現代への適応

 多くの世界の都市作りに見られるような、地形に合わせた網目状の構成になりがちなところ、日本の町という空間の作りは、歩行する人間の具体的な生活に適した空間が考えられていて、ベルサイユや北京、ワシントンでのように何が何でも象徴的な幾何学的模様の区画を維持するということはなかったとマサビュオーは指摘しています。そこには、日本文明に固有ないくつかの不変な原則が貫かれているからではないかと言います。

 その三番目として挙げているのは、過去崇拝に、自然への沈潜の傾向がうまく調和している点だと言います。日本人の自然への沈潜の傾向は西洋人の場合よりも、より深く、より非合理的なものだと言います。自然は町の至る所に見られ、自然に溶け込むことは、人格を環境の中に組み込まれたものとして捉え、人間をものの一部であるように考える傾向、もっと一般的に言うと、思考や概念を言語では表現できない感情やコミュニケーションに従属させるという日本の特徴的な傾向の表現であると考えています。ここにも、日本では自然を無理矢理とねじ曲げたり、押さえつけたり、征服しようとするのではなく、自然と共生し、自然をよりよく活かそうとする日本人の特性が表れている気がします。

 次に4番目の原則としてあげられるのは、これまで見てきたような原則は、都市についての理論的な思想が日本に欠如していたことや、第2次世界大戦も最初のうちは、その展開が消極的だったことの理由になっていると言います。日本では、木を建材として使っているために、形式を根本的に考え直して変更できてしまうので、過去から伝わってきている原型に忠実であることが大切になると言います。簡単に変えられてしまうために、かえって伝統を大切にしようと思ったのかもしれません。それは、私たちの中心の軸を見失ってしまいかねないからです。しかし、どうも変え始めると際限なく変更してしまうのかもしれません。ですから、常に過去を見て、伝統を振り返ってみる必要があると思っています。

 そして、このためにおそらく日本人が「民主主義」について持っている特殊な考え方も相まって、不動産取り引きがほとんど完全に自由放任にされ、都市化が野放しで、理論的な規制以外の、財政上の規制、景観保護のための規制などはいっさいやらないと言うことになるであろうと言っています。マサビュオーも、私が危惧するようなことを指摘しています。

 このように、一般的な諸原則によって都市は変遷していきます。では、歴史的都市の現代への適応はどのように行なっていけばいいのでしょうか?彼は、日本の現代の地理的状況への昔からの都市の適応のあり方を、現代の都市網の地図を見ることによって、いくつかのタイプを見出しています。

 歴史的な町のうちには、まず、都市としての存在は過去のものとなってしまったものがあると言います。いわば化石化してしまって、現代の商業網にはわずかしか参入できず、生き延びるだけでやっとという町があると言います。

また、過去の遺産ゆえに存在価値がある歴史的都市もあると言います。宗教的な町がまずその例で、昔ながらの宗教的な機能を果たしています。現代の生活の新しい要求に応えるために、訪問者を受け入れる設備は大型化し、現代化されています。しかし、これらの町の活動のリズム、景観、職業上の社会構造の本質は変わっていません。昔ながらの温泉町や、紙や陶器、漆器などの非常に古くからの手工業の町についても同様なことが指摘できると言います。

城の周辺

 マサビュオーが描いた城下町の空間の作りは、私はよく地方に行くと、まず必ず寄るところが、その町の中心である城を訪ねることが多いですので、割と理解しています。町の名前も、まず必ずといっていいほどあるのが「大手町」です。その他にも鍛冶町など独特の町名が近隣に並びます。先日、和歌山城を訪れたのですが、近くに鷹匠町がありました。wakayamajo

 もう少し、マサビュオーが描いた城下町の特徴を読んで、それが、どのように現代に残されているかを見てみたいと思います。「人工的に構築された景観が、階級間の違いを示している。上級武士たちの住居は広大で、迷路のような通路があり、広い庭には厩と従者の住まいがある。下級武士たちの住居はそれに比べるとつつましいものである。しかし、そのどちらも商人の居住区や、露店が並び職人たちが住む道端とははっきり違っている。日本全国どの町でも大工などの職人たちは、カテゴリー別にまとめられていて、通り裏の広場に面して出入り口のある長屋に住んでいた。また、封建都市には一つか二つの寺社地域があって、数十の寺社が集められていることもまれではなかった。寺社の外壁は隣り合っていて堅固な作りになっており、防壁として町を外敵から守る役割を果たしていた。」

 このような城下町のあり方は、多分、「ある、ある!」というように、未だに残されているところが多いようです。また、城下町に入ると、道が狭く、くねくね曲がっていることが多いようです。それは、待ちをめぐる城壁が築かれている外国の城と違って、日本の城下町の道路網は、T字路は奇襲攻撃をかわすように考えられており、堀や神社や運河は社会的な生活空間を構成する一方、有事の際には町の内部での障害物となっていると言います。確かに、ドイツに行くと、マリエン広場通りの四方には城門が築かれています。

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 日本では、19世紀から20世紀へかけての変遷を通じても、歴史的都市では日本文明に固有ないくつかの不変な原則が貫かれて、このことがおそらくこれらの都市の将来のあり方を条件付けることになったとマサビュオーは考えています。そして、五つの原則を挙げています。

 その原則の1は、空間についての考え方だと言います。抽象的な図式(軸、パースペクティヴ、中心)に基礎付けられておらず、多くの黒人文明の場合のように、不定型な領域のつながりと捉えられていると言います。家のレベルから、地域、町、地方、そして国のレベルに至るまで、広がりが次々にはめ込まれて一連のものとなっており、系統だって居らず、中心点がないと指摘します。「タマネギの皮」的空間であって、道は曲がりくねっており、区域の境界があまりはっきりしていないと言います。

 二番目の特質は、空間が過去を喚起し、表現していることだと言います。他の文明に比べて日本文明は過去をよく保持していますが、これは現在が過去に基礎付けられており、異文化受容がこれまでのものを捨てて新しいものを受け入れるというやり方でなく、これまでのものに新しいものを重複させるというやり方で行なわれているからだと言います。過去から受け継いできた行動の形式のみが、社会のまとまりを保障しているのであると言います。

 

歴史的都市のタイプ

 マサビュオーは、日本における歴史的都市の現代への適応を考える上で、まず、現代日本の歴史的都市の起源について考察しています。それは、私と同じで、保育を考える上で、最近興味があるのは、人類が誕生して以来現在まで受け継がれてきたさまざまな特性の起源を考察することです。ホモサピエンスというヒト属が、協力を基盤としてコミュニケーション力を持ち、社会を構成するために規範を保ち、社会の形成者としての育ちをしていく上で、赤ちゃんからどのような遺伝子を持ってきたのかを考えることで、今の保育はどうあるべきか、子どもの環境をどのように構成していくのがいいことなのかを考えています。

 マサビュオーは、日本の歴史的都市の起源を五つのタイプに分けて考えています。一つ目のタイプは、昔の姿をそのまま残している京都です。かつて都になった町がいくつもありました。これらの都市は、4世紀から8世紀の間に、中国の都であった長安をモデルにして建設されています。町は碁盤に企画され、厳格に方向付けられ、根本的に左右対称になっていて、他の町とははっきり違った姿をしています。

 二つ目のタイプは、神社や寺院の門前の町です。それらの町は、もともと巡礼者を受け入れるために発達しました。こうした町のうち、長野のような町は地方の中心地とさえなっています。寺院の周囲に発達した商業的な機能を果たしていた町も、このタイプの一つと考えています。

 三つ目のタイプは、政治的、宗教的な機能ではなく、主に商業的機能を持って発達した伝統的な町です。平野とか、山地に接するところとか、河岸に位置していました。近代まで函館、横浜、神戸では港の機能ゆえに都市機能が発達していました。長崎、新潟もこのタイプと考えられ、さらに古くから存在していました。四つ目のタイプは、宿場町です。かつての行政組織では、都から、そして17世紀以降は江戸から、各地に向かう街道が重要で、それらの街道沿いに、宿屋や運送業者、馬の提供業者などが集まっています。まず、鎌倉から、後には江戸から京都、大阪を結んだ東海道はもっとも交通量が多く、その各所の風景や宿場の姿は、北斎や広重の作品の中で不朽のものとなっていると言います。

 五つ目のタイプは、もっとも数が多く、今も多く残っている町です。それらの町は、封建制によって成立し、封建領地の領土である大名が住む城の所在地だった町です。日本の現代都市のほとんどはこのタイプで、その発展形態は、この上なく多様なものであると説明しています。

 マサビュオーが言う歴史的都市は、学校で習う町の形です。最近、学校では習っているのかわかりませんが、テスト問題で、都市名が挙げられ、それらの都市はどのような機能を持って生まれたかを答えるものがありました。城下町、門前町、港町、宿場町、などに分けました。確かに、現在でも町紹介のテレビ番組などでも、「かつては城下町として栄え、今でもその面影を残している○○」などとナレーションが入ります。

 マサビュオーは、その中で、封建都市の構造は単純で、都市社会内部の職業上の社会的区別に基礎付けられていると言います。「多くの場合、城そのものが中央に位置していて、平地か、丘の上に立てられており、堀や、練兵場、兵器庫、連綿と続く城壁などがあって、武士たちは、収入の異なるいくつもの階層に分けられていて、城の近くの区域に居住しており、商人と職人の居住区はそれよりも離れた場所にあって、武士の居住区とは運河などによって隔てられている。」等々説明していますが、当然日本人であったら、そのようなことは知っていると思いますが、今の若い人はどうでしょうか?

日本的価値観

 人の性格や気質は、人それぞれ違ったものを持っています。しかし、その風土や自然、そして伝統からその地方、その区域によってある気質に共通が見られます。それは、日本に限らず、どの国にも見られます。しかし、マサビュオーは、「日本人は、同一の基本的価値観に基づいて行動している。」と言います。それは、他の国と比べて日本はその度合いが強いと言います。それは、外国人にとっては、たいへん好都合であるといいます。

  どうしてかというと、日本では、どこかのある地方とか何かの社会集団に一度うまく適応できれば、あとはほんの少しの調整だけでほかの地方とか社会集団にも適応できるからだというのです。外国人にとっては、どの日本人の態度も同じようで一貫していて、一人の人のように接していくことができるのだからと考えています。このことは、実は日本自体によってとりわけ有利だと言います。マサビュオーは、無秩序と革命が伝統的でさえあるフランスの国民の一人としては、こうした調和を保っている日本人には感嘆せざるを得ないと言います。それどころか、それ以上にうらやましく思っていると言います。

 日本に在住しながら日本を研究し、外国から日本を客観的に見て、「日本人は、同一の基本的価値観に基づいて行動している。」ということをうらやましく思うのですね。しかし、この「日本的価値観」とはどのようなものなのでしょうか?それは、今なお持っているのでしょうか?また、それを、不易なものとして次世代に継承していこうとしているのでしょうか?それとも、流行に流されてしまっているのでしょうか?古くさいと片付けられてしまっていないでしょうか?

 歴史は、動いています。戻ることはできません。また、そのまま現代に適応することもできません。マサビュオーは、次の章で、「歴史的都市の現代への適応」を述べています。そのような課題を持つのは、古い歴史を持った日本の町の将来に関して、それぞれの町に特殊な問題がいろいろとあるからです。そして、それらの問題は、根本的なところでは、全国どの町も、ある共通の矛盾を抱えていると言います。denntouie1

 その矛盾とはどのようなものかをマサビュオーはこう説明します。「社会経済的な現実は、時代とともに変化する。その一方で、それぞれの町に独特な社会的相互関係のあり方があって、それらは、その町の景観の中に、つまり空間の使われ方や、そこに置かれているもの、使われる材料などに表現されている。その町での社会的関係がどうあるべきかは町全体で決められ、町全体で維持される。したがって、都市の景観を乱すことは、この共同体としての諸関係のシステム全体を乱すことにつながってしまう。道や家や記念碑などの建築物が、その町の共同体としての諸関係を守っていくという使命を担っている。町全体、またその町を構成する各要素が、その土地の文化がいかなるものであるかによって、成員のそれぞれのあり方を想定する。」dentoie2

 いろいろな地を歩くと、あまり開発されずにそのまま残った町並みとか、非常に特殊な町並みは、その町としての合意はしやすいため、その町の景観は残っていたり、復元したりしていることはありますが、多くの町では、やはり住みやすさ、経済効率、それらを優先していることが多く見られます。しかし、歴史、文化を残して欲しいという思いは、一時訪れる旅行者の無責任な要望であって、そこに生活している人々からすると、その矛盾に悩むことは多いでしょうね。

性格、気質の相違

 人の性格は様々です。しかし、おおむねその性格は国によって、地域によって似たようなところが見られます。マサビュオーは、その違いは、フランス人の間でも日本人の間でもいろいろと違っていますが、日本人間よりもフランス人間のほうが性格の差が目立つと言います。それは、フランスでは比較的最近まではっきり違っていた民族が、一緒になっているのだから当然のことだと言います。ですから、フランスは、日本ほど一つにまとまった国ではないということになるだろうと言います。さまざまな対立する傾向がひしめき合っていて、それが何とかまとまっているのは、あらかじめ国全体の合意が合ったからではなく、絶えず妥協をしているからであるといいます。

 また、気質についても、日本でもフランスでも地方というよりももっと大きな範囲で違っていると言います。例えば、日本で言えば東北、関東、関西というような広い単位で気質が違っていると言います。それは、フランスでも同じで、北部、南部、西部、東部といった、いくつかの地方にまたがった大きなまとまりがあって、それぞれのまとまりの中にはどこかしら親しい雰囲気があるといいます。それは、朝鮮についてもベトナムについても、そのような傾向にあることをマサビュオーは発見したと言っています。

 そのような気質の傾向について、彼は日本人の間ではどのように見ているのでしょうか?彼は、大きく関東と関西の住民の気質がかなり違っているということを、自分が生まれた都道府県の住人の特質についてその土地の愛好家が書いた本をいくつも読んで確認したようです。例えば、下町生まれ、下町育ちの江戸っ子には、ベルヴィルとかメニエルモンタンといったパリの東地区の人たちとかなり通じるところがあると見ています。「陽気で、遊び事が好きだし、自分の町なら端から端まで誰一人知らない人はいないといった調子で、自分自身が町の一部のようになって、打ち解けて暮らしている。働き者で、女性の前ではおとなしい。」私は、下町育ちでしたから、このような印象は納得がいきます。よく、東京の人は、隣近所は誰が住んでいるかも知らず、没交渉であると評されることがありますが、そのたびに「えっ?」と感じていました。彼の言うとおり、私は子どもの頃は、「自分の町なら端から端まで誰一人知らない人はいないといった調子で、自分自身が町の一部のようになって、打ち解けて暮らしている。」という生活でした。

 それに対して、彼は、関西の人たちの気質をマルセイユ人とあまり違わないとみています。「働き者であり、経済観念が発達している。おしゃべりが好きかもしれないが、片時も商売のことを忘れない。東京の様子には内心では敬服していても、けっして口には出さず、自分たちの町の方がもっとうまく能率的にやっていると信じている。」と評しています。また、北海道に住む人は、「開拓者的精神を持っていて、意志が強く、閉鎖的で、口数が少ないという点で、北フランスやロレーヌのフランス人と似ているところが多い」と言います。他方、西日本の人、特に九州の人たちの性格は、フランス南西部の人たちの性格と多くの共通点を持っていると言います。例えば、政治好きという点だそうです。それは、フランス南西部の人たちから、フランス共和国政府の閣僚を何人も出していると同じように、九州の各県も、明治以来歴代の内閣に、同じように多くの大臣を出していると言います。

 マサビュオーは、日本では地方によって奥深い相違があることが調査の結果分かってきていますが、それにもかかわらず、日本の特徴は何よりも統一性にあるという印象を持っているようです。日本の外から観察すると、日本という国は、全体的に一致していて、集団としての力が強力だという印象を受けているようです。それは、もし日本で実際に生活し、内部から分析しても、その印象は変わらないと言います。

地方による違い

 「日本でそれぞれの地方が形成された時代に、住人たちはすでにまず日本人であり、各藩が起こってからも、同一の文明が国全体を支配していた。隣接する藩と相違していたのは、衣服、いくつかの言葉の発音、祭礼、慣習といった細かい点にすぎなかった。国の端から端まで、日本の住民は、全体として一つの親類であるかのような関係にあると意識しており、この関係が彼らを結びつけていたのである。」とマサビュオーは指摘します。この感覚が、フランスの地方とは違っていると考えています。フランスでは、まず自分の地方人であり、国の住人であるという意識は二次的だと言います。例えば、コルシカの住人は、自分たちはコルシカ人だという意識が先で、やむを得ず自分はフランス人だと名乗る場合には、何となくいまいましそうであるといいます。それに比べて、日本で、例えば仙台の住人とか新潟の住人が、遠い昔に自分たちの地方が日本とは別に独立していたからといって日本人であることをいまいましく思うといったことは、あり得ないだろうと言います。そんな独立国など日本には存在しなかったからであり、封建時代のどこかの「藩」が、一時的といえども外国に属したということもないからと言います。

 私は、マサビュオーの考え方と少し違って考えます。日本が、藩を超えて、まず国全体の国民だと考えるのは、封建時代に藩主の国替えが頻繁に行なわれたからではないかと思います。戦国時代に国を奪い合う戦いをしたと言うだけでなく、戦いの報酬として国を与え、また、その地を治めるために藩に大名を配置したからではないかと思います。大名は、どの地を任されても、その地を発展させようといろいろな施策を行ないます。ですから、必ずしも、外国から侵略されなかったというだけではないと思います。これは、何を柱にしたかは別として、善くも悪くも、外国に対して国民が一致団結して当たろうとしたのでしょう。

 それは、マサビュオーの言うところに由ると、日本では、国中どこでもほぼ同じような方法で家を建てますが、それに引き換え、「フランス人」と呼ばれている人々は、様子の違った家に住んでいます。彼らは、その土地の住人が伝えた住居、慣習を守っていますし、その土地の言葉を使い続けている場合もあり、特に田舎ではその傾向が強いそうです。おそらく、こうしたことが理由でフランス人は、団結して事に当たる必要がある場合に、個人主義的なのかもしれないと考えています。そして、その違いは、日本人が九州の人と東北の人との違いぐらいはさほどでもないと思うほどだと言います。

 この違いの大きさは、体格など表面的なところでも同じ事が言えると言います。日本人は、大きく二通りのタイプがあるとマサビュオーが日本に来たときに思ったそうです。すらっとしたやせ形で、鼻筋が通っており、そうでなくても幾分曲がっている程度です。手首、足首が華奢で、肌が白いタイプと、がっしりしていて、手足が短く、ずんぐりして、肌は浅黒いタイプです。もちろんそれらのタイプの混合型をありますが、どのタイプの人も、髪の毛は黒く、肌がくすんでおり、目はどちらかというと小さく、体毛は薄いという特徴があると見ます。

 これに対して、一般的にフランス人の身体的な特徴を形で描写するのは不可能であるといいます。地方によって、体型、髪や目や肌の色、それぞれだいぶ違っているのです。

 では、性格はどうでしょうか?

日本の地方

 ドイツで、町を散策するときにいくつかの特徴が見られます。私たちが散策するときの中心は、Marienplatz(マリエン広場)です。この広場の北側には、新市庁舎がそびえ立っています。この建物は、ルートヴィッヒ1世の命により1867年から1909年にかけて建設されたネオゴシック様式の市庁舎です。10年前にミュンヘンで行なわれた世界保育大会に参加したときに、夜のレセプションがこの市庁舎で行なわれ、招待されました。そんな役所ですが、一階は店舗が並び、地下は大きなビアホールとなっています。また、迫力ある正面壁面にはバイエルン王、寓話や伝説の英雄、聖人などの像が飾られていて、塔には、仕掛け時計が時間になると動きます。2015marienhiroba

この広場は、東西、南北の交易路が交わり、ミュンヘンの街が誕生した時からの中心的な役割を果たしてきました。中世には市場が立ったり、騎士の馬上試合などの競技も行なわれたそうで、そのシーンは新市庁舎の仕掛け時計に名残をとどめています。現在は、この広場の周辺に市場が点在しています。日本でも輪島の朝市などが有名ですが、外国では市場をよく見かけます。マサビュオーは、「家屋の日本文化」のなかで、自国フランスと比較して日本の空間を考えています。そのなかで、「日本に“地方”はあるか」というテーマの最初にフランスと比較してこう書いてあります。「フランスでは、小都会とまわりの“くに”との関係が目立つのは、平均して月に一度の市が立つ日である。毎年、なんどかある特別な機会には、特に大きな市が立つ。田舎から大勢の人たちが家畜や農作物を売ろうと集まってくる。また、大都会からは商人たちがやってきて、テントの下に店を張る。このようなときに人々は、あらためて自分たちの“くに”のまとまりを意識し、その特色ある生活を実感する。大道で売られている品々は、キノコ、栗、果物、いろいろな家畜など、どれも郷土の特産物である。町の特産物が出ていることもある。ナイフ、缶詰、織物など、ときとして、もう何世紀も前から父子相伝の特殊な技術で作られてきたものもある。まわりの田舎からやってきた農民も、町の職人や商人も、ここでは方言を使う。」

このような集まりは、町の祭りにも見られると言います。もちろん、このような地方色に色濃く彩られた生活を、日本でも見出すことはできると言います。地方色の性格は、フランスのものとほぼ同じだと言いますが、それどころか、祭りの時は、フランスよりも日本のほうが、活気があり、伝統に忠実であるといいます。それは、日本ではへんぴな地方では、土地が孤立していて、生活の地方色が特によく保存されているからだというのです。

さらに彼は、各地方の特色を作り出しているのは、やはり自然よりも人間であるといいます。歴史的経緯が異なっているというのです。日本の各地方は、かつての封建領土の色彩が強いと感じたようです。封建領土が厳しく境界を閉ざしていたためであり、それが今も生き続けていると考えています。たとえば金沢に滞在すると、地方の伝統がまだ生き続けていることを感じることができるそうです。この伝統は、かつての「藩」に起源を持つもので、美術、工芸、文学、農産物、農村の風景や家の形態などがこの「藩」を中心として、そして「藩」のために形成されたのだと言います。これは、仙台や広島、鹿児島の周辺にも彼は見出しています。

しかし、これらはフランスの昔の首都の間に存在する差異ほどには大きいものではないと思っているようです。それでは、日本の地方独特なものは、何なのでしょうか?

伝統的な家の役割

 マサビュオーは、日本的な「家」に日本の伝統的文化を見出しますが、やはり、まず、「陰」について注目しています。日本の陰は、家の中にだけ空間への演出をするのではなく、そこに置く家具、装飾品、食事の時の食材、器、あらゆるものに陰の影響を考慮しています。マサビュオーは、谷崎の影の考え方を紹介しています。「影は、あまりに強くあまりに色彩豊かな感覚を弱め、あまりに生々しい現実のとげとげしさをやわらげる機能を持っている。こうした影を表面的に備えることによって、木や紙や上薬のない陶器といった伝統的な材質が、もっとも満足のいく印象を与えることができるようになったのであり、金や漆の輝く光沢さえも、この柔らかな感触を求める一般的傾向から免れるものではない。日本の伝統的な材質を鑑賞するには、古来からの照明の下でなければならず、電灯の固い光線には適さない。物体に期待されているのは、やわらげられた光の反映であり、伝統的な家の内部の薄暗がりがこのための唯一の適切な枠組みなのである。」

 この影に対する考え方、とらえ方について、マサビュオーは、また面白い関係を考えています。それは、この影に対する日本の伝統的な美意識は、物体や人間の顔に明るい光が当たるのを拒んでいるのですが、これは、日本語が感情や考えをはっきり述べないということと通じるところがあるのではないかと考えているのです。そして、日本文化を感覚に還元してしまうことはできないとしながら、人間の言葉や振る舞いは、薄暗がりが醸し出す調和のとれたぼんやりとした全体に順応しなければならないと考えています。この薄暗がりの中で、各人は慣れ親しんだ波の中にいるようにゆったりとたゆたうのだと言うのです。言語と礼儀作法がこれを見守っていると述べています。

 先日、園の職員と話したのですが、食事の時にあまりに子どもたちのテンションが上がってしまったときに、少し薄暗くしたら静かになったということを聞きました。電灯によってこうこうと照らされた元では、なんだか気分が高揚する気がするということでした。だからといって、あまりに暗いと食材がよく見えません。赤ちゃんに食事を与えるときに、部屋を暗くしてあげた方が落ち着いていいという保育もあるようです。私は、日本文化の中での薄暗さは、食事の時だけの話ではなく、生活全般での話ですので、普段はあかるい中で生活し、食事の時だけ暗くする事はどうかなと思います。しかし、夜は、あまり明るくない方がいいような気もします。

 日本文化を見直すときに、ただ、明暗のコントラストと言うよりも、陰のあり方、役割り、特にメリハリとしての意味、また、意図して陰の部分をつくるということなどの演出も検討するといいかもしれません。マサビュオーは、こうまとめています。「伝統的な家がこのように何世紀にもわたって、日本人の空間的な構造構築の原則の本質を集中的に表現していたのならば、昔からの空間が寸断されつつある現代において、伝統的な家は、いかなる役割を果たすのであろうか。伝統のもろもろの価値や空間占有のあり方を具現化し、社会全体の安定と存続とを保障し続けるのであろうか。それとも伝統的な家もまた、変化し、現代化して、日本的空間の構造をつかさどる役割を果たすことはなくなるであろうか」

 私は、現代に合う形に変化しつつも、社会全体の安定と存続を保障してきた日本伝統的家の役割を伝えていく使命を感じています。

ドイツに行って

 ドイツに行って、町並みを見て感じることは、数年前と景観がまったくと言っていいほど変わっていないということです。それに対して、日本の場合は、1週間ドイツに行って帰っていると、あっという間に更地になっていたり、店舗が変わっていたり、大きなビルが建っていたりとめまぐるしく変わっています。マサビュオーは、「昔の景観の廃墟があり、町には新区域がある。古いあり方と新しいあり方とが衝突する。そして、昔からの空間が変質する。こうしたことが、文化と人間のあり方が深く関わっている世界のイメージ、さまざまな事物のイメージを揺るがしている。」と言います。

 それに対する警告の動きもあります。「過去、現在、未来における「真の」日本とは何なのか、そして「真の」日本とはどうあるべきなのかについて、絶望的とも言える疑問を発している」と彼は言っています。そして、このように日本の国の空間の大都市化は、日本的な感性のあらゆる面を揺るがしています。それは、西洋の諸価値が入ってきていることによりますが、いくら警戒しようとしても、拒否しようとしても、日本人が望んでいるところは逆に、ますます外部の諸価値を受け入れつつあると見ています。それらの動きについて、マサビュオーは、こう分析します。

 「日本人は、彼ら自身の文化的排他的主義の将来の犠牲者であるように思われる。かれらは島国根性を必要だと考えて、それを保持しようとしていて、そのことが経済的成長に好結果を招いている。しかし同時に、島国根性によって、文化的な孤立が次第に進行して、物質的な進歩の影響で文化が脆弱になり、日本的空間のまとまりを保障することが次第に難しくなっている。」

 とはいえ、彼は、かなり伝統的空間の中心である「家」というもの対して、評価をしています。それは、「生まれ故郷の空間と、そこに含まれ具体化されている諸々の価値の前例のない変動の渦中にあって、伝統的な家は長い間、それでも安定した生活を続けていけることを保障しているかのように思われる頼もしい存在」と見ています。

 彼は、伝統的な家だけが何世紀もの間、本当にしっかりとした構造を保ち、日本的な空間の構造を生き生きと表現していたのだと述べています。そして、あらゆる日本的な空間を強く特徴付けているのは「影の存在」だとしています。それは、美的な雰囲気の要素としても必要なものとされていると言います。そして、この点においても、たいてい薄暗い伝統的な家が、この種の典型的な日本の感覚のもっとも力強い表現であるとしています。

 ここで、彼は谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を例に出しています。この本を読むことによって、日本的な精神のあらゆる思索的な活動の中心に、感じること、触れること、手探りすること、耳を傾けることなどの感覚が偏在していることに気づくと言っています。そして、こんな説明をしています。「この本は、日本の美意識の特徴についてのエッセーであり、著者は陰の崇拝を分析している。この陰の核を、われわれは家の核心とあらゆる日本的な空間の中心とに見出したのであった。谷崎によれば、陰が美なるものの第1条件なのである。このことは、強調しておく必要があるだろう。なぜなら、おそらくこの点において、日本的空間が、日本の文化と日本人の毎日の生活とにとって欠かすことのできないもろもろの価値と通じ合っているからである。」

 私が、園内に暗い部屋を造ったときに、やはり谷崎のこの「陰影礼賛」を思い浮かべ、日本における陰の文化を見直したいと思ったことと同じ考えてあることに少し感動しました。

空間と文化

 マサビュオーは、経済が加速度的に成長し、日本国中の生活が東京と福岡を結ぶ大都市圏の支配のもとに組み入れられたことは、これまでの生活のあり方や伝統的な空間に対して、前代未聞のダメージを与えているとみています。それは、何も日本に限ることではなく、ヨーロッパにも、アメリカにも見出される者です。そして、このダメージをもっと設けたのが、共同的な生活であるというのです。しかし、逆にあらためてこの共同的生活のかつてのあり方について、新しい関心が呼び覚まされているようです。

 日本でも、伝統的な空間を守ろうとする努力が行なわれていると言います。その一つの例が、「ふるさとへUターン」の運動であり、それはそれほど強力なものではないにしても、西洋における地方の運動に対応するものであると見ています。しかし、これは「地方へのUターン」と言ったほうがより正確ではないかと言います。その理由をこう説明しています。「過度な国単位の一体化は拒まれ、大都市の住人たちが抱くような生まれ故郷へのノスタルジーが放棄されているとしても、だからといって、現代的生活の恩恵は拒否されていないからである。過去へ回帰したり、ふるさとへ帰ったりするのではない。自分のくにで、地方で、現代的な生活をしたいのである。」

ですから、彼は、日本列島のさまざまな地方のそれぞれが機能的に専門化することが目指されているのではなく、これからは、各地方が、それぞれの内部の調和だけを考えて発展していかなければならないと指摘します。それは、各地方に真の地方文化の名に値する文化がないという問題があるのではないかと指摘します。真の地方文化がないと、実行力のない現在の各地方にしっかりした構造を与えることができないと言います。是では、伝え合う関係であるコミュニティにはなり得ないと言っているのでしょうか?

日本には真の意味での「地方」が存在しなかったことは周知のことであるといいます。日本国全体に素晴らしく均質な空間があって、それを「あとから」分割したことによって、日本の地方は生まれました。各地方がどのような力を得て、新しい地方経済を発展させ整備していくのか、また、新しい地方経済を生み出すことがそもそも可能なのか、とマサビュオーは疑いたくなると言います。

これに挑戦したのが、現在放送されているNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の楫取素彦かもしれません。

 ドイツに行って思うことは、一口にドイツと言っても正式名称は連邦制国家である「ドイツ連邦共和国」であり、限定的統治権を保有する16の州から成り立っているということです。さらに、21の共和国、6つの王国、1つの大公国で構成されているEUと言う欧州連合という共同体を構成しています。そのために、現在では、ドイツからオーストリアに行くときには、東京都から神奈川県に行くような感覚です。国境を越えるというと、島国である日本では、「海を渡る」というイメージがありますし、「海外」という言葉も海の外というイメージです。

 ですから、日本で地方再生とか、地方自治といっても、どうしても国レベルでの助けがなければ行えませんし、その助けを期待してしまいます。よく、日本人は国を信用していないにもかかわらず、国をあてにしていると言われています。マサビュオーは、「日本人は、自分たちの生活圏の破壊について不安を感じているが、自分たちを定義している文明について、すなわち自分たちのアイデンティティについても、同じように不安を感じている。」と言っています。