直感

 ブルームは、ある種の道徳的基盤は、学習によって獲得されるのではない、すなわち、母親の膝の上で、もしくは学校や教会で教わるのではなく、生物学的進化の産物であるということを「ジャスト・ベイビー」という著作の中で言いたいようです。これは、とても重要なことで、この部分をもう少し確認しなければ、いくら道徳教育を行なっても、その成果には限界がある気がします。私は、小学校で少しの間教えていたときに、道徳の授業があまり好きではありませんでした。それは、何が正義か、人を傷つけてはいけない、いじめはよくない、ということは〇☓では教えられなかったからです。

 ブルームは、道徳性について考察しようとしたとき、ずいぶんといろいろと言われたようです。特に、多くの哲学と普段縁の無い人たちからは、道徳は嫌われ、「私は道徳を信じていません」ということは、一度や二度ではなく、一度など、道徳とは、誰となら寝てもよく、誰とならいけないかの規則に過ぎないとも言われたようです。しかし、こんなへりくつを言うのは、それほど日本人の中には多くない気がします。その点では、私は、日本人は世界の中でも珍しいほど道徳感が強い国民だと思っています。ですから、本書の中で紹介されている不道徳な行為は、私たちからすると少し違和感を覚えます。例えば、バス停で待っている老女を、車で通りすがりにひっぱたいて転倒させるというような行為は、まず日本では見かけることはありません。

 しかし、そんな日本でもどうも道徳違反であるような行為が多く見られるようになりました。例えば、ブルームが、道徳違反の基本中の基本である行為として「人を殴る」を挙げています。「相手の許可を得ず、故意に人を殴る行為には、万人が反応する、特別の、問答無用の悪がある。」とは、哲学者であり、法学者であるジョン・ミハイルの言葉です。さらに、彼は、「これぞ、時と場所を超越した、道徳律の候補である。」とも言っています。

 このように誰が見ても道徳違反であると思えるような行為だけでなく、様々なことが考えられると言います。例えば、酔って大騒ぎをして女性をうっかり車ではねるときなどは、いくら悪意がなくても、誰でも飲酒運転がいけないことくらい承知しているはずですので、非はありますし、直接ある人を傷つけなくても、その人の飼っている犬を殺すことも道徳違反です。

 また、指一本触れなくても、悪事を働くことも可能だと言います。人種差別的な暴言を浴びせたり、殺すぞと脅迫をメールで送ったり、悪意ある噂を触れ回ったり、脅迫したり、インターネットに相手の卑猥な画像を投稿したり、驚くほど違反行為が可能だとブルームは考えます。いまや、だれもがコンピューターのキーをほんの数回叩くだけで重犯罪人になり得るというのです。こうなると、日本人だけは道徳心を持っているとは言いきれなくなります。

 また、こんな例も出しています。不道徳行為をすることだけでなく、何もしないことによって不道徳になる場合もあると言います。親が、子どもに故意に食事を与えない選択をするのは、間違いなく非道な行為であるというのです。イヌやネコを飢え死にさせる人に対しても、ほとんどの人が同じ感情を抱くであろうと言います。

 これらの他にも法律が常識と乖離している場合もあります。そんなときに、私たちはこれらの行為が、ただ単に間違っているという直感に根ざしていると言います。人間の尊厳を冒涜するものだろうという直感が働いているのであって、道徳心理学の学説はいかなるものであるかではなく、この直感がどこから生じるものであるかを説明しなくてはならないのです。

直感” への15件のコメント

  1. 不道徳な行為がどういうものであるのか多くの人は分かっていると思います。何が道徳的で、何が不道徳的な行為なのか区別がつかないという場合もあるのかもしれませんが、不道徳な行為をしてしまうことに、分かっていてもそれをとめることができないということもあるのでしょうか。相手に対して不満を抱いてしまうことは私にもあります。その不満を形として、行為として表してしまうということも道徳的な行為と関係があるのでしょうか。となると自分をコントロールする力も道徳になっていくということでしょうか?「ただ単に間違っているという直感に根ざしていると言います」とありました。何かの不道徳な行為をみたり、知った時に、そのことがどういうことなのかを整理する前に確かに先に、「それはだめだよね」ということを直感的に感じることがあります。なぜ、だめなのかはその後に整理して、こういうことだからと理解することがありますね。この直感はどこから生じるのですかね。持って生まれたものや経験によるのでしょうか。気になります。

  2. 確かに、他者の行為に対して、「これは道徳的にあたるのか、それとも不道徳的なのか」と考えている時はほとんどありませんね。それらを判断するのは、自分の「直感」であるということですね。また、直接的な不道徳以外にも、「何もしないこと」とか「指一本触れなくても、悪事を働くこと」などの間接的な面もあり、そのようなことも出来てしまう世の中にいるということを前提として理解しておかなくてはいけないのですね。具体的には、インターネットの普及に伴って「いまや、だれもがコンピューターのキーをほんの数回叩くだけで重犯罪人になり得る」可能性を、深く認識しなくてはいけません。そういった面でも、教育者は、以前までの教育方法だけを伝えていくだけでなく、現代に応じた教育システムを確立していくことが必要であり、取り組んでいる部分でもあるのですね。そして、「何が正義か、人を傷つけてはいけない、いじめはよくない、ということは〇☓では教えられなかった」という言葉から、道徳観の伝承の難しさを感じました。相手のためとか社会のためとか様々な理由を含め、自分の中に確立した“自分ルール”に従って、自律した行動をとる姿が、道徳の理解であるようにも感じました。

  3. 「道徳心理学の学説はいかなるものであるかではなく、この直感がどこから生じるものであるかを説明しなくてはならないのです。」とあり、私たちは実際にどうやって道徳感を身につけてきのでしょうか。とても気になります。ブルームも、「ある種の道徳的基盤は、学習によって獲得されるのではない、すなわち、母親の膝の上で、もしくは学校や教会で教わるのではない」と言っているように、教わることで身につくとも思えません。教わることで身につくのなら犯罪はもっと減っているように思えます。
    育児や介護疲れによる虐待や犯罪など、してはいけないと分かっていても、そうせざるを得ない状況だったと思うと犯罪を犯してしまった人だけを責めようと思えません。決して〇✖では教えられるようなものではなく、また白黒はっきりつけられるものでもありません。そこにはグレーが存在しています。むしろ白黒はっきりつけられることの方が少ないかもしれません。私はそのグレー部分に人間らしさを感じます。

  4. 非道徳的な行為が多く紹介されていました。これらの行為は、ほとんどの人が非道徳的な行為だと判断できると思います。ましてや、非道徳的な行為に及んでいる当人もわかってやっているケースがほとんどではないかとも思えてしまいます。何が道徳的で何が非道徳的なのかを直感で判断できるようになるには、多くの人との関わりや集団での規範から道徳観を養っていくことが必要であると感じました。しかし、この直感は不思議なもので、普通物事を考える際に「〜だから◯◯」となりますが、直感は「〜だから」を省いて◯◯に直結します。こればかりは、「当たり前」と捉えていないとできないことだと思います。しかし、人は直感では理解しているものの、いつの間にかこの「当たり前」として捉えている「〜だから」の部分を忘れがちであるとも思えます。それは私たち保育者にも言えることで、子どもの姿を当たり前と捉えて終わりにせず、その背景に焦点を当てて、「なぜ?」と考える必要性を感じました。

  5.  いくつか思うことがありました。一つは、いよいよ人種や民族という境目がなくなりつつあること。司馬遼太郎著『峠』を読んでいて思うのですが、主人公は人種や民族による文化の違いに相当なショックを受けます。そのいい意味での衝撃は今現在では、そこまでないような気がします。日本人だから、というような愛国心とも呼べる誇りのようなものは今の若者の中に必ずある、と誰が断言できるのだろう、という時代です。だからこそ、日本人は、例えば藤森先生のブログを読んで、何か本を読んで、日本人の素晴しさに改めて触れて、気付く必要があるのだと思います。
     もう一つは、以前から藤森先生が仰っている〝崇高な社会の共通認識、共通基盤を作る〟という深淵な作業を、このブログからされようとしている、ということを感じたことです。徳を知らずして、道徳を知らずして人間が生きていくと、その人の生きた道の上に、傷つけられた人の無数の遺恨の想いが残ることになります。
     自分の周囲にいる人を笑顔にして、幸せに生きられる道があります。道徳についての連載を、心から楽しみにしています。

  6. 思えば、人を殴るなどの不道徳行為はいけないと知っているのはなんでなのでしょうか。自分たちが知っている道徳はどんな風に培われたもので、どのようにして体得してきたものなのでしょう。
    〝生物学的進化の産物〟とありましたが、そのようなことを読みながら考えました。
    自分たちは普段『この行為は不道徳?』と考えながら生活していません。これはその〝直感〟が働いているということなのでしょうか。
    今回のブログを読み進めていきながら、いろんな疑問が湧いてきました。
    自分が子どもの頃の道徳の授業はつまらなく、全然聞いていなかった授業の一つですので、自分の道徳についての知識のなさに今更ながら反省しています。

  7. この「道徳」は世界的には「倫理学」として研究考究されてきています。このとき、大きく関わってくるのが、ある価値観、価値意識のようです。この「価値」という二字熟語の持つ普遍性と偏狭性の二律背反的側面が、実はこの「価値」及び「道徳」と称される事柄を複雑にしているのだろうと考えます。私は、何であれ、暴力はいけない、と自身思い、わが子にも伝えています。力の行使によって解決されると考えられている問題は、悲惨な現実を引き起こすだけでなく、将来に禍根を残すこともあります。しかし、ある人々にとっては、たとえば「正義」ジャスティスのためなら不正義とみなされる相手を力によって屈服させてもよい、という価値観を持っています。この価値観によって「不正義とみなされた」方はたまったものではありません。「人間の尊厳を冒涜するものだろうという直感」は殊の外重要であると私は思います。「人間の尊厳」の「人間」とは何か、その人間によって構成される「社会」とは、というやはり根源的な問いに遭遇します。子ども世界と共に日々ある私たちには、この問いを避けては日々を過ごすことは本当は難しいのだろうと思います。

  8. 道徳性を考えるなかで、確かに、私たちの生活の中で、不道徳的な行為は、多く見る機会がありますし、私自身も知らず知らずに行っている行為ではないかと思います。
    例えば、電車などで、妊娠している女性を見たら、席を替わろうとしますし、転んでいるひとを見かけたら声をかけます。これは、当たり前のように、行う行為に感じていますが、他者の目を気にしてできなかったりと、社会からの視線的なものが、ある意味、道徳的な行為を抑制しているように考えられました。そして、波風をたてないようにするひとが集まるバラエティー番組を見ていて、感じたことがあり、波風をたてないようにするひとは、他者がどういう反応をするのか、また、他者の不快な思いをさせない方法を考えて判断するようで、波風を立ててしまうひとたちがもし、政治家ならば、簡単に戦争は起きてしまうというコメントもありました。話がずれてしまいましたが、私たちが、直感的に「これは、いいことだよね」や「これは、よくないことだよね」と感じる力は、生まれながらにして表明に出ない能力として備えられていて、そこから、様々な体験を通して、感情体験から道徳性を表面化できるようになっていくのでしょうか。

  9. なんとなく、これはいけないこと。常識的におかしい。危険道だ。などの感情を直感的に感じてます。道徳を説明するためには、その直感がどこから生じるものかを説明していく必要があるんですね。
    道徳違反において、直接手を出すもの、間接的にするもの、また何もしないことがある。誰しも持っている道徳心、日本人は思いやりがあると海外からよく言われていますが、違反について考えると多々ありますね。道徳心があってもそれを守るかといえばまた別の問題なんでしょうか。

  10. まず、人間は直感的にそれは道徳的ではないと判断しているのですね。その直感というのは誰もがしていそうですね。ただ、冷静になってよく振り返り考えることは多いです。そして、誰が見ても道徳違反であると判断できるような行為というのはもちろん注意をしなければならないと思いますが、その行為に至ってしまった経緯がそこにはあると思います。その経緯についても非常に重要であるような気がします。そうなると難しくなり、〇✖️では教えられないということがよくわかります。そこには人間の複雑さをも大きな影響を与えているのでしょうか。人間の直感の起源というのも気なります。

  11. 私も道徳観を〇×で教えるということに違和感を感じます。道徳観を直感で考えるという発想は今までなかったのですが、よく考えると善と悪は殆どが直感で考えます。子ども達は集団生活中でどのように、その直感的な発想をするのかと考えて想像しました。ヒトものをとったり、順番を守らず横入りしたときには、トラブルが発生します。トラブルが発生するということは、そこで何かの意見が噛みあわないときです。その経験を通して道徳というものを学ぶような気がしますが、道徳観の違いでトラブルになると考えるとその前に学んでいることになります。難しく考えすぎているのでしょうか。

  12. ニュースで人が殺された事件などを聞くと瞬間的に悲しい気持ちになり、犯人に対して「悪い人間だ」と思います。そして最近はイジメに関するニュースも多く聞きます。一番、衝撃を受けたのはスマホでいじめている動画を撮影し、それを特定の人達にラインを通じて送ったり、ラインを使ったイジメです。それこそ指一つで悪事を働くことが可能であり、それは年齢に限らず中学、高校で起こっています。これらを聞いて「道徳がない」と思うよりも、とにかく「この人たちは間違っている」と直感で感じます。
    これらの直感がどこから生じるか説明するというのは、なんだか難しいですね。おそらく明らかに誰が見ても間違っている行為は道徳の授業を受けてなくても「間違っている」と感じるはずです。それこそ社会という規範が自然と身につけてくれると思いますし、そもそも人類の進化から考えても、人を傷つける行為を持っていたら人類はとっくに滅びているはずです。直感という内的要因が最初で道徳という外的要因でより深く学んでいくのでしょうか。

  13. 私は道徳の授業が結構好きなほうでした。というのも、当時授業中に「さわやか三組」というテレビを見れるということがあったからです。その内容は、様々なトラブルにどう対応したかということまでが描かれているのですが、決して最後までは放送されません。何かそのあと起こりそうといった感じで終わります。当時私はなぜしっかりと落ちをつけないのだろう。なぜ不安な感じで終わるのだろうと思っていましたが、それこそがそのテレビのポイントで、道徳について考えさせる、つまりは直感的なものを呼び起こすようなものだでは今は感じます。人が本来持つ道徳の直感。うまく活かしたいものですね。

  14. 「道徳」を定義するというのはなかなか難しいですし、それが「直感」として感じているといわれるとその通りなのかもしれません。だからこそ、時として、人の歴史で作られてきた「法律」においても、違和感を感じることがありますし、時代によって変わっていくこともあるのは当然なことなのかもしれません。しかし、その直観自体が「教えられたもの」ではなく、生物学的進化の産物であるといわれると考えてしまいます。時代によっても、道徳というものは変わってくるのかもしれません。相手がいて、自分があるわけで、どちらにも正義があった場合、その時の道徳というのはとても複雑なこともあるようにも思います。今の社会、ネットなどの誹謗中傷は日常茶飯事です。道徳というものを考えるとそれが必要なのはやはり相手あって、社会があるからなのだと思います。考えるにはとても深い内容ですね。

  15. 考えてみれば「道徳感」というものを○×で判断するのは難しいような気がします。上手い例えかわかりませんが、「車を運転していたら電柱にぶつけて壊してしまった」とだけ聞けば悪いことかもしれませんが、その背景に「猫が急に飛び出してきて轢きそうになったので急ハンドルを切った」ということになれば必ずしも悪いことにはならないような気がします。背景を踏まえながら中には「仕方がない」という事で△になることもあると思います。私自身、直感で○×を判断し見誤ってしまった事もたくさんありますが、最低限法律に背くような事のない道徳感と直感だけは身につけているつもりですし、そこは子どもたちにも示していかなければなりませんね。

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