道徳は生得的か

 私たちの仕事は、毎日多くの子どもたちと生活を共にしています。特に、小学校などと違って、こちらから一方的に子どもたちを指導するのではなく、子どもたちの自然な振る舞い、子どもたちの興味関心に沿っての自発的な活動を大切にしていますから、子どもたちの本性に触れることが多くなります。ですから、子どもたちの指さし行動や、身振りによるコミュニケーションの本来の発達を見ることができます。そこには、どんな理論も、どんな推論にも勝る生身の姿があるのです。ですから、例えば子どもたちの「道徳感」がどのように現れてくるかを思い当たることは多いのですが、その多くは気がつかない場合があります。

 また、現場を多く知っている私たちは、それでいながら研究のアプローチは知りませんし、そのまとめ方も上手ではありません。「そう、そう、あるある!」と言うことは大切なことですが、それだけでは、子どもたちを守ることはできません。その行為にもう少しどのような意味があるのかを知らないといけないと思っています。

 ブルームも理論を進める前に、こんな子どもの姿を紹介しています。「たったいま人形劇が終わった。劇には三体の人形が登場した。中央の人形が右側の人形にボールを転がす。すると、右側の人形はすぐさまボールを返す。次に左側の人形にボールを転がす。すると、左側の人形はボールを持ったまま走って逃げた。劇が終わり、親切な人形といたずらな人形が舞台から降ろされ、男の子の前に並べられた。それぞれの人形の前に、お菓子が1個ずつ置かれ、1歳児はどちらかのお菓子を1個取っていいよと言われる。予想通り、そしてこの調査に参加したほとんどの幼児と同じように、この子も、いたずらな人形(ボールを持って走って逃げた)からお菓子を取り上げた。しかし、これだけではまだ足りない。男の子は、ぐっと身を乗り出して、いたずらな人形の頭をピシャッとはたいた。」

 1歳児のこのような行動に似たような行動を見ることがあります。そのときに、「この子は正義感が強いのだ」ということは思いますが、それが人間の生まれつき持っている道徳感であるのかどうかはあまり考えませんでした。人間に道徳感情があるのは判ります。道徳感情があるから、他人を評価して、思いやったり非難したりできるのです。しかし、赤ちゃんのいつ頃からそのような感情を持つようになるのでしょうか?それをブルームは考察しようとするのですが、その前にこのように断わっています。まず、ブルームの言う「赤ちゃん」とは、生後三ヶ月未満の赤ちゃんは取り上げていません。それは、実験データが無いというのが最大の理由だそうです。これほど幼い赤ちゃんの心を既存の方法で調査するのは難しいと言っています。ということで、ブルームは「赤ちゃんはこんなに小さくても道徳を理解しているのです。」と主張することは遠慮しているようです。

 それについては、私も同感です。それは、表に現れるかどうかの問題で、もともと備わっているかどうかという判断は難しいからです。今までの研究では、表に現れないと「しない」「できない」と思われることが多かったような気がしますが、最近の研究では、表面に現れないだけで、もともと持っているのではないかと思われる能力もたくさんあることが判ってきました。ブルームもこう言っています。「結局、道徳の中に、人間に生得的に備わっているものがあるとしても、そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる。」

 道徳も同じようだというのです。

道徳は生得的か” への15件のコメント

  1. 道徳感を説明する文章として、「そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる。」という見方はなるほど!と思いました。備わっているが、まだ表面上には現れていない成長というものもあるということですね。私たちは、子どものそういった育ちを大切にしている部分もあるのだと思います。藤森先生が言われる「後伸びする力」にも似たように、将来その成長が形となって現れるための、「今」があるのだなと感じました。また、研究の仕方やアプローチの仕方が分からない現場の職員が、道徳観について『「そう、そう、あるある!」と言うことは大切なことですが、それだけでは、子どもたちを守ることはできません。その行為にもう少しどのような意味があるのかを知らないといけない』というのは、まさに“専門性”が発揮されなくてはいけない部分なのでしょうね。“子どもってそういう行動とるよねぇ〜”の、一歩先を見つめなくてはいけません。

  2. 私も言われたら分かるという子どもの姿を思い出したり、そのような姿を子どもから見てみようと思いますが、その先の理解、まとめが大切になってくるのですね。実際の子どもの姿を観察する力もまだまだ足りません。そのこともしっかり意識しながら、その先の理解もしっかり現場での子どもの姿から深めて、どう保育につなげていけばいいのか考えていきたいです。目に見えないものや確認できないものは基本的に存在しないというのは分かりやすいことかもしれませんが、必ずしも事実ではないですね。藤森先生が言われるダークセンスや宇宙にある未確認なダークエネルギーも確認されていないだけで存在するものだと思います。今現在、よく分かっていないだけで、それは「ない」ということではありませんね。「ない」と決めつけてしまうと見ようとする姿勢もなくなってしまいそうです。あるもので考えるということが論理的な姿勢なのかもしれませんが、そうではないことも考えられるということを理解して考えるということも論理的な姿なのですかね。

  3. 「結局、道徳の中に、人間に生得的に備わっているものがあるとしても、そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。」とあり、藤森先生がおしゃっていた「遺伝子の準備期間」に近いのかな思いました。「そう、そう、あるある!」と言うことは沢山ありますが、それだけではなく、なぜそういう行動をするのだろうと考え追求する姿勢が専門職なのでしょう。そして、私たち保育者が研究というアプローチを知ることができたら、その準備期間中に何をしたらよいのか、子どもたちの姿に一番近い現場からでも提案ができるのではないでしょうか。

  4. 人間が社会的存在であるなら、その人間社会を成り立たせる規範がなければならない。それが「道徳」、として日本語圏に暮らす私たちの社会を成り立たせていることなのでしょう。私たちはかなりの情報を蓄えている遺伝子を持って生まれ来ました。その遺伝子は、環境に応じて、オンとなったりオフとなったりするようです。そして時間の経過と共に、私たち自身がメタモルフォーシスしていく過程で顕著の度合いが増してくるのかもしれません。「道徳」遺伝子のスイッチがオンとなるのは、他者存在、他存在を意識する頃から、なのかと思います。まぁ、このことはブルーム氏の研究の今後の解説を待つとしましょう。現場で仕事をしていると、「そう、そう、あるある!」で終わってしまう現実があります。保育に従事する保育者にはその役割があります。10年前ドイツのキンダーガーテンで目撃した「博士号」の称号を持つ研究者の存在を今でも忘れません。その研究者は保育環境と子どもたちとの相互作用を観察し分析した結果を次の保育環境確立のために資するという役割を担っていたような気がします。保育者と研究者そして行政とが三位一体となって保育を作り上げていました。現場を参考ほどに観察する研究者が一段高い場所から何かを保育者に指導するという感じではありませんでしたね。現場は現場です。研究者はその現場の観察と保育分野以外の人類史や脳科学等の成果について素直に耳目を傾け、よって現場の保育者とあくまでも協働するのだというスタンスがなければ、詰まる所「子どもを見守る」ことはできないような気がします。

  5. ちょうど今、月末に近づいていることもあり、子どもたちが寝静まった時間にクラスで月案会議をしています。今月の子どもたちの姿を振り返りをしていると、「そう、そう、あるある!」という職員間の共感は多くあります。しかし、その共感で満足しては大人の自己満足で終わってしまいますね。月案会議では振り返りと同時に来月の個々の目標を立てるので、そのときにもっと深く、子どもたちの行動や行為にどのようや意味、意図があったのか、職員間で話し合って、より理解を深めていきながら来月の目標を考えていけたらと思いました。
    最近の研究から、「表面に現れないだけで、もともと持っているのではないかと思われる能力」もたくさんあることが判ってきたのですね。その例えに「そばかすや親知らず、脇毛のように…」とあり、非常に面白く感じたと同時にわかりやすかったです。表面に現れていないということは、熟成させている段階ということであるように思えました。子どもたちの行動や行為に対してどのような意味があるのかを今後より考えていく中で、この段階を考慮した上で考えていかなければいけませんね。

  6.  赤ちゃんはすごいのだ、と主張したい気持ちが根本にある為、先天的に道徳を携えているのだろうと強く思うところなのですが、実際に証明できるものがないとその主張をするのは難しいというのは、一種のジレンマのような感じもします。これまでの指さしについての連載から多くのことを学びましたが、その中でも、研究者の方々の〝証明する為の仮説〟、このセンスが非常に際立っていたことが印象に残っています。3ヶ月未満の赤ちゃんに道徳を携えている心があるとして、それをどう証明するかは、それを研究する人のセンスによる部分も大きいと感じます。
     話は逸れて、実際に目に見えるものではないと信じないというような唯物論者では僕はないのですが、その人たちも納得させるものが次々と生まれていくのだと思います。地球が回っていることが世間一般の常識になったように、赤ちゃんは偉大な存在であるということが、世間一般の常識になる日が遠くない未来にくると思っています。

  7. 最後の文章の〝そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる〟という表現に『なるほど、確かに』と納得しました。
    〝表面に出ていない〟イコール〝できない〟ではないということを改めて学ばせていただきました。今度何かの機会でこの表現を使わせて頂きます。
    まだ未確認のことを『ない』とするのは簡単なことです。道徳性が表面に出ていないとされている3ヶ月未満の赤ちゃんは準備をしているということになるのではないのでしょうか。
    その準備期間に自分たちにできることを考えていかなければなりませんね。

  8. 人形劇を見た子どもの反応は、予想したものと、さらにいたずらな人形の頭を叩いたとあるところからも、子どもの正義感の強さを感じると共に、いいこと、よくないことを自ら判断することができるということがわかりますね。
    これを考えたときに、子どもは、様々な経験をするなかで、大人が思っている以上にわかっているのではと考えられました。それを大人が注意してしまっても、子どもにとっては、何で言われたか分からないのではなく、分かっているけど、好奇心や探求心で自発的に動いてしまったと予測することができました。大人がじぶんの物差しで、子どもの幅を図るのではなく、゛表に現れるかどうかの問題で、もともと備わっているかどうかという判断は難しい゛とあるように、子どもの目に見えない能力があるということを知っておく必要性を感じています。

  9. 1歳児の人形劇の話から、その子の良い悪いが判断できてまた、頭を叩く様子からより強い感情を感じました。本当に赤ちゃんの道徳が備わっているのかは難しいでしょうが、「赤ちゃんはこんなに小さくても道徳を理解している」と言いたいでしょうね。
    最後に示されていた、表面に出てこない形もあるという事には、あーそうだよね、と全てが表面にでるわけじゃないんだと納得しました。

  10. 「結局、道徳の中に、人間に生得的に備わっているものがあるとしても、そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる。」という部分に共感といいますか、感動します。そこには子どもの成長の本質のようなものを感じます。それを理解した上で子どもをまるごと信じていく必要がありますね。「そうそう、あるある!」という子どもの行動からなにがわかるのか、という先を見通す専門性を持つことが大事であり、ただあるあるだけになってしまうと専門でない方たちと同じになってしまいますね。子どもを持った友だちと会うことが多くなってきた今、そのあるあるの先にあるものを発見し、伝えていけたらカッコいいことなのかもしれませんが、まだまだ理解に及んでいません。頭フレッシュにし、柔軟に子どもたちを見ていきたいと思います。

  11. 「その行為にもう少しどのような意味があるのかを知らないといけない」とあります、これはこれからの保育の課題でもあるような気がします。このことを発信していくことで、保育の必要性が社会一般的に認められると思っています。私も含めベテランになればなるほど、そこを疑問に思わない傾向があるように感じます。「実際はどうなのか」子ども達と生活する中で探求していきたいと思っています。「すぐに表面に出てこない部分」を含め、説明できるようになればいいのですが、まだまだ努力が必要を感じています。

  12. 表に現れないだけで、もともと持っている能力がたくさんあるということは、やはり引き出してあげる必要があるのでしょうか。それとも成長と共に現れるのであれば自然と待っていればいいのか・・・何とも言えませんが、少なくとも今までのトマセロ氏の話にしても子ども同士の関わり、集団というのが必要だとすると、やはり子ども同士が関われる環境を保育士が用意する必要があるのかもしれません。また「そうそう、あるある」という感想は誰でもあると思いますし、おそらく親でも同じ経験はあると思います。藤森先生でも講演で「ケンカを止めたり、悪い事をした子どもに怒るのは素人でもできます、保育士という専門性を持っているならば、ケンカを自分で解決させたり、悪いこと自らしないようにするのが「保育士」という専門性」と言われているように、子どもたちの行動に対してどういう意図があって、次はこうなるであろう、と予測しそれこそ環境を設定したり、関わったりしていく必要があるのだと思います。

  13. 「そう、そう、あるある!」だけでは子供を守ることができないというのは、自分自身にも何か響いた気がします。
    少し話はそれてしまうかもしれませんが今回の例に上がっている人形劇。人形劇は子どもにとっては特別な存在のようにも感じます。というのもわが子がものすごいはまっていて、鑑賞した劇の内容をしっかりと覚え、その内容を伝えようとしたり、登場した人形の気持ちを言ってみたりとその印象の強さに驚きを覚えます。私の中では、自分と同じくらい小さな人形たちが繰り広げるお話に一種の共感のようなものを抱いているからではないかと思うのですが、、、。そうした意味では、この実験において人形劇を使ったのはより気持ちが表れやすかったのだろうなと感じます。
    子どもたちの道徳が見えにくくともある。それは大切なことですね。

  14. 赤ちゃんには表に現れていないだけで、その中で成長していく能力というのは数多くあるのでしょうね。では、その能力を成長できるようにするためには我々はどういったことをすることが必要なのかということを考えます。そして、その能力がもともと持っているのであれば、やはり、「教えてあげる」という考えを「元々持っている能力を引き出す」という考えに改めなければいけませんね。そのためにこういった研究の内容を理解していかなければいけないのでしょうし、それを「あるある」と感じるだけではなく、意図を感じて、それにどういった意味があるのかをしっかりと考えていくことが必要とされますね。そして、その結果が「意図ある環境」であり、「意図あるかかわりに」なっていくのだと思います。まだまだ、勉強の身ですが、しっかりと胸にとめ理解してついていきたいと思います。

  15. 人形劇の例で1歳児でも良いことか悪いことかの判断ができるのですね。またお菓子を取り上げるだけではなく、頭を叩くという行動はそれほど悪い事をしているという強い思いからそうしているのでしょうか。「そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる」とありましたが、確かに表面に出ていないからといって「できない」と結びつけることはできませんね。保育者としてできるようになるための手助けを考えていきたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です