城の周辺

 マサビュオーが描いた城下町の空間の作りは、私はよく地方に行くと、まず必ず寄るところが、その町の中心である城を訪ねることが多いですので、割と理解しています。町の名前も、まず必ずといっていいほどあるのが「大手町」です。その他にも鍛冶町など独特の町名が近隣に並びます。先日、和歌山城を訪れたのですが、近くに鷹匠町がありました。wakayamajo

 もう少し、マサビュオーが描いた城下町の特徴を読んで、それが、どのように現代に残されているかを見てみたいと思います。「人工的に構築された景観が、階級間の違いを示している。上級武士たちの住居は広大で、迷路のような通路があり、広い庭には厩と従者の住まいがある。下級武士たちの住居はそれに比べるとつつましいものである。しかし、そのどちらも商人の居住区や、露店が並び職人たちが住む道端とははっきり違っている。日本全国どの町でも大工などの職人たちは、カテゴリー別にまとめられていて、通り裏の広場に面して出入り口のある長屋に住んでいた。また、封建都市には一つか二つの寺社地域があって、数十の寺社が集められていることもまれではなかった。寺社の外壁は隣り合っていて堅固な作りになっており、防壁として町を外敵から守る役割を果たしていた。」

 このような城下町のあり方は、多分、「ある、ある!」というように、未だに残されているところが多いようです。また、城下町に入ると、道が狭く、くねくね曲がっていることが多いようです。それは、待ちをめぐる城壁が築かれている外国の城と違って、日本の城下町の道路網は、T字路は奇襲攻撃をかわすように考えられており、堀や神社や運河は社会的な生活空間を構成する一方、有事の際には町の内部での障害物となっていると言います。確かに、ドイツに行くと、マリエン広場通りの四方には城門が築かれています。

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 日本では、19世紀から20世紀へかけての変遷を通じても、歴史的都市では日本文明に固有ないくつかの不変な原則が貫かれて、このことがおそらくこれらの都市の将来のあり方を条件付けることになったとマサビュオーは考えています。そして、五つの原則を挙げています。

 その原則の1は、空間についての考え方だと言います。抽象的な図式(軸、パースペクティヴ、中心)に基礎付けられておらず、多くの黒人文明の場合のように、不定型な領域のつながりと捉えられていると言います。家のレベルから、地域、町、地方、そして国のレベルに至るまで、広がりが次々にはめ込まれて一連のものとなっており、系統だって居らず、中心点がないと指摘します。「タマネギの皮」的空間であって、道は曲がりくねっており、区域の境界があまりはっきりしていないと言います。

 二番目の特質は、空間が過去を喚起し、表現していることだと言います。他の文明に比べて日本文明は過去をよく保持していますが、これは現在が過去に基礎付けられており、異文化受容がこれまでのものを捨てて新しいものを受け入れるというやり方でなく、これまでのものに新しいものを重複させるというやり方で行なわれているからだと言います。過去から受け継いできた行動の形式のみが、社会のまとまりを保障しているのであると言います。