コミュニケーションの個体発生的起源

 トマセロは、共有志向性と初期の言語について、このようにまとめています。多くの動物は、音声と経験を関連づけることができますが、人間の乳児では生後23ヶ月からできるようになります。もしも、言語的慣習を獲得することが単に、音声と意味との関連づけ、あるいは、写像に過ぎなかったら、動物界の至る所で言語が見られることだろうし、人間では生後3ヶ月で言語が始まっているだろうと言います。しかし、実際には動物も生後間もない乳児も言語的慣習を獲得しないし、使うこともしないのです。その理由は、「恣意的」名言語的慣習を学ぶには、大人の話者と何らかの概念的共通基盤がなければならないからなのです。これは、共有目標と、共同注意をともなう協調活動でしばしば生じるものなのです。人間の個体発生で、これが可能になるのは、1歳前後であり、共有志向性に対するように、固有のスキルと同期がその基にあるというのです。

 トマセロは、乳幼児の身振りによるコミュニケーション、とりわけ指さしは、まだ精密さの足りないものが多少あるものの、完全な大人によるものとかなり近い構造を持つよい宇ことを証明し、主張してきました。その際、三つの具体的な仮説に加えて、協力モデルを構成する部門の多くが存在することを指示する経験的な証拠を示してきました。

 第1に、言語獲得が本格的に始まる以前に、完全な協力に基づく基盤構造がおおよそできているということです。これは、ここで概観した12ヶ月児の指さしに関するさまざまな実験に基づく研究から証明しました。もちろん、子どもは生まれた直後から言語のシャワーを浴びているために、言語を発していなくても、このシャワーの影響を受けているのだと思われてきましたが、耳の聞こえない乳幼児は、体験的な音声言語、あるいは、手話に接していなくても、指さしをし、この初期の指さしは、耳の聞こえる乳幼児の場合と本質的に同じであるのです。

 したがって、個体発生における人間のみに固有の協力に基づくコミュニケーションの最初の兆候は、言語を使う以前の身振りによるコミュニケーション、その中で特に指さしにおいて出現しており、言語を発したり理解したりすることに依存していないのだとトマセロらは主張しています。この見解は、保育などでは非常に重要なことです。特に、人間固有な協力に基づくコミュニケーションは身振りから現れるのです。この時期でのやり取りを大切にすることで、その後の言語によるコミュニケーションにつながっていくのです。最近、うまく他者とコミュニケーソンが取れない若者が増えてきていると聞きます。それは、乳幼児期において、協力という基盤不足なのかもしれません。

2番目にトマセロらが主張するのは、指さしおよび他の身振りは、言語よりも前に出現するのが普通ですが、個体レベルの志向性と共有志向性のスキルが身についたあとでないと出現しないということです。もっと言えば、実は、乳幼児はかなり早い時期から、指さしに対して少なくとも二つの動機を持っていることが判っているのです。その一つは、大人が何かを要求すること、二つ目は、大人と感情を共有することだと言います。

 また、早くから指さしのような手の格好もしているそうです。しかし、乳幼児が指さしの身振りを始めるのは、他者を志向的主体として理解し、他者との共同注意のやり取りに参加し始めてからだと言います。ここで、ちょっと疑問がわきます。

言葉を使う動機

 子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。しかし、また、ここで私は疑問を持ちます。大人の言葉を使っての有意味なやり取りの影響が研究されていますが、まだ意味を持たない乳幼児同士の会話からは、何を学んでいるのでしょうか?常に研究が、対大人であり、すでに言葉を獲得している人との関わりです。実例にあるような母親と実験者と子どもの三人のやり取りを、二人の子どもと実験者で行なったときに、子どもはどのような反応をするのか興味があります。

 幼児が最初に指示的言語を発するのは、普通1418ヶ月です。圧倒的大多数の場合、幼児はそれに先立つ数週間あるいは数ヶ月間、身振りを使ってコミュニケーションを行なっています。その頃のことを、カーペンターらの研究者が報告しています。二四人の幼児全員が、指示内容を持つ言語を発するようになる前に、何らかの、典型的に指さしというコミュニケーション的身振りを使っていたそうです。理論上は、子どもが身振りをし始める前に何らかの共通基盤のコンテクストで言語を使い始めるということも可能なのですが、圧倒的多数が、まず言葉を伴わない身振りをして、言語の共有志向性の基盤構造を作っているというのです。これは、非常に重要な事実であるとトマセロは言います。

 幼児が言語を使ってコミュニケーションをする初期の動機は、指さしの場合と同じであり、知らせる、要求する、見方を共有する、だと言います。そして、しばしば幼児は、同じもしくは似た状況で大人と役割だけを交換して、大人と同じように言語を使うようです。

この研究を、ラトナーとブルーナーがしているようです。1歳の誕生日直後の子どもが、母親と「人形を隠せ!」というゲームをしているのを観察してみたそうです。そのゲームとは、人形が消えた直後に母親が「いなくなっちゃった」と言い、これが何度も繰り返されると、子どもが「いなくなっちゃった」と最初に言ったのは、当然のごとく母親がそれまで言ったのと同じ時点でした。

子どもはさらに大人がやって見せた名付けゲームでも、役割を交換して大人に物の名前を言いました。ところが、子どもが何かに言及するために大人から言語を学んだ場合には、子どもはその大人が用いたのとは違う目的で使ったそうです。例えば、多くの親は子どもに、食べ物について「もっと欲しい?」と尋ねたのですが、子どもがこの表現の一部を使い出したときには、「もっと!」と要求するために使うのです。このように、子どもは大人をモデルにして、指示的な仕組みを学びますが、それを自分自身の目的のために使っているということが判ったのです。

共同注意フレーム

 言語獲得について、驚くべきことを発見したのはアクターら研究者たちです。まず、子どもと母親と実験者の三人が、三つの目新しい物体を使って遊びました。それから母親は部屋を出て行きますが、その間に四つ目の物体が出されて、子どもと実験者はそれで遊びます。母親が部屋に戻ってきて、四つの物体を見ると、「あら、すごい。モディだわ、モディだわ。」と子どもに叫びます。ママは初めて見ている物体に興奮しているんだろうということを理解して、24ヶ月の子どもは、この「モディ」という語を、その物体を表わす名前として学びます。これらの状況で新たな語を学ぶためには、子どもは大人にとって目立つ物が何なのかだけでなく、大人が自分にとって目立っていると思っているのは何か、についても決定しなければなりません。もっと言えば、実は大人が子どもにとって目立っていると思っているだろうと、子どもが思っているだろうと、大人が思っている物…という風に続いていきます。子どもは、必要な共有基盤を想像する必要があったのです。

 共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。

 第2に、共有視線は、言語獲得にとって徐々に重要でなくなっていくのかもしれないということです。子どもは、言語そのものを使って共同注意を打ち立てるようになっていくからと考えられるからです。そのため、ある時点で大人が「遊んでいるそのモディをちょうだい」と子どもに言うと、子どもは大人がどこを見ているのかはっきりさせる必要がなくなります。子どもは知らない語があってもその周囲の語の意味がわかっており、そのため共同注意のフレームが樹立されて、その内部で新しい語が理解されるからだと考えられます。

 いずれにせよ、トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。

ボトムアップの言語獲得

 子どもはあらゆる種類の協調活動で新しい語を学ぶことができるようになります。トマセロは、大人と18ヶ月の幼児に、探しゲームをさせてみました。このゲームではある時点で大人が「トーマを見つける」という意図を表明します。それから1列に置かれているバケツにそれぞれ目新しい物が入っているのを一つずつ調べていき、もし探しているものと違う場合には顔をしかめて別のバケツに行くようにします。そして、しまいに探している物を見つけます。それは、ほほえんで探すのを終わりにすることで見つかったことがわかるようにします。途中でどんなに多くの該当しない物が介在していても、子どもは大人のほほえみが示している物体に対して、「トーマ」という語を学ぶことになります。したがって、単に時空間上の近接性に基づいて語と物体を結びつけているのではないことになるとトマセロは言います。

さらに、彼らが同じようなゲームをしてみたところ、18ヶ月の幼児はこれまで一度も見たことがない物であっても、大人の意図している指示対象物を理解できたのです。それが、大人が入ろうとしているおもちゃの納屋の中にあると分かっている物だったからです。こういった状況で新しい語を学ぶために、子どもは基本的に大人と一緒にやっている探しゲームの志向的構造を理解して、大人の行為について実践的推論、さらに言えば協力的推論をしなければならなかったのです。

 この経緯が、トマセロが主張している言語獲得の場合、子どもは必要とされる共通基盤を達成する方法は、他者との協調的やり取りにおいてであるというものです。この方法は、トップダウンで共同注意を生じるというものでしたが、もう一つの共通基盤を達成するための方法は、ボトムアップであると言います。例えば、父親と子どもが公園で散歩していると、奇妙な動物が現れ、父親はその名前を言うとします。そうすると、幼児はこういう状況を見て自己を中心に考えて、自分にとって目立つ物の名前だと受け取って、この動物の名前を学ぶのだろうと思う人が多いかもしれませんが、トマセロは、実際は違うと言います。発達のかなり早い段階から、幼児は大人が新たな言葉を使う際に、大人が自分の注意している対象に注意を向けるよう、子どもに対して誘っていることを理解していると言います。

 これは、ボールドウィンが研究しています。彼はこんなことをしてみました、18ヶ月の幼児がある物体に注意するまで待って、それから別の物体を見てその名前を言ってみました。すると、子どもはすでに注意していたものではなく、大人が注意を向けるように誘っている物の名前としてその後を学んだのです。

この実例から見ても、私は、ピアジェが主張した「幼児は、もっぱら自己を中心に据えた視点から外界に働きかけ、視点を変えたり、視点と視点の関係をとらえたりすることのできない」と言った「自己中心性」とか、ウェルナーが「相貌的知覚」と命名した、「幼児は具体的な対象や状況と結び付けてしか、ものを考えることができない。例えば、幼児にとって“ワンワン”という概念は、自分の家で飼っているポチや、友だちが飼っているタロウのことであり、イヌ一般を言うのではない。」といった考え方に疑問を持ちます。幼児は、さまざまなことを、他者との協調的やり取りにおいて学んでいくと思うのです。

 

子どもの初期の言語獲得

身振りと言語は、共有志向性という同じ対人間のつながりの中で学ばれ、使われているために、言語獲得の社会・語用論的理論においては、身振りによるコミュニケーションと言語によるコミュニケーションが、ほぼ同時に発達していくと考えるのは、当然のことです。実際に、912ヶ月で生じていることは判っています。

トマセロは、言語獲得について、子どもは必要とされる共通基盤を次の二つの方法のいずれかで達成しているかもしれないと考えています。一つ目は、他者との協調的やり取りにおいてです。そこには、共同目標があるため、トップダウンで共同注意が生じることになります。これをわかりやすくするために、こんな具体的な例を示しています。「原住民の村には、ある方法で夕食のための小さい魚を捕まえる独自のやり方が伝わっているとします。まず、たいていは小屋の中にあるバケツと、たいていは小屋の外にあるであろう竿を手に入れて、小川に持って行かなければなりません。そして、めいめいが川の両側に立ちながら竿の端を持ち、竿に差したバケツに流れてくる水が入るようにします。ここで、先ほどの訪問者が繰り返しこの漁に参加することにより、このやり方にだんだんと慣れている途中だとします。

ある晩に、夕食の時間がやってきて、準備が始まると、原住民が小屋の外で竿を取り、入り口の向こうからこの人に指さしをしたとします。そのときに、もし原住民が指さしをしながらある言葉を発したとします。すると、この人は、この漁のやり方を理解している限りにおいて、原住民が漁に行くために自分に小屋の中にあるバケツを持ってきて欲しいのだということが判るでしょう。ですから、原住民が発した言葉は、ほぼ確実に「バケツ」か「持ってくる」という意味だろうと推測することがで来ます。あるいは、もっと一般的な意味の「それ」とか「そこ」かもしれません。ところが、小川に着くとすぐに原住民が、その同じ言葉を発しながら、他のものを持ってくるようにという意思表示をしたとします。そして、持ってくる必要のないものを示す場合には、その言葉は使わなかったとします。こうなると、このひとは、原住民の言語を解読するとっかかりを得たことになります。

子どもの初期の言語獲得は、だいたいこういうものであるとトマセロは言います。ブルーナーという人は、子どもの初期の言語のほぼすべてがその言語を話す大人との日常的な協調的やり取りで習得されるということを研究から示しています。西洋文化では、例えばベビー用食事椅子に座って食べる、車に乗りにいく、おしめを替える、池のアヒルにエサをやる、八百屋に行く、などが該当すると言っています。このそれぞれのやり取りにおいて、幼児は先ほどの訪問者と同じく、まずそのやり方に参加して、相手と共同目標を創ることを学びます。そうすると、相手が何をしているかを相手の目標と意図に基づいて理解し、なぜ相手がそしているのかを、今置かれている状況でどうしてこの計画が選ばれて別の計画でないのか、という観点から理解できるようになります。こうなると、今度は、共同注意の領域と相手の注意が活動中にどこに向けられているかが、かなり決定されてきます。そのため、相手が見知らぬ用語を使って何について話しているのかも決定されてくると言うのです。そのご、別のコンテクストで同じ語が使われると、意図されている指示対象とメッセージの範囲がさらに絞り込まれていくことになると言うのです。

この時期に子どもたちの多くの時間を過ごしている私たちは、この獲得の経緯を理解することによって、接し方を考えないといけないと思います。

言語的獲得

人間はコミュニケーションのために身振りでアイコン的に外界を表示する能力を進化させてきたのですが、人間は声を出して話せるようになることで、現代の個体発生では、この能力がいろいろな形を取って現れてくるのではないかと考えられます。幼児は、かなり早い段階でコミュニケーションのためにアイコン的身振りを見せるのですが、言語を学び始めると、これらの能力はふり遊びの方に「転換」していくと考えられているのです。ふりは、主に自身のために行なわれるのですが、他者のために行なわれることもあるそうです。面と向かってのコミュニケーションにおいて、言語を補完するために身振りを使う能力は、かなり長い時間をかけて徐々に発達していきます。この期間に、子どもはコミュニケーションのメッセージを音声言語と身振りとに相補的に分割していくことを学びます。

これらのことはみな、進化上極めて重要な事実だと考えられているのです。というのも、人間が音声的慣習を使い始めたときに、それが取って代わったのは指さしでなく、物まねだったということを示唆するからなのです。

以前でのブログで紹介してきたように、トマセロは、日常的な言語の使用が、指さしやその他の自然に意味が取れる身振りと同じように、共有志向性の基盤構造に依存していると主張しています。そして、特に需要なのは、伝達者とその受け手の間に存在する何らかの共同注意や共通基盤であり、これを背景として共有理解が可能になり、その共有理解を背景として言語的慣習を選び、理解するのであると言います。共通基盤の必要性は、言語獲得に関してさらに明らかになるというのです。例えば、大人が何か難しい言葉を発したとき、乳幼児は共有されている共通基盤に言及しないでどうやってこれを理解できるのでしょうか?言語と学習と使用において、共有志向性の基盤構造が決定的に重要な役目を果たすのです。と言うのは、言語獲得の社会的・語用論的理論における大前提とされているからなのです。

乳幼児は、1歳の誕生日前後に指さしを始め、アイコン的・慣習的身振りを使いだした直後に、言語的慣習を理解して使うようになります。そのときに、トマセロは驚くべきことと思われるかもしれないと前置きしてこんなことを言っています。たいていの既存の理論では、どうして乳幼児がまさにこの時期に言語獲得を開始するのかということについて、体系的な説明がされていないのだそうです。

ブルームは、こんなことを言っています。「結局、どうして語の学習が約12ヶ月で始まり、6ヶ月とか3年でないのかは、誰にもわからない。」

しかし、これは言語獲得を要するに語と物、あるいは語と概念を結びつけることだと思っていて、協力に基づく共有志向性の基盤構造を何ら考えていない理論家にとっては分からないと言うことだけのことであると言います。もしも言語的慣習、つまり、語を学ぶために乳幼児がしなければならないことが、単に音声と経験を結びつけるだけだったとしたら、乳幼児は、6ヶ月で言語獲得を始めるはずだと考えられます。なぜなら、6ヶ月でそのような結びつけは完全にできるからです。

しかし、言語獲得の社会・語用論的理論においては、身振りによるコミュニケーションと言語によるコミュニケーションが、ほぼ同時に発達していくのは当然のことです。というのも、身振りと言語は、共有志向性という同じ対人間のつながりの中で学ばれ、使われているからなのです。

 

言語へ

幼児は、2歳初期になると、コミュニケーション以外の目的でアイコン的身振りを使い続けたのです。つまり、ふりやシンボリックな遊びをさらにするようになったのです。例えば、幼児が空のコップから飲むふりをするとき、この幼児はある意味、アイコン的に実際の行為を表示しています。単にコミュニケーションを目的としていないだけのことなのです。そうすると、その場に存在しない実体や行為を身振り様式において、コミュニケーション目的で表示しようという、人間の持つ生物学的な傾向は、通常の個体発生では音声言語に取って代わられますが、幼児においてはこの能力が代わりにふり活動に表れており、幼児は遊びのためにその場に存在しない実体や行為をシンボリックに表示しているということなのかもしれないというのです。もっと言えば、実は幼児が空のコップから飲むふりをして楽しそうに大人の顔を見ている場合には、幼児は自分自身のためにふりをしているだけでなく、コミュニケーションをすることによって大人とこの表示を共有するためのアイコン的身振りをしているのだと言えなくもないのではとトマセロは考えています。

 子どもはふりという遊びを続けながら、やがて劇場芸術や表象芸術のようなあらゆる芸術的営みをする大人になると言います。子どもを見ていると、ふりから自ら何かになりきる行動をしていることがあります。ごっこ遊びを見ていて、大きく二通りの遊びを見ることができます。一つは、身近な大人の仕草の真似をするという遊びです。いわゆる、「ままごと遊び」というわれるもので、母親の真似など大人のまねをしながら大人の社会を学んでいくことがあります。もう一つは、お姫様になりきるとか、ヒーローになりきるというように、模倣をするというよりも、何かになりきってあたかも自分もその者になりきる気分になっているということがあります。この場合は、必ずしも、特に相手を必要としていないこともあります。独り言をいいながら、一人でなりきっている姿を見ることがあります。しかし、この遊びを広げ、つなげていくと劇遊びにつながっていくことがあります。ふりをすることで、想像の世界で遊んでいるのです。

しかし、子どものふりという行為をコミュニケーションの観点から見ると、大きな子どもと大人の非直示的身振りが言語に対して補完的な役目を果たすようになるにつれて、この身振りの働き方が変わるようです。

 マクニールとゴールディンはともに、面と向かっての言語的コミュニケーションではコミュニケーションのメッセージのより命題的な側面のために言語が用いられるのに対して、より想像力に訴える側面のためには身振りが用いられるのではないかと論じています。例えば、話している物の形はこんな風だと説明したり、想像上で道を渡る、などの場合であると言います。その考え方の興味深いことは、3歳以前の子どもは話しながらこういった補完的な身振りを使うことが少なかったり、少なくとも大人がやるようにはしないことが判ったのです。

 もっとも、この問題はこれまでほとんど研究がされていないそうですが、もしそうであれば、人間はコミュニケーションのために身振りでアイコン的に外界を表示する能力を進化させてきたのですが、人間は声を出して話せるようになることで、現代の個体発生では、この能力がいろいろな形を取って現れてくるのではないかと考えられます。

生後2年目

研究はあまりされていないようですが、全体的に見れば明らかに生後2年目の幼児では、指さし身振りよりも、慣習的身振りを使うことの方がずっと少ないようですし、自発的にアイコン的身振りを発明して使うことはさらに稀のようです。これはつまり、知覚上その場にある実体に注意を引きつける指さしは、幼児にとってアイコン的身振りよりもずっと単純で自然なコミュニケーションの手段だということだとトマセロは言います。それは、そうでしょうね。しかし、それを証明するのはたいへんなのかもしれません。

もっと言えば、実際に初期の慣習的身振りは、多くの点でアイコン的身振りよりも、言語的慣習に近いと言います。これらの事実から、人間の進化に関して何か言えるとしたら、人間の協力に基づくコミュニケーションの最も原始的、それはすなわち最初の形式は、指さし身振りであり、アイコン的な慣習的身振りには模倣やシンボリックな表示といった、さらにそれ以外のスキルが必要であるということだと考えているようです。

ここで、重要な発達上の事実があるようです。それは生後2年目の間に非直示的身振りは、指さしと比較して頻度が落ちることだそうです。よく言われるのは、幼児がこの時期に言語を習得しており、慣習的身振り・アイコン的身振りは言語的慣習と競合しているが、指さしは競合しないためであろうと考えているようです。これは、アイコン的身振り、慣習的身振り、言語は、ある種のシンボリックな表示や指示対象のカテゴリー化まで伴いますが、指さしはそうではない、ということも理由として考えられると言います。

この結論は、いくつかの実験に基づく研究からもわかっていることのようです。それらの研究は、例えば、ブレザートンらは、生後2年目の早い時期に幼児は身振りで物体を示すことを好みますが、2年目の後期になって、もっと言語を身につけ始めると、言語的慣習を使うことを好み始めるということを発見しました。また、ネイミーとワックスマンは、幼児は2年目の初期では恣意的な身振りと恣意的な語を同じように学習したのですが、2歳の誕生日を迎えるあたりから恣意的な身振りよりも、語の方を進んで学ぶようになっていることを発見しました。これもやはり、本格的に言語獲得が始まった後のことなのです。アイコン的身振りと慣習的身振りがこのように減っていくのと対照的に、指さし身振りは2年目の間に頻度が増していることがわかったのです。そして、幼児が言語を習得し始めると、指さしはコミュニケーション過程の一部として組み込まれていくというのです。例えば、幼児の初期の複合的なコミュニケーションの多くにおいて、慣習的な語と指さし身振りが組み合わされており、語と指さしがそれぞれ、その伝えようとしている状況の異なる側面を表すのです。

これらのデータからは、指さし身振りが言語によるコミュニケーションとは異なる基本的機能を果たしているのに対して、アイコン的身振りと慣習化された身振りは、言語と同じ機能を果たしており、競合していることが分かると言うのです。しかし、興味深いことに、幼児はこの同じ時期に、コミュニケーション以外の目的でアイコン的身振りを使い続けたのです。

ふりがコミュニケーションとして意味を持つ場合は、言語を使用し始める時期が大きく影響しているというのは当然のような気がします。

ごっことの違い

「身振りをする者がその身振り行為を、背後にある伝達意図を示すものと結びつけておかないと、相手からは単におかしなことをしているとか、ごっこ遊びをしていているだけだと思われてしまいかねない」と言うことは、言われてみれば本当にそうですね。何か飲み物が欲しくて、コップで何か飲むまねをするのと、ごっこ遊びで飲むまねをするのとは同じ仕草ですね。しかも、ちょうどそのようなまねをし始める1歳から2歳児になる頃の「見立て遊び」の時期なのです。と言うことは、この見立て遊びは、もしかしたらコミュニケーションを取るための伝達手段の習得に、また、その後言語を使ってのコミュニケーションのための準備として大切な発達過程かもしれないと思います。

しかし、もし現場で身振りの研究、観察をするのであれば、見立て遊びにおける「ふり」との違いをはっきりしないといけないのかもしれません。最初は、そこは混然としているかもしれないからです。その違いは、「身振り」の中に伝達意図を示すものがあるかどうかです。それは、研究だけでなく、私たち保育に当たる者、保護者など子どもと接する者にとって、重要なことかもしれません。それに気づくことで、その後のその子にとってコミュニケーション能力に関係してくるからです。そのためにも、少し内容的には理解が難しいところがあるかもしれませんが、トマセロの研究を見ていくことが必要でしょう。

このようなことを、レスリーという人が言っています。彼は、ふりの行為を本当の行為と「隔絶」する必要があると言っているのです。したがって、創造的なアイコン的身振りには、何らかのシンボリックな表示が関与していて、これが2者間のコミュニケーションを助けると考えられます。その点が、その場にある実体を指すのとは異なるのです。

しかし、トマセロは、何度もこんなことを言います。「言語を習得し始めた幼児のアイコン的身振りに対する理解については、ほとんど研究されていない。」それを理解するには、「指さし身振りを共同注意フレームで解釈するのに用いられた共通構造すべて」「三層にわたる意図と実践的推論」「お互いに協力的であるとの想定」「グライス流の伝達意図」「シンボリックな写像をする能力」など、これらの能力が必要になります。そのために、それぞれの考察を今までしてきたのです。このような諸々の研究を総合しないと、乳幼児のことが分からないというと、人間のすばらしさを感じます。と同時に、まだ理解されていないということは、これらの行動を人工知能にやらせることは現段階ではできないということなのです。

さらにトマセロはこう言っています。「現在進行中の研究において、われわれは幼児がこれらの創造的なアイコン的身振りを理解するのはかなり困難であることを発見している。」この理解の困難さは、アイコン的身振りを使って物体を要求する場合だけでなく、問題を解決するためにどういった行為をすればいいかを幼児にやってみせる場合でもそうだと言います。デローチという人の研究では、幼児は例えば部屋のレイアウトを表す縮尺模型のように、特に媒体が物理的な場合にはシンボリックな表示が苦手なようだということが分かっているそうです。

これも、私の考えでは、苦手なことは、その年齢ではそれほど生きていく上でその能力は優先順位が低かったのではないかと考えます。

アイコン性の理解

 何度も繰り返しますが、はっきりしないことが多いようですが、かなりの数の慣習的身振りは、何らかの点でアイコン的だそうですが、乳幼児がこれに気づいていたり、利用したりしているかということもはっきりしていないそうです。その点で見ても、恣意的な言語的慣習と似ているようです。ですから、慣習的な手話を学んでいる子どもは、アイコン的身振りと恣意的身振りの両方に接しているのですが、アイコン的サインの方が覚えやすいとか、早く覚えるとかいうことはなさそうです。

 さらに実験によると、18ヶ月の幼児はある物体に対して、恣意的な身振りよりもアイコン的身振りの方が習得しやすいということはなかったそうです。そこで、トマセロは、小さい乳幼児が身振りや他の媒介におけるアイコン性を理解しているかどうかは、今後しっかりとした形で証明していく必要があると思っているようです。

 現場の中で、このようなことも調べて欲しいと思います。それは、初期段階での本当に創造的なアイコン的身振りについてはどうかです。その報告は少ないのですが、カーペンターという人が、1歳直後の数ヶ月における、ほぼ自発的に作り出したアイコン的身振りと言ってよいものを観察し、その結果を日記で報告しています。

1.13ヶ月児のAは、ふざけて噛むまねをして見せて、ある物体に対してしてはいけないことになっている行為を示します。意味:僕の噛むのに注意して。これをこれからこの物体にするよ。

2.14ヶ月児のAは、頭を片側に傾けて、ママは、今頭の上に乗っているバケツを落とすにはどうしたらいいかを示している。意味:僕のやっていることに注意して。これをして。

3.14ヶ月児のAは、自分の胸のところを指で触れ、ママの方を見てほほえむ。ママのシャツの胸元には紐がついていて、それで遊びたいのだ。意味:僕のしていることに注意して。その紐が好きだよ。

4.17ヶ月児のAは、紙のボールをクシャクシャにする物まねをして、そうしてくれとせがむ。意味:僕のしていることに注意して。これをして。

 耳の聞こえない子どもは、音声言語であれ、手話であれ、慣習的言語に接していなくても、このようなアイコン的身振りをかなり頻繁に使用するようですが、どうやってこのような身振りを身につけるのか、どの程度大人をモデルとして習得するのか、については、まだ詳しい研究がされていないそうです。しかし、確かなのは、このような創造的アイコン的身振りをするためには、乳幼児は、模倣、シミュレーション、シンボリックな表示、ふり、と言ったいくつかのスキルを持っていなければならないはずです。なぜなら、幼児は、あることを引き起こすためによく知っている行為を本気で行なっているのでなく、その行為に関連したことを伝えるために単にふりでやっていなければならないからです。

 ここで重要なのは、アイコン的身振りをするために、幼児は通常のコンテクストとは違うやり方で、たとえば、シミュレーション、ふり、表示のような行為を演じる能力をグライス流の伝達意図の理解と結びつけなければならないということだと言います。もし、身振りをする者がその身振り行為を、背後にある伝達意図を示すものと結びつけておかないと、相手からは単におかしなことをしているとか、ごっこ遊びをしていているだけだと思われてしまいかねず、その場に存在していない状況について、何かを伝えようとしているのだと理解してもらえなくなるのです。