」とか、創造性が比較的欠如しているということにはならない。しかし、この流れの逆転が生じたのが、たいへん遅かったことは注目すべきであり、その理由を検討してみることができるだろう。」

 私は、日本人は、受け入れること、取り入れることには積極的ですが、発信したり、自らを主張したりすることは苦手のような気がします。明治維新後、欧米の文化を散り入れることには積極的でした。生活様式も、文化的しきたりも、欧米を取り入れ、そこと同じになることで、日本の進歩、日本の発展であると思って、追いつこうとしました。外国と対等になろうとする手段として、外国に誇れるような日本の文化を発信することはしませんでした。それは、2次大戦後の日本でも、同様なことが起きました。欧米に追いつこうとしたのです。その時に、多くの日本の良さ、伝統的な文化を捨ててしまった部分がありました。木造の家より、鉄筋コンクリート造の建物のほうが、モダンに見えました。米食よりも、パン食のほうがモダンに見えました。

 その傾向は、つい最近まで続きました。外国製のほうが、よいものであると思っていたのです。それが、最近になって、made in Japanのものが、品質に優れているということが、海外で認められて、ようやく日本人もそれに気がついてきました。日本食も見直されてきました。ようやく、日本製が発信されてきたのです。

日本文化の他国への影響2

 北斎、広重、春信らの浮世絵が西洋の画家たちに造形上の革命を起こしたことは周知のことです。色の平坦な置き方、パースペクティブの全くの欠如、作品の主要要素を侵食する大胆な画面の配置、花や虫の強調などが影響したと言われています。確かに、花や虫の強調は、ガレからラリックに至るアール・ヌーボーやアール・デコへの反響はよく知られています。マサビュオーが、「こうした絵画の革命的変化は、全世界の芸術の姿を一変させたのであった。」と言うほどの影響だったのです。

 では、浄瑠璃や文楽などの舞台芸術は、どのようなところに影響していったのでしょうか?マサビュオーは、これらの舞台芸術においての「日本の衝撃」は、いくらか間接的であったとはいえ、同じように意義深いものであったと言います。「文楽」の人形劇は、世界中で行なわれていた演目に、一つの素晴らしい変化形態を付け加えることになったし、能や歌舞伎における音楽、舞踏、劇的仕草の結合は、典型的に日本らしいものとして受け取られていると言います。モリエールやシェークスピアやアリストパネスは、極東でもたいへんよく感得され、称賛されていますが、日本演劇の伝えるメッセージは、西洋人やアフリカ人や、日本以外のアジア人たちを狼狽させていると言います。これについてマサビュオーは、おそらく、真に普遍的な内容の表情が比較的弱いことによるのでしょうが、そればかりでなく、日本演劇を特徴付ける演劇性が素晴らしく、そしてあまりに「現代的」であるためでもあって、このことのほうがむしろ有力な原因なのかもしれないと言っています。

 私は、日本の文化の素晴らしいところの一つに、自然を取り入れるということがあります。そのために、人の五感に刺激をします。そして、たぶん自覚をしない、その雰囲気に刺激をするいわば、ダークセンスにも刺激をするところもある気がしています。その部分を、何人かの外国の人から「気持ち悪い」と受け取られることがあるようです。それは、文楽などから感じる人がいるようです。私たち日本人は、それを神秘的とか、妖艶さとか、深遠さと受け取る文化があるようです。しかし、マサビュオーは、私たち日本人よりも、よく日本文化を理解しているようです。

 彼は、日本演劇に対して、視覚(装飾)、聴覚(対話)だけでなく、感覚のすべてが劇的感情の表現のために使われていると言います。あらゆる種類の音や騒音や照明が、観客が当然と思い込んでいる受け身なあり方を「侵害する」するために用いられていて、劇の筋そのものは、本当の見世物を作り出すための口実にすぎないのだと言います。これらの要素が、「残酷劇」としてアルトーや現代のその他の理論家たちによって推奨されているそうです。ここにも、また、日本文化が受け継がれていると彼は認めています。

 また、彼は、現代の内部装飾も日本の芸術に多くのものを負っていると言います。何よりもまず、生の素材の再発見があります。木や石を、それらの自然の輝きだけを生かして用い、自然の浸食が作り出す色合いを大切にします。ロシア人や、さまざまな山岳民族といった他の民族も、素材の「素朴な」特性を重んじて巧みに用いるそうですが、日本人だけがこれを繊細で、洗練された一つの芸術に仕上げたのであり、時の残す痕跡を用いて、日本庭園におけるように、「自然な」と言われる人間的なものの枠を超えた一つの次元を美に与えたのだというのです。

日本文化の他国への影響1

 日本でも、さまざまな美術展が開催されます。たまにそこに行くと、多くの人であふれかえっていて、なかなかゆっくりと絵を鑑賞することができないほどです。反面、あまり絵画を鑑賞することがないと言う人も多く聞きます。スターウォーズの映画もそうですが、まったく見ていないと、特に興味はわかないかもしれません。しかし、見る観点がわかったり、絵についての基礎知識が少しあると興味がわくかもしれません。その一つの入口が、マサビュオーが言う、日本文化が、いかに世界中の芸術に影響しているかを知ると、また、違った見方ができるかもしれません。そんなに深く知らなくても、例えばゴッホの絵には、背景に日本の浮世絵や扇子が描かれていたり、直接的に取り入れられているものを多くあります。

 マサビュオーが、世界の芸術に影響を与えた三つの日本的創造物が、誰に、どのようなところに、影響を与えたかを紹介しています。それを知ると、少しそれらの作品を見ることが深くなります。

 まず、桂離宮ですが、この建物のすばらしさは、1930年代に、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトによって「再発見」されました。彼のことは、ブログで何回か取り上げました。200638日のブログで、「東京?ベルリン/ベルリン?東京展」でのひとつのコーナーである「バウハウスとブルーノ・タウト 1930年代の建築とデザイン 」について書いています。そこでは、彼の紹介と、彼の日本文化への称賛の言葉を紹介しています。もう一度、その言葉を見ると、マサビュオーに通じるものを感じます。「彼は、ドイツで名声を確立した後、ナチスを嫌ってまずスイスに移住し、さらに日本に1933年に亡命するような形でやってきました。3年余り日本に滞在し、あちこちを旅しながら日本美の再発見に努めました。そして、“日本美の再発見”などの著書が多数あります。また、現在、世界遺産に登録されている白川郷・五箇山の合掌造り民家を見て、“これらの家屋は、その構造が合理的であり、論理的であるという点においては、日本全国全く独特の存在である”と称賛し、その骨太の構造物を“ゴシック式と名付けるべきだ”といっています。また、“この辺の風景は、もうまったく日本的でない。少なくとも私がこれまで一度も見たことのない景色だ。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。”と著書の中で述べています。」

 また、2008119日のブログにこう書いています。「ドイツ建築界の鬼才ブルーノ・タウトは、日本を代表する建築桂離宮を評してこう言っています。すべての優れた機能を持つものは、おのずからその造形も優れている。」屋根は建築物の機能と目的、そして外観意匠を決定する重要な要素です。」タウトは、ドイツのバウハウスで教えていたのですが、その際、桂離宮を好んで取り上げたそうです。

 この桂離宮における、均整の完璧さ、抑制のきいた素材と色の使い方、住居と庭園との相互の交わり、それらがタウトによって認められ、それ以来、あらゆる国で、そして現代のコンクリート、鋼鉄、ガラスといったあらゆる素材について、模倣の対象となったとマサビュオーは言います。ミース・ファン・デル・ローエやフィリップ・ジョンソン、それにル・コルビジェの作品に、桂離宮の精神を見出すことは容易なことであると言うのです。