言葉を使う動機

 子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。しかし、また、ここで私は疑問を持ちます。大人の言葉を使っての有意味なやり取りの影響が研究されていますが、まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?常に研究が、対大人であり、すでに言葉を獲得している人との関わりです。実例にあるような母親と実験者と子どもの三人のやり取りを、二人の子どもと実験者で行なったときに、子どもはどのような反応をするのか興味があります。

 幼児が最初に指示的言語を発するのは、普通1418ヶ月です。圧倒的大多数の場合、幼児はそれに先立つ数週間あるいは数ヶ月間、身振りを使ってコミュニケーションを行なっています。その頃のことを、カーペンターらの研究者が報告しています。二四人の幼児全員が、指示内容を持つ言語を発するようになる前に、何らかの、典型的に指さしというコミュニケーション的身振りを使っていたそうです。理論上は、子どもが身振りをし始める前に何らかの共通基盤のコンテクストで言語を使い始めるということも可能なのですが、圧倒的多数が、まず言葉を伴わない身振りをして、言語の共有志向性の基盤構造を作っているというのです。これは、非常に重要な事実であるとトマセロは言います。

 幼児が言語を使ってコミュニケーションをする初期の動機は、指さしの場合と同じであり、知らせる、要求する、見方を共有する、だと言います。そして、しばしば幼児は、同じもしくは似た状況で大人と役割だけを交換して、大人と同じように言語を使うようです。

この研究を、ラトナーとブルーナーがしているようです。1歳の誕生日直後の子どもが、母親と「人形を隠せ!」というゲームをしているのを観察してみたそうです。そのゲームとは、人形が消えた直後に母親が「いなくなっちゃった」と言い、これが何度も繰り返されると、子どもが「いなくなっちゃった」と最初に言ったのは、当然のごとく母親がそれまで言ったのと同じ時点でした。

子どもはさらに大人がやって見せた名付けゲームでも、役割を交換して大人に物の名前を言いました。ところが、子どもが何かに言及するために大人から言語を学んだ場合には、子どもはその大人が用いたのとは違う目的で使ったそうです。例えば、多くの親は子どもに、食べ物について「もっと欲しい?」と尋ねたのですが、子どもがこの表現の一部を使い出したときには、「もっと!」と要求するために使うのです。このように、子どもは大人をモデルにして、指示的な仕組みを学びますが、それを自分自身の目的のために使っているということが判ったのです。

言葉を使う動機” への16件のコメント

  1. 確かに子ども同士の会話のやりとりから何を学んでいるのかということは気になります。異年齢集団であると自分より言葉が使えている子、自分と同じでまだあまり言葉を使えない子、自分より言葉をまだ使えていない子などの子ども同士の関係性が考えられますが、子どもたちはそこから何を学んでいるのでしょうか。言葉を投げかけられなくても自分以外の子が何を言おうとしているのか、何をしてほしいのか、どんな気持ちなのかということは共通基盤ができていれば分かりそうですね。それができていれば、言葉を先に獲得した子どもの姿から影響を受けていきそうな気がしますが、ちょっとそんな視点で子どもたちを見てみたいなと思いました。「もっと欲しい」を「もっと」というふうに使うということなどから、「自分自身の目的のために使っているということが判ったのです」ということがいえるのですね。言葉を話すのが目的というより、何かしたいことがある、伝えたいことがある、やってほしいことがあるから、それを成し遂げるために言葉をつかうのですね。他者と関わりたい気持ちが言葉の獲得を促していくということになるのでしょうか。なんだか深くて、おもしろいですね!

  2. 幼児が言語を使用するうえで、「同じもしくは似た状況で大人と役割だけを交換して、大人と同じように言語を使う」とありましたが、『多くの親は子どもに、食べ物について「もっと欲しい?」と尋ねたのですが、子どもがこの表現の一部を使い出したときには、「もっと!」と要求するために使うのです』と書かれていました。そこからは、子どもが大人の言葉を聞きながら、「自分自身の目的のために使っている」ということで、子どもが自らその言葉を応用しているということがうかがえます。言語を使う動機として「知らせる、要求する、見方を共有する」ということから、他者がいることがその能力を得る条件であると思うのですが、話すことがまだできない「まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?」という疑問に興味が湧きます。これが明白になれば、乳幼児からの関わりが重要であることに重みが増すでしょうね。

  3. 少なくとも私たち大人にはわからない、理解できない乳幼児の世界があると仮定するなら「まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?」という疑問が提起されるのも当然のような気がします。私たち大人のたいていには、0、1歳の頃の記憶がほとんどありません。私には全く、といっていいほどありません。この記憶の意味を私たちが使っている「意味」ということで考えるなら、おそらく赤ちゃんたちの世界は無意味の世界ということになるのでしょう。発達上、生きているだけ、ということにもなりかねません。アリソン・ゴプニックさんの『哲学する赤ちゃん』を読むと、赤ちゃんたちが「無意味な世界」に生きているだけとは到底思えません。いえいえ、『哲学する赤ちゃん』を待つまでもなく、日々大勢の赤ちゃんと過ごしている私たちには無礙に「赤ちゃんの世界は無意味」と一蹴することは直感的にもできません。私たち大人が使う概念=言葉を当てはめると「無意味な世界」と考えられても、宇宙のことやミクロ世界のことと同様、実は自分達の赤ちゃん時代のことも本当はよくわかっていないのだということに気づきます。モノゴトは全て因果関係によります。この因果関係は条件という環境に大きく左右されます。どうやら私たちは条件による結果の世界だけを問題にしているようです。因の世界は大いに果を結実させる潜在様態のような世界かもしれません。よって、赤ちゃん同士のコミュニケーション能力は、対大人との関係だけではわからない領域なのかもしれません。今回も難解なコメントになってしまいました。

  4. 対大人との実験がやはり多いようですが、実際に子ども同士で会話とは思えない言葉で何を感じ、何を学んでいるのか、とても気になるところです。幼児のコミュニケーションの動機は指さしと同じで、知らせる、要求する、見方を共有するとあり、やはり援助性が基本なのですね。人間としての真理が見えてくるようです。
    また、『食べ物について「もっと欲しい?」と尋ねたのですが、子どもがこの表現の一部を使い出したときには、「もっと!」を使う』とありましたが、そこに意識せず、私は自然と子どもたちがただ覚えているのだと思っていましたが、そこから子どもたちの学びを感じます。日々、子どもたちは大人が思っている以上に学び、成長していることがうかがえます。

  5. “共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもある”とあるように、対人関係の中で、学びあっていることを考えることができます。トップダウンという、大人が子どもへ伝えているような形の中でも、互いの共通の思考があれば、関係性はつながり、そして、ボトムアップという形から、様々なものが生み出され展開され、対人関係が深まると、思うと、私たちの関係性は、大人と子どもが、互いが、存在することにより、基盤として、広がりを見せるような気がしました。人はいつ、言葉を使い、それは、なぜ使うのかとやはり、言葉を話し出す、乳幼児の姿を見ることで、いくつもの可能性が出てくるような気がします。言葉の使い道というものを子どもの姿から、感じてみたいと思います。

  6. 乳幼児の研究において、対大人の研究が多いのは、研究者の方々は子ども間の関わりを十分に観察できる場がなく、比較的観察の場を多く得られる対大人のケースを多く取り入れている背景もあるように思えました。藤森先生が興味があると書かれていた、子ども2人と実験者の3者で行う実験は、保育の現場でできることですね。今後そのような機会を設けて、動画に記録できたらと思いました。
    幼児が言語を使ってコミュニケーションをする初期の動機は、指さしの場合と同じで、「知らせる」「要求する」「見方を共有する」の3つなのですね。そして要求するに値する指示的な仕組みを学び、それを自分自身のために使っているとあり、自分の要求を表現する方法を大人をモデルにして言語を学びながらも疑問形の言葉を命令形に変換して応用する能力があることに驚きました。人の発達でも出来上がったところにばかり目がいきがちですが、その経緯にこそ面白みがあり、奥深さがあることを改めて感じました。

  7. 確かに、大人対子ども、子ども対子どもでの関係性はおそらく随分と違う環境だと思います。娘と話していると、急にビックリするような言葉を使うときがあります。それは保育園での子ども集団の影響だと思いますが、そのなかで自分なりに解釈して使っているようで、聞いているだけで楽しいことがあります。子どもは子どもなりにこの言葉をいつ使うのか、どんなタイミングで使うのか、経験の中で学んでいく姿を見て見たいと思いました。また、「知らせる、要求する、見方を共有する」このタイミングも是非見て見たいと思います。

  8. 〝自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やりとりに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にしかすぎません〟とあり、大人との関係性が言語の獲得にも影響しているということなんですね。
    前に藤森先生の講義で『胎児の頃は、母親の声以外は雑音にしか聞こえない』とおっしゃっていましたが、胎児の頃と同じようなことが言えるということでしょうか。
    やはり、子どもと関わる大人がどのように接し、社会的な営みを育んでいくのかということが言語の発達にも大切なこととなるんですね。
    そこから付随して、子ども同士での関わりの中での言語の獲得には、確かに興味が湧くところですね。
    〝知らせる、要求する、見方を共有する〟というのが言語の動機で指さしと同じとありますが、このことは大人との関わりでも、子どもとの関わりの中でも揺るぎないものであるように思いますが…。

  9. 「常に研究が対大人であり、すでに言葉を獲得している人との関わりです。」とあります。確かにそこが大人ではなくもう一人の幼児だとしたらどんはことを学んでいるのかは非常に気になるところです。言葉を発する前の身振りでは言語の共有志向性の基盤構造を作っているのですね。確実に言葉を発する前の身振りでもなにかしらを学んでいることがわかります。そしてやはり、その能力を身につけるには異年齢の子ども集団が必要であることがわかります。小さい頃から保育園に預けることのメリットのようでもあるような気がします。言葉を発する動機として、知らせる、要求する、見方を共有するというの相手がなくてはできないことです。これらもコミュニケーションをとりたいという根本があるからこそ生まれる欲求であるようですね。「いなくなっちゃった」という実験的なこともしてみたいと思いますね。

  10. 書かれている「大人の言葉を使っての有意味なやり取りの影響が研究されていますが、まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?」についてですが、その疑問に至るプロセスは違いますが、子ども同士が関わっている中で影響を受け合っていることは実際の姿を見て感じていることなので、同じようなことを考えていました。大人とのやり取りよりも数段高いレベルで共通基盤のもと関わっているようにも見えます。対象に対して関心をもったときの熱中度が高く、そのことによってより強い共通基盤が形成されると考えることもできるのでは?と思いますが、そういうことを独自でも研究していけるといいんでしょうね。でなければただの個人的見解にしかすぎないので。

  11.  〝自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。〟という文章に、少しドキッとしてしまいました。もし子どもに無関心な保護者に取り囲まれて生活をしていたなら、そこで育っていく子どもは極端な言い方をすれば、雑音の中で生きている、ということになるのでしょうか。会話のキャッチボールのような、相手の言葉に対して返していくというような、言葉のやりとりがなければ、相手の思いを無視して、自分の思いばかりを拙い言葉で言うような子になってしまうのも、無理はないのかもしれません。
     〝初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。〟という文章は、まさに〝教えることによって学ぶ〟という、大人でも言える体得への道筋にとても似ていると思いました。実践して初めて意味があり、人に教えて自分の学びがある、ということを、僕らは赤ちゃんの時に実感していたことなのだと感じます。

  12. 意味を持たない乳幼児同士の会話から確かに何を感じているのか気になります。と言うのも、当たり前の事を言いますが自分の0歳の頃の記憶はないですが、もしその時に乳幼児同士で意味を持たない会話をしていたとなると自分の成長にどう影響しているのかとtめお気になります。おそらくトマセロが行っている研究が明らかになると見えてくるのかもしれませんが・・・。
    役割交代のように大人と同じように言葉を使うようになるのですが、瞬間的に個人的に感じたのは真似をしたい「意欲」のような気がします。指差しや、ふりだけでも十分に意図は伝えることは可能ですが、言語を使うというのはそれこそ自分自身の目的のためであり、それは目的を達成したいという意欲的な気持ちからくるのではないでしょうか。

  13. 他の皆さんも書いていますが「自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。」という一文がとても考えさせられました。何のへんてつもない雑音と言葉の違いをどうとらえているのか。そこには意味のある社会的やりとりがあり、またそれを理解していなければ、つながってこないことだと改めて感じました。
    今日も実際に、1歳ぐらいの子があるものを指さし、私にしきりにアピールしているということがありました。私は一緒に指さしてみたり、そのものの名前を行ってみたりしたのですが、そうした関係性のあるいろんな人との関わりから言葉を使う動機が生まれてくるのですね。

  14. 「まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?」とありましたが、確かに気になりますね。見ているとその会話が成立していわけでもなさそうですし・・・。ふと思ったのは、生まれながらにしていろんな能力が備わっていると考えれば、まだ声を出す回路が複雑すぎて言葉にならないのであれば、後々話せるようになるための発声練習というか、準備段階になるのでしょうか。また、「常に研究が、対大人であり、すでに言葉を獲得している人との関わりです。」とありましたが、パターンが変われば結果も全く違うものになってくるような気がするのですが・・・。ここはやはり、保育園というところの利点がありますね。そして何を学んでいるのか気になりますね。

  15. 幼児が最初に指示的言語を発するのが、普通14~18ヶ月というのは、全然知りませんでした。そして、理論上は、子どもが身振りをし始める前に何らかの共通基盤のコンテクストで言語を使い始めるということも可能だが、圧倒的多数が、まず言葉を伴わない身振りをして、言語の共有志向性の基盤構造を作っているというのですね。
    また、言語コミュニケーションの初期の動機も、指さしと同じく、知らせる、要求する、見方を共有することにあるのですね。

  16. 赤ちゃんは言語を使う前にコミュニケーション身振りを使っていたとあります。そして、言語の共有志向性の基盤構造を作っているともあります。そのプロセスを見ていても、それぞれの時期に大切なことをしっかりと行っており、その発達が正常に遂げられることで、言語にもつながっているということがよくわかりますね。また、そこでも中心になってくるのが、社会的やり取りであり、それがなければコミュニケーションも行われません。そして、大人とのかかわりを通して、役割交代をすることや目的を伝えるために言語をより効率よく使おうとしていくのですね。ある意味で人間はとても合理的な生き物なのかもしれません。身振りだけでは、伝わりきらないことを今度は言語で伝えようとします。その後、身振りと言語を使って伝えようとする過程を見ているとそう思います。

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