象徴的機能

 象徴的機能は、個人が把握するレベルと、共同体が象徴はかくあるべきと規制しようとするレベルの二つのレベルで集中的に作用していると言います。しかし、そのような象徴機能の仕組みがよく理解されるのは、文化圏の中で、いかなる事象についても、何が美しいとされるかがあらかじめ規定され、それがみなに教え込まれている事実ではないかとマサビュオーは考えています。美的機能が象徴機能を強化しているだというのです。この象徴機能の囁きは、一生の間ずっとつきまとって、日本文化の正統は何なのかを各人に絶えず喚起しているというのです。物事について美しいと感じる、この美的感情の高まりのおかげで、そのものごとの新しい次元、たとえば、人間のはかなさが開示されます。これは、美的感情の高まりがなければ、けっしてわからないような次元であるのです。

 これは、ある意味で、美的感情の標準化とも言えるかもしれません。そのようなハードルの高さをクリアーしているという点で、日本文化は、たいへんに豊かな文化だと言えるとマサビュオーは言っています。さらに日本では、この部的感情のあり方が体系化され、規制可能な心情の領域に組み入れられていて、これはたいへん有効に機能する可能性がある戸彼は言います。さらに日本では、しかるべく整理され、きちんと決められたシンボルとなった事物が、心の奥深くに共鳴すると、共通の文化に参加し、同じ文化を共有している社会集団に属しているという感覚が目覚めてくると言います。こうした感覚が、教育として機能して、象徴がアレゴリーとなるのであるというのです。

 マサビュオーは、日本では、家屋やさまざまなシンボルが教育的機能を持ち、日本人としての文化が形成されてくると言うのです。ですから、もしかしたら、私たち当の日本人にとっては、それは意識していないかもしれません。そのような見方から、日本の学校教育の姿を彼はどう見ているのでしょうか?

 彼は、日本の伝統的な教育は、二つのレベルでの教えを広める役割を見なっていると言うのです。教師は瞬時のうちに感じ取る能力に優れていることで信任されると見ています。そして、そのような教師の権威によって、社会的一致の理想や審美的隷従が強化されます。そして、教育は、説明して理解させることによってではなく、むしろ例を示すことによって行なわれます。それは、日本の教育の特徴と言うだけでなく、中国文化圏に属する極東の他の国々にも見られると言います。ですから、言われたことに従うといっても、それが行動にあらわれないのならば、たいして意味はないことになります。

 日本の親や教師は、西洋におけるよりも、伝統の規範を厳しく守ろうとしていて、模倣による教育は、伝統の基準に順応させたいという願いを実現するのに都合がいいと言います。しかし、この模倣主義は、親や教師に対していろいろと非難が向けられていますが、象徴についての彼らの理解の仕方と言語、そして社会的調和を維持しようという彼らの願いとに深く根付いていると言います。

 マサビュオーは、模倣は、いわば慈善事業であるという考え方をしています。その理由を、彼はこう言います。「模倣することによって、自分が社会規範に一致していると自認して、真であり、美であり、善であるとされているメッセージを受け入れ、継承しているからである。」と言っています。たしかに、真似をする場合は、それがいいと思わなければ、しないですね。子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです。

象徴的機能” への15件のコメント

  1. 「日本では、家屋やさまざまなシンボルが教育的機能を持ち、日本人としての文化が形成されてくると言うのです」とありました。先ほど、ブラタモリの松山編を見ていたのですが、武士と庶民が俳句で繋がっていたとありました。たくさんの人々が俳句を楽しんでいたということですが、俳句もまた美的感情が必要になるようなものだと思います。あまり詳しくはないのですが、自然のはかなさ、人のはかなさが表れているものでもあるのかもしれませんね。余談ですが、タイムリーな話題でちょっと興奮しました。「教師は瞬時のうちに感じ取る能力に優れていることで信任される」とありました。この言葉からは柔軟性のある教師像が浮かんできました。頭でっかちで、理論や理屈からではなく、現場の子どもの姿に向き合うことで、自然と理想が構築されるそんな子どもと関わる人に私もなりたいです。「例を示す」というのも教師や保育者は人格者でなければならないということを感じます。「子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです」というのも印象的でした。自分で模倣する対象を選んでいるというのは道徳的な部分にも繋がっていきそうですね。そんな子どもの姿を見つけていきたいです。

  2. まずは「美的機能が象徴機能を強化している」という部分に反応します。日本という国の象徴を考えてみました。富士山、サクラ、四季。まぁ、3つ挙げただけでも、その3者が持つ共通点が見えてきます。それは「美しさ」です。私は富士山を眺めて、本当に美しいと思います。ある思想主義から言わせれば、それはとんでもなく反動的意識だとみなされたこともありましたが、美しいものは、主義主張に関係なく、美しいと思うのです。サクラもそうですね。満開のサクラ花、散りゆくサクラ花、あぁ、なんて美しいのでしょう。四季の美しさは言わずもがな、です。まさに、美的機能が象徴的機能を強化しています。そして、「模倣」。確かに、美しくない物事を真似ようとは思いません。一見美しさとかけ離れているようですが、冷静に考えてみると、やはり美しさがそこに存在します。そして、模倣の場合は、真でもあり善でもある物事が対象になるような気がします。しかし、美しくなければ、あるいは格好良くなければ、真似ようという気持ちが起こらないかもしれません、たとえ、そのことが真であり善であっても。私たち日本人は基本、美的センスを重んじる民族だろうと思います。そして、このセンスがあるからこそ結果として伝統を重んじることになるのだろうと思います。伝統とは美しいものでしょう。醜いもの、真でもなければ善でもないものは伝統にならないのでしょう。

  3. ゛日本の親や教師は、西洋におけるよりも、伝統の規範を厳しく守ろうとしている゛とあり、これは、封建制度から続く階級社会からそして、序列社会を日本の家屋、家庭から学び、地域や取り囲む環境から身に付いたもののように感じます。親が子どもに何かを伝えるときには、昔は~だった、とか、自身の育った社会規範をもとに伝えているように思うと、私たちが日本の中にある文化から学び、日本人としての文化を形成していくように感じられました。
    そして、日本の伝統的教育には、゛教師は瞬時のうちに感じ取る能力に優れていることで信任される゛そして、゛教育は、説明して理解させることによってではなく、むしろ例を示すこと゛とあり、これは、人が行う模倣的な要素を考えられ、例を示すことは、これをやりなさいという、強制的なものではなく、相手にとって、一つの模範になり、選択の幅を広げる効果があるような気がします。受け継がれていくものは、模倣による、見て学ぶ部分が多くあることが考えられました。

  4. 象徴機能を把握するにあたって「何が美しいとされるかがあらかじめ規定され、それがみなに教え込まれている」というのが前提であるとされているのですね。私たちは、それらを「無意識」に、そして“自ら”選択している考えると、周囲の環境によって「美」が構築され、同時に、その美は「日本文化の正統は何なのか」という問いを投げかけ、自然と正統なる美に向かっている状態であるということでしょうか。また、「模倣は、いわば慈善事業である」というのも面白いですね。社会に対して自分が役に立つためとか、社会を助けるとか、情けでもある“情”が働いているということは、ここから人にとって大切な“情”が構築されていることが理解できました。そして、「自分が社会規範に一致していると自認して、真であり、美であり、善であるとされているメッセージを受け入れ、継承しているからである」とあり、自ら社会に対しても働きかけて、その都度、自分の存在を確かめ、真・美・善を下の世代に継承しているなど、子どもたちの世界にも「継承」があるということが理解できました。

  5.  〝模倣は、いわば慈善事業である〟〝たしかに、真似をする場合は、それがいいと思わなければ、しないですね。子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです。〟これらの文に心を打たれます。子ども達は、目に見えないけれど確かにある何かを感じて、それを真似しているように思います。僕は、それこそそれは愛というもので、それは生命の基準のようなもので、それは優しさや親切と同じで、それを善だと捉える心が、生まれながらにして人間の心にはある、ということが確信になるような思いを、藤森先生のブログを読むと感じます。〝真似をする場合は、それがいいと思わなければ、しない〟。では、その〝いい〟は何が基準になっているのか、というと、それは何か絶対的な基準で、まさしく愛であると思うのです。人は愛の生き物なのだということを、強く感じます。

  6. 象徴的機能の仕組みがよく理解されるのは「何が美しいとされるかがあらかじめ規定され、それがみなに教え込まれている事実」があるからと考えられているのですね。そう考えると、内容にもある通り、美的感情の標準化とも言えるように私も思いました。そして、はかなさが「美的感情の高まりがなければ、けっしてわからないような次元である」とありました。日本人が、はかなさに美的センスを感じているということは、美的感情が高いとも言えるのですね。また、日本の伝統的な教育は例を示すことによって行なわれるとありました。これは対象者の模倣行為を引き出す作用があると感じました。模倣が慈善事業であるとあり、内容にある説明とは違うかもしれませんが、迷ったり、困ったりしたとき、誰かの行動を思い出し、真似てみたりすることが私自身あるので、お互いがお互いの行動を尊重することで、似たケースのときにその人の行動を真似ることができる模倣の連鎖を感じ、慈善事業という例えがとてもしっくりきています。

  7. 最後の〝真似をする場合は、それがいいと思わなければ、しないですね。子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです。〟というところに大きく頷きます。
    子どもたちは模倣対象の何かを見たときに、そのものの本質を瞬間的に見極め、感じとり、模倣を自ら行っているということなんですね。
    生臥竜塾の『おんぶ紐』のタイトルの文章にも、共感を得ることができ、自分にとって学びとなりましたが、どんな意図で、何を考えているかを理解するのに適しているものを選んで模倣を行っている子どもたちはやはり、以前このブログであった〝ダークセンス〟が働いているように感じました。

  8. 「模倣」と聞くと、ただ目で見ていることを真似することと思っていたいのですが、「子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです」とありハッとしました。確かに、私も様々な施設を見学させてもらって、これはいいと思ったことがあると真似をします。どれがいいのかを選んでいます。模倣は強制されるものではなく、自分で選んで行う。その力を子ども達も生まれながらに持ち合わせているということを再確認できました。

  9. 「教師は瞬時のうちに感じ取る能力に優れていることで信任される」「教育は、例を示すことによって行なわれます。これらの二つのレベルでの教えを広める役割があるのですね。どうやら、やはり教育というものは日本においては「なにかを教え込む」ということではなく、「見て学ぶ」「模倣する」という部分に重きが置かれ、それによって社会の調和が維持されるようにできているのですね。相手の行動を真似することはその行動を真似るだけではなく、それとともに自分が社会規範に一致しているということも認識しているのですね。確かに一人で何かするよりも、一緒にやることやいい行いを真似ることで、そこで自分で確認するという作業も合理的に省略できます。ただ、真似しているのではなく、こういった社会的な規範を学ぶ上でも模倣は行われ、社会を学んでいるのですね。様々な象徴機能はヒトとのかかわりを通して標準化されていくということが良くわかります。この模倣という能力が社会の中でもより重きがあったからこそ、他の文化圏よりも強く標準化が図られたのかもしれませんね。

  10. 「何が美しいとされるかがあらかじめ規定され、それがみなに教え込まれている」ということが自然と日本人の中で行われ、「美しいと感じる、この美的感情の高まりのおかげで、そのものごとの新しい次元、たとえば、人間のはかなさが開示されます」とあるように美しいと思うことではかなさというのも生まれてくるのですね。なにが美しいのかを無意識に判断しそれらを伝承していっているということになるのでしょうか。そして、「教師は瞬時のうちに感じ取る能力に優れていることで信任されると見ています。」というところに反応します。それは子どものことについて敏感に反応し読み取り、どんな対応をするかを考えらるという感じでしょうか。「模倣は、いわば慈善事業である」というのもなんだか新鮮です。社会の一員でありその社会に対して自分がどうあることで助けられるのかと考えられる基盤がここからすでに養われていくことがわかります。子どもの模倣に対してやはり真似したくなるような人格者でなければなとも感じます。

  11. 文化と美的感情の関係は深いようですね。美的感情といわれると私はそういったものから縁遠い存在のように感じてしまうのですが、日本の文化があるのもその美的感情があってこそのこよなのですね。
    「子どもたちの模倣も、ただ何でも真似しているのではなく、何を模倣するかを選択をしているのです」とありますが、このことはしっかりと念頭においておかなければと思います。模倣によって学ぶべきことは多々ありますが、それを強いるのと選択するのでは意味合いは違ったものになりますね。私もそうですが、モデルとなる人や物の中から自分に合ったものはどれなのかを選び模倣しているのであって、決して強いられてしているわけではありません。子どもも当然そうでしょうし、そういった模倣となるモデルの存在や触れる機会も重要ですね。

  12. マサビュオーの「模倣は、いわば慈善事業」という考え方は面白いですね。子どもを見ていますと、みんながみんな同じことを模倣しているわけではなく、相手を選んで模倣しているように思えます。大人は子どもは未熟な存在とし、教え込む必要があると考えますが、子どもは模倣し、自ら成長する力を持っています。私も小さい頃は近所の年上の子に遊んでもらっていました。鬼ごっこをするときは、まだ小さい私を「あぶらっこ」とタッチされても鬼にならないという配慮が自然にされていました。そして、私が上になった場合には、同じように年下に「あぶらっこ」をしていました。誰かに教わったわけじゃなく、受け継がれていたのですね。しかし今の子ども達にはそのような環境はなく、集団も年齢別と狭くなっていて、「教える」のではなく「受け継ぐ」、それが自然にできるような環境を用意することの大切さを感じています。

  13. 「決められたシンボルとなった事物が、心の奥深くに共鳴すると、共通の文化に参加し、同じ文化を共有している社会集団に属しているという感覚が目覚めてくる」まさに所属感だと思います。日本家屋やさまざまなシンボルが教育的機能を持ち、それらを我々日本人は意識しなくとも無意識に吸収し、身についているのでしょう。その一つが「模倣」であり、この行動は乳児にも見られますね。確かに模倣を行う場合、それが「いい」と思うから模倣するのであって、何でもかんでも模倣するわけでなく、選択をしているというのは驚きますね。もしかしたら好みによって選択は違ってくるのかもしれません。よく子は親の背中を見て育つと聞きます。これは親が働いている姿、がなbっている姿を見ることで、自分も模倣しようとしていたのかもsりえません。母親の家事をしている姿を見て模倣からお手伝いに変わり、父の姿を見て将来の夢を描いたり、それを見れる環境が日本家屋にはあったのかもしれません。

  14. マサビュオー氏の「模倣は、いわば慈善事業である」という考え方は面白いですね。模倣することにより、自分が社会規範に一致し、美や善であるとされているメッセージを受け入れ、継承しているということを確認ができる。そして、何を模倣するかは、子どもたちが選んでいる。こうしたことをつなぎ合わせると、子どもたちが日常で行っている模倣には本当にいろんな意味があり、またとても大切なものであるということが良く分かりますね。

  15. 日本人は、象徴機能の囁きは、一生の間ずっとつきまとって、日本文化の正統は何なのかを各人に絶えず喚起しているというのです。物事について美しいと感じる、この美的感情の高まりのおかげで、そのものごとの新しい次元、たとえば、人間のはかなさが開示されます。これは、美的感情の高まりがなければ、けっしてわからないような次元であるというように、美的感情が標準化されているため、文化が大変豊かだということですね。
    そのような見方から、日本の教育を見ると、説明して理解させることによってではなく、むしろ例を示すことによって行なわれるとあります。先生の異年齢の考え方に似ている気がします。

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