標準化

 日本では、どの家にも、それは贅沢な家の部屋でも団地の部屋でも、多少の違いはあるとしても畳がありました。ですから、畳何枚分というと、日本全国その広さが共通になります。広さだけでなく、長さも、畳をタテに何枚分並べた長さというとおおよそ共通になります。そして、家の大きさも、畳を部屋に敷くために、柱と柱の間の距離はほぼ決まります。しかし、その元になる畳の大きさは、その環境によって若干違ってきます。

 このあたりの経緯を、マサビュオーはこう説明しています。日本の家族生活や共同体生活を支配する日本社会の基本的諸価値のほとんどが、当初は貴族の邸宅からですが、日本の家の中で、長い時間をかけ、ほとんど永久不変のものとして少しずつ形成されていったと言います。日本の社会的関係は、序列に基礎をおいており、その社会的関係が準拠している宗教的諸価値や、美的諸価値、技術的諸価値もまた序列に基礎をおいていると言います。もしかしたら、人間の遺伝子として持っている「協力」という力は、日本においてより強く伝承されているのは、日本の社会が、この序列に基礎をおいているからかもしれません。そして、この序列の考え方が、家のあり方の中に刻み込まれ、こうして家は、社会的関係にとっての優先的な枠組みとなったのではないかとマサビュオーは考えています。

 このような役割が直接保育室に適応できるかはもっと検討が必要かもしれませんが、保育室という空間のあり方が、子ども集団と大人集団が生活する社会において、さまざまな価値観を子どもたちに教育していることは間違いないでしょう。赤ちゃんから、母子だけという2者関係の中だけで生活し、育つということが、将来のさまざまな価値観を構築する上で、偏ってしまうことは考えられます。それは、さまざまな価値観とは、社会的関係が準拠しているからです。

 そのように家が影響してくるということは、日本の平均的な形態が、伝統的な民衆の建物と上層階級によって作り上げられた壮麗な建築との出会いから生じているからだとマサビュオーは考えています。西洋における以上に、日本の建築上の伝統は、序列的なあり方において守られているのです。宮殿や寺院で生まれた形式的な理想に、文明を促進するためのほとんどの価値が、集中しているのですが、この理想は7世紀から18世紀にかけて、町や農村の民衆の住居に完全に浸透し、このために伝統的な民衆の建物で、その形がある程度純粋なものは、奥深い地域のいくつかにしか残っていないほどであると彼は言います。こうして一定のタイプの住居に体現された真善美の理想が日本の共同体の全体に次第に広まっていったとマサビュオーは考えています。

 このように、日本の家は、標準化されていきます。しかし、日本で建築素材として選択したものは、「木」という耐久期間の短いものであり、国が南北に非常に長く、たいへん多様な自然環境下におかれていることは。社会的不平等や財産不平等とともに、こうした展開に対して否定的に作用したとマサビュオーは言います。彼は、「家のすべての要素の標準化への動きが、こうした障害のいくつかを取り除き、また別のいくつかを存続したことによって、この展開が可能になり、また必要になったのである。」と言っています。

 この標準化によって、日本人独特の特徴や文化が守られてきたのでしょう。私は、是非、日本の保育の標準化が作ることができたなら、日本の文化は、子どもたちに伝承されていく気がしています。

家からの単位

客間 (和の背景カタログ マール社)より
客間
(和の背景カタログ マール社)より
応接間 (和の背景カタログ マール社より)
応接間
(和の背景カタログ マール社より)
茶の間 (和の背景カタログ マール社より)
茶の間
(和の背景カタログ マール社より)

 日本家屋の中の部屋の呼び方に、茶の間、床の間、次の間、というように、「間」が最後につきます。この「間」について2015325日にそのまま「間」というタイトルでブログを書いています。そこでは、コミュニケーションを取るために、「間」が重要な役目を果たしているということを、赤ちゃんとお母さんのコミュニケーションを通して明らかにしたことが書かれてあります。そのほかのブログでも、何度も「間」について、日本の文化の特徴として取り上げています。また、書籍でも、『「間」の日本文化 剣持 武彦()』『日本文化における時間と空間  加藤 周一(著)』『見立ての手法―日本的空間の読解 磯崎 新(著)』などでも「間」を取り上げています。  広辞苑には、いくつもの意味が定義されていますが、代表的なものとして、「物と物、事と事とのあいだ。あい。間隔。」ということで、「家の内部で、屏風・ふすまなどによって仕切られたところ。」という意味があります。この意味が、最初に挙げた日本家屋の中の部屋の名前に付けられている「間」によって、部屋のスペースにも使われています。そのように、「間」という言葉は、日本では日常的にさまざまな形で使われています。そこで、意味の2番目にあるように「長さの単位。」としても使われています。それは、住まいに関する言葉として、長さの「1間」という単位は、日本の家屋のモジュールになっています。  この「間」が、日本の文化の一つであることは、日本らしい「メリハリ」を間によって作っているということがあります。間は、「遊び」とも言えるように、すぐに効かない、緩衝の役目があり、それが安全を守っています。それは、「ハレとケ」という日常と非日常のメリハリを作っています。コンサルタントオフィス ハウステージ 代表の佐藤 章子は、「住まいは多くの時間を過ごす場所でもあり、日常と非日常を上手にコントールしながら生活する上で、非常に重要な要素です。住まいは日常を快適に過ごしていくために設計され工夫されますが、「間」をとる非日常を取り入れることも非常に大切なように思います。書き込み自在の余白があること、非日常を上手に取り入れる工夫があることなど、「間」の感覚と住まいの余白、非日常の演出などについて見直してみる価値がありそうです。」と言っています。 このように私たちの生活に密着した「間」を長さの単位にしました。1間は和室の柱と柱の間の長さです。日本家屋の部屋の中には、多くは柱と柱の間に畳が敷かれました。そこで、畳の長辺とほぼ同じ長さを「間(けん)」としました。すなわち、畳の大きさはおおむね182×91cmですから、半間とは91cmのことです。そこで、4畳半は1間半×1間半、6畳間は2間×1間半、8畳間は2間×2間ということになります。こうしてみると、日本の家屋は、半間=3尺(91cm)単位でつくられていて、1間の1/61尺(30.3cm)、1尺の1/101寸(3.03cm)で、1間×1間の面積が「一坪」です。つまり坪は、およそ2畳分となります。 日本人はこれらの単位を駆使して、住まいや暮らしを作り上げてきました。この長さから、和だんすは奥行1.5尺で巾の多くは3尺としました。3尺というサイズは、引き出しを無理なく操作できる巾です。つまり、長さの単位が、住まいのモジュールとなり、それに合わせて家具のモジュールとなり、「この壁にはたんすが何棹並べることができるのか」と、家具のサイズを細かくはからなくても、レイアウトのイメージが可能だったのです。

社会を維持する家

 たいへんに鋭かった相互依存の意識がしだいに弱まっていきました。特に農業や手工業の作業が、その場の空間的な枠の外でも次第にできるようになってきたためということがあります。氏集団の成員が共同で土地を保有することはなくなり、こうした土地も細分化されるようになっていきました。こうなると多くの作業が、近所の者や隣村のものの助けを借りて行なわれるようになります。大家族の成員が一堂に会する機会は散発的となり、ついには結婚や特に葬式といった儀式の時だけになってしまったとマサビュオーは考えています。

 職業が多様化し、専門化した手工業が飛躍し、また取り引きも飛躍して、大家族の成員がだんだんと外へ出て行くようになりました。こうして生産単位だった当初の氏集団が、何よりもまず消費の単位である小規模な家族となっていきました。土に直接関係しない者の数が増大し、農村の人口過剰によって、人が一時的に他へ出て行くようになり、それがまもなく決定的移民となって、徳川時代になると、各人が自分の職業を選ぶ権利を与えられ、このことが大家族の成員を結びつけていた経済的な絆をさらに弱め、経済的統一基盤を失った大家族は、これ以後急速に崩壊することになっていったのです。

 家族内部の関係においての家の役割についてのマサビュオーの考え方は、家族的モデルが適用されているさまざまな社会的単位のどれにも当てはまります。とくに、明治時代以前は、住居群共同体がこれらの社会的単位をまとめていただけに、これは顕著な特徴だったのです。その家族的な帰属意識は、個人的な私生活が完全に拒否されることによって、強化されていたのだと言います。そして、この個人的な私生活の完全な拒否が、日本の家建築の特徴なのだとマサビュオーは言います。

 家は、集団の団結を確保します。そのことによって、経済的行動の団結をも確保しているのです。各人は、他の同居人すべてに、そしてまず第一に「家族」に、監視されつつ暮らしていると言います。農村共同体については、さまざまな生産単位である小規模家族、大家族、部落共同体の成員の人間関係のあり方を通して、家がどのように同様の役割を果たしているかというマサビューの考え方は、いままでのブログで紹介しました。

 家族的モデルに従って、生産、そして分配や消費のような経済的活動のすべてが、厳密な上下関係に位置づけられているというのです。社会学的に言えば、人間の作業が行なわれ、方向付けられるのは、常にタテ関係の依存の連なりの中にある、一つのレベルにまで拡大され、序列関係の枠内においてのみ展開する限りにおいて、家族的モデルとその番人である家は、本質的な機能を担っているというのです。伝統的な家は、家族的構造の厳密な鋳型の中に個人を閉じ込め、連帯関係の正常な展開を確保し、生産単位内の管理をしていると考えています。

こうして伝統的な家は、生産そのものとそこから正常に生じる交換活動に、直接かつ不断の影響を及ぼしていると言います。伝統的な家は、一定の経済システムを安定させる役割を果たしており、受け身的な絆どころでなく、本質的な歯車の一つとなっているのだとマサビュオーは言っています。

日本の家は、そこに住む人々が自発的に社会を維持し、共同体としての人間関係を構築していくようです。

共同体的行動様式

 伝統的な日本においては、家と社会が、生活の枠組みのあり方と共同体的な行動様式が、切り離すべくもなく複雑に組み合わさっています。それは、まず、個人の概念が限定された社会的枠組みに従属したものとして捉えられていることです。それは、どんな出来事も、ただ個人にだけでなく、人間関係の領域にも影響を及ぼすということです。各人が具体的で限定された集団、例えば、家族、部落、街区、職業などの集団に属しているという強い意識を持っていること、厳格な家族道徳に常に依拠していること、それはつまり、氏族機構、先祖崇拝が結びついた仏教、当局、特に徳川幕府によって組織的に奨励され続けていた儒教などによるさまざまな詠唱が考えられます。そして、家族制度内部での地位や封建制度内での地位などの生まれながらの地位によって、人生の道の選択の幅が決定しており、それも限られたものでしかないという状態が長く続いたことがあります。

さらに、家長、封建領主、宗教上の師、天皇などの具体的な一個人への絶対的な忠誠、全体としての機能主義的な傾向が挙げられます。このことを、マサビュオーは、数少ない集団のうちの一つに結びつこうとすることから帰結することであり、集団の成員は、自分が帰属している集団のあり方についてすべてを熟知しており、その集団内の要素に対して、どのような関係にあるべきかは、どんな状況においても常にはっきりしていると言っています。これらは日本社会の基本的な仕組みとして社会学者の誰もが認めるものですが、こうしたことはすべて、家が教育するのであり、家によって維持されているのだと、彼は考えています。

日本の家は、こうした仕組みが自然に機能するための枠組みになっていると言います。これは、家がこれらの仕組みとともに発展したからだと見ています。日本の家では、生活空間が未分化であるように見えますが、実はこれは見かけだけであって、一つ一つの部屋、1枚1枚の畳が、はっきりとした機能を持っており、日本人はこれらの形に刻み込まれている多くの行動規則を不断に見分けつつ、この家に住んでいるのだと言います。そして、どの地方に行っても、これと同じ行動規則を見出すことによって、いつでもどこでも正確に同じ刺激を受け続けることになるというのです。

こうした認識を持つことによって、私たちは目に見えるような姿として建築物を見るのではなく、いくつかの共同体的行動様式の原動力として、地理的景観の中での家の役割をはっきりと理解することができるようになるのだとマサビュオーは言います。そして彼は、市民生活上のせめぎ合いや、複雑な社会機構を超えたところで、日本の家は自然景観の整備にどのような考え方で臨むべきかについて、日本人に教え込んでいるのではないかと考えているのです。このために日本の家が日本人全体にまず保障しているのは、個人、家族、集団のそれぞれが、環境を支配するために行なう行動の整合性と統一性だというのです。

このような観点から家というものを捉えたことがないために、この解釈は難しい気がします。しかし、どうも日本の家は、日本の伝統である「社会」を維持しようとする機能を持っているようです。

氏集団は絆が次第に緩み、婚姻を中心に成員が結びついた家族が分散する方向に展開していきます。氏集団が、おそらく村形成の起源だったかもしれないが、徳川政権のもと、多くの村では、一つの大家族と、それに依存する者たちを中心にするということはなくなります。では、たいへんに鋭かった相互依存の意識が弱まったのは、何がきっかけなのでしょうか?

伝統文化の統一化

syujinnosuwaruiti日本では、序列社会の中で、家の長が規律を徹底させ、外部に対しては家長が家を代表するという構図を作り上げていきました。それが次第に、父子という序列につながり、父という存在を個人レベルから組織、そして国全体へと高めていったのです。日本人は同じ一つの「家族」に属しているのだという強い感情が生まれていきました。しかし、この感情を軍人たちは、英雄主義や犠牲精神を喚起するために用い、各人は神を祖先に持つこの父のために戦い、そして死をも受け入れるに至ってしまったとマサビュオーは指摘します。

 日本全国を通してどの家族においても実現されている人間関係の枠組みやモデルのこの注目すべき統一の起源が何であれ、この状況から帰結する状態のうちで最も明瞭に認められるのは、空間的にはたいへん離れた地方において、そして自然条件やそこにどのようにして人々が住むに至ったかについてはいろいろと相違があるのに、行動様式についてはどこでも同じようなものが確保されているという点であるとマサビュオーは指摘しています。こうした統一化が全国にわたってしっかりと行なわれていたのは、家によってであり、いろいろな行動に必要な枠組みを作り出すためのいくつかの要素、例えば縁側、畳、座敷、段差のある床などが広められたからであると言います。

 家の中と外での日本人たちの振る舞いが違っていることについての観察から、このことについては今日までもなお反証が出されているようです。家の中と外での振る舞いの相違は、表面的にはどこにでも見られることですし、その対照はすぐに目につきます。しかし、まさにこうした対照が、家の伝統的な使命が何であるかを示していると言うのです。日本人が、どこから日本に帰ってこようと、また、日本のどの地方に行こうと、自動的に慣れ親しんだ伝統的な家の枠内に身を置くことができ、そこで見出せる振る舞いや言葉、身体や精神の態度は、どれも自分の国のものなのであるという意識を持てるのです。

 日本社会における家の役割の適用範囲をもっと広げることもできます。かつて、日本帝国であった国々ばかりでなく、日本人が移っていった国々にまでも、これを拡大できるであろうとマサビュオーは言います。日本人移民は、20世紀の初めには、村や町の地域に集まって住み、彼らが日本に残してきた家にできる限り似せて作った建物の中で生活をしていました。今世紀初頭のアメリカ西部の日本村でも、サンフランシスコやバンクーバーの街区でも、旅行者は日本の村を彷彿とさせる街路があることを指摘しているそうです。住居は板と紙でできており、歩道には木が張られています。それに提灯があって、さらに夜には、三味線の音が聞こえ、芸者が通るのを垣間見ることができると言います。そのほかにも、マニラ、香港、シンガポール、サイゴンといった極東の多くの町で、一つの街区全体に伝統的なスタイルの日本遊郭があったというのです。

 伝統的な日本においては、家と社会が、より正確に言うと、生活の枠組みのあり方と共同体的な行動様式が、切り離すべくもなく複雑に組み合わさっているとマサビュオーは見ています。彼は、そのことは、社会学的な用語を用いなければ、適切に述べることはできないであろうと言っています。

国全体のレベル

 イメージとして、農村部は共同体の枠組みの中で生活し、都会では、個人が保証されていると思います。ですから、農村における共同体の窮屈さから逃れたいために、都会に出てくるということがあります。しかし、徳川時代までは、ただ別の共同体に組み入れられるだけで、自由は夢のようなもので、すぐにかき消されてしまったとマサビュオーは見ています。しかし、江戸時代も長く続いてくると、次第に農村の人口が過剰になり、都会に住む者の数が飛躍的に増大して、「孤立」する者たちの数がはっきりと増えてきます。浪人という主君がなく正常な社会的背景を失った侍や、農村の極貧の家の次男三男たちは、町の社会の中に入り込もうとするし、数知れない浮浪者たちが路上をうろついていました。しかし、これは全体から見れば少数だったのです。また、昔ながらの人間関係を失っても、新しい関係、たとえば新しい職業関係や養子縁組など野関係が、すみやかに成立するのは例外的なことだったのです。昔ながらの人間関係が、生きるための条件そのものだったのだと考えているのです。

 では、三つ目のレベルはどうかというと、家族や土地の共同体ばかりでなく、日本の家はさらに国全体にも働きかけるということです。あらゆる集団の形態にとって、家族モデルが普遍的に適応されていて、家がこのモデルを基礎的に維持していたことが、こうしたことが可能になった理由の一つであるとマサビュオーは考えています。このことに関しての日本独自の寄与が、どのようなものであるにしても、中国の影響がここでは決定的であると見ています。これは特に儒教を通しての影響であって、儒教の考え方によれば、各人が孝行の義務を果たしている安定した家が、国も繁栄のための基本的単位なのです。このときの孝行とは、私的な義務であると同時に、公民としての義務だったのです。したがって、市民権所有の単位は個人ではなく、不可分の組織体と見なされた家だったのです。家の長が規律を徹底させ、外部に対しては家長が家を代表したというのです。

 日本はこうした考え方を取り入れ、組織や集団や組合などすべてのものが家族的形態をとるにまで至ったと言います。言い換えるならば、人間関係は常に父子の序列に従って構成されるのだというのです。そして、同じ「恩」という言葉が、父から受ける恩義をさすのにも、主人や先生からの恩義をさすのにも用いられているのです。この原則は新儒教の理論家たちによって皇室についても拡大されて、主君は最高の「父」となったと言います。こうした考え方は明治時代において大きな飛躍を遂げました。なぜなら、それまで日本はかなりはっきりした封建的地方独立主義によって分裂していたのですが、この考え方が日本の統一のための力強い原理となったからだとマサビュオーは考えています。

 軍人たちはこれを英雄主義や犠牲精神を喚起するために用い、各人は神を祖先に持つこの父のために戦い、そして死を受け入れていくのです。超国家主義の理論家たちのうちには、この家族への同化を極度に推し進めて、日本人全体が一つの家系から出ていて皇室はその直系であり、他の日本人は傍系の子孫であるとまで主張する者まであったそうです。今日でもなお、日本の愛国主義の基底には、日本人は同じ一つの「家族」に属しているのだという、たいへん強烈な感情があって、この「家族」からは、非日本人は生まれながらにして決定的に排除されているのだと言います。

窮屈な共同生活

人生の中で、「隠居」する事になって初めて、一人になり私生活らしきものを持つことが許されるとマサビュオーは日本家屋の作りから見ています。このとき、隠居した人の経済的、家的、社会的役割は終わり、必要な指示を相続者に伝えてしまえば、共同体の仕組み全体から身を引くことができたからです。しかし、日本の家には、引退した親たちのための部屋の他に、各人を結びつける絆が美的な楽しみの名において表面的に緩むか、少なくとも忘れることのできる場所があると言います。それは、日本建築の理論家の多くの意見によれば、茶の湯は、共同体的な拘束によって閉ざされた空間の中に一時的に開かれる一種の「窓」であるとされています。しかし、マサビュオーは、これは、家において認められる文化的価値についての一般的な問題の一つの要素にすぎないと考えているようです。

家のあり方によって余儀なくされる窮屈な同居のこうした形態のために、基本的な価値のうちで破壊されかねないものがありうるということがよく言われたそうです。例えば、近親相姦が助長されるというのです。具体的な数字を見積もるのは問題の性質上なかなか困難ですが、実際のところ近親相姦は多かったようです。若者用の寝室が存在するのは、多くの社会において、年頃になった兄弟姉妹を遠ざける必要が感じられたことにおそらく対応しているのではないかと言われています。若者たちは、伝統的に隣り合って寝る習慣のあった日本の社会においては、とくに困った状況に置かれてしまうはずです。

しかし、明治以前の農村共同体では、共同の家組織のおかげでかなりの性的自由が放任されていて、これが近親相姦に対するこの上なく有効な防御となったことは疑いないとマサビュオーは言います。儒教の堅固な道徳的教えがあったことももちろんあります。また、日本の家では視覚的、聴覚的な管理が行なわれていて、そのために非合理的な性的関係が妨げられたのは、他の禁じられた行為の場合と変わらないと言います。これらが統一を形成する家の役割のひとつです。

二つ目は、日本人は自分が生活している家を介して、家族という限られた集団に溶け込んでいるだけでなく、自分の属する農村共同体あるいは、都市共同体にもまた溶け込んでいるとマサビュオーは見ています。実の親族関係や名目だけの親族関係から、どのように別の絆が作り出され、それが親族的関係を部落や町の地域の内部全体に広がるかというマサビュオーの考え方は、以前のブログで紹介しました。しかし、他者との関係は主に家の中で展開します。また「客の接待」の機能が、どのように重要なものと考えられているかが示すように、家は、他者との関係にとって拘束となる枠組みでもあるのです。具体的な行動については、これほどまでに決定的な意味を持つ空間は他にはないだろうと考えています。

日本の家の中で強制されるこのような窮屈な共同生活は、内部において、「開放的」なものですが、そのために時として家の当然の機能である集団に対する各人の絶え間ない管理によって保証される家族の統一と、その統一ゆえに家族が一丸となって仲良くいくつかの具体的な義務に当たることができるようになることと矛盾することになりかねません。家の中に私生活がまったく存在しない、このことがあまりに窮屈だと感じる者もいるのです。しかし、個人が集団から逃げたいと考えたとしても、少なくとも徳川時代までは、結局のところは、それほどたたないうちに別の共同体に組み入れられることになるのだからと言うのです。

私生活

 マサビュオーは、日本の伝統的な家の中心的な機能として、他者との接触の前に必要な各人の条件付けの機能を上げています。それは、「会見の目的に触れる前に、いつも迎え入れの仕草や言葉が長々と続くのは、どんな会話にも必要な準備であって、お互いに相手の置かれている条件を見極め、互いの地位の関係についてはっきりさせ、日本の社会生活の規則に従っていることを間接的に告げ知らせ、みんなを安心させるのである。」と言います。

 人と接するとき、大切な知性として「社会的知性」が最近挙げられています。それは、他人を理解する能力で、「この人の動機は何か」、「あの人はどう動くだろうか」、「皆と協調して動くにはどうすればいいのか」といったことを理解する能力のことですが、もしかしたら、そのことを、日本では人と接するときの序列によって、人と会うときの迎え入れの儀式によって、半分くらいは、人を理解する能力に取って代わる役割をしていたのかもしれません。そして、それを支えたのが、日本の伝統的な家だったのかもしれません。

 さらに、日本の家は、家族、地域共同体、国全体という三つのレベルにおいて、個人を集団に融合させるように作用しているのではないかとマサビュオーは考えています。この考察も、私にとっては、非常に興味深いものがあります。それは、保育室という空間が、その機能が、子どもたちを個人から集団に融合させる役割を持っているかもしれないからです。

 まず、彼はこんな分析をしています。日本の家屋建築のあり方においては、個人が自分の私生活を十全に実現する場所がどこにも存在していないと見ています。日本の家では、個人は、集団の絶え間ない管理のもとにおかれ、それを忘れることはかたときも許されないと言います。個人は、家族の序列の中ではっきりと規定された一つの役割を果たすことを家族たちから期待されていて、家族の序列との関連においてのみ思考し存在するのだというのです。

 以前のブログでも書きましたが、私の子どもの頃は、どの家にも応接間や客間、応接室があったにもかかわらず、個人の子ども部屋はありませんでした。勉強は、茶の間で親のいるところでしていました。それぞれが個室は持っていなかったのです。マサビュオーも、「明治時代以来、そしてアメリカによる占領以来、一人でありたい、私生活を持ちたいという希求が若い日本人の間で増大したが、それ以前にこうした希求がはっきりとあらわれたことはないようである。」と言っています。しかも、こういったことは、問題にさえならなかったというのです。そして彼は、かつての若者の生活の変化を次のように捉えています。「子どもは家族の家を離れて、自分の性別の共同の家で生活をし、社会生活についての学習の仕上げをする。そこは序列制度によって絶えず管理されており、自分の地位が何であるかを教え込まれ、その地位が保証される。そこを出ると、家の「開かれた」枠内で共同生活をする習慣があり、結婚しても、自分の兄弟姉妹、子どもたちと一緒に寝る。こうして同じ環境が大人になってもずっと続いたのである。」

 その後の人生を、彼は面白い言い方をしています。それは、「自分の相続人に家族の指揮を任せた後になって初めて、一つの部屋か離れに引きこもった。」ということで、この「隠居」は人生の中で、一人になり私生活らしきものを持つことが許される唯一の時期だと捉えています。おもしろいですね。

礼儀作法

 日本文化の中心にあるのは、生活における社会的関係の調和をつかさどるさまざまな規定かもしれません。その規定は、日本家屋の中にも意図され、それは間取りや玄関などの作りに表現され、そこで行なわれる儀式は、行為として規定されています。また、家の中での各人の所定の位置についても同様のことが定められています。その点を、マサビュオーは指摘しています。農民あるいはその女房が隣人に会おうとする場合には、横の入口に行き、家族用の囲炉裏の周りに座るだけであって、もてなしの茶がすぐに出されます。壮麗な入口は重要な客のためのもので、昔は近所の者はここで外から家の者を呼んではいけなかったそうです。接客用の部屋は外部と家族のいる部屋との間にあるのが普通で、壮麗な入口を使うべきとされているような外部の者が無遠慮に介入してくることから私的生活を守っていることに注目しなければならないと言います。こうした関係において、縁側は客間と家族の部屋である茶の間との間に序列上の中間的な空間となっていて、いつも重要な役割を果たしていたと言います。

 上層階級の住居の壮麗な要素を取り入れることは、日本の礼儀作法を構成する多くの規則に従った行動様式という異なった行動様式を取り入れることも意味します。どんな国でもそうであるように、日本人の作法の決まりも支配者階級で生まれたものです。その決まりの細かい点についてまで成立したのは、平安時代の朝廷の華々しい枠の内においてであると言います。封建的な政府の時代である鎌倉時代と室町時代には、作法の専門家が流派を興して、武芸と日常生活で守るべき行動様式についても同時に教えたそうです。

 最も有名なのが伊勢流と小笠原流で、徳川時代の末まで隆盛を誇りました。伊勢流は関西で支配的となり、宮中にも強い影響を及ぼしました。小笠原流が支配的だったのは江戸で、封建的序列社会に影響力がありました。このことは、いままでのほかの例でも見られるように、多くは、まず封建制度の中で規定されていきます。それが、次第に武士の衰退とともに商人に移っていきます。

 礼儀作法も少しずつ町の商人階級や農村の有力者たちに浸透し、その後、次第に農村や町の社会の下層にも模倣されて広がっていきます。肝要なのは、こうした展開が家の建築形態の展開や婚姻や葬式といった家族的習慣の展開と不可分の関係にあるという点であるとマサビュオーは考えています。これらの三つは、同一の一般的なプロセスである高貴な階級の習慣の自発的な意思強制的な模倣の中で、それぞれ方の二つと密接に関連しつつ生じたことだとマサビュオーは見ています。宮中の礼儀作法には、寝殿造りの邸宅が対応します。

あの金閣寺も、1層は寝殿造り、2層は武家造り、3層は禅宗仏殿作りです。
あの金閣寺も、1層は寝殿造り、2層は武家造り、3層は禅宗仏殿作りです。

封建制の礼儀作法には書院造りの様式が対応し、江戸時代の流派の教えには、それ以前の展開のすべてから帰結した正統的な家が対応すると言います。礼儀作法は家の一部であり、また逆に家が礼儀作法の一部を成しているのだというのです。

 この礼儀作法があるおかげで日本人は誰でも、友人の家や見知らぬ人の家に行っても序列の中での自分の地位がはっきり示されて、それからみんなに尊重されるし、逆に共同体内での他の人の地位を見分けることができるのだと言います。

接待する部屋

生活が、社会的関係の調和をつかさどるさまざまな規定に適合した表面的な威信の領域と、隠された質実さから、貧弱の状態に移行してしまい、実体が次第に隠しきれなくなっていった領域のふたつに分離し、この状態は、武士階級から次第に豊かな町人、そして民衆の階層にまで広がっていきました。そして、この分離を、家がきちんと支えていました。こうした展開は、村の有力者を介して、早くから農村にも及んだようです。大地主は、土地の役人であることも多く、大名の間接的な支配下にあって、この役目のために、壮麗な部屋を持つことが必要になります。彼らは、支配人であり裁判人でした。壮大な人は、ずらっと並んだ控えの間や座敷が、彼らの公的な活動に威厳を与えましたが、この威厳は、彼らが代理人となっている権威の威厳だったとマサビュオーは言っています。

大地主の昔の住居の例は、日本の農村に多く見ることができると言います。壮麗な部屋は、偉い人たちを接待するためよりも、むしろ身分の低い者たちのために感銘を与えるためのものだったというのです。逆に、封建制の厳格な規制が農村に打ち立てられ、役人である武士が巡回してきて訪問することが多く、こうした恐れ多い客をきちんと接待するために、富裕な農村は自分たちの住居に手を入れねばならなかったというのです。とりわけ接待用の特別な部屋が必要で、家族の憩いの場としての家の機能は、次第に従属的な地位に押しやられていったのです。

マサビュオーは、東北地方の住宅を観察しています。18世紀末か19世紀に建てられたほとんどの大邸宅の間取りを見ると、すべての部屋が非常に安定した序列に従って並んでいる姿を見つけています。社会学者の今和次郎は、調査のために東北地方を訪れてこうした大邸宅や入口に立ったときに、女主人が、調査の一行を玄関で迎えるか、縁側で迎えるか、それとも客間に通すかを決めるために、どのように品定めをするのかについて述べ、これは、昔からの習慣を彷彿とさせる出来事だったとユーモアを交えて語っています。また、どの家にも、一通りの茶道具や座布団があります。また、トイレも二つあります。本当に心地よいもののほうは、客専用なのであったと言います。

マサビュオーは、日本家屋についてさまざまな観点から考察していて、非常に興味深いものがあります。家の中での各人の所定の位置についても、考察しています。確かに私たちは、部屋の入るとそれぞれ座る位置を考えます。それは、そのメンバーの中で、誰が主役か、誰が客人か、誰が年配かを考え、位置を決めます。そのために、その部屋のどの場所が高いのかを知っていなければなりません。それは、タクシーなどに乗る場合も同じです。高い地位の人からどのような場所に座るのかを考えます。それって、外国にもあるのでしょうか?

日本における各人の位置は、家族用の囲炉裏の周りでもすでにかなり厳密だとマサビュオーは言います。しかし、客間ではそれ以上に厳しく決められていると言います。客は床の間の前の上座に座るのですが、畳のつなぎ目にかからないで、一つの畳の上に座れるように畳の配置が案配されていると言います。畳が単なる座席用の敷物で、床張りの上に並べられていただけの頃の名残であろうと言います。茶の湯は、日本の儀礼に強い影響を与えていますが、特に、各人の所定の位置についての影響は大きいと言います。