赤ちゃん研究の方法

 乳児の行動は、謎だらけです。私がダークセンスと名付けた、その存在は明らかであるのに、それがなんなのかは判らない感覚を乳児は持っています。それは、研究ができないだけでなく、大人になるとそれがなくなったり、違うものに変わってしまうものも多くあるからです。発達心理学者のジョン・フラベルは、あるとき、2歳児の頭の中に5分か入れるのなら、地位も名誉もすべて返上するといったということをブルームは紹介しています。さらにブルームは、自分だったら、その5分間となら人生の一ヶ月を引き換えにしてもいいし、5分間2歳児になれるのなら、半年と交換してもいいとも言っています。

 ブルームは、乳児の研究がこんなのは、その時期を思い出せないというのも原因だと言います。そのことを、コメディアンのルイスCKは、赤ちゃんの脳を、1日の終わりに、振ると真っ白になるお絵かきボードになぞらえたそうです。記憶が固定されないというのです。幼い子どもさえ、自分が赤ちゃんだったときのことを覚えていないのです。心理学者のチャールズ・ファニーハフは、3歳の娘に、「赤ちゃんってどんな感じがするものかい?」と尋ねたそうです。すると、父親の役に立ちたいと思った娘は、「そうねえ、私が小さい赤ちゃんだったとき、お空がよく晴れていたわ」答えたそうです。

 ブルームもやはり赤ちゃんの研究は、ラットやハト以上に難しいと言っています。ラットやハトは少なくとも迷路を走ったり、レバーをつついたりします。彼の同僚で共同研究者でもあるカレンは、赤ちゃんの研究について講演するとき、赤ちゃんのたとえとしてナメクジの絵を表示するそうです。また、もしかしたら、心理学者が赤ちゃんの脳をスキャンする、そんな場面を想像するかもしれませんが、確かに、研究者の中には前途有望な一歩を踏み出した者もいるそうです。しかし、脳イメージングはあくまで大人向きに開発された方法で、一般に赤ちゃん向きではないそうです。危険が大きすぎるし、被験者は、目を覚ましたまま、長時間じっとしていなければならないというのです。このことはブログでも書きましたが、私もそのようなことを研究者たちから聞いていましたが、やはり、研究の先端でもそうのようですね。

 また、一時、前頭葉の研究で、血流酸素の変化によって検証していましたが、当時、逆立ちすれば、脳に血流は多くなると言うことで、精神活動の詳細は分からないと現在では言われています。現在、最も効果的な方法は、1980年代から心理学者たちが幼い赤ちゃんにもコントロールできる数少ない行為の一つを利用していることが多いそうです。それは、赤ちゃんの目の動きです。目は、まさしく赤ちゃんの心の窓と言われています。赤ちゃんが、あるものや人物をどのくらい長く見つめているか、その「見つめる時間」が、赤ちゃんの理解について多くを教えてくれると考えられています。

 この「見つめる時間」の応用が、「慣れ」だそうです。赤ちゃんも大人のように、同じものを繰り返し見ていると、飽きて、よそ見するようになります。それは、退屈、すなわち「慣れ」で、単調さへの反応と考えられます。たとえば、赤ちゃんはイヌとネコを区別できるだろうかということを調べるために、まずネコの写真を赤ちゃんに見せます。赤ちゃんがネコに飽きるまで、何度も、しつこく見せます。つぎにイヌの写真を見せます。赤ちゃんが目を輝かせたら、赤ちゃんには違いが分かっていると判断します。やはり退屈していたら、判っていないことになると言うのです。「ネコ、ネコ、イヌ」と「ネコ、ネコ、ネコ」が同じだからです。

 研究では、このように実証していくのですね。

生得性と普遍性

 話はずいぶんとそれましたが、スミスが言った言葉通りに、周囲の人への気遣いが、すべての人に利益につながっていきます。しかし、ここには落とし穴が一つあるとブルームは言います。社会がこのような形で反映するには、各人が、他人につけ込むことを慎まなくてならないのです。善意の人々の共同体に巣くう有害因子は、進化生物学者のリチャード・ドーキンスが「内部からの破壊者」と呼ぶ、「エデンの園のヘビ」だと言います。ヘビは、自分では代償を払わずに協力の恩恵に浴し、一番うまい汁を吸います。この悪魔の遺伝子が増殖すれば、世界が全体として衰退するのは必定です。しかし、これは問題であって、解ではないと言います。自然選択は、「世界が全体として」どうなろうと知ったことではないのだからです。それでは「何が、悪魔の遺伝子が集団を乗っ取り、この世界をサイコパスの王国にするのを拒んでいるのでしょうか?」とブルームは問いかけます。

 ダーウインは、こんな説を唱えているようです。仲間同士が仲良く協力する社会が、成員があまり協力的でない社会を打ち負かす確率が高ければ、協力的形質が優勢になります。つまり、この場合、自然選択は個人ではなく、集団のレベルで働いています。ダーウインは、架空の二つの部族の戦いを引き合いに出して説明しています。「常に進んで互いに危険を警告し合い、互いを助け、守り、勇気と思いやりがあり、誠実な成員のいる部族は、間違いなく、最も成功をおさめ、他の部族を征服する。」

 もう一つの説があります。それは、善人が悪人を罰する、個人レベルの自然選択のほうがしっくりするという説です。それは、こうした集団どうしの争いがなくても、個人が、親切な人に報いたい、親切な人と関係したい、そして嘘つきや泥棒、人殺しやただ乗りする人を罰したい、少なくとも絶交したいと願うのなら、利他性は進化していくという説です。

 その他の、道徳に関する普遍的特性を、進化の観点から説明するのはもっとやっかいであるとブルームは言います。たとえば、私たちはなぜ、性の道徳にこれほどこだわるのか?肌の色のような、表面的な身体の特性を根拠に、瞬時に道徳的差別を行なうのか?そして、万人の平等な権利といった道徳的観念はどこから生まれたのか?こうした問題についてブルームは考察していきます。

 人間に生得的、かつ普遍的な道徳が備わっているという考えを真摯に受け止めるべきであると言います。ただし、それが本当かどうかを確かめるには、赤ちゃんの心を研究するしかありません。しかし、これらの調査は骨が折れるとブルームは言います。それは、何度も言うようですが、赤ちゃんが頭の中で何が起きているのかを知るのは難しいからです。ブルームは、彼の息子たちが赤ちゃんだったとき、よく彼らを見つめて考えたそうです。自分を見つめ返しているものは、いったい何なのだろうか。彼の息子たちは、家で飼っていたイヌに似ていたと言います。ただし、もっと魅力的だったとも言います。現在では、その息子たちも十代の少年になり、素晴らしい面もたくさんあるのですが、かつてほど職業的な興味をそそらなくなっているそうです。しかし、それは正常に成長していることだろうというのです。実際に私も、1歳、2歳、3歳児の孫を見ていると、職業的興味がわいてきますし、発見が多く、その姿に感動することが多くあります。しかし、成長すると、違う姿を見ることになります。

 しかし、いつまでの乳児の姿を見ることができる現場が身近にあることは、とても幸せに思うと同時に、日々の発見を大切にしなければという思いも強くあります。

道徳感情論

一昨日のブログの最後に引用したスミスの言葉「人間社会のすべての成員は、互いの助けを必要としている。同様に、互いの不当な扱いを受ける危険にさらされてもいる。必要な助けが、愛情、感謝、友情、そして敬意から互恵的にあたえられる社会は繁栄するし、幸福である。」は、ブルームが影響を受けたということが判ります。とても素晴らしい言葉だと思います。本当に、そんな社会にしたいですね。そのために私たちはどうすればいいのか、何ができるのかを考えるうえで、改めて道徳の起源を探ろうというのです。

私は、スミスと言えば『国富論』しか知りませんでした。しかし、それより重要なスミスの名著が、1759年にグラスゴー大学で行なわれた講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)で、彼はその本の発表によって、名声を確立したと言われているようです。その訳本が日本で出版されたときに、その内容がAmazonの紹介欄にこう書かれてあります。「道徳感情論調和ある社会の原動力とは何か?鋭い観察眼・深い洞察力と圧倒的な例証により、個人の心理と社会の関係を解明した傑作!

この中での「道徳感情論調和」とはどういうことなのでしょうか?スミスは、社会構成を調和あるものにしている根幹に、「個人の自己愛」「自己利益の追求」に加えて、「共感」を据えました。この共感については、何度もブログのテーマとして取り上げ、私たちの園でも0歳児がどのような共感を求め、他者とどのように共感を示し、その共感する行為が発達にどのように影響を及ぼし、3歳以上になると、どのような力として現れてくるのかを研究してきました。スミスは、共感によって社会では、適合的な行為が是認され、非適合的な行為が否認されるとしました。そしてそれにより、規則が誕生すると考えたのです。さらに、人間が社会的に是認された行為規範を遵守する努力によって、徳のある社会が実現するとしたのです。
 ここで、「道徳」を考える上で、「徳」とは、「道」とはと考え出すと難しくなります。しかも、私たちが徳に触れるときに、儒教的な「徳」を思い浮かべます。しかし、儒教的徳は人間の道徳的卓越性を表しているとされています。すなわち、仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表されるとしたのです。そして、徳は人間の道徳性から発展して統治原理とされ、治世者の優れた徳による教化によって秩序の安定がもたらされると考えられたのです。儒教では、治世者の心構えとして説かれたこともあり、治世者は、「人間の道徳性」をより発展させた「徳」を備えて統治すべきとして、人間の「道徳性」の上に「徳」を置いたのです。

それに対して、スミスは、『道徳感情論』の中で、道徳の原動力について論じる場合、考察されるべき問題を二つ挙げています。第一に、「徳はどこに存在するのか?」ということです。そのことは、すなわち、「優れていて、賞賛に値する特徴となる、気分の調子や行為の傾向とは、いったいどのようなものか? 」という問題になります。そして第二に、それが何であろうと、「このような特徴が我々に推奨されるのは、心のなかにあるどのような能力や機能によってであるか?」ということになるとしています。言い換えるなら、「心が、ある傾向の行為を他のものよりも好み、一方を正しいと呼び、他方を間違いと呼ぶことになってしまうのはどうしてであり、またどのような手段によるのか?」という問題を考察すべきとしています。

このスミスの主張に対して、ブルームが考察しようとしているのです。

両親からの遺伝?

昨日の「livedoor news」に、面白い記事が掲載されていました。それは、「後天的に獲得と思われていた正義感や道徳心 両親から遺伝する可能性」というタイトルのものです。ブルームによる道徳の起源を読み進めようとしているところですが、その本の中では、まだ解明できないために生後三ヶ月未満の赤ちゃんについては取り上げないと断わっていますが、昨日のニュースでは、そこの部分についての研究発表でした。その内容が、証明されているのか、多くの合意を得ているのかは別として、このように日々道徳についての研究が世界で行なわれていることに興味を持ちました。

その内容を簡単に言うと、「正義感が遺伝する可能性があることが海外の調査で分かった」「正義感が強い親の子どもはアニメの正義キャラに強い反応を示したという」「これまで正義感や道徳心は後天的に獲得すると思われていた」ということで、それらの観察から、「正義感や道徳心は両親から遺伝する」という可能性が示唆されるというものです。

もう少し詳しく言うと、身体能力、知力、容姿などが親から子へと遺伝することが知られていますが、「正義感」も遺伝する可能性があることが分かったというのです。この研究は、ジェイソン・カウエル氏とジーン・デサティ氏によるもので、正義感や道徳心が遺伝するのかを調べるために、生後12カ月から24カ月の幼児73人とその両親を調査した結果から考察したのです。一般に、幼児の行動を研究することは、人間が生まれ持った遺伝的性質と、生まれた後に環境から取得する後天的性質を切り分けるのに非常に有効だといわれています。しかし、幼児は自らの考えや行動を説明できないため、ある事象の因果関係を判断することは非常に難しいのも事実です。これが、他の分野でも、今まであまり研究されていない理由でもあります。

今回の調査でも幼児の正義感を直接調べることは難しいことから、脳波を測定するelectroencephalography(EEG)ヘッドセットを使って、幼児の脳波を測定して正義感の強さを推測しています。実験では、最初に幼児の両親に対して正義感や倫理感をチェックする試験が行われました。この試験は不公平な事例を見て人がどのように反応するかを見るためのテストで、正義感や道徳心の強い人と、そうでない人に分類されます。続いて、幼児に「献身的で正義感の強いキャラクター」と「他人の邪魔ばかりする意地悪なキャラクター」という2種類の主人公が登場するアニメを見せました。アニメを見ているときの幼児の脳波を調べると、一部の幼児は、正義キャラが登場するアニメを見ているときの方が意地悪キャラのアニメを見ているときよりも強い反応を示すことが分かりました。そして、これらの反応を見せた幼児の両親のほとんどが、正義感テストで「正義感が高い人物」に分類されたことも分かったというのです。

この内容に対して、最後にこう締めています。「今回の実験から、直ちに正義感や道徳心が遺伝すると決めることは難しいとはいえ、これまで正義感や道徳心という後天的に獲得すると思われていた性質が、両親から遺伝的に受け継がれるものであるという可能性が示唆されています。」とあります。この考えをもっと進めると、私は、両親から遺伝的に受け継がれるものであるということは、人類が、生存のために進化の過程で受け継がれてきたのではないかと推測できると思います。

進化の観点

 もうすぐ、今年もドイツを訪れます。初めて行く人は、不安とわくわく感の入り交じった気持ちでいるでしょうね。また、現地の情報をガイドブックで調べている人もいるかもしれません。昨日のブログではありませんが、そのガイドブックにドイツの人たちは、顔に鼻が付いているとか、水を飲むとか、年を取るといった記述があっても、そんなことはドイツを知らなくても、誰でも知っています。ブルームは、それと同じように、嘘、約束違反、殺人といった行為をドイツでは無条件に批判しますと言っても、当然なことと考えます。

 もし、これらの行為が、単純に「適者生存」「弱肉強食」という観点だけで進化を考えるなら、人類にとって普遍的特性として本性の一部であるはずはないとブルームは考えます。

生物学者チャールズ・ダーウィンがその進化論を構築するさいにトマス・ロバート・マルサスの『人口論』にヒントを得ます。マルサスは、その本の中で、「自然選択」論を主張します。それは、進化的視点から見ると、人類の「生存闘争」の圧力を緩和化したのは、「道徳」と「慎虜」の習慣の発展だとしたのです。そして、その発展の基礎にあるものは、スミスから受け継いだ「自利心」であるとしました。

現在では、それよりもずっと複雑であることが判っているようです。道徳とは無縁の自然選択の力が、道徳的志向や道徳的行動の基礎の一部を、私たちの中にどう植え付けたかも判っているようです。実際、道徳の中野、近縁への優しさという側面は、進化の観点からすれば、昔から実に簡単な話だったとブルームは言います。最も端的な例が親子だと言います。複雑な進化論モデルなど持ち出すまでもなく、我が子を気遣う親は、子どもを捨てたり食べたりする親よりも多くの子を残せるので、その遺伝子が広がる確率も高いと分かるというのです。

この絆は、親子以外に兄弟やいとこ同士にも、親子ほど強くはないにしろ見られるようです。進化生物学者であるホールデンは、あるとき、溺れている兄弟を助けるためなら命を捨てますかと聞かれて、そんな真似はしないが、2人の兄弟を救うため、ないし8人のいとこを救うためなら喜んで犠牲になると答えてそうです。なぜなら、平均すると、兄弟の一人とは遺伝子の半分、いとこの一人とは遺伝子の八分の一を共有しているので、遺伝子の観点からすれば、それが正しい戦略なのだからと答えています。ホールデンは、答えるときにこうした計算に言及している点で、頭がいいとブルームは評価します。自分の遺伝子を保存する明確な欲望に意識的に同期付けられる人は、まずいないと言います。しかし、この手の計算によって、正常な人が感じる動機や欲望の説明がつきます。遺伝子にすれば、個人とその血縁の間に明確な違いはありません。こうして、利己的な遺伝子から、我が身を愛するように他者を愛する利他的な動物が作られるとブルームは言うのです。

しかし、東日本大震災の時や今回の洪水に対して、多くの人が現地に助けに駆けつけています。このように、私たちは、何も血縁関係にない人に対しても、優しく、寛大に振る舞えます。その進化上の起源は明らかであろうと考えます。人間は、狩りや採集、子どもの養育などの場面で協力します。そして、私たちの社会感情が、こうした協調を可能にします。アダム・スミスは、ダーウィンに先駆けてこう言っています。「人間社会のすべての成員は、互いの助けを必要としている。同様に、互いの不当な扱いを受ける危険にさらされてもいる。必要な助けが、愛情、感謝、友情、そして敬意から互恵的にあたえられる社会は繁栄するし、幸福である。」こうして、周囲の人への気遣いが、すべての人の利益につながるのです。

しかし、ここには落とし穴が一つあるとブルームは指摘します。

多様性と特性

 ここで、ブルームは発想を代えてこう考えます。道徳は、不正に関するものばかりではないだろうかということです。道徳は正しさの問題も包括していることに気がつきます。それを鮮やかに見せたのが、長い間、このブログで解説をしてきたマイケル・トマセロとフェリックス・ワーネケンが考案した幼児の自発的なお手伝いの研究だったのです。それは、調査のある条件では、幼児が、母親と一緒にいる部屋に、一人の大人が入ってきます。両手にいっぱい荷物を抱えていて、クローゼットの扉を開けようとします。幼児は誰にも見られていない、促されもせず、助けを求められもしません。しかし、約半数の子が力を貸したのです。自発的に立ち上がり、よちよち歩いて、その大人のために扉を開けたという研究です。

 これは、ブルームから見ると、小さな子どもによる、ささやかな例です。しかし、人が他人を救うために、ときには見ず知らずの他人を救うために、時間やお金、血液さえも差し出すとき、私たちが目にするのは、乳児が自発的に他人を助けようとする優しさの拡大バージョンなのです。ブルームは、こうした行為も道徳的と呼べると考えています。こちらの道徳は、誇りや感謝といった情動を喚起し、私たちはこれを「正しい」とか「倫理的」と呼びます。

 このように道徳の範囲は広いものです。厳しく批判的な要素と、アダム・スミスの言う「寛大さ。人間性、やさしさ、思いやり、相互の友情と敬意、あらゆる社会的で慈悲深い感情」などのやさしく利他的な要素の両方を含んでいるとブルームは言います。

 道徳的習慣や道徳的信念の中には、文化によって異なるため、学習されることが明らかなものもあると彼は言います。旅行の経験があれば、もしくは幅広い分野の本を読んでいるだけでも、道徳に違いがあることに気づくだろうと言います。ヘロドトスは、2500年も前に「すべての人は例外なく、自分が生まれた土地の習慣や宗教を格段に優れていると信じている」と「歴史」のある一節で指摘しています。こんな時に、私はいつも考えることがあります。その文化、風土の違いを超えて、どの場所でも、どの時代でも共通しているものは何かないかと言うことです。

そして、最近、ある結論に達しています。それは、赤ちゃんを見ていて気がついたことですが、生物は自分たちの遺伝子を子孫につないでいくことを宿命として持っています。そのために必要な力を、赤ちゃんは遺伝子として備えていき、それを他に貢献すると力とするために学習をしていきます。ですから、その行為を中断させたり、その行為を妨げるようなことは行けないことだと思います。したがって、人の遺伝子を途絶えさせてしまうようなこと、自らの遺伝子を途絶えさせようとする行為は、どの国でもすべきではないと思っています。

ブルームは、こう考えます。人間は多様性ですが、一方、人間の普遍的特性があるのではないかと考えます。民族的な報告は、えてして人類に共通するものを無視しているのではないかと指摘します。人類学者に、よその国の人たちがいかに変わっているかを誇張するきらいがあるのも一つの原因ではないかと言います。また、人類学の立場からすれば、人間の普遍的特性を取り上げても面白くない、というのもあるかもしれないと考えています。確かにそんなものは、これから訪れる国の人の顔には鼻がついている、その人たちは水を飲む、年を取る、と書かれたガイドブックのようなものであるというのです。

直感

 ブルームは、ある種の道徳的基盤は、学習によって獲得されるのではない、すなわち、母親の膝の上で、もしくは学校や教会で教わるのではなく、生物学的進化の産物であるということを「ジャスト・ベイビー」という著作の中で言いたいようです。これは、とても重要なことで、この部分をもう少し確認しなければ、いくら道徳教育を行なっても、その成果には限界がある気がします。私は、小学校で少しの間教えていたときに、道徳の授業があまり好きではありませんでした。それは、何が正義か、人を傷つけてはいけない、いじめはよくない、ということは〇☓では教えられなかったからです。

 ブルームは、道徳性について考察しようとしたとき、ずいぶんといろいろと言われたようです。特に、多くの哲学と普段縁の無い人たちからは、道徳は嫌われ、「私は道徳を信じていません」ということは、一度や二度ではなく、一度など、道徳とは、誰となら寝てもよく、誰とならいけないかの規則に過ぎないとも言われたようです。しかし、こんなへりくつを言うのは、それほど日本人の中には多くない気がします。その点では、私は、日本人は世界の中でも珍しいほど道徳感が強い国民だと思っています。ですから、本書の中で紹介されている不道徳な行為は、私たちからすると少し違和感を覚えます。例えば、バス停で待っている老女を、車で通りすがりにひっぱたいて転倒させるというような行為は、まず日本では見かけることはありません。

 しかし、そんな日本でもどうも道徳違反であるような行為が多く見られるようになりました。例えば、ブルームが、道徳違反の基本中の基本である行為として「人を殴る」を挙げています。「相手の許可を得ず、故意に人を殴る行為には、万人が反応する、特別の、問答無用の悪がある。」とは、哲学者であり、法学者であるジョン・ミハイルの言葉です。さらに、彼は、「これぞ、時と場所を超越した、道徳律の候補である。」とも言っています。

 このように誰が見ても道徳違反であると思えるような行為だけでなく、様々なことが考えられると言います。例えば、酔って大騒ぎをして女性をうっかり車ではねるときなどは、いくら悪意がなくても、誰でも飲酒運転がいけないことくらい承知しているはずですので、非はありますし、直接ある人を傷つけなくても、その人の飼っている犬を殺すことも道徳違反です。

 また、指一本触れなくても、悪事を働くことも可能だと言います。人種差別的な暴言を浴びせたり、殺すぞと脅迫をメールで送ったり、悪意ある噂を触れ回ったり、脅迫したり、インターネットに相手の卑猥な画像を投稿したり、驚くほど違反行為が可能だとブルームは考えます。いまや、だれもがコンピューターのキーをほんの数回叩くだけで重犯罪人になり得るというのです。こうなると、日本人だけは道徳心を持っているとは言いきれなくなります。

 また、こんな例も出しています。不道徳行為をすることだけでなく、何もしないことによって不道徳になる場合もあると言います。親が、子どもに故意に食事を与えない選択をするのは、間違いなく非道な行為であるというのです。イヌやネコを飢え死にさせる人に対しても、ほとんどの人が同じ感情を抱くであろうと言います。

 これらの他にも法律が常識と乖離している場合もあります。そんなときに、私たちはこれらの行為が、ただ単に間違っているという直感に根ざしていると言います。人間の尊厳を冒涜するものだろうという直感が働いているのであって、道徳心理学の学説はいかなるものであるかではなく、この直感がどこから生じるものであるかを説明しなくてはならないのです。

道徳は生得的か

 私たちの仕事は、毎日多くの子どもたちと生活を共にしています。特に、小学校などと違って、こちらから一方的に子どもたちを指導するのではなく、子どもたちの自然な振る舞い、子どもたちの興味関心に沿っての自発的な活動を大切にしていますから、子どもたちの本性に触れることが多くなります。ですから、子どもたちの指さし行動や、身振りによるコミュニケーションの本来の発達を見ることができます。そこには、どんな理論も、どんな推論にも勝る生身の姿があるのです。ですから、例えば子どもたちの「道徳感」がどのように現れてくるかを思い当たることは多いのですが、その多くは気がつかない場合があります。

 また、現場を多く知っている私たちは、それでいながら研究のアプローチは知りませんし、そのまとめ方も上手ではありません。「そう、そう、あるある!」と言うことは大切なことですが、それだけでは、子どもたちを守ることはできません。その行為にもう少しどのような意味があるのかを知らないといけないと思っています。

 ブルームも理論を進める前に、こんな子どもの姿を紹介しています。「たったいま人形劇が終わった。劇には三体の人形が登場した。中央の人形が右側の人形にボールを転がす。すると、右側の人形はすぐさまボールを返す。次に左側の人形にボールを転がす。すると、左側の人形はボールを持ったまま走って逃げた。劇が終わり、親切な人形といたずらな人形が舞台から降ろされ、男の子の前に並べられた。それぞれの人形の前に、お菓子が1個ずつ置かれ、1歳児はどちらかのお菓子を1個取っていいよと言われる。予想通り、そしてこの調査に参加したほとんどの幼児と同じように、この子も、いたずらな人形(ボールを持って走って逃げた)からお菓子を取り上げた。しかし、これだけではまだ足りない。男の子は、ぐっと身を乗り出して、いたずらな人形の頭をピシャッとはたいた。」

 1歳児のこのような行動に似たような行動を見ることがあります。そのときに、「この子は正義感が強いのだ」ということは思いますが、それが人間の生まれつき持っている道徳感であるのかどうかはあまり考えませんでした。人間に道徳感情があるのは判ります。道徳感情があるから、他人を評価して、思いやったり非難したりできるのです。しかし、赤ちゃんのいつ頃からそのような感情を持つようになるのでしょうか?それをブルームは考察しようとするのですが、その前にこのように断わっています。まず、ブルームの言う「赤ちゃん」とは、生後三ヶ月未満の赤ちゃんは取り上げていません。それは、実験データが無いというのが最大の理由だそうです。これほど幼い赤ちゃんの心を既存の方法で調査するのは難しいと言っています。ということで、ブルームは「赤ちゃんはこんなに小さくても道徳を理解しているのです。」と主張することは遠慮しているようです。

 それについては、私も同感です。それは、表に現れるかどうかの問題で、もともと備わっているかどうかという判断は難しいからです。今までの研究では、表に現れないと「しない」「できない」と思われることが多かったような気がしますが、最近の研究では、表面に現れないだけで、もともと持っているのではないかと思われる能力もたくさんあることが判ってきました。ブルームもこう言っています。「結局、道徳の中に、人間に生得的に備わっているものがあるとしても、そばかすや親知らず、脇毛のように、すぐに表面に出てこない自然の形質はたくさんある。脳も、体の他の部分と同じように、成長するのに時間がかかる。」

 道徳も同じようだというのです。

ただの赤ちゃん

 ブルームが、自分のほんの最初に紹介したトーマス・ジェファーソンの言葉は、友人のピーター・カーに宛てた手紙に書いたものですが、その文言には紹介した文の続きがあり、この内容は、最近の研究によって正しかったことが明らかになってきているようです。それは、「道徳感、すなわち良心は、手や足と同じくらい、人間にかけがいのないものである。そして、人がみな、多かれ少なかれ仲間に支えられているように、人にはみな、多かれ少なかれ道徳感が、備わっている」というものです。

 もう一人、ブルームが感激した人がいます。それは、「国富論」で知られているアダム・スミスで、彼の書いた「道徳感情論」は、ブルームによると、「細やかな筆で紡がれた、思慮と思いやりあふれる名作で、想像力と共感の関係、思いやりの限界、他者の悪事を罰しようとする人間の衝動、などに関する鋭い洞察が散りばめられている。」と褒めちぎっています。ということで、ブルームの「ジャスト・ベイビー」のほんの大部分は、進化生物学と文化人類学に支えられた発達心理学が、道徳のいくつかの側面は人間の天性であるというジェファーソンとスミスの見解をどう支持するかの説明に当てられています。

 その中で、まず、天性の資質とは何かを整理しています。言葉は、いろいろな意味に取られてしまうことがあり、そうなると議論にはなりにくくなったり、説明を誤解したりすることがあるからです。このことは、大切なことですね。

 まず、「道徳感」とは、「親切な行為と残酷な行為を識別する能力」としています。「共感と思いやり」は、「周囲の人の苦しみに胸を痛め、その苦しみを消し去りたいと願う気持ち」としています。「初歩の公平感」は、「資源の平等な分配を好む傾向」、「初歩の正義感」は、「よい行動が報われ、悪い行動が罰されるのを見たいという欲望」です。ここでの定義で、「初歩の」とあるのは、どういう意味なのでしょうか?公平感や正義感は、その後成熟してくるのでしょうか?それとも、成熟していく必要がある能力なのでしょうか?

 とはいえ、人間の生来の善性には限界があると言われています。トマス・ホッブスは、「自然の状態の人間は、よこしまで自己中心的である」と主張しました。私も、いくら人類は協力する種であるとしても、それは同じ部族間でのことで、他民族は危険でした。それは、以前グレーとジャーニー展を見に行ったときにも首狩り属の風習が展示されていました。ブルームも、「人間は生まれつきよそ者に無関心だ。敵対的でさえある。偏狭で不寛容になりがちである。人間の本能的な情動反応のいくつか、特に嫌悪は、私たちを大量虐殺などの非道な行為へ駆り立てる。」と言っています。

 そこで、ブルームは、「世界を、家族 対 友人 対 他人に分断する人間生来の性向を、今こそ真剣に考えるべきだと提案しています。そして、私たちがどうやって、生得的な道徳を乗り越えるか、すなわち、想像力、思いやり、そしてわけても知性から、道徳的洞察と道徳的進歩がどのように生まれ、私たちがジャスト・ベイビー(ただの赤ちゃん)以上の存在になれるのかを探求して本書を締めくくる。」と研究内容を語っています。

 この本のタイトル「ジャスト・ベイビー」とはそういうことなのですね。そして、この本は、彼の三作目です。一作目は、「赤ちゃんはどこまで人間なのか――心の理解の起源」、2作目「喜びはどれほど深い?――心の根源にあるもの」です。そこからも、ジャスト・ベイビーとしたのも少し判りますね。

道徳的本性

 トーマス・ジェファーソンの道徳についての名言を書籍の冒頭で紹介したのが、ポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー」です。この本には「赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源」という副題がついています。彼は、イェール大学・心理学部教授で、哲学・心理学協会(SPP)の前会長でした。著書には、『赤ちゃんはどこまで人間なのか:心の理解の起源』などがあり、アメリカ出版社協会最優秀賞、アメリカ心理学会発達心理学書籍最優秀賞など、数々の賞を受賞しています。ネットでもいくつかの彼の講演が流されています。その中で現在取り上げられているテーマは「喜びの根源」についてであり、その内容紹介には、「なぜ私たちは贋作より原画を好むのか?人間は本質主義であり、私たちの感じ方はその物の歴史についての思い込みによって変わる。しかもそれはただの錯覚としてではなく、喜び(そして痛み)といった生理的なレベルで変わるのである。心理学者のポール・ブルームがそう論じます。」

 その彼が、赤ちゃんは自己中心的という通念に対して、精緻な実験によって人間は赤ちゃんの時から善悪の判断力を持つことを立証しようとするのです。私たちの道徳的判断や道徳的行為が、生物学的進化の力だけでは解明できないと、国立衛生研究所長のフランシス・コリンズらは主張します。しかし、現実には、毎日悲惨な事件が報道されています。また、児童虐待も年々増加しています。それは、何も日本だけでなく、世界中で悲惨な事件が起きています。反面、日本では、今回、多くの人たちが洪水被災地へのボランティア活動として訪れているようです。

 このような現状の中で、ブルームは、どうすれば、私たちの道徳的本性を根本から理解できるだろうかと疑問を投げかけています。これは、外国では、神学上の問題だという考え方に同意する人も多いでしょう。その一方、道徳を理解するには、小説家、詩人、劇作家の洞察に頼るのがいいと考える人もいるようです。哲学的視座から道徳性に迫ろうとする人もいるようです。こうした人たちは、人間が現実に何を考え、どう振る舞うかではなく、規範倫理学や、メタ倫理学の問題に目を向けることになります。

 さらに科学が存在し、言語、知覚、記憶といった、人間の異なる精神活動の研究に利用されている方法を使って、道徳性を探ることもできるのではないかとブルームは言います。たとえば、複数の社会にまたがる道徳的推論に目をむけても、もしくは、アメリカのリベラルと保守のような一つの社会の意見の対立を掘り下げてもいいだろうと言います。冷酷なサイコパスのような特殊なケースを検証してもいいかもしれないと言います。チンパンジーなどの動物にも、道徳性と呼べるものがあるのかどうかを考えたり、道徳観の進化の足取りを調べるために進化生物学に目を向けたりする事もできると言います。社会心理学者であれば、環境の特色が優しさや残酷さをどう促すかを調査できるとも言います。神経科学者であれば、道徳的推論に関与する脳の部位に注目できると言います。道徳に迫る考え方の切り口は様々に考えられるようです。

 ブルームは、この本の中で、このようなことを検証していくのですが、特にこう言っています。「私は発達心理学者なので、なんといっても赤ちゃんや幼い子どもたちの道徳性の萌芽に目を向け、そこから道徳の本質に迫りたいと思っています。」この本は、今年の5月に日本で出版されたので、まさに新しい知見が紹介されています。楽しみです。