伝達道具としての慣習

トマセロは、言語およびその他の形式の慣習的コミュニケーションも、根本的に伝達者と受け手の間の共通基盤とそのときの共同注意フレームに依存しており、自然な身振りの場合とまったく同様だと言います。さらに伝達意図も、身振りと言語どちらのモダリティーにおいても基本的に同じであるし、受け手の関連性の追求も、どちらの場合においても助け合いの相互想定によって導かれていると言います。そして、一般的動機も、身振りコミュニケーションと言語コミュニケーションで基本的には同じです。つまり、「要求する」、「何かを知らせる」、「共有する」の三つです。また、共同指示を確立してメッセージを伝達するために協調的に力を合わせることも、自然の身振りの時とまったく同じです。

現在のコンテクストで、自然の身振りとコミュニケーションの慣習の間の唯一の実質的違いは、指示的意図にあるといいます。つまり、相手の注意を何かに向けるためのシグナルの「中」に何が入っているかなのです。主として言語の持つ伝達道具が「恣意的」であることに由来し、言語的慣習の方が、自然な身振りよりもはるかに強力な方法で世界に言及することができます。

コミュニケーションの慣習がどのようにして作り出されるかというと、他にもやり方があったとしても、みんながそうしてきたからという理由で、注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって作り出されてくるのです。そのときには、すべての個体が文化的学習のかなり本格的なスキルを備えている場合のみ可能になると言います。それは、志向的行為に焦点を当てた模倣学習の形式をとり、自然な身振りを行なう際には必要とされないタイプのスキルです。特に伝達上の慣習の場合、必要になるのは役割を交換しての模倣と呼ばれるものです。これは、私が言うところの「役割交代」という模倣で、伝達者がある伝達道具を自分に対してどのように使用しているかを理解すると、今度は自分自身のコミュニケーションの中で、同じやり方で他人に対してその使い方を複製するのです。

つまり、伝達道具の実際の形式が、使用者の間で慣習となっている、または共有されていることであるとトマセロは言います。というのも、特定の伝達目的のためにはどのようにこれらの道具を理解し、使うべきかをみんなが知っているということを、みんなが知っているからだというのです。このときに重要なのは、言語と身振りをこのように共有することもまた、ある種の何層にも及ぶ繰り返しの構造に依存しているということなのです。「みんながその慣習を知っている」ことを、「みんなが知っている」ということを繰り返して層を作っていくのです。

したがって、言語的慣習とは基本的に、その共同体のこれまでの人たちが、特定の方法で他者の注意や想像を操るために合意してきた方法をコード化したものであると言います。恣意的な音や身振りそれ自体は、メッセージを「自然に意味が分かるように」持ってはいません。しかし、その使われ方を観察すれば、その慣習を共有するひとびとが、どのようにそれを使って、他者の注意と想像をある物に向けているかが明らかになります。適切な認知的スキルと動機というのは、「人間の指さしと物まねの根底にあるのと同じ共有の基盤」と、「みんなが共有していることをみんなが知っている慣習をすでにともに学んでいる」ということに他ならないとトマセロは言っています。

伝達道具としての慣習” への18件のコメント

  1. 「みんながそうしてきたからという理由で、注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって作り出されてく」「みんながその慣習を知っている」ことを、「みんなが知っている」ということを繰り返して層を作っていくとありましたが、特に日本人はそう強く感じるのではないでしょうか。「みんながしているから」というのは日本人にとっては重要で、それで集団を築いて生き延びてきたともいえるのではないでしょうか。しかし「みんながしているから」ということに違和感を感じたとしても、なかなか変えることはできません。「常識を壊すには、常識を知ってから」と聞いたことがあります。やはりそこには共通基盤があってこそ、変化をもたらすことができるのかなと思いました。

  2. 「特に伝達上の慣習の場合、必要になるのは役割を交換しての模倣と呼ばれるものです」というのは体が覚えるという感覚に近いのでしょうか。そして、慣習になることで、行動に言葉として意味がついたり、慣習になった行動の意味が分かっていくのでしょうか。ん〜まだまだ理解できていません。「その使われ方を観察すれば、その慣習を共有するひとびとが、どのようにそれを使って、他者の注意と想像をある物に向けているかが明らかになります」とありました。先日、1歳半くらいの子に、あることを伝えようとしている私がいました。身振りと言葉をつかって伝えようとしていたのですが、その時に、こんなふうに言葉と身振りが合わさることで子どもは言葉と動きや相手の思いを理解していくのかなと思いました。それと同時に動作と言葉どちらの方がまず最初に理解されるのだろうと疑問になりました。身振りでなんとなく動作の意味を理解し、それが言葉として認識されるのかなと思ったのですが…まだまだ自分のなかで整理できていません。

  3. コミュニケーションの慣習について、『「みんながその慣習を知っている」ことを、「みんなが知っている」』というのが面白いですね。一人の人間が「みんながその慣習を知っている」だろうで終わってしまえば、属に言う“独りよがり”とか“自己中心的”といった感じになってしまうと思いますが、決してそれだけではなく、そのことをしっかりと一人一人が共有しているという事実を、自分もみんなも把握しているという信頼とか協力体制などが強く感じることが出来ました。また、そういった経験を繰り返していくことによって、コミュニケーション能力の定着が行われているのだろうなぁと思いました。そして、子どもたちの姿にも多く見られる「役割交代」も、伝達者が様々な方法で自分に伝えようとする行為に実際に触れ、そこから相手の「注意と行為を連携させる手段」を学び、それらを別の他者に試すこと・複製することによって可能になるということを理解出来ました。

  4. 私たちが行う身振り手振りには、そのそれぞれ意味が込められています。その身振り手振りが「言語的慣習」に劣るとされる場合を考えてみました。その言語慣習を共通基盤としている集団においては、さまざまな意味にとられてしまう身振りよりも「あの看板のある下」とか「宇宙」とか「幸せ」「愛している」という言語慣習によって明確化される概念内容が私たちの次のリアクションを容易に引き出すだろうことが推測されます。しかし、このことは「言語的慣習」を生活の土台においている集団にいえることで、そうではない場合は、その優劣を軽々に論ずることはできません。私はある地方出身です。その地方の「言語的習慣」のもとで生まれ育ちました。大人になってから東京語を「言語的習慣」とする地で生活するとその習慣の強力さを感じます。さらに、日本語以外の「言語的習慣」の世界を体験するとよくわかります。このことから「伝達道具としての慣習」である「言語」は、乳幼児にとっては身振りや指さしより明確に他者に意図を伝えられる道具として自ら獲得しなければならないスキルなのだろうと思われるのです。ある言語の獲得にはある何かを他者に伝達したい、あるいは他者の意図をくみ取りたい、という欲求がなければならないでしょう。そのためには複数の他者が存在する集団がやはり必要なのです。

  5. 今回の内容から「慣習」は、一種の「刷り込み」によって形成されるものもあるように感じました。今まで刷り込みというと悪い印象を持ってしまいましたが、コミュニケーションにおける共通基盤を築いていく上ではとても効率が良いものである気がします。伝達道具においても「道具を理解し、使うべきかをみんなが知っているということを、みんなが知っているからだ」と刷り込むことでコミュニケーションの共通基盤が生まれていることがわかります。「物は使いよう」という言葉があるように、ケースバイケースで使い分けることができたら最高ですね。それが難しいのですが…
    「役割交代」という複製する模倣行為は、1歳児クラスの子どもたちの姿に当てはまります。これによって子どもたちは共通基盤を築き上げていくのですね。そうすることで、他者によっては自分の持っている共通基盤が通用しない相手に対して、失敗して学び、自己中心的な思考ではコミュニケーションを図っていくことが難しいことを知っていくように思えました。

  6.  〝適切な認知的スキルと動機というのは、「人間の指さしと物まねの根底にあるのと同じ共有の基盤」と、「みんなが共有していることをみんなが知っている慣習をすでにともに学んでいる」ということに他ならない〟という文章がとても印象的です。赤ちゃんが指さしを通してコミニュケーションを図る理由から、挨拶など大人がとろうとする慣習的なコミニュケーションに至るまで、その共通基盤というものが、この2つのかぎ括弧に集約されているということです。
     僕もk.takaさんと同じように、「みんなが共有していることをみんなが知っている慣習をすでにともに学んでいる」が、特に面白いと感じます。「おはよう!」と挨拶をすれば、「おはよう。」と返すことがセオリーです。それは〝みんなが共有していること〟です。挨拶をされた人に挨拶を返すこと、それは当たり前のように〝みんなが知っていること〟であり、その慣習は幼い頃に、それぞれの場所で〝ともに学んでい〟ます。これが、人の心の共通基盤としてある、ということです。なんだか当たり前のことのように考えずに生きてきましたが、掘り下げれば掘り下げるほど、当たり前ということほど、理由も意味もあって、面白いものなのではないかという気持ちが湧いてきます。

  7. ゛注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって作り出されてくる゛という内容から、注意を持たせることが、その行為へと導くというような繋がりがあるというよに感じます。そして、それをみんなが使い始めることによって、注意と行為を生み出すとも考えられました。゛すべての個体が文化的学習のかなり本格的なスキルを備えている場合のみ可能になる゛この事ができるスキルとして役割を交換しての模倣があげられています。
    他者が伝えたことを理解し、理解者が、また、その手段を使い、コミュニケーションを図る、この事は、伝達から共有、発信のような連携性を感じました。習慣になるということは、他者から言われているやるという内容より、他者から伝達したものを理解し、自己の基盤としてできたもののように考えられました。

  8. ゛注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって作り出されてくる゛という内容から、注意を持たせることが、その行為へと導くというような繋がりがあるというよに感じます。そして、それをみんなが使い始めることによって、注意と行為を生み出すとも考えられました。゛すべての個体が文化的学習のかなり本格的なスキルを備えている場合のみ可能になる゛この事ができるスキルとして役割を交換しての模倣があげられています。
    他者が伝えたことを理解し、理解者が、また、その手段を使い、コミュニケーションを図る、この事は、伝達から共有、発信のような連携性を感じました。習慣になるということは、他者から言われているやるという内容より、他者から伝達したものを理解し、自己の基盤としてできたもののように考えられました。
    そして、その事を自分自身の意志だけではなく、他者と共感するなかで成立する習慣だと言うことを感じることができました。

  9. 「役割を交換しての模倣」を行うことで、「みんながその慣習を知っている」「みんなが知っている」という気持ちを共有するということに繋がり、共通基盤を築き、それらの経験がコミュニケーションという伝達方法という一連の流れがあるのだと考えました。そうするとやはり幼児期の模倣という経験は表情に重要な経験になってくるのだと思います。以前紹介されていた、自己中心的なコミュニケーションというのもそのような経験の影響もあるのかと感じました。

  10. 慣習的なコミュニケーションについて〝みんながその慣習を知っていること〟を〝みんなが知っている〟というのは、他者を『信頼』しているということになると思います。
    挨拶をすれば挨拶が返ってくるだろうという信頼、話せば反応してくれるだろうという信頼など、そこにはコミュニケーションの根源といえるものが存在するんですね。
    見守る保育にもある〝信じる〟ことの大切さを改めて感じました。

  11. 自分が行ったことのないような種類の料理屋に行ったときのことを思いだしたのですが、どうやって注文するべきなのかとか、お店の人の身振りなどをどう読み取ればいいのか、かなり注意深く観察し、その場で共有されているものを理解しようとします。まずはその場の慣習を理解し、その上でその慣習に沿うことでスムーズに事が運ぶことを知っているからです。このようなことを小さな頃から繰り返し行っていて、そのことで次々に登場する新しい環境に入り込んできたんだと思います。もしかすると、子どもの頃から模倣する機会が少ないと、新たな環境での慣習を模倣することも苦手になってしまうといったことが起きてしまうんでしょうか。

  12. 伝達上の習慣を身につけるためには役割交代をすることで他人に対してその使い方を複製していくのですね。それを様々なパターンを繰り返すことでより多くの理解へと結びついていくことがわかります。「みんながその習慣を知っている」ことを「みんなが知っている」ということを繰り返して層を作っていくとあります。しっかりと一人一人が知っているという共通な意識があることでより人間は強固なコミュニケーション能力を手にすることができたのでしょうね。日本人は割とみんなが知っているということに安心感を覚えることが多いと思っています。「みんなが共有していることをみんなが知っている習慣をすでにともに学んでいる」というのは勝手ですが、日本人は得意なのではないかと思ってしまいます。しかし、まだまだ理解が不十分な気がしています。

  13. 役割交代という藤森先生の解説にピンときました。息子の話になるのですが、少しずつ2語文をなんとなく話すようになりました。とはいっても、ほぼ一語ですが、その分身振りによる伝達が多くなった気がします。もちろん私たち夫婦に何かを伝えたいときは指さしをします。最近は「もう一回」というのを伝えるのに人差し指を立てて要求します。それは自然に覚えたというよりも私が息子に向かって「もう一回?」と聞きながら人差し指を立ててた行為を見て、真似たような気がします。「みんながそうしてきたから」というのは、やはり藤森先生が言うように模倣学習ですね。そして模倣から身につけた伝達行為を身につけ、そこから自分なりの新たな方法を身につける。これこそ模倣学習の重要なポイントだと思いました。

  14. コミュニケーションの慣習が「みんながそうしてきたから」という理由で始まり、注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって生み出されていくのはとても面白いですね。「みんながその慣習を知っている」ということは、安心でもあり、やりやすさを感じますね。そうした感覚を、私がすぐに感じてしまうのは、日本人は「みんなが」といった感覚を強く持っているからではと思います。
    あとはこのコミュニケーションの慣習をどう活かしていくかしっかりと考えていきたいと思います。

  15. 「みんながそうしてきたから」という理由でコミュニケーションの習慣が作り出されているということは面白く意外なことでした。捉え方によっては惰性的で他人任せなように感じてしまったのですが、「特定の伝達目的のためにはどのようにこれらの道具を理解し、使うべきかをみんなが知っているということを、みんなが知っているからだというのです」という一文を見てそうではないということを理解しました。まわりの人がしているから自分もそうするといった類のことではなく、使い方や使うべき状況を理解しているということを誰もが知った上で使っているから、同じようにするということなのですね。みんなが知っているから同じようにするといっても、ただの模倣と、きちんと内容を理解した上での模倣とでは全く意味が違ってきますね。

  16. 「「みんながその慣習を知っている」ことを、「みんなが知っている」ということを繰り返して層を作っていくのです」とありました。お母さんだったり、保育者が子どもに食事を与えている時に、よく見られる光景で「美味しいね」という表現を自分の頬をポンポンと軽く叩く動作も、誰に教えられたわけではないと思うのですが、みんなが理解していると思います。そういった一つ一つの事を何十年、何百年と受け継がれることで相手に伝わることを信頼し「みんなが知っている」というように使っていっているのですね。

  17. 言語およびその他の形式の慣習的コミュニケーションも、根本的に伝達者と受け手の間の共通基盤とそのときの共同注意フレームに依存しており、自然な身振りの場合とまったく同様でした。さらに伝達意図も、身振りと言語どちらのモダリティーにおいても基本的に同じであるし、受け手の関連性の追求も、どちらの場合においても助け合いの相互想定によって導かれています。そして、一般的動機も、身振りコミュニケーションと言語コミュニケーションで基本的には同じでしたが、現在のコンテクストで、自然の身振りとコミュニケーションの慣習の間の唯一の実質的違いは、指示的意図にあるということですね。正直よくわかっていません。

  18. 伝達上の慣習というのは指示的意図にあるんですね。確かに身振りに比べると言語における伝達はかなり具体的であり、より指示的なものであると思います。ただ、その伝達「方法」が「慣習」になる過程というのはとても面白いですね。「役割の交代という模倣」という言葉が出てきましたが
    、その方法がお互いに常に繰り返されていくことにより、「共同体のこれまでの人たちが、特定の方法で他者の注意や想像を操るために合意してきた方法をコード化したもの」になってくることで慣習として定着していったんですね。とても面白いことです。そして、この慣習的コミュニケーションはどの人種でも、どの民族でも当てはまるものです。それはある意味で一番コミュニケーションの中で利用されるものだからなのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です