寛容

 ヒトにおける協働活動は、ヒトだけに備わった多くの資質の鍵を握っているようです。他の生き物のように、常に競合し合っている場合は、協力することが進化的な意味で前進することはないのです。それに比べて、私たちの祖先は、洗練された協働的スキルの獲得を選択してくるためには、なんらかの形で寛容と信頼が生まれる必要があったと言います。特に、生きるためには、食べ物を巡って争いが起きたでしょうが、もしそれだけであったならば、人類は滅びてしまっているはずです。そこには、いうような、寛容と信頼があったのでしょう。

 進化の過程で、どうして社会性が身についてきたかというと、通常、「自分たちを食べようとするものに対抗するために、みんなで協力して戦ったために社会的になった」と言われます。それは、たいていの場合は、集団となることで防衛が最も首尾よく成し遂げられるからです。もし、防衛が必要とされない場合には、どの個体も自力で採取した方が有効的です。食物を巡って常に競合している必要がないからです。それは、食物が分散している場合には、一般的にまったく問題はありません。しかし、食物が凝集して見つかる場合には、順位制が生まれ始めます。霊長類の群れが果実のたわわに実った木を発見したら、まずたいていは奪い合いと競合が起こり、食べる際には、個体は互いに少なくとも23メートルの距離を取って採食を行なうそうです。決定的に凝集的な食物資源となるのが、獲物となった動物です。当然ながら、狩猟が単独で行なわれたならば、獲物にまつわる問題の引き金になることはありません。

 群れをなして皆で協力して獲物を捕らえる動物がいます。たとえば、ライオンやオオカミなども社会を作ります。しかし、集団で雄物を捕った後の問題は、「獲物をどのように分け合うか」です。これを解決するには、ある個体たちが多めに食べたとしても他の個体たちにも十分行き渡るくらい、獲物が十分に大きければ特に問題はありません。ある個体が獲物を仕留めたとしても、他の個体がそこにやってくれば、いくぶんかを食べるのを許容しなくてはなりません。というのも、競合者を払いのけようとすることは、他の個体の獲物を失わせることになるからです。この行為を、「食物分配におけるかすめ取り許容モデル」と呼ばれているようです。

 チンパンジーは、主に果実をはじめとする植物を食べて生きています。果実はゆるく凝集的な、価値の高い資源であり、競合を促進しやすいものです。しかし、たまに集団で得雄物を捕るときもあるそうです。この集団狩猟は一見、ゴールの共有と分業的労働を伴う、真に協働的なもののように見えます。それは、獲物を捕ると、狩猟をしたものたちは、狩猟に参加しなかった傍観者たちよりも多くの肉を得るそうです。このことは、「フェアな獲物の分配を伴うゴールの共有」ということを示していると思われていました。しかし、最近の研究では、そうではないことを示しているそうです。

 では、チンパンジーは、本来はどのような行動をとるのでしょうか。では、どうしてそのような行動をしているように見えているのでしょうか?そこからヒトの特徴的な行動が見えてくるようです。

寛容” への17件のコメント

  1. 先日動物園を訪れた際にヒヒの餌やりを見る機会があったのですが、なかなかスリリングでした。職員の方の説明で餌を食べる順位がありますということだったのですが、確かになんだか威張った個体がまずは餌を食べていました。と、思えば、そ〜っと餌を取ろうとするヒヒがいたり、あるヒヒを執拗に追い回しているヒヒもいました。追い回されているヒヒは餌を持っていたのですが、追い回しているヒヒはそのヒヒには強い姿勢でいけるからなのですかね。様々なヒヒの姿があって、ずっと見ていれる光景でした。「競合者を払いのけようとすることは、他の個体の獲物を失わせることになるからです」とあり、どういうことだろうと想像しています。確かにライオンなどの集団で狩りをする動物が捕らえた獲物を集団で食べている映像を見たことがありますが、他の個体が食べるのを許容するというのは意外でした。それは一緒に狩りをした個体同士だからなのでしょうか。他の個体の獲物を失わせるというとなんだかちょっと思いやりのような部分も感じますが、どうなのですかね。一緒に狩りをするというのがそんなことをさせたりするのですかね。チンパンジーの話もでてきましたが、動くものではない植物を餌にしているのとではなんだか違いはうまれてきそうです。人が食べ物を配るときに何を思うのかなと想像すると、相手が食べたそうにしているということを感じるからこそ配ろうという行為になるのでないかなと思います。そう思うと自分だけ…とはいきませんよね。

  2. 寛容というと、どうやって対象を肯定するかというよりも、どう許し、どう受け入れるかに焦点がいく気がします。相手に獲物を分け与えるには、相手をどう受け入れるのか、どのような理由で自分を説得していくかが重要であると感じました。獲物を相手に分けることで、自分も分けてもられるように恩を売っておこうとするのか、それとも、相手に獲物を分け与える自分を感じ、自らの存在肯定を行うのか、それとも、単なる思いやりからくる利他的行為であるのか、といったところが頭を巡っています。また、「寛容と信頼」の関係性についても考えてみました。信頼するということは、対象を高く評価しているということであり、認めているということであると思います。許しが行える寛容と、高い評価である信頼とを一緒に考えた時、信頼からの寛容よりも、寛容からの信頼の方が成立しやすいのではと感じます。つまり、チンパンジーもヒトも、理由もなしに他者を受け入れようとする心理的な動きが、どこかに存在しているのではないかなと感じました。そこから、信頼が生まれ、社会が作られ始めたのではないかなと想像してみました。

  3. 種を存続させるためには食べることが絶対に必要で、種によってその形態はそれぞれ違っていて、そこでヒトは分け与える関係をつくり協働を目指してきたと思うのですが、なぜ他の生き物が協働に向けて進化してこなかったのかが不思議に感じる点です。どう考えても協働の方が有利だと思うのですが、それを維持していくためには何らかの犠牲というか、大変さを伴うものなんでしょうか。確かに協働の社会を作っていくために、例えば乳幼児期にきちんと他者と関わる体験を保障する必要があったりと、そこにかかる労力を考えると何を優先すべきかは種によって変わってくるのかもしれませんね。ヒトが持っている特徴を示すために他の生き物との比較についてもたくさん書いてもらっているのですが、ヒトの特徴を学ぶことに専念しなければと思いながらも、他の生き物の特徴も気になって仕方ありません。

  4.  チンパンジーやライオン、オオカミなどの食べ物の分配についてこうして比較があると、やはりヒトはとても高度な〝寛容と信頼〟の精神を持っていることがわかるような気がしてきます。もしかしたら、ヒトは、根本的には、争いを望まない生き物なのではないでしょうか。自分が生きる為だけに食べ物を確保したり、例えば、オイルショックのような報道が流れて、あちこちで我先にトイレットペーパーを買う人が出たとしても、その人達も根本的にはどこか罪悪感があり、何かいけないことをしているような気持ちが実はあるのではないか、と思いました。遺伝子の中に〝寛容さ〟と〝人を信頼する気持ち〟とが組み込まれていると思うと、「自分が自分が」と我を優先して生きる生き方は、ヒトの生き方というよりももしかしたら、ヒト以外の生き物に近い生き方となってしまうのかもしれません。

  5. 生存していく上で、「防衛」が必要とされるために、みんなで協力して戦うことで、社会的になったのですね。生存していくために、最も手っ取り早いのは、存在自体を脅かされないことだと認識していましたが、それでは協調性に欠け、「防衛が必要とされない場合には、どの個体も自力で採取した方が有効的」とあるように協働社会は形成されてこなかったのかもしれませんね。しかし、天災などの不測の事態から身を守る術は、例えば恐竜のように、協働社会を形成できていないと被害が甚大になってしまうと感じました。人は、存在を脅かす存在あったからこそ今のような社会を形成してこれたと考えていると、人間の存在を脅かす存在がいたことに感謝の念を抱いてしまいます。
    チンパンジーの狩猟を行った者が傍観者よりも多くの肉を得られるのは、「フェアな獲物の分配を伴うゴールの共有」ではないとありましたが、考えても謎が深まるばかりです。

  6. ヒトが生きていくために食べ物を分けあったことは、相手へおける信頼であったり、相手のことを寛大に受け入れる心がある、寛容さがあったからと思うと、協働活動で、生きてきたヒトとヒトとが、集団を生み、その中で、共存していた、また、ヒトが進化していくなかには、他者と協力しあいながら、穀物を作り、様々な食べ物を育てるようになったという協働行動が多く見られたと思います。相手が作ったものをもらったり、お礼にと自分が作ったものを渡したり、ヒトにしかない関係性だとも思います。
    その関係性は他者への信頼を生み、分け与えるといった行動が、社会性をより、進化させていったんだと思います。ライオンたちのように群れをなし獲物をとるといった行動をテレビなど見ることがあります。その中には、食べている時に、他の動物が来てその獲物を横取りにされるといった光景もありました。このような環境下にあると生きるためには、自己を優先的に考えなければいけない状況に陥るのかも知れませんね。それを繰返していくうちに同じ種の動物は、減少していき、絶滅している動物も増えている、
    私たち、ヒトが生きるために協働行動をすることに、寛容と信頼があることにヒトの特徴を感じます。

  7. 生きていくために食を獲得する必要があります。しかし、人一人ができることは、小さいことしかできません。人はそれを学び進化とともDNAに刻んできたのでしょうか。それとも本来から持ち得ていたのでしょうか。どちらにしても人は分け与える能力があるのですから、それを引き出せる環境を用意したいです。また分け与えるには、寛容と信頼が必要とありました。相手が信頼できるから分け与えられ、相手が協働行為に参加していなくても、その寛容さで分け与えようとする。今の日本には、寛容と信頼関係がなくなっているように思えます。子育てでは、周りからはうるさいと等と言われ、ちょっとしたことで社会的に批判されてしまいます。寛容さがなく、信頼もできない。日本が違う方向に進んでいるように思えます。

  8. 今回の内容を読むと人間の高度な社会性を改めて感じます。動物園に行くと猿山をみるのが好きなのですが、よくエサの取り合いをしています。素早くとっていくサルやそーとやってきて採るサルなど見ていて面白いのですが、そこが人間と大きく違うのだと改めて感じました。協力しながら寛容を行い集団を形成しながら進化した人間は素晴らしさを感じます。このような内容を読み進める中で、協力よりも競争を主として生活する幼児期を考えると、やはり、違和感を感じます。

  9. 私たちは現在、食べ物に事欠かない時代を生きています。食べ物を巡って争うことを経験することはありません。こうした時代に生きられることに心から感謝します。そして、私たちはこうした幸せな時代に生きていることから実は今回のブログのタイトル「寛容」そして信頼ということを学ばなければならないのだと思いました。私たち人類も動物の一種です。しかも同種で殺し合いができる生き物です。私たちの歴史はそのことを私たちに教えてくれます。やられたらやりかえせ。現在も世界のあちこちでは、憎悪と復讐心で人々が殺し合いをしています。そして、この殺し合いは伝染病のように伝播します。私たち日本人は全体として感染していません。この感染していない今だからこそ、戦争・殺戮という病原に対抗できるワクチン「寛容」と「信頼」を自分自身に薫習する必要があると思うのです。相手の存在を許す心、あるいは相手を丸ごと信じる心、これらを大人である私たちは子どもたちに示す必要があるでしょう。ある規範・決まりを優先させることによって寛容や信頼を喪失した大人はこれから未来を背負って立つ子どもたちの手本にはなれないのです。変な使命感で仕事をするのではなく、これからの人類の生存を優先順位の第一位に置いて寛容と信頼を全てに先んずる社会を形成しなければならないと今回のブログを読んで思った次第です。

  10. 人が食べ物を得るために集団をつくり、協働活動をして、食物を得ていた頃でも、他者を信用する、寛容な心を持つというのは必要なことであったんですね。
    それがなければ人類は滅んでいたかもしれないと考えてみると、現代はどうなんだろう?という疑問が頭をよぎりました。
    『寛容』という言葉を聞くと広い心で受け入れるような、器の大きいようなことだと思うのですが…。後で調べてみます。
    いずれにしても、現代の人間にも足りないものであるのと同時に、自分たち日本人は昔、このような心を持っていた、得意であったのだろうと推測できます。

  11. 先日おやつの時にあるおやつが7つほどしかなく10人以上がおかわりしたいと言ってきました。どうも早い者勝ちという考えが嫌だったのである女の子に「これをみんなで分けてきてくれる?」と言い、全て渡しました。そのおやつは一つ一つ袋に入っています。私自身もどうしようかと悩んでいたので子どもに託してみると、即座に「はい、これは何々ちゃんと何々ちゃんで分けてね、これは何々ちゃんと何々ちゃんでね。」と言ってペアをその子が選び、そのペアに渡していました。なるほどと思うと同時に瞬時にその判断を行うことからヒトは元々寛容的な部分を兼ね揃えているように思えました。ペアにすることでまたそのペア同士で取り分の違いをそれぞれで考える機会ともなることから、この後は自分たちで考えなさいよというようなメッセージも含まれているのではないかとも思える出来事でした。そして、最後にその子のおやつは渡しているうちになくなってしまっていました。(その子には先生の分をあげています。笑)それを見ていて寛容というのは育つものなのかということも少し考えるようにもなりました。

  12. 食は生きる上での根幹をなすものであるので、それに関する行動は人を含めた生き物の本来の行動が表れるような気がします。そして分け与えるということがどういうことなのかについて考えさせられます。一見、食においては人以上に自己中心的に見える動物の社会ですが、そこに寛容性がなければ今日のように種として存続していないでしょうね。「食物分配におけるかすめ取り許容モデル」のように先のことを見据えた上で競合相手でさえ寛容に対処する行動も生存戦略といえるのでしょうか。また他者との関係性においても寛容であることの重要性を感じます。私の場合は特に最近、子どもとの関係においてそのことを強く感じると共に悩んでいる部分でもあります。信頼と寛容について自分なりに考えていく必要がありそうです。

  13. 「寛容」と「信頼」この二つは本当に大切にしなければいけない言葉です。社会性を考えた時に、他者との関わりが重要になります。そうなると人間関係のトラブルというのは必然だと思います。自分に合う人もいれば、もちろん合わない人だっています。人間関係でのストレスを軽減するには相手をどこまで受け入れるかが重要だと思います。赤ちゃんの食物分配の行動は見ていて寛容に通じる物があります。人類が誕生し様々な生存戦略で生き延びてきましたが、もともと「寛容」の心はあったのかもしれませんね。おそらく他の絶滅した人種は「寛容」の心はなかったのかもしれません。特にネアンデルタール人のような・・・。なんだかブログの内容とずれてしまいましたね。「寛容」という言葉を聞いて瞬間的に思ったことを書いてしまいました。

  14. 今回の群れを成して、狩りをする動物が、狩りを成功した後どのようにそれを仲間に分配するかというのはとても面白いですね。狩りの瞬間はTV等で取り上げられることはあっても、それをどう仲間内で分けるのかというのはあまり見たことがない気がします。
    防衛と狩りなど、集団が大きな意味を成すというのは、生存を賭けた戦いがほとんどなくなってきた現代においても、様々な場面で感じます。同時にそれは文中の食べ物の様にまた新たな問題も起こすものになっています。しかし、そんな問題がありながらも、集団で暮らすことを選んだのは、生存の確率を高めるためで、それゆえに他の生き物にはない「寛容」と「信頼」が発達したのだと思います。

  15. 「寛容と信頼」は率直に人類の社会で生きていくのであればとても大切なことだというのは誰でもわかると思います。先日3~5歳の部屋で3人くらいの女の子たちが遊んでいたのですが、遊び始める前に遊ぶ順番を決めていました。みんな1番がいいとは思うのですが、その内容を聞いてみると、「この前はAちゃんからやったから、今度はBちゃんからで次は私で最後はAちゃんね!」と話していました。一緒に遊ぶ友達を信頼し、また言われた側もそれを受け入れることで丸く納まっているというか、全員が一緒に遊ぶ友達を信頼し寛容しているなと、今回のブログを読みながらその光景を思い出してしまいました。

  16. 生きるために食べ物を巡って争いが起きていたということが想像できません。それだけ、幸せな時代に生きているのでしょう。食べ物を巡って争っていた時代に寛容と信頼はありました。それは生きるために、協力をしないといけなかったからでしょう。しかし、現在は食べ物に不自由しない時代にも関わらず、寛容さが失われているような気がします。ヒトのあるべき姿ではないのかもしれません。そうすると、ヒトは滅びていくような気がするのです。

  17. 「生きるためには食べ物を巡って争いが起きたでしょうが、もしそれだけであったならば、人類は滅びてしまっているはずです」とあります。よくよく考えてみると、人類に限らず、現在滅びずにいる生物というものはどこかで「ゆるやかな協働」をしているのかもしれません。しかし、それは真の協働ではなく、単に「食物分配におけるかすめとり許容モデル」でしかないのですね。それと「寛容」というものとは似て非なるもののように感じます。では、そのほかの哺乳類と人間とのその差といわれる部分はどういうものなのか。ヒトの協働とはなんなのか。ヒトの特徴的なものはなんなのか。いろんな研究のなかで見えてくるのととても面白く、しかし、難解でよく整理してみていきたいと思います。

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