わたしたち

 「わたしたち」志向性とは、どういうことでしょうか?原文では、これを“we ”intentionalityと書いています。志向性(Intentionality)とは、人間の意識が外部の世界の何かに対して注意を向ける能力のことで、対象が何であるかという意識を持つことです。その対象の認識は、実在そのままではなく、志向性によって構成されると言われ、ブレンターノやフッサールの現象学では、志向性とは意識のあらゆる活動に伴うものであり、すなわち心的現象の本質的な特性であって、心的現象は志向性によって物質的現象から区別できるとされました。

 マイケル氏は、志向性の対象に「わたしたち」というある種のアイデンティティや合理性にこの新たな次元を加えなければ、子どもたちがなぜ、第三者的な立場にいる他者に社会的規範を押しつける役を買って出るのかを説明することは不可能であると強く主張しています。とくに、協力に基づくものでなく、構成的で、恣意的なルールのような規範を押しつける場合はなおさらです。また、ゲームのやり方をいったん理解してしまえば、そのゲームは一人で行なわれるために、互恵性が入り込む余地もありません。このような、ルールに基づいて一人で行なうゲームでは、規範に基づく制裁の基盤となるのは、「わたしたち」はそんな風にしない、ということだけなのだと言います。

 ここにも、ヒトが社会を形成して生存を可能にしてきた遺伝子を見ることができますね。志向性に「わたしたち」を対象にすることは、意味がありますね。

 ということで、マイケル氏は、権威や返報に敏感だからというだけで子どもたちが社会規範を守っているのではないと主張しているのです。さらに、子どもは、幼い頃から「利他主義の可能性」において、哲学者であるトーマス・ネーゲルが行なった提案に沿うものとして主張しています。少し前に私がブログで、子どもは多くの場面で自己中心的にものを考えるようですが、時として、客観的にものごとを見つめることがあるような気がするというようなことを書きました。それは、自分自身に関係ない事でも、援助したり、知らせたりしようとすることがあるからです。しかし、この問題はとても難しく、長い間哲学の課題として「「なぜ私は私なのか」(英:Why am I me ?)ということに取組んできました。その中で、とりわけ熱心だったのが、トーマス・ネーゲルだったのです。彼が提案した、人格を持たない「どこでもない場所からの視点」を導く、「あの人はわたし」とでも呼ぶべき他者との同一化的態度や、多くの中のひとりとしての自分という概念に沿ったある種の社会的論理を、子どもは幼い頃から利他性において備えていると、マイケル氏は考えているのです。

 この説明は、少し難しいかもしれませんが、子どもが志向性の共有に基づく協力行為において、特にはっきりすると言います。協力行為を共有する際には、私たちは、相互依存関係を生み出すような共通のゴールを持つ、まさに「わたしたち」なるものを生み出すというのです。1歳児の子でも、おもちゃの入った箱を片付けるときに、一人で持てない場合、二人で運びます。そのような行動から、子どもたちは「わたしたち」という意識を持ち始めているかどうかは定かではありませんが、その頃から、本を読むときでも、坂を滑り降りるときでも、「わたしたち」という意識を持って、皆そろって行なうことに楽しさを感じ始めているような気がしています。