乳児の指さし

 私が、人類の進化に興味を持つのは、よく、その進化の過程は、人間の一人の発達過程と似ていると言われるように、赤ちゃんの行動を理解する上で、参考になるからです。とくに、人間におけるさまざまな能力の起源、獲得していく経緯は、あかちゃんがその行為をどのように獲得していくか参考になるからです。それは、そのときにどのような環境を用意すればいいのか、どのような関わりを持てばいいのかのヒントが見つかることが多いからです。

 トマセロも同様なことを考えているようです。複雑なスキルがどのような部分から成り立っており、それらの部分がどのようにしてともに機能しているのかを知るためには、子どもの初期の発達で、それらがどのように創発するのかを調べるのが一番やりやすいと言っています。そのために、コミュニケーション行為として用いられる身振りは、大人よりも乳幼児や子どもに関してずっと詳しく研究されています。その実験の中には、乳幼児を対象としたものもありますし、また難しい理論的な問題に決着をつける助けとなってくれるものさえあるといいます。

 まず、トマセロは、「乳幼児の指さし」について考察しています。ブログの中でも、この指さしは何回もテーマに挙げていますが、この行為は、多文化にわたって広範囲に見られます。しかし、コメントに中に書かれているように、現場での乳児の指さしは、大人の使う指さしと同じような社会・認知的な複雑さをどの程度まで備えているのか、またどのように備えているのかということが疑問に感じることがあります。同時に、乳幼児の使うアイコン的身振りにトマセロは興味を持っています。

 古典的な理論では、乳幼児が指さしをしてコミュニケーションを行なうには、二つの動機があると言われています。「何かを要求するため(命令)」「他者と経験や感情を共有するため(陳述)」で、この二つのタイプは同時期に生じると言われています。しかし、指さしが、乳幼児が他の何らかの行為から儀式化させたのか、それとも他者からの模倣によって学んでいるのか、というような個体発生的にどのように生じてくるのかは分かっていないようです。

 しかし、多くの類人猿は、「指さし」によって人間から何かを要求するようになることが分かっていますし、ある種の指さしはどの人間社会にも普遍的に見られるらしいことからすれば、どうも乳児は他者の模倣によって指さしの身振りを身につけているのではないということになります。指さしは、もっと自然に生じると考えられていますが、はっきりとは分かってはいないようです。

 もしかしたら、はじめは社会的志向性を持たない行為であったのが、他者とのやり取りの中で社会的性質を帯びるのかもしれないとトマセロは考えます。しかし、このことに直接的に関連する研究はなにもないし、また完全に社会的な指さしであっても学習の必要が無いかもしれないのです。あるいは、当初は学習の必要が無くても、子どもが自分の指さし身振りと他者の指さし身振りが対応するのに気づくと模倣が加わってくるのかもしれません。とにかく、現時点では、私たちには分からないのです。

 研究者たちが、「分からないのです。」というのを聞くと、現場で多くの子どもによる指さしを見ている私たちからすると、研究したくなりますね。全国に仲間の皆さんと、乳幼児が指さしする場面を、その背景と、動画を撮って、検討してみたくなりました。

人間コミュニケーションの協力モデル

 ちょっと、話しがややこしくなってきました。理解するのは、なかなか容易ではありません。しかし、みなさんのコメントを読んでいて、感心します。私たちはトマセロの研究者でもありませんし、心理学を勉強しているわけでもありません。自分たちが行なっている保育にどう活かすかが大切なのです。これを読むことで、日々子どもと接する中で少しでも子どもたちの行動が理解できたり、気づきがあったり、また、内容に関係なくとも読むことで自分の考えが整理されたり、それでいいのではないかと思います。

 トマセロは、「人間の協力に基づくコミュニケーションの心理的基盤」について、これまでのことを整理しています。まず、大型類人猿は、儀式化されたシグナルを使ってものを要求し、また意図や知覚を理解し、それらについて実践的に推論します。それに対して、人間のコミュニケーションには、他者を助け、他者と何かを共有しようという新たな動機と、行為を模倣する新しい能力の二つの要素が加わります。この能力のおかげでアイコン的身振りと、最終的にはコミュニケーション上の慣習が可能になります。

 そして、何層にもおよぶ意図の推察によって、十分に協力に基づくコミュニケーションが行なわれます。それは、助けと共有の動機は、協力の相互期待または規範に変わります。目標の理解は、目標の共有と伝達意図に変わり、知覚の理解は、共同注意と共通基盤に変わります。そして、実践的推論は協力的推論に変わります。そして、模倣されたシグナルは双方的な共有された慣習に変わります。それこそが、大型類人猿にも見られる物から人間に見られるものへ、そして、それがより高度に進化していく過程なのです。

 トマセロは、ただ指を伸ばすだけというあまりにも単純でありながら、完全なコミュニケーション行為としての「指さし」によって、言語と同じくらいの豊かな内容を伝達することができるのかという疑問をあきらかにしようと試みているのです。しかも、指さしによって、ある物に対するさまざまな視点や、その場に存在しない指示対象へと、受け手の注意を向けることさえ可能なのです。今までは、これらの能力は言語だけのものとされてきましたが、アイコン的身振りは、もっと具体的な方法で指示対処を指示するために用いられますし、その場に存在しない対象を指示するのに用いることができるのです。また、非常に複雑なメッセージを伝えるのにも使われます。そして、これら二つのタイプの自然な身振りは、人間であれば皆使いますし、人間しか使わないのです。

 指さしと物まねの両方における、この「付加価値」は、何らかの形で共有志向性の基盤に由来するそうです。そして、共同意図、共同注意、相互に想定される協力的動機・コミュニケーション上の慣習を用いてコミュニケーションを構造化することは人類だけに見られることのようです。この人間コミュニケーションの協力モデルを、トマセロは以上ような項目としてあげています。

「人間に伝達者と受け手は、コミュニケーションを成功させるという共同の意図を作り、必要に応じて互いに調整する」「人間の伝達行為は、共同注意とその場の状況の共有理解に基盤を置く」「人間の電圧行為は、基本的に向社会的動機のために行なわれる(たとえば、他者の助けになるように何かを知らせたり、他者と自由に感情や見方を共有するなど)」「人間の伝達者はこれらのすべてにおいて、参与者の間の協力の共有想定の下で動く」「人間の言語的慣習は、人間の言葉による伝達の頂点にあるが、根本的に共有されている」

ではこのような人間にしか見られない構造化は、いつ、どのようにして身につけていくのでしょうか?

伝達道具としての慣習

トマセロは、言語およびその他の形式の慣習的コミュニケーションも、根本的に伝達者と受け手の間の共通基盤とそのときの共同注意フレームに依存しており、自然な身振りの場合とまったく同様だと言います。さらに伝達意図も、身振りと言語どちらのモダリティーにおいても基本的に同じであるし、受け手の関連性の追求も、どちらの場合においても助け合いの相互想定によって導かれていると言います。そして、一般的動機も、身振りコミュニケーションと言語コミュニケーションで基本的には同じです。つまり、「要求する」、「何かを知らせる」、「共有する」の三つです。また、共同指示を確立してメッセージを伝達するために協調的に力を合わせることも、自然の身振りの時とまったく同じです。

現在のコンテクストで、自然の身振りとコミュニケーションの慣習の間の唯一の実質的違いは、指示的意図にあるといいます。つまり、相手の注意を何かに向けるためのシグナルの「中」に何が入っているかなのです。主として言語の持つ伝達道具が「恣意的」であることに由来し、言語的慣習の方が、自然な身振りよりもはるかに強力な方法で世界に言及することができます。

コミュニケーションの慣習がどのようにして作り出されるかというと、他にもやり方があったとしても、みんながそうしてきたからという理由で、注意と行為を連携させる手段としてみんなが使い始めることによって作り出されてくるのです。そのときには、すべての個体が文化的学習のかなり本格的なスキルを備えている場合のみ可能になると言います。それは、志向的行為に焦点を当てた模倣学習の形式をとり、自然な身振りを行なう際には必要とされないタイプのスキルです。特に伝達上の慣習の場合、必要になるのは役割を交換しての模倣と呼ばれるものです。これは、私が言うところの「役割交代」という模倣で、伝達者がある伝達道具を自分に対してどのように使用しているかを理解すると、今度は自分自身のコミュニケーションの中で、同じやり方で他人に対してその使い方を複製するのです。

つまり、伝達道具の実際の形式が、使用者の間で慣習となっている、または共有されていることであるとトマセロは言います。というのも、特定の伝達目的のためにはどのようにこれらの道具を理解し、使うべきかをみんなが知っているということを、みんなが知っているからだというのです。このときに重要なのは、言語と身振りをこのように共有することもまた、ある種の何層にも及ぶ繰り返しの構造に依存しているということなのです。「みんながその慣習を知っている」ことを、「みんなが知っている」ということを繰り返して層を作っていくのです。

したがって、言語的慣習とは基本的に、その共同体のこれまでの人たちが、特定の方法で他者の注意や想像を操るために合意してきた方法をコード化したものであると言います。恣意的な音や身振りそれ自体は、メッセージを「自然に意味が分かるように」持ってはいません。しかし、その使われ方を観察すれば、その慣習を共有するひとびとが、どのようにそれを使って、他者の注意と想像をある物に向けているかが明らかになります。適切な認知的スキルと動機というのは、「人間の指さしと物まねの根底にあるのと同じ共有の基盤」と、「みんなが共有していることをみんなが知っている慣習をすでにともに学んでいる」ということに他ならないとトマセロは言っています。

慣習的コミュニケーション

 人間が、ある特定の方法でコミュニケーションの誘いかけを理解して反応する際に、これは伝達者がそうすることを求めているから、そして、伝達者もこうなることを信頼しているというのが少なくとも理由の一つになっているとトマセロは言います。そして、すべてが公になっている場合は、このように事を進めることが規範として定まっているから、というのが理由になっているとも言います。

 人間コミュニケーションの協力モデルには、次のような相互関係が成り立ちます。まず、伝達者である私は、生きていく上で追求している多くの目標と価値観を持ちます。つまり私の個体レベルの目標です。どんな理由であれ、私は、あなたがこの機会にそれらの内の一つ、または複数のものについて私を助けてくれると感じています。それは、私を手伝うことによるかもしれませんし、私の情報提供を受け入れることによるかもしれません。あるいは、私と見方を共有することによってかもしれません。つまり、私の社会的意図です。私がこの状況であなたの助けを得たり、あなたを助けたり、あなたと何かを共有するための最良の方法は、コミュニケーションを通してなのです。

 そこで、コミュニケーションを取るために、まず私は、現在の共同注意のフレームの中で、伝達行為を相互に顕在的にすることに決めます。これが、私の伝達意図です。それを伝えるために、アイコンタクトや何らかの動機の表出といった「あなたに向けて」のシグナルによって示されます。私の伝達意図のシグナルがあれば、私はあなたの注意を外界の指示的状況へ向けることができます。それは、協力的推論によって、社会的意図を推論するようにデザインされているからです。というのも、あなたは本来協力の規範に基づいて、あなたとコミュニケーションしたいかを見いだすように動機付けられているからです。

 そこで、あなたはまず私の指示対象を確定しようと努めます。これは典型的に私たちの共通基盤の中だからこそ行なわれるのです。そしてそこから、私の根底になる社会的意図を推論しようと努めます。これもやはり典型的には、指示対象を私たちの共通基盤と関連づけることによって行なわれます。それから、あなたは私の社会的意図を理解したと仮定し、期待されているとおりに協力するかしないかを決定するのです。

 この根本的に協力的な過程こそが、人間のコミュニケーション特有なもので、地球上の他のあらゆる生物種のコミュニケーション行動とは完全に異なるものであるとトマセロは言います。これは、人間が自然に行なうコミュニケーション様式です。しかし、人間のコミュニケーションには、自然と行なわれるものの他に、「慣習的」に行なわれるものがあります。たとえば、世界中のほとんどの地域の文化の中で見られるものに、「挨拶」があります。他にも、「別れ」「脅かし」「侮辱」「賛同」「不賛同」などを表すような身振りや、音声言語や手話言語は、どのような仕組みで機能するのでしょうか?

 トマセロは、言語およびその他の形式の慣習的コミュニケーションも、根本的に伝達者と受け手の間の共通基盤とそのときの共同注意フレームに依存しており、自然な身振りの場合とまったく同様だと言います。さらに伝達意図も、身振りと言語どちらのモダリティーにおいても基本的に同じであるし、受け手の関連性の追求も、どちらの場合においても助け合いの相互想定によって導かれていると言います。

協力的推論

コミュニケーションが持つ規範的な側面の具体例を見ると、私はこの規範を日本人がより強く持っている気がします。「NOと言えない日本人」という言い方で日本人の国民性を表す言葉があります。日本人はなぜNOと言えないのか?ということがアンサイクロペディアでは、「形態的特徴由来説」、「天敵説」ということで説明されています。しかし、私は、少し違う見解を持っています。私は、人類の進化上、日本人は、世界の中でも最もコミュニケーションに長けていた種であると常々思っていました。人への心遣い、おもてなしの心、それは社会を形成するために重要な心であり、昨日のブログで紹介したように、「塩を取ってください」というようなちょっとした要求に対して、「いやだ」とは言わないという人間独特のコミュニケーションにおける規範をより強く持っているのではないかと思います。断れないとか、優柔不断というよりは、相手を助け、相手からの助けの申し出を受け入れ、相手と感情を共有しようとする行為が、「NO」と言わせないのだと思うのです。

ですから、私たちは相手に対する要求も無理のない要求をしなければならないことを知っています。そうしなければ、相手に恥をかかせることになるかもしれませんし、無理をさせることになるかもしれないということで、失礼だと思うからです。その気持ちが日本人はより強く持っている種だと思うのです。

このように、そこには協力的動機が関わっており、またこれらの協力的動機や規範を双方が知っているということは、人間のコミュニケーション参与者が、ただ実践的な推論をするだけでなく、協力的に推論しなければならないということを意味するとトマセロは言います。しかし、類人猿の場合は、ある類人猿が自分に合図を送っているのを観察すると、その類人猿の目標と知覚について個体レベルの実践的推論を行なって、その類人猿が求めるものを理解しようとします。

しかし、類人猿がメッセージを理解しようとするのは、合図を送る個体が自分にメッセージを理解して欲しいと思っているからではないそうです。なぜなら、2個体の類人猿は、その個体が相手の役に立とうと思っているという想定を共有してないからだと言います。したがって、類人猿の伝達者は、人間が伝達意図を合図するときのように、自分の意図を特に合図したり、宣伝したりする事は無いそうです。

また、どのように応答するかを選ぶときも、類人猿がある方法で応答するのは、相手がそのような応答を求めている、あるいは、期待しているからではないのです。類人猿は、伝達者がどうやら欲しがっているものからすると、その状況で自分たちにとって一番都合のよいことをしようとするだけなのです。対照的に人間の場合は、誰かが自分とコミュニケーションしようとするのを見ると、その人物が自分に何を伝えようとしているのか知りたいと思うのですが、これは、伝達者が自分にそうして欲しいと思っているから、そして、伝達者の協力的動機を信頼しているから、というのが少なくとも理由の一つになっています。

また人間は、ある応答を選ぶ際に、これは相手がそれを自分にするよう求めているから、というのが少なくとも理由の一つになっていると言います。たとえば、要求に応じる、与えられた情報を受け取る、何かに対して夢中になっている気持ちを共有するような場合です。

コミュニケーションにおける規範

 トマセロの主張に沿って「コミュニケーションの起源」を考えていくと、「話す力」「聞く力」は、ともに備わっていないと、当然ですがコミュニケーションはその役割を果たせなくなることが分かります。しかし、その力は、決して机上における学習によってされていくのでは無く、また、たとえば語彙を豊富にするとか、言い回しを学ぶことで向上するのでは無く、助け合いの相互想定と協力という人間が持つ力が基盤になるようです。そして、そのもとにあるのが「信頼」であり「真」なのです。

 さらに、トマセロは、身振りや発話によって行なわれる伝達行為自体、コミュニケーションを取っているお互いは共通基盤の中に置かれるということであり、共同フレームの中に置かれるということであるといいます。それは、「私があなたにあるものに注意を払って欲しいと思っていることをあなたに知って欲しい」というだけでなく、「私はこのことを私たちがどちらも知っていることを望んでいる」というのが最も的確な言い方ではないかと言います。

 このような過程の中で、明示的に公然とコミュニケーションをしたという事実は、実は単に協力の期待だけでなく、現実の社会的規範をも生み出し、この規範に違反することは容認されないと言います。こんな例を挙げています。

 私が「やあ、エセル」と言い、あなたは私を見る。それから私が身振りや発話を行なうと、あなたは、まるで私が何もしなかったかのように、私をただ無視することはできません。時折、このようなことをすると、友情を壊してしまうでしょう。いつもこのようなことをしていると、何らかの精神医学的診断がくだされ、場合によっては社会の本流から除かれることになるでしょう。また、あなた自身も、少なくとも時々は他者とコミュニケーションをしようと試みなければなりません。そうしなければ、緊張病と診断され即座に病院に収容される結果になります。つぎに、理解してからそれに従うレベルでは、私がたとえば夕食の席で、言葉または身振りを使って、「塩を取ってください」のようなちょっとした要求をしたら、あなたは実は「いやだ」と言うことはできません。なぜこの状況でその要求に応じることができないか、言い訳をしなければなりません。そして、私もこのことを知っているから、私の方でも無理のない要求をしなければなりません。

同じように、もし私が、あなたが興味を持つだろう何らかの事実をあなたに伝えたら、あなたは「あなたのいうことは信じない」とは答えられないでしょう。やはり、要するに私のことを嘘つきと呼び、何らかの十分な理由が無い限りは、私としてみれば、あなたが知りたいだろうということがともにわかっているような情報をもし私が知ったら、あなたにそれを言わなければなりません。もし私が言わずに、あなたが後でそれを知ったら、私たちの友情はひどく損なわれるでしょう。また、もしもあなたが自分の人生にとって宗教がどれほど重要かを表明して、私がそれはばかげていると思うと答えたら、私は、世界に対する共通の見方の上に築かれた私たちの友情を台無しにする危険を冒すことになります。

なにげないコミュニケーションにも、その関わりを説明すると、このようなことになるのですね。しかし、これが原則的な合意とすると、また、この過程が進化的基盤とすると、どうも最近のコミュニケーションは、コミュニケーションではないと思われるような行為が多い気がします。

相互想定

 われわれはハイキング中に、森の中の岩に一緒に座ったとします。私は疲れたので後ろにもたれかかりましたが、それによってあなたの見えるところに1本の大きな木が現れました。この場合、何の推論も起こりません。しかし、もし私が後ろにもたれて、あなたに対して何か言いたそうな表情で木を指さしたら、あなたは当然、なぜ私がそれをしているのかはっきりさせようとするでしょう。つまり、あなたは私がわざわざあなたに対して木を指し示していて、しかもそれを止めようとしないことに気がつきます。すると、あなたの中で何らかの関連性の探索が始まります。それは、もちろん、二人の共通基盤の中でです。どうしてこの人は、自分にその木に注意を払って欲しいのだろうか?と。私は、ことがこのように進むのを知っているので、私があなたに対して木を指していることが志向的であること、確実にあなたにわかるようにします。その結果、あなたは私があなたに向けた志向的行為の理由を発見しようとします。私はあなたに何をして欲しいのだろうか、何を思って欲しいのだろうか、何を感じて欲しいのだろうか、と。これがほとんどの人間のコミュニケーションにおいて自然な一部になっていることは、たいていの状況で、それを回避しようとすると、はっきりと意識できるような努力をしなければならなくなるという事実によって証明されると言います。

 このコミュニケーションにおける伝達意図の例は面白いですね。なぜなら、私たちが、子どもが取る伝達行為に対して、その伝えたいことをあれこれ思索することに似ていますね。特に言葉をまだ発せない乳幼児に対しては、相手も伝わらないもどかしさがあり、受け手も何とかわかってあげようとしますが、そこに、共通基盤が無ければ、もうお手上げです。しかも、その行為の中で、赤ちゃん側には伝達意図がない場合があり(もしかしたらあるのかもしれませんが)、翻弄されます。

 人間の行為は、その心持ちについて非常に複雑です。伝達者は、伝達しようとすることを相手に気がつかれないように、受け手の自発的な行為としたいところがあります。すなわち、「自分の関与を隠す」ことをしようとします。そのときに大切なのは、そのやり取りの中で、参与者の双方がそこに含まれた協力的動機をともに知り、ともに信頼するからという点です。つまり、一般的に、もし人間の伝達者が助けを求めるなら、受け手は助けたいと思います。そして、双方がこれを知り、これを信頼しています。同じように、伝達者が情報を提供したら、彼らは、伝達者がその情報を受け手にとって役に立つものか、興味深いものであろうと信じています。

 ここにも人間のすばらしさを感じます。お互いが信じ合っていることによって、自分のことをことさら主張する必要は無いのです。また、この「興味深いもの」をトマセロは、「真」であると言っています。なんだか、東洋思想に通じるものを感じますね。これがあることを感じることで、受け手はそれを受け入れるというのです。そして、最後に、もし伝達者がある見方を共有したいと思うならば、彼らはともに、共有するという向社会的動機を想定して、伝達者は受け手が、特にそれに反対する特別な理由が無い限り、その見方を共有してくれると期待します。ですから、伝達者はコミュニケーションをしようとする意図を明示的に合図します。それゆえ、彼らは伝達行為が確実に成功するようにと一緒に努力するのだと言います。

コミュニケーション動機

人間における基本的なコミュニケーションに、感情表出あるいは共有の動機と呼ばれるものがありますが、これは、助けてもらうための命令的動機に由来するものでも無く、知らせる動機に由来するものでもありません。むしろ純粋に社会的な動機に由来します。この種の伝達行為は、単に他者との共通基盤を広げるための見方や、感情を共有しているに過ぎません。この共有の動機は、日常会話の多くの根底にあるものです。あらゆることについてうわさ話をし、自分の意見や見方を表明し、相手もある程度それに共鳴してくれることを望むのが、それだと言います。

実は、この動機は個体発生上のかなり早い段階から、乳幼児がまだ言葉を話す前の指さしの中に現れます。たとえば、乳幼児が、親に対して色鮮やかなピエロを指さし、うわーと歓声を上げるときなどだと言います。もちろん乳幼児は、単に親に対してピエロの存在を知らせるために指さしをすることもあるかもしれませんが、彼らは、親がすでにピエロに気づいている場合や現に見ている場合でさえ、それを指さして歓声を上げます。それは、自分が夢中になっている気持ちを大人にも共有してもらいたいからです。

このように、進化したコミュニケーションの三つの一般的タイプの動機を、トマセロは仮定しています。それらは、伝達者が受け手にどのような影響をもたらそうとするかによって決定されますが、それをわかりやすく説明しています。まず、「要求する」について、「私は、私を助けるためにあなたにあることをして欲しい。(援助や情報の要求)」「知らせる」は、「私は、それがあなたの助けになる、または、あなたにとって興味深いと思うから、あなたにあることを知って欲しい。(情報を含む援助の提供)「共有する」は、「私は、私たちが一緒に見方や感情を共有できるように、あなたにあることを感じて欲しい。(感情と見方の共有)

この三つの最も基本的な人間のコミュニケーション動機は、ここのコンテクストで見られるほとんど無限に及ぶ個々の社会的意図の根底にあります。そしてこれらは、人間の協力に基づくコミュニケーションの発生を個々発生的および系統的発生的に説明する際に、極めて重要な役割を果たすのです。

伝達者は協力的動機によって動き、受け手はそれに適切に応答する傾向があるという事実は、人間の伝達者の間の共通基盤の一部のようです。そして、この共通基盤があるからこそ、人間はメッセージを伝えるために協力しようという気になるのだと言います。伝達者と受け手の両方が、そうすることが、自分にとってもお互いにとっても利益になると考えているのです。コミュニケーションは、ウィンウィンの関係なのですね。ですから伝えようとしますし、理解しようとするわけです。それは、「君はこれを知りたくなる」それはつまり、「君に頼みがある」「君に知らせたいことがある」「君と共有したい見方がある」と言わんばかりです。さらにこんな志向性の層が加わります。「私があなたにあることを望んでいるということを、私はあなたに知って欲しい」という層ですが、この過程にとって絶対的に重要であり、一般的に伝達意図と呼ばれているものです。

人間のコミュニケーション行為が、とくにコミュニケーションをしようという意図を含むのです。それを明確にするために、トマセロは伝達意図がある場合とない場合とを比較しています。

助けること

人間のコミュニケーションの基本的動作には三つの動機に分類されると考えられています。一つ目の最も明白な人間のコミュニケーション動機は、「要求」です。それは、他者に自分がしてもらいたいことをさせるという一般的な形で、すべての類人猿の志向的なコミュニケーションのシグナルに見られる特徴です。類人猿との違いは、人間は、他者に何をすべきか命令する代わりに、助けることが好きな人に助けを要求するといったように、もっと穏やかに事を進めることが多いというところだそうです。つまり、類人猿の命令文とは違って、人間の命令文は、命令から丁寧な要求・提案・ほのめかしに至るまでいろいろなものを表すことができるのです。これは、最も根本的にどれくらい受け手に協力的態度を見込むことができるか次第です。

人間は、相手によって、こんなものの言い方ができるのです。もしある人が自分の土地に入っていたら、その人に「出て行け」と命令することはできます。しかし、もしその人が素直に出て行ってくれると思えば、単に「出て行って欲しい」と伝えるだけでいいでしょうし、もっと、「ここは私の土地です」と伝えるだけでもいいのです。要するに、相手に何をすべきかが伝わればいいのです。

二つ目のタイプは、協力的命令とか、協力的要求と呼んでもいいものです。それは、単に相手に自分の欲求を伝えて、その相手は、自分がその欲求を満たすことを助けようとしてくれるだろうと期待していることが伝わればいいのです。おそらく、チンパンジーが人間に対して欲しい食べ物を指さしても、これは協力的命令ではありません。なぜなら、チンパンジーは直接に人間に何かをさせようとしているのであり、自分の欲求を人間に伝えているのではないからです。そしてチンパンジーは、たとえ自分の欲求を人間に伝えても、人間が自分の欲求を気にかけてくれるとは期待してはいません。しかし、人間の受け手ならば、たいていは実際に気にかけます。人間は独自の理由で、あまりにやっかいでなければ、他者の要求を満たしてあげるのが好きなのです。そして、このことが分かっているので、人間の伝達者は多くの状況で自分の欲求を知らせるだけで済むのです。

この人間の根本的な伝達動機の二つ目は、人間固有のようですが、人間はしばしば他者から求められなくても他者に助けを提供したがるという事実に由来しています。具体的には、他者に物事を知らせることがそうです。たとえ、自分自身はその情報に個人的な興味が無くても知らせてあげようとします。そして知らせることは、確かに援助を提供することなのです。なぜなら、通常私は、あなたの目標や興味についての知識を前提に、あなたがその情報を役に立ち、面白いと思うだろうと考えて、あなたに知らせているからだとトマセロは言います。ここには、特別な進化的説明が必要とされる利他的動機が含まれると言います。

それでは、三つ目の基本的なコミュニケーションの動機は何でしょうか?人間はしばしば、相手と感情や見方をとにかく共有したいと思うものです。それを、トマセロらは、「感情表出」とか「共有の動機」と呼んでいます。たとえば、晴れた日に、会社に着いたらすぐに同僚に「今日はなんていい天気なんだろう」と言うことがあります。これは、助けてもらうための命令的動機に由来するものでも無く、知らせる動機に由来するものでもありません。むしろ純粋に社会的な動機に由来するのです。

 

協力的動機

 私たちの指さしや身振りの解釈として、最も取り出しやすい位置にあるものとして頭に真っ先に浮かぶのは、お互いの共通基盤の中にあるものです。そして、もうひとつ、私たちが直接的な個人的共通基盤を持っているわけではありませんが、特定の文化や社会的集団の一員として、どちらも相手が何を知っているはずであるかについての想定を持っている場合があります。たとえば、初対面にもかかわらず、私はあなたに向かって飛行機の窓の外の光景を指さすかもしれません。それは、人は典型的に何を目立つと思ったり、美しいと思ったりするかについての、共有された想定に基づいて、あなたは私が指示する対象を特定できるだろうと、私が考えているからです。

 しかし、共通基盤を推測する場合と、一般的な文化的共通基盤を使う場合、どちらの場合においても、受け手は、要するにすべてのつじつまが合うために伝達者と共有していかなければならない何らかの形の共通基盤を想像するか仮定することによって、伝達行為を理解しようとしているということになるようです。このように伝達行為がすぐに理解できるよぅな共通基盤を作ることから、幼い子どもたちは始めなければならないのです。

 人間によるコミュニケーションには、もう一つの側面があるといわれています。それは、人間の持つ特別に協力的な社会的動機なのです。グライスという人は、伝達者と受け手はメッセージを伝えるために、協力的にやり取りをし、そしてそれが彼らの共同目標であるという点を協調しています。そのメッセージを伝えるためとは、受け手に伝達者の社会的意図を理解させるためでもあるのです。つまり、伝達者は受け手にとって理解可能な方法で伝達するように努力し、受け手の方でも、当然考えられる推論を行ない、必要ならば意味がよく分からないところを相手に確認するなどして、理解しようと努力します。このように、理解しようとする努力、意味を確認し合うということは、人間以外の動物種では行なわないようです。

 人間がメッセージを伝達しようと努力する協力的精神の根底にある理由は、そもそも、種に固有のコミュニケーションに対する協力的動機なのです。これらは進化してきた動機だそうで、その出現とそれが人間のコミュニケーションを構造化した過程に対して、系統発生的説明をする必要があるとトマセロは言います。これには、伝達者と受け手が、そのような動機に基づいたやり方からどのような利益を得るのかということも含まれます。伝達者は、単に指示だけでなく、自分の具体的な社会的意図を推論するための情報を受け手に伝えるためにも行ないます。

 たとえば、私はあなたにペンを取ってきて欲しいと要求するために、何かを頼むような、あるいは懇願するような表情で、ペンを指さすかもしれません。あるいは、無くしたペンが見つかってうれしい気持ちを共有してもらうために、驚いた・興奮した顔つきでペンを指さすかもしれません。あるいは、それがあなたの無くしたペンかと尋ねるために、いぶかしげな表情で、ペンを指さすかもしれません。あるいは、単にペンがそこにあることを知らせるために、特別な表情を浮かべずにペンを指さすかもしれません。

  具体的な社会的意図は無数にありますが、人間のコミュニケーションの基本的動作は三つしか無いと言います。この三つの動機が、個体発生的に最も初期に発生するという事実と、より一般的に人間の社会的やり取りに、それらの進化上の根源があるそうだという事実により、このことは裏付けられるというのです。