マサビュオーは、なぜ日本では、伝統的家屋が日本全体で一つにまとまって成立しているのかということについて、こう考察しています。ユダヤ教、キリスト教的文明が、受動的な自然に対して人間の積極的な役割を強調していて、そのために、自然や時間に挑戦していくような建築物を考えるようになったのだとすれば、日本人たちは、厳格な意味での合理性には無縁の諸条件によって拘束されていて、そのために自分たちの技術上の方法を選択しているように思えると言います。合理的ではない、別の象徴的な論理があって、その効力のほうが優れていると思われていて、日本人たちはそちらの論理に従っているようだというのです。
ここで言う「合理性には無縁の諸条件」とか「象徴的な論理」とは、どのようなものであるかは、いままでの考察でだいぶわかってきました。それは、日本の家のあり方なのでしょう。そのあり方は、日本の家族制度の厳格な儒教的枠組みが考えられます。日本では、住居を家族に同一化する傾向がこのうえなく強く、こうした住居と居住者の二項のつながりは、両者が相互に絶えず作用し合っていることによって、活発なものになっているとマサビューは言います。彼は、日本全国どこでも、家族生活の住居への影響は重要だと見ています。
日本では、家族が共に生活する習慣があるために、中仕切りは軽快で、部屋は互いに通り抜けになっています。並んで寝る習慣があるために、いろいろな家具を大規模にそろえることはできないと言います。また、住居は、家族成員間の上下関係をはっきりと表現しているとも言います。女性が仕事をする場所、土間、台所は、家の中でもっともなおざりにされていて、寒く、外気が吹き込んできます。西洋の住居の場合とは逆に、女性の存在が、快適さと温かさとして表現されることはほとんどないと言います。
「床の間」の花は、表面にあらわれた唯一の慰みの調べなのだが、これもその機能は、座敷という栄誉ある部屋を飾ることがあって、女主人の個人的な好みを表現したり、満足させたりするものではないと言います。
また、家族生活の住居への影響とは逆に、家族生活が住居の枠組みからはっきりした影響を受けるといった面もあると言います。日本の住居は、戸外に向かって大きく開いているために、家の中にいても、季節の変化や戸外の物音が生き生きと感じ取れます。また、家の中の仕切りも、中に住んでいる人間の間をあまり隔てるようにはなっていません。部屋は、紙製の戸だけで区切られ、欄間は吹き抜けになっていて、外部からの断絶という点ではあまり堅固ではありません。こうした部屋にいると、ちょっとした動作でも他人に聞き取られてしまう。こうした環境では、家族の成員は互いのことを何でも知っていて、特に気をつけていなくても、思想上の真の共同体が作り上げられると言います。同じ家に住む人間同士は、たいへんに素直でなければならず、いつも自然に振る舞っており、特に睡眠と入浴の時には気取りがありません。また、夏の間は建具を取り払ってしまうので、外から内部が見えてしまい、家の中で暮している人たちの私的な生活の秘密を厳格に守るというわけにはいかないというのです。
この両者が相互に絶えず作用し合っていることを知ることは、たいへん面白く感じます。