ゴールの共有

 マイケル氏は、注意の接続における「視点」は、ヒトのコミュニケーションにとって重要な役割を果たしていると言います。1歳児に対して、こんな実験を行ないました。

 大人が一人部屋に入ってきて、ほどほどの距離のある角度から複雑なおもちゃを眺め、「かっこいい!あれ見てよ!」と言います。そのとき、この大人と会うのは初めての子どもたちは、「かっこいいと彼女が反応しているのはその玩具を初めて見たからだ」と考えます。しかし、すでにこの大人と一緒にその複雑な玩具でたっぷりと遊んでいた子どもたちは。玩具は目新しいニュースではなく、その大人との間で共有している基盤の一部となっています。この場合、子どもたちは、「おとなが玩具全体について話しているはずがない」と考えます。だれも、二人ともよく知っているものについて、興奮してもう一人に大げさに語りかけたりはしません。「大人は、何か他の対象か、その玩具の何か他の側面に興奮しているのだ」と考えたのです。

 1歳児でも、とっさにこれらのことを察するのですね。しかも、このような行動は、大型類人猿は行なわないことが分かっています。さまざまなデータが、同じ群れの仲間が獲物のサルを見ていることをチンパンジーが理解していることを示しているそうですが、そのチンパンジーが、自分がそのサルを見ていることを群れの仲間が理解していること理解しているという証拠はまだないそうです。すなわち、大型類人猿は、あらゆる共通概念基盤の認知的土台をなす、「再帰的に心を読むこと」の第1段階さえパスしていないことになると言います。

 それは、このようなことを意味しているとマイケル氏は考えています。もし、相互知識、共通知識、注意の接続、相互認知環境、間主観性、など呼ばれるものに至る最初の段階が、ゴールを共有した協働行為の中で実現されるとすれば、大型類人猿が他者との注意の接続を行なわないのは、そもそも彼らがゴールを共有した協働行為を行なうことがないから、ということになるのではないかというのです。

 ということで、マイケル氏らは、大型類人猿を対象として協働に関する研究をしてきたようです。その結果、かれらがゴールや注意を共有するための明示的なコミュニケーションを取ろうとすることは、一切なかったそうです。それに対して、ヒトの子どもは、ゴールや注意を共有し、当該の協働にまつわる様々な役割を調整するために、あらゆる言語的、非言語的コミュニケーションを行なうと言います。

 やはり、人類の協力的コミュニケーションは、まずは、様々な協働行為の中で進化していったということが分かります。私は、園での子どもの姿から、ゴールを共有するために、まず、相手に共感するところから始まると考えています。共感し合うことで、同じゴールを見つけることができるのではないかと考えているのです。それは、ある意味では、相手の立場に立ってものを見るということにつながる気がします。このような考察が、マイケル氏らが研究してきていることと関係するかは分かりませんが、たしかに、共感することで協働的行為が始まり、その協働の中で、非言語コミュニケーションをとっているのではないかと推測しています。

ゴールの共有” への17件のコメント

  1. 先日、2人の1歳児がスプーンとカップを持って隣に座っているのですが、お互い別々に遊んでいました。すると、一人がその持っていたスプーンを相手に差し出すような動きを見せました。もう一人の方は、そのスプーンに気づき、しばらく相手の表情を見た後、そのスプーンに向かって顔を近づけ、あたかもそのスプーンに食べ物が入っているかのように、自分の口を開いて食べるマネをしたのです。二人は、その一連の非言語コミュニケーションをした後、互いの意図が伝わって嬉しかったのか、笑い合っていました。今回のブログの内容を見て、それらの行動はきっと、二人の中で相手への「共感」とともに、「恊働行為」が生まれ、そして「ゴールの共有」ができたからこその姿であったのだと感じました。それがなければ、きっと、一人が相手にスプーンを差し出した時、相手はそのスプーンを自分にくれるものだと勘違いして、そのスプーンを手でとってしまったりなどのトラブルに発展してしまうということも考えられると思います。そのような経験から、1歳児は他者を理解していき、「ゴールの共有」を他者と求めるようになっていくのであろうなと感じました。

  2. 1歳児の実験には驚きます。また同時にこのような人の気持ちを実験で明らかにしようとする時の方法を考え出したり、実際のデータ収集する作業があるからこそ、結果として証明ができるのですね。私たちも保育の研究者であるとすれば、このような研究の姿勢は参考になるかもしれないなと思いました。今、その必要性を思い浮かびはしませんが、やっていることの裏付けということも必要になることがくるかもしれませんね。人の共感する、相手の気持ちを察するという力がどんどん解明されているのですね。乳児の子と接していても、私の表情をよく見ていて、こちらの気持ちを汲んでくれているな〜気を使ってくれているな〜と感じることが多々あります。あまり関わりのない子だと、「この人は何しに来たんだろう…」という不安の気持ちが表情や傾く体に表れ、こちらにまで伝わってきます。「ゴールを共有するために、まず、相手に共感するところから始まると考えています」とありました。私たちが大切にすることはそんな共感が生まれる子ども同士の関係を大切にしたり、それが表れるような関わり方を考えることなのかもしれません。全てを大人が先導したり、手を出したりすることで、ちょっと待ってみることでうまれる子ども同士の関係も表れにくくなってしまうかもしれません。話がズレてしまったかもしれませんが、「ちょっと待ってみる」そんなことをより最近は意識したいなと思っています。

  3. 1歳児がこのような力を持っていることを考えると、例えば大人がわざとらしくある対象に向かって驚いたりしても、その対象と大人が関わっていることを見ていたとしたら、わざとらしさを読み取ってしまうのかもしれませんね。子どもと接するときに、子どもは何もかっていないと考えて凄く大げさな対応をするケースを過去には頻繁に見てきて、そのたびに説明はできないけどとにかく違和感があって、でも子どもが持っている力を学んできた今となってはその違和感の正体が少しは見えるようになりました。大人の子どもに対する対応は重要ですね。
    そして今は共感ということについて悩んでいます。こうやって丁寧に解説してもらえることですこしは整理ができるのですが、それを実際の場面でつかみ、そこから社会性の獲得へとつなげていこうとすると、途端にその道筋が見えなくなってしまいます。まだまだ理解が十分にできていない証拠ですね。

  4. 1歳児でも、「大人は、何か他の対象か、その玩具の何か他の側面に興奮しているのだ」と考えることに驚きます。大人の見え透いた行動は子どもたちに見破られているのかもしれませんね。褒めることが大事ということで、大げさに褒めた時にあまり良い表情は返ってきませんでした。何気なく褒めた時の方が反応が良い時もあります。大人の意識的な物よりも、無意識に反応しているのかなと思いました。
    協働は共感することから始まるとありました。相手の立場がわかると、自分の立ち位置もわかりますね。以前のメンズディスカッションでは、共感がテーマでした。共感についてよく考えるようになったのですが、共感は乳児期に共感してもらえることで共感ができるのでしょうか。自分でも共感について考えていきたいと思います。

  5. この実験での結果を読み、子どもの視点から人のコミュニケーションの広がりを感じます。
    以前にその対象物で一緒に見て、遊んだことがある、共同物を通して共感しあうことで、一つの言葉から、子どものなかでの反応の違いは、やはり、共有した経験が大きく影響していると思いました。1歳頃の反応と思うと、言語的ではなく、視点からの共感、共有できたことに改めてすごさを感じます。゛ゴールの共有゛するために、まずは共感し合えることから始まる、これは、相手の気持ちを考えたり、相手の立場にたって物事を考えたりすることができることは、現代社会において、必要不可欠なものだと思います。共感し、共有する場面というのは、異年齢の関わりの中でも多く見られるのではと感じます。゛ゴールの共有゛例えば、何かを一緒に作るということから、他者とのコミュニケーションの広がり、十分に理解し、子どもの姿から感じていきたいと思います。

  6. 1歳児でも「おとなが玩具全体について話しているはずがない」「大人は何か他の対象かその玩具の何か他の側面に興奮しているのだ」と考ることに驚きました。よく子供騙しのように、わざとらしくする大人の行動を子ども達はこのような気持ちで見ていると考えると、なんとなく恥ずかしくなります。ゴールを共有することは、共感することから始まり、相手の立場で考えることでゴールの共有が見つかると考えると、幼児期からの子ども同士のコミュニケーションは大切になってきます。コミュニケーションというと会話を考えがちですが、乳幼児期の非言語コミュニケーションという関わりも大切にしなければいけないと改めて感じました。

  7. 今回のブログから、私たちは生まれて以来協働的存在であることがわかります。1歳児の子どもたちでさえ、大型類人猿にもみられない「ゴールを共有した協働行為」を行うことの意義、このことを私たちはしっかりと理解したいと思います。少子社会は子ども集団の意識的形成の場を必要とするでしょう。「ゴールの共有」は1人の子どもではできません。母子関係が大切だとよく言われます。よって、保育園でも特定の大人との関係を乳児や1歳児にまで強要します。このことはとりもなおさず、子ども間における「ゴールの共有」および「協働行為」の可能性の芽を摘んでしまうことになるのでしょう。赤ちゃんは丁寧に育児されるべきだという考えから展開される1人の大人が3人の乳児を担当する保育は、先生と子どもの1人ひとりのベクトルを強化してしまうような気がします。赤ちゃんといえども、自分たちが持っている能力を最大限に発揮する権利はあります。大人の恣意的な思いによる非科学的保育によってどれだけの子どもたちがおかしな心の発達を遂げていることか、現代の社会は様々な「問題」という形でこのことを顕わしていると思うのです。

  8. 1歳児でも「再帰的に“心を読むこと”」ができる。この姿は、1歳児クラスの子どもたちの姿を振り返ると、なるほどなと思えます。1歳児クラスでは、まだ言語を用いてのコミュニケーションが難しいことから指差しや視線の共有などの非言語コミュニケーションがコミュニケーション手段の主流となっている印象です。以前、1人の1歳児の子が車の玩具を指差し、必死に私に訴えてきていたことがありました。その玩具が子どもには取れない高さにあったため、私は取って欲しいものだと解釈しましたが、取る前に「かっこいいね!」と言うと何度か頷き、その場から去ってしまいました。そのときは不思議に思いましたが、この行動は「共感」を求めていたのかもしれないということがわかりました。今回の内容で藤森先生がおっしゃっているように、この共感がその子と私の共通概念基盤の認知的土台の第一段階だったのかもしれません。このような共感が関係の土台を作り、「ゴールの共有」を図ることができ、協働的行為が始まると知り、子どもたちとの共感を今以上に大切にしていかなければと思いました。

  9.  複雑な玩具を見て感嘆の声を挙げてみせる実験はすごいです。1歳児でもとっさに相手の気持ちに立って、自分の今までその人とその玩具で遊んだ経験や思い出を元に、その言葉から状況を的確に分析して判断しているというのですから、本当に驚きです。
     このような高度と感じる実験を、今受け身の姿勢で藤森先生のブログから学ばせていただきていますが、確かに、日々の生活の中で、保育園でもそのような状況や場面というものがあるように思います。先日のブログで〝研究者たちが行なう実験などと同じような場面を、わたしたちは園での日常の中で動画なり、記録をして、どこかで発表したりしてはどうかと思います。わたしたち現場では、たくさんの事例があるわけですから、そこから研究結果を考察してみるということは、育児、保育への提案として大切なことのような気がします。〟とあってからというもの、子ども達への眼差しが一歩前に進んだような感覚になりました。〝共感することで協働的行為が始まり、その協働の中で、非言語コミュニケーションをとっている〟という推測の証明をしてみたいです。

  10. ゴールの共有をするためにはまず〝共感〟から始まる、そして、他者と共感し合うことが必要ということから、現代の人間に足りないものがこの〝ゴールの共有〟ということになるのではないのでしょうか。
    現代の人は他者を煙たがる傾向が徐々に強くなっているような気がします。他者との関わりが希薄になると、この〝ゴールの共有〟は当然できませんし、うつ病にもなりかねないし、いい事が見つかりませんね。
    改めて、私たちホモ•サピエンスの生存戦略を見つめ直し、自分以外の他者との関わりを考える時が来ているように思います。

  11. 1歳児の反応というのはすごいですね。ここまで理解しているとなると大人と接しているような感覚にさえしてくれますね。1歳児の頃からこのようなゴールの共有が頻繁にされることにより、幼児になったとき更にスムーズにゴールの共有ができることになるでしょうか。幼児クラスを見渡してみるとほとんどの子がお友だちと遊んでいます。よくその中を見て行くと必ず集団の複数人でゴールの共有がされており、そのゴールに向かっていることがわかります。更にはお友だちとゴールの共有できていないと見ると否や必死にお友だちにゴールを説明し、同じ方向を向けようとしています。もしくはそこのに非言語コミュニケーションが生まれていて、自然とそのゴールを共有している姿も見られます。このよく見られる共有は1歳児から培われることでより幼児になると相手を理解していき、共感する力が定着していくように感じました。

  12. 一歳児の思慮深さのは驚かされました。大人が通り一辺倒な表面的なことではなく、他の側面について反応を示しているはずだと捉えているのであれば、乳児に対する私の振る舞いも考えなければいけません。「再帰的に“心を読むこと”」ともありましたが、ある意味では子どもの方が大人以上に相手の気持ちや心内といった内面的な部分を読み取る力が優れている気しさえしてきます。相手の内面を読み取ること、察することが共感へと繋がり、そしてこの共感こそがコミュニケーションの基礎であるように感じます。その共感が生まれる子ども同士の関わりというもを私たち保育者は大切にしていかなければなりませんね。

  13. 共感することから協働行為が始まる。1歳の子どもたちから、このような行為を行うわけですが、よく藤森先生がブログでも書かれてありますが、ヒトの生存戦略から保育を見直すように、これも立派な生存戦略の一つだと思いました。更にブログには「大型類人猿が他者との注意の接続を行なわないのは、そもそも彼らがゴールを共有した協働行為を行なうことがないから」と書かれてあります。共感、共同注視であったり、「共に」行うことはヒトに与えられた特別な能力であり。十分に発揮しなければいけません。子ども達を見ていても、何かあると「一緒にやろう!」とお互いに声を掛け合い、ゴールを共有しています。そんな子どもたちに我々ができること・・・やはり子ども同士がゴールを共有できるような環境を用意することです。

  14. 大人の言葉をただ聞くのではなく、そこからいろんなことを考えている。「かっこいい」という単純な一言にしても、それを発言した大人との関係、まあそのおもちゃが自分にとってどういう存在であるか。そんなことを判断したうえで、子どもたちはじっと見つめたり、反応を見せなかったりと行動を選んでいるのですね。この行動は、私的には表向きには単純でも、実際はとても複雑なものに感じます。そのあたりが、類人猿が行わないというところにもつながってくるのではないでしょうか。ゴールを共有すること、人が子どものころからできる複雑な能力なのですね。

  15. 今回のこの実験ではその大人とのかかわりの中で、いろんな経緯や予想をした上で「大人は、何か他の対象か、その玩具の何か他の側面に興奮しているのだ」とあったように答えを出すのは、大人では当たり前のように考えられているのかもしれませんが、想像してみるとかなり複雑なことを瞬時にこなしていたのですね。それを1歳の子どもでも同じように考えていたとはお驚きです。子ども同士の関わりの中でも、1歳児同士ではまだうまく話せないので言葉は通じていませんが、相手が何をしたがっているのかを共感し「ゴールの共有」をすることで笑いあっている姿を見かけることがあります。これも生存戦略の一つだと考えと、ますます乳児からの子ども集団がいかに大切かがわかってきますね。

  16. 1歳児に対して行った実験で、あれだけのことをとっさに察するのはすごいなと驚きます。しかし、そのように実験を行った1歳児が察したというのをどのようにして分かるのでしょうか。そこが疑問に思います。まだちゃんと話すこともできないであろう子どもが、そう察したと言えることがすごいなとも思いました。
    ゴールを共有するために、相手に共感するところから始まるとあります。たしかに、共感することで相手の立場に立って物事を見れますね。そこから、ゴールの共有が始まるのですね。

  17. 以前、1歳児の子どもたちがおむつ替えされているときに隣で泣いている同じく1歳児の子どもにおしゃぶりを口にくわえさせていました。2人の1歳児はともに遊ぶことはなかったのですが、普段からおしゃぶりが必要な様子を見て、口にくわえさせてくれたのだと思います。教えてもいないのに自然とそういった援助する行為を見ていると。やはり人にはこういった共感する能力があるというのを思います。そして、その共感という気持ちがあるから援助することや協力することにつながるというのを強く感じました。今の社会大人が先回りして、その活動をとってしまうことが多いかったり、逆に家庭に子どもがおらず経験することも少なくなっています。保育というものの本質を改めて感じます。

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