コミュニケーションの特徴

 トマセロは、人間のコミュニケーションの特徴と、その系統発生的・個体発生的根源を突き止めるという目的に向かって、三つの具体的な仮説を評価しています。

 その1は、人間の協力に基づくコミュニケーションは、まず自然で自発的な指さしと物まねの中で進化上、まずは個体発生的に発生したという仮説です。その2は、人間の協力に基づくコミュニケーションは、決定的に共有志向性の心理的基盤に基づいているという仮説です。そして、この心理基盤は、進化上、協調活動を支援するために始まり、最も重要なものとして次の二つを含むと考えます。まず、他者ととも共同志向や共同注意を作る社会認知的スキル、そして他者を助けたい、他者と共有したいという向社会的動機です。3つ目の仮説は、さまざまな人間言語で具現化されるコミュニケーションは、参加者がすでに次のものを備えている場合にのみ可能であるというものです。何を備えているかというと、自然に意味が理解できる身振りとその共有志向性の基盤構造、そして、共同で理解されるコミュニケーションの慣習や構文を作り、伝えるための文化的学習と模倣のスキルです。

 これらの仮説を、トマセロは「コミュニケーション起源を探る」という本の中で順に評価しています。彼は、人間においては、協力的な動機から志向的になにかを知らせようということからコミュニケーションをとろうとするということは、当然のこととして受け入れますが、生物の世界では、コミュニケーションは志向的である必要も、協力的である必要もないと言います。

しかし、生物学者にとってコミュニケーションとは、他者の行動に影響を及ぼす物理的な特徴や行動的な特徴、それはたとえば、特徴ある色彩から優位性の誇示までを持つものならすべてを含んだものとして考えます。ですから、その発信者がシグナルに対して意図的なコントロールができるかどうかは問題ではないのです。また、生物学者にとって、伝達者の直接的な動機が協力的なものであるかどうかなどまったく問題にはならないのです。

それに引き換え、心理学的な視点からは、これらのことは問題になります。そのために、コミュニケーションの誇示行動と呼べるものと、コミュニケーションのシグナルとでも呼べるものとを区別しなければなりません。コミュニケーションの誇示行動とは、典型例としては他者の行動になんらかの影響を与える物理的な特徴のことです。たとえば、敵を威嚇する大きな角や緯線を引きつける鮮やかな色などです。機能的には、特定の刺激や感情により引き起こされる反射的な行動で、個体が自由にコントロールできないものも、誇示行動として分類することができるかもしれないとトマセロは考えています。しかし、これらの物理的行動的誇示は、柔軟性に欠けているために、進化の過程で作られ、コントロールされてきたものであり、生物界のほとんどのコミュニケーションの特徴であると言います。

それと対照的なものが、特定の社会的目的のために、その時々の特殊な状況に合わせて、ここの生命体が柔軟に、戦略的に選択し、使用するコミュニケーションのシグナルであるというのです。これらのシグナルは、個体が他者に影響を与えるという目的に向けて、柔軟に使い方をコントロールするという意味において、志向的なのです。志向的なシグナルは、生物の世界ではきわめて稀で、もしかしたら霊長類、それも大型類人猿のみに限られているかもしれないとトマセロは言います。

言語慣習

 類人猿が行なった身振りを継承して、ヒトが、協力体制ができあがった後に「指さし」や「物まね」の使用が始まったということは、多くの身振り起源説の研究者たちがこれまで指摘してきたことです。そして、それは、「恣意的な」言語的慣習と違って、「自然」名ことであったと言うことも重要なことだとトマセロは言います。

それはまず、指さしは、外的対象へ向ける相手の視線の方向をたどろうとする人間の自然な傾向に基づいているからです。そして、物まねは、相手の行為を志向的に解釈しようとする人間の自然な傾向に基づいているからです。人間は、どこの地域の人でも、指を指されると、その方向を見ようとしますし、言葉が通じない外国の人とも身振りで何とか言いたいことを伝えることができるのです。ですから、このような誰でも理解できるような身振りは、類人猿のコミュニケーションと、恣意的な言語的慣習をつなぐ中間的段階の有力候補となるのではないかとトマセロは考えます。

では、言語についてはどう考えるのかというと、現時点での仮説は、恣意的な言語慣習が進化的に発生しえたのは、協調活動のコンテクストの中でのみだという考え方です。そこでは、参加者が意図と注意を共有し、自然な形態である身振りコミュニケーションによって連携していきます。それは、最初は身振りで言語の代わりをした手話のようなもので、次いで身振りを補佐するかたちで発声していたと考えられます。そこでは、あらかじめ、その身振りがどのようなことを表しているかという共通理解が合ってでしょう。

そして、指さしや物まねは自然に意味がとれたのですが、慣習を理解するためには皆がその慣習を社会的に学習していなければなくなることを皆は知っていたと言います。その過程は、人間に固有の文化的学習と物まねのスキルによって可能になっていきます。このスキルのおかげで、ヒトは他者や他者の志向的状態から、きわめて強力に学習することが可能のなるのです。また、この進化の過程の中で、ヒトは文化ごとに異なる文法的慣習を作り出し、後の世代に伝えるようになっていきます。これらの文法的慣習が組み合わさって、繰り返し起こるコミュニケーション状況で用いるための複雑なタイプのメッセージを符号化した言語的構文となってきたと考えられているのです。

ですから、ヒトの協力的コミュニケーションの根底にある心理的基盤の起源を説明するためには、様々に異なった方法で機能する基本的な進化プロセスが必要になるのです。しかし、それに加えて、ヒトの6000もの異なる慣習的言語の起源を説明するには、文化・歴史的プロセスも必要になってくるのです。つまり、特定の言語形式が特定の言語共同体の中で慣習化され、次にそれらの連続が文法構造へと文法化され、そしてこれらすべての慣習と構造が文化的学習を通して新しい世代へと伝えられるのです。そこには、進化的プロセスと文化・歴史的プロセスの間の弁証的対立が起きてきます。この対立は、ヴィゴツキーによって最初に述べられ、さまざまな人によって現在も議論されているそうです。

それは、トマセロも課題として持っています。しかし、その複雑さの中にも、非常に明白なものがあると言います。それは、ヒトという種に固有な、ヒトのコミュニケーションの特徴と、その系統発生的・個体発生的根源を突き止めるということだと言います。この目標に向かって、トマセロは具体的な仮説を三つ提示しています。それについて、一緒に考えていこうと思います。それは、乳児について、考えることでもあり、保育について考えることでもあるからです。

利他的な状況へ

 以前のブログで書きましたが、「情けはひとのためならず」ではありませんが、人類が指さしをしたり、身振りをしたりするときに、自分に益がないときにもその行為を行なっているということが分かっていますが、本当に自分には益がないのでしょうか?生後初期期は特に何も感謝されるとか、報酬をもらうことには関係なく、その行為を行なうことが分かっていますが、それでは、なぜ、ヒトだけに遺伝子としてその行為を行なうように兼ね備えていったのでしょうか?

 ヒトが長い進化の中で、もしその行為が、まったく自分にとって意味がなければその遺伝子はなくなってきているはずです。もし人間が協力的コミュニカーションの基盤が、基本的に他のすべての協調活動の基盤と同じなら、人間はそれを協力や文化的生活全般へのより大きな適応の一部として進化させたと言える可能性があります。つまり、理由はよく分からないようですが、人間の進化の過程のある時点で、共同志向・共同注意・協力的動機を持って協調的に互いにやり取りできた個体が、適応上優位に立ったということだと考えられます。

 次いで、これらの協調活動をより効率よく調整する手段として、協力的コミュニケーションが出現しました。当初は、共通の共有志向性の心理基盤を引き継いだのですが、その後それをさらに強化する役割を果たしていったのだろうと考えられます。これらはすべて、ほぼ確実に相利共生的活動の中で始まったのだと考えられているのです。つまり、パートナーを助けた個体が同時に自分自身をも助けたことになるのです。

 しかし、それからより利他的な状況へと一般化され、個体が他者に自由に何かを知らせ、他者と何かを共有するようになっていきます。おそらく、文化集団の中で相互利益を高め、協力的であるという評判を高める手段としてであろうとトマセロは考えています。さらにもっと後になって、人間は協力的コンテクト以外でもより高次な、非協力的な目的のためにこの新しい協力的な方法を使ってコミュニケーションをするようになっていきました。結果として、嘘をついて欺くことが可能になってしまったのです。

 この進化の過程は面白いですね。子どもが成長していく過程を垣間見る気がします。そして、この過程の初期段階は、ほぼ確実に身振り様式で起こったのだろうと言います。このことは、私たちのいちばん近い霊長類の仲間である大型類人猿の音声と身振りコミュニケーションを比較するととりわけわかりやすいと言います。大型類人猿の発声は、ほぼ完全に遺伝的に固定しており、学習に基づくものはほとんどなく、特定の感情と強く結びついており、近くにいる全員に向けて相手を選ばずに発声されるそうです。対照的に、多くの大型類人猿の身振りは、学習され、異なる社会的環境の中で、異なる社会的目的のためにかなり柔軟に使われます。ときには、人間とのやり取りのために新しい身振りが学習されることもあるようです。そして、大型類人猿の伝達者は、相手の現在の注意状態を踏まえて、これらの身振りを特定の個体に向けて行ないます。

 学習・柔軟性・相手への注意は、あきらかに人間方式のコミュニケーションの根本的特徴であり、これらの特徴がそろわないと、人間的なものにむかっての進化は起こりえないと言います。「学習・柔軟性・相手への注意」が人間的に向かうキーワードとは、面白いですね。

協力的な営み

 乳児のいる保育室を歩いていると、赤ちゃんがしきりと何かを指差していることがあります。しかし、その指している方向には何もありません。その行為は、私に何かを教えようとしているのか、なにかを指示しているのか分かりません。指さしは、重要なコミュニケーションの手段であると言っても、指さし自体で伝わる情報はかなり少ないものです。道を聞いて、それに答えるときにその道を指で指す場合などは、指さしによって伝わる情報はかなり大きなものになります。

 私たちが、指で指すときはどんなときなのでしょうか?それは、相手から何かを尋ねられたときに、その場所を教えるときとか、訪ねられなくとも、相手が何かを探しているということが分かる場合、その探しているものを指さしすることはあります。相手から何もアクションがない中で、突然何かを指差しても、その先に何があるのか、そのものはどのような意味があるのかは、指さしからだけでは分からないのです。

 トマセロは、人間の指さしの注目すべき特徴は、進化論的見地から言うと、その向社会的動機にあると言います。それは、相手の手助けになるようにと情報を伝えることだと言います。それは、動物界ではきわめて稀であり、私たちに最も近い霊長類の仲間たちにおいてさえ、見られないというのです。たとえば、チンパンジーの子どもが、クンクンと泣きながら母親を探しているとき、近くにいる他のチンパンジーたちが皆このことを知っているのはほぼ間違いありません。しかし、近くのメスが母親の居場所を知っていても、そのメスは母親を探す子どもにそれを伝えようとはしません。腕を伸ばして一種の指さし身振りをすることが完璧にできるにもかかわらず、そのメスが子どもにそれを教えないのは、そのコミュニケーションの動機の中に、他者を助けるために何かを知らせるということが含まれていないからだというのです。

 チンパンジーのそれと対照的に、人間のコミュニケーションの動機はあまりにも根本的に協力的なため、私たちが相手を助けるために物事を教えるだけではなく、相手に物事を要求する主要な手段として、自分の要望を知らせておいて、相手が手助けを自発的に申し出るのを期待する、という方法をとるというのです。具体的な例としてトマセロはこんな例を挙げています。「私はいっぱいの水が欲しいと述べる(自分の要望を相手に伝える)だけで、水を要求することができます。それは、たいていの場合あなたが人を助けたいという傾向を持っており、この知らせるという行為が事実上完全な要求に変わることを私は知っているからだ。」

 このような例は面白いですね。確かに、「水を持ってきて!」と言わないで、「水が欲しい!」と言えば、持ってきてくれます。要望が要求に変わります。それは、要望を聞くことで、相手は自発的に持ってきてくれるだろうと思うからです。このように人間のコミュニケーションは根本的に協力的な営みであり、相互に想定された共通概念基礎と、相互に想定される協力的コミュニケーション動機のコンテクストで、最も自然にそして円滑に機能します。

 このような、人間のコミュニケーションが本質的に協力的な性格を持つということは、「グライスの協調の公理(原理)」というものを定義したグライスの基本的な知見なのです。

指さしと物まね

 私は、人類におけるコミュニケーションの起源について考えたことがありました。それは、赤ちゃんが他の大人、他の子どもとどのようなコミュニケーションをとっているかということに興味を持っていたからです。

 この課題にトマセロは取組もうと思ったのです。そして、その研究成果についての講演の日本語訳の本が出るに当たって、彼は、こう言っています。「第一に、日本の言語学は、伝統的に英語圏よりもずっと広く人間科学に組み込まれてきたという歴史があるからだ。このことは、日本の言語学が認知言語学や機能主義言語学に関心を持っているところに現れている。」言語は、人が人とコミュニケーションするときに必要です。なぜ、コミュニケーションが必要かというと、それは、人は社会を構成して生きてきたからです。なぜ社会を形成する必要があったかというと、協力することが必要だったからです。ということで、特定の慣習的言語の進化は、人間が生物学的に進化発達させた一般的な協力に基づくコミュニケーションの能力のうえにしてきたのです。

 ヒト特有のコミュニケーションを考える上で、トマセロはこう言います。「動物園でどの動物でもいいから近づいて、何か簡単なことを伝えてみよう」たとえば、ぐるっと回ってみようと誘おうとしても、それを身振りとか、手振りとかでいくら示しても決してやってくれません。また、それをもしやってくれたらおいしい食べ物をあげるからと、食べ物が隠された場所を指差してみても、動物たちは決して理解しないと言います。また、その動物に、恐ろしい肉食動物が茂みの裏で待ち伏せていることを、その場所を指差して、その肉食動物の行為を物まねすることで伝えてみても、動物たちは理解しないだろうと言います。それは、動物は動物なりに興味がなかったり、動機付けがなかったり、知能が高くないからというようなことではないと言います。ただ単に、たとえ言葉を使わない方法でも動物たちには何を言うこともできないし、理解することを期待することさえできないと言います。

 それに対して、以前のブログで書きましたが、人間なら指さしや物まねといった身振りを、まったく自然でわかりやすいと考えます。どの国のひとでも、どのように文化が違っていても、ヒトは指をさすと、その先を見ようとします。海外に行って、その国の言葉を理解できないときでも、その国の人と慣習は違っていても、多くの旅行者は自然に意味を持つ形式である身振りコミュニケーションに頼って、何とか旅を続けることができるのです。同じように、どんなに小さい子でも、言葉をまだ話さない乳児でさえ、指さしや身振りと使うと理解します。また、騒々しい工場の中とか、声が聞こえないようなガードの下など言葉では伝えられない状況では、人間は、自然に指さしや物まねでコミュニケーションを行ないます。

 トマセロは、人間がどのように言語を使って互いにコミュニケーションを行なっているのか、そしてこの能力が進化の過程でどのように発生してきたのかを理解するために、まず人間がどのように自然の身振りでもって互いにコミュニケーションしているのかを理解する必要があると考えています。そして、人間特有のコミュニケーションの最初の形は指さしと物まねだったという仮説を持っています。そして、その指さしや物まねは、慣習的言語を作るのに必要な、人間特有の社会的認知と同期の大部分をすでに具現化していると考えているのです。

コミュニケーションの定義

イギリス出身の哲学者・言語学者であるポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913 – 1988年)という人がいます。稀は、オックスフォード大学を経て1967年からカリフォルニア大学バークレー校教授を務めますが、彼の研究が言語哲学の分野で多大な影響を与えました。言語哲学というのは、なにやら難しそうですが、彼は、人間のコミュニケーションの基本的に協力的な構造と、他の霊長類には見られない、人間の社会的やりとりや文化全般のきわめて協力的な構造との間には、かなり明確な関係があるに違いないということを説明しました。

それは、言外の含み(implicature)と文字通りの意味(what is said)との関係を明らかにした「含みの理論」や、「意味する」ということを話す人の意図という概念によって分析した「意図ベースの意味論(intention-based semantics)」で知られています。そして、彼は、コミュニケーションにおける「グライスの協調の公理(原理)」というものを定義しました。この定義は、哲学者カントにならって、量・質・関連性・作法の4つの公理に分け
自分の話すことが発話の時点でその会話の目的、方向によって求められているようなものであること、としたのです。これは、難しいように見えますが、実は、コミュニケーションにおけるルールを表したもので、私たちが普段あまり意識しないで人とコミュニケーションをとるときに行なっていることです。

まず、「量の公理」とは、会話のやりとりで目的となっていることに必要な情報を提供することです。そのときに、以前のブログで科学について書いた子どもに対しての注意事項と同じことですが、必要以上の多くの情報を出さないことが大切だとしました。次に、「質の公理」ですが、それは、偽りのことを言わないこと、証拠が十分ではないことを言わないこと、とあります。これは、論語の学而編にある三省のひとつと似ていますね。「傳不習乎」ということばで、「自分が十分に理解できていないことを、人に伝えたり、教えたりしてないか。」ということです。そして、「関連性の公理」です。これは、話し手は話題に関連することのみを言い、関連のないことは言わないこと、とあります。そして、最後が「作法の公理」で、不明瞭な表現は避けること、あいまいさを避けること、短く言うこと、順序よく並べること、とあります。

このグライスによって見いだされたコミュニケーションにおける構造に刺激を受けて、マイケル・トマセロは、人間のコミュニケーションと言語に関わる、より一般的な認知的・社会認知的プロセスについて研究を行なってきたのです。それは、すなわち、「社会的・文化的認知」「社会的・文化的学習」「協力と共有志向性」についてなのです。

もうひとつ、彼に影響を与えたものとして、共同研究をしたマックス・プランク進化人類学研究所の人たちだったようです。これを見ても、彼の乳児におけるさまざまな発達、とくに霊長類と違ったヒト特異性についての研究、主張は、心理学からというよりも、進化人類学から示そうという点で、今の私には非常に興味のあるところです。2045年問題と言われる人工知能が人類の知能をうわまるであろう時期に向けて、ヒト特異性を見いだしていくことは、意味のあることですし、特にそれらの乳児から見ていこうとするのは、私たちの保育、育児にとってとても参考になることだと思っているのです。

 

協力からコミュニケーション

 ヒトだけに備わった認知能力をマイケル氏は、生まれつきで種特異的な志向性の共有能力であるとの見解を示しました。それに対して、スペルキ氏は、自然言語という形の、生まれつきで種特異的な組み合わせ能力であるとしました。そのどちらが現時点では正しいのかは分からないようですが、マイケル氏の研究はそれぞれの見解を進め、理解を進めるためのモデルを示していると評価されています。

 しかし、さらに歩みを進めるためには、研究者たちは、マイケル氏が示した独創的なアイディアを、123歳児の観察から洞察を導き出す際に活用するとともに、ヒトかヒト以外かにかかわらず、さらに乳児の社会性を探ってゆく必要があるとスペルキ氏は主張します。物体表象の場合と同様に、神経生理学から統制条件下での養育研究までありとあらゆる方法論を結集して、社会的知識に向けて最も初期に現れる能力を探求することも可能ではないかと言います。

 ここで、私たちが日々乳児からの発達を観察できる現場からの提案が必要になるのではないかと思っています。それは、乳児の姿を日々観察できること、そして、社会性を探るためには、子ども集団が必要となるからです。家庭や、観察のように閉じられた空間では、社会性や、社会的知識の獲得などの観察はできないからです。私たちは、マイケル氏らが示した独創的なアイディアを活用しつつ乳児における社会性を探っていく必要があるのです。

 発達の最初期にあらわれるヒトの社会的知識を解明して武器にすれば、マイケル氏の研究があきらかにした、生後2年目において、驚くべきコミュニケーションや協力がいろいろなかたちであらわれる呼び水となる発達現象を探ることもできるのではないかとスペルキ氏は言います。乳児の社会的・言語的経験を増強し、この増強が認知にもたらす効果を調査する実験を行なえば、この目標に向かってとりわけ大きな示唆が得られるのではないかと言います。まさに、私たちがやるべきことを提案している気がするのです。

 そして、こういった研究の結果が、どのようなものになろうとも、マイケル氏らが行なった研究は、乳児の心と行動の研究の「次の10年」が、これまでと同様実り多いものになるであろうことを確信させてくれるものだとスペルキ氏は言います。ヒトの本性やヒトの知識に関するさまざまな根源的問い、数千年の間未解決だった問いの答えがもたらされつつあると言います。この答えに向けた特段の実りが、今こそ、私たちの種の最も幼いメンバーたちとの比較研究を通して、もたらされる時だとスペルキ氏は考えています。

 マイケル・トマセロ氏は、講演で「ヒトはなぜ協力するか」という内容で彼らが行なった研究から考察できたことを示しました。そこでは、「「現在の子どもたちが行なっている様々な協働行為こそが、様々な協力という社会的規範によっての自然のゆりかごである」ということを提案しています。

 その彼が、今度は2006年にパリで「ジャン・ニコ賞受賞講演」を行ないました。そこでは、彼は「コミュニケーション」に焦点を当てて話しました。彼の行なってきた多くの実験的および理論的研究は、「大型類人猿の身振りコミュニケーション」「人間の乳幼児の身振りコミュニケーション」「人間の子どもの初期の言語発達」に関するものでした。それらの研究から、どのようなものが見えてきたのでしょうか?

組み合わせの能力

 どのような動物でも見られること、霊長類だけに見られること、類人猿だけに見られること、そしてヒトだけに見られること、そんな行為があります。たとえば、社会的能力は、ヒト以外の霊長類も持っていると言われています。他者への関心や、彼らを理解し、彼らと関わり合う能力は、私たちヒトだけに備わったものではないものだということも、研究から分かっています。しかし、いままでのブログで紹介したように、ヒト以外の霊長類は、それぞれの理解はそれぞれが別個で、互いにほぼ無関係です。

 たとえば、他者を社会的パートナーと見なすコア・システムと、他者を「目標志向性を持つエージェント」とみなすコア・システムとには、ヒト以外は大きな断絶があるようなのです。ヒト以外の動物と乳児は、自分と同じ種の個体を、物体に働きかけるエージェントとしても、さまざまな心的状態を共有するパートナーとしてもとらえています。しかし、これらの観念同士を、柔軟・生産的に組み合わせている兆候がないと言います。ヒト以外の動物や乳児が、目標志向的な行為が、さまざまなかたちでの協力や注意の共有を通して、自分自身の行為と協調されているような情報の伝達者として、協力者として他者を扱わないことも、行為者の表象と社会的はパートナーの表象とが組み合わせられていないことによって説明できるのではないかとスペルキ氏は考えています。

 このようなことを、マイケル氏の研究は見事に示しました。彼は、自己と社会的パートナーと、目標志向的行為の対象となるものとを結ぶ三項関係である志向性の共有が起こるのは生後2年目が始まる頃であると言っているのです。そのとき以来、子どもたちは情報を伝えるために指さしをし、視線方向から他者のさまざまな意図を見定め、その一つの過去の行為や知覚内容をもとに他者の知識内容を推定し、他者が目標を遂げる手助けをするようになると言いました。このような志向性の共有はおそらくこの年頃に統合されるシステムだと思われるのです。

 しかし、まだ、これがヒト特有なことなのかは、はっきり分かっていないようです。また、道具や自然数、象徴的地図のようなコミュニケーションシステムは、根源的で、知識に関する既存のコア・システム同士が統合することで作動する、組み合わせの能力によって築かれるものなのかもはっきり分かっていません。しかし、この見解に有利な知見がいくつか得られているそうです。この見解に立つなら、志向性の共有は、単一の、統合された完成品がはじめから現れるのではなく、言語の獲得がすすみ、表象同士が組み合わされるにしたがって、段階的に姿を現すと考えることができると言います。

 実際に、これを証明する知見があります。指さしなどのコミュニケーション行動や、相互凝視のような社会的注意の状態を理解する過程にある生後10ヶ月時点では、これらの発達は密接に関連し合ってはいないのです。ある物体はマスターしたけれど、他の領域はまだまだ、ということもあり得るのです。さらに、10ヶ月児は、誰かが何かに向けている視線をしっかり追うことも、その人が手を伸ばしている何かに目を向けることもできますが、これらの二つの能力を組み合わせて、「その人は見ている物に手を伸ばすだろ」という予測を立てることはできません。これらが示すように、乳児は、まわりのひとたちを行為者として理解することと、周囲の世界に関する経験を共有する知覚者として理解することをうまく統合できないからだと言います。そのため、「子どもの言語発達が、それなしにはバラバラの認知能力向上を転結する役割を担っている」という考え方から予測されるとおり、志向性の共有は、分断された状態で現れるのだというのです。

自然数・幾何学

 スペルキ氏は、道具使用の発達だけでなく、他の、ヒトに特異的なさまざまな能力も、よく似た発達のパターンを示すと考えています。たとえば、ヒトの乳児もヒト以外の動物も、数を表象するコア・システムを備えているものの、特有の限界を抱えていると言います。具体的には、おおざっぱで、再帰性を持たない点で、自然数の十全な表象にはほど遠いと言います。自然数概念が出現するのは、4、5歳頃、子どもたちが、数に関する語、自然言語による数量化、そして言葉に出して数を数えるようになります。それを、言語的なカウンティングと言い、数に関するさまざまなコア表象と少数の物体に関するコア表象とを組み合わせる前提となる学習と定義しています。

 さらに、例を挙げれば、ヒトの乳児にもヒト以外の動物にも、2次元図形のさまざまな形状を表象するコア・システムや、周囲の表面レイアウトの広域的な形状を表象するコア・システムが備わっていますが、これらの間の関係性を考えられず、別個で互いにほぼ無関係です。ヒトの子どもたちは、生後3年目に入って、言語の使用を通してこれらのシステムを関連づけ始め、その結果、幾何学的な地図を用いて道を辿ることができるようになるのだと考えられています。

 ヒトの認知に特異的な三つの属性である、「道具使用」「自然数」「幾何学」は、自然言語に関わる、ヒト特異的な「組み合わせ能力」から生じるものだと考えられているのです。そして、その組み合わせるためのキーワードが、言語の使用であるということになるのでしょう。私は、言語は、ヒトとのコミュニケーションツールであるとしか思っていませんでしたが、どうも、ヒト特異的な認知に関係しているようですね。

 では、自然言語を可能にするヒトの能力、そしてそれが支える「組み合わせる」力は、マイケル氏の言う志向性を共有する能力とどのような関係にあるのかをスペルキ氏は考えています。マイケル氏の見解では、言語獲得は、遺伝的に規定された言語能力の産物ではないと考えています。他の人々とのインタラクション過程の中で、子どもたち自身と社会的なパートナーたちが、さまざまなものに対して、そしてお互いに対して一緒に注目を向けることで、子どもたちによって築き上げられるものだと考えているのです。この見解に立てば、自然言語は、私たちヒトだけに見られる能力によって可能になっているかもしれないのです。

 幼いヒト乳児は、多くの点で社会的であることは、現在では確かなことのようです。生まれた時点から人物と人物を見分け、他者の視線方向に注意を向けます。新生児はまた、自分自身の行為と他の人々の行為とのなにがしかの対応に敏感であり、この感受性を利用して、初期段階の模倣を行ないます。観察した動きに関わる動きを生成するのです。

 しかし、重要なことは、これらの社会的能力の中に、ヒトだけに備わったものは一つもないことだとスペルキ氏は言います。ヒト以外の霊長類も、先行する視覚経験を欠いてでさえも顔への感受性を示したり、物体に向けられた視線を追うことも分かっています。自身の行為と他者の行為との対応によって、ヒトの新生児と驚くほど同様に、さまざまな模倣を行なうことも分かっています。私たちの社会性と言われる、他者への関心や、彼らを理解し、彼らと関わり合う能力は、私たちヒトだけに備わったものではないものだということも、研究から分かっています。では、どこがヒトだけが持っている能力なのでしょうか。

道具の使用

 

 私は、エリザベス・S・スペルキ氏の言う「乳児における認知システムである「コア知識」システムが、少し理解が難しいと思っています。それは、なんだか難しい、研究者しての言い回しで、乳児の行動を説明しているからです。しかし、重要なことは、これらの認知システムをヒトは、生まれながら持っていて、決して、赤ちゃんは白紙で生まれるのではないということを主張しているのです。

 

 それらのコア知識の認知の仕方に、文化的な特異的な知識を持たないような物体を目で追う際には、私たち大人も、乳児と同じような能力を示し、同じように特有の特異的な限界を示すと考えられています。遠く離れた文化に属し、モノの名前を覚え、数をマスターし、物体間の機械論理的な相互作用を推論できるようになってくる際にも、物体に関するコアな諸観念は、これら一つ一つの発達に刻印を残しているとスペルキ氏は言います。

 

 しかし、このようなコアな物体表象はヒト特異的なものではないようです。半野生のアカゲザルにも、ヒト乳児と同様な物体表象が、同様な限界を抱えつつ形成されていると言います。鳥類や、人とさらに離れた動物との間にさえ、これらの表象に関して共通の属性があることが、研究から明らかになっているそうです。ですから、それらは道具使用の傾向や形式科学の能力を説明してくれはしないのです。しかし、これらの研究は、ヒトの認知を検討する貴重なツールになることは間違いないでしょう。

 

 特定の物体がどんな機能を備えているのかを学習することは、ヒトの乳児にもサルの大人にも可能ですが、ゆっくりとした、段階的な学習に限られると言います。乳児もサルの大人も、迅速で柔軟性に富んだ道具学習者というわけにはいかないのです。生後2年目には、ヒトの子どもだけが、さまざまな物体や行為に関する情報を生産的に組み合わせ始めるのです。彼らは、初めて見る物一つ一つを、ほぼ例外なく、「特定の形状をした自発性を持たないかたまり」であると同時に、「ゴール志向的な行為の一端を担う、特異されたなんらかの機能を備えた、潜在的に有能は道具」でもあると見なすようになると言います。

 

 ヒトは、道具を使う生き物であると簡単に言われてきましたが、実は、道具に関する学習を赤ちゃんは行なっているようです。そして、子どもの道具概念が豊かに発達するきっかけが研究されています。さまざまな研究から明らかなのは、この発達がある意味で、さまざまな物体の名前としての語の学習に依存しているということだそうです。この新たな言語形式が、コア表象同士を統合する機能を担うというのです。たとえば、はじめて目にするモノの名を学習する際には、子どもたちは、それまでてんでばらばらに表象されていたモノの形態と、モノの機能とについて情報を統合することになるのです。

 

そして、同じ名前のモノの集合体の共通するモノはなになのかに注意を向けます。たとえば、二個のコップの間に、二本のハンマーの間に共通するモノは何かを考えるのです。それは、おとなでも、道具のそれに関連した機能、たとえば、コップは液体を入れるモノということを想像すると、脳の二次言語領域が活発になります。そして、言語が、モノと行為の表象を、迅速、柔軟、生産的に組み合わせ、私たちのもつ、さまざまな道具について学習し、それらを使用する豊かな能力を生み出す機能を担うとスペルキ氏は考えています。

 

人類が、道具を使うようになるためには、このような言葉を介してその機能を認知していくようです。そして、その言語は、多分子どもにとっては母国語によって行なわれるでしょう。その段階で、保護者が話さない外国語を、子どもだけが学ぶことはどのような影響を及ぼすのでしょうか?しかも、スペルキ氏は、それは、道具使用の発達においてだけではないと言います。