同情と道徳

 ブルームは、共感と同情がどう違うかを説明してきました。続いて、同情が道徳と同じではないことも明らかであるとしています。それを、こんな例を挙げて説明しています。犯罪者が、警官に出所させてくれと懇願したとします。警官は同情するかもしれませんが、情にほだされるべきではありません。遵守すべき道徳原理は他にあるのです。もっとありふれた例としては、落第した学生がやってきて、及第させてくれと泣きつくかもしれません。そのときに、学生には同情すると思いますが、彼の言うとおりにしたら、他の学生たちに対して公平ではなくなります。

 心理学の調査でも、ときおり同情と道徳性の衝突が見られると言います。心理学者のダニエル・バトソンらによると、被験者に、誰かの視点に立ってくれと頼むと、その人を別の人よりひいきするようになるという結果が出ているそうです。例えば、苦しんでいる少女を、救命手続きの順番待ちリストの先頭に移そうとします。それは、思いやりある行為ではありますが、道徳的ではありません。こうした類いの決定は、誰が最も激しい情動反応をかき立てるかではなく、客観的に公平な手続きに即して行なわれるべきだからです。したがって、よい人になるには、やみくもに同情するばかりでなく、同情を克服することが必要な場合もあるのではないかとブルームは考えます。そして、こんなことを言っています。「同情は道徳ではない。そして道徳と衝突する場合もある。しかし、同情なしには何も始まらない。他者への気遣いがなかったら、道徳も存在しなかっただろう。」

 私がブルームに興味を持つのは、私が普段から考えているように、人間は赤ちゃんの頃から母親以外の他人との関係を持つことが必要であると考えているからです。それをこのように彼は言っています。「この世に生を享けた瞬間から、私たちは他人とつながっている。島のように孤立した赤ちゃんはいない。新生児でさえ、他人の表情に反応する。」

 それを、赤ちゃんの模倣から説明しています。研究者が赤ちゃんに向かって舌を突き出すと、多くの赤ちゃんもお返ししようとします。赤ちゃんは鏡を見たことがありません。ですから、大人の舌が、自分の口の中にあって、まだ一度も見たことのないものと同じだと本能で察するのに違いないと考えます。この模倣は、赤ちゃんと周囲の大人の絆を育み、それによって互いの感情をしっかりとつなぎ止めるために存在するのかもしれない跳ぶルームは考えます。実際、親と赤ちゃんは互いの表情を煩繁に、それも多くの場合は無意識に模倣するのです。

 赤ちゃんは、他者の苦しみにも反応すると言われています。それは以前のブログで幼いウィリアム・ダーウィンの観察日記を紹介しました。生後半年で、乳母が泣きまねをすると、「悲しげな顔」をして「同情」を示したというものです。誕生してわずか数日でも、赤ちゃんは泣き声を不快に感じることが判っています。そのため、泣き声に反応して、自分も泣き出す傾向があるのです。騒音にむやみに反応しているわけではないのです。赤ちゃんは、自分の泣き声より他の赤ちゃんの泣き声に反応して泣きます。同じ音量のコンピューターの雑音や、チンパンジーの赤ちゃんの泣き声ではそれほど泣かないということがわかっています。

 私たちの園では、それを「つられ泣き」として調べた結果、意外にも他の子の泣き声につられると言っても、その子にとって、特定の子の泣き声に特に反応していることが判りました。これも調べていくと、面白いかもしれません。