フェアな分配

 チンパンジーは、「フェアな獲物の分配を伴うゴールの共有」ということを示していると思われていましたが、最近の研究では、そうではないことを示しているそうです。

それは、第1に、獲物を仕留めたチンパンジーはすぐに、できることなら獲物と一緒に仕留めた場所から雲隠れするか、梢の橋まで登って、他のチンパンジーの接近を制限して仲間を避けようとするそうです。すなわち、とっさに独り占めしようとするのです。しかし、多くの場合、独り占めは成功しません。肉を引っ張って分配を求める個体に囲まれてしまうことになるのです。獲物の所有者は、要求者がいくぶんかの肉を得るのをたいていは認めてしまいます。

その行為を研究者が調べてみたところ、要求や嫌がらせに対する直接の反応としてこのような寛容が起こることが分かりました。要求者は、要求や嫌がらせをすればするほど、より多くの食物を得ているようなのです。嫌がらせの激しさは、それを行なう個体がどの程度本気で戦うつもりなのかの指標であり、この戦う意思は、少なくとも部分的には、狩りに参加したことによる興奮からもたらされていると考えられます。

獲物を仕留めることに参加したものが、多く分配を受けるのは、参加したためにその報酬として多くとるのではなく、参加したことによる興奮が、激しい要求として分配を多く受けるというのです。そうなると、仕留め損ねた狩猟者ですら、後から来た個体よりは多くの肉を得られる可能性があるということになります。狩りに参加していた狩猟者たちは最初に獲物に接し、物乞いを行えるけれど、後で来た個体たちは、第2陣に甘んじることになるからです。

チンパンジーの集団狩猟に関するこういった見解を、以前、ブログで紹介した2本のロープを同時に引かないと、食べ物を手元に引き寄せられないようにした実験の結果が後押しをしていると考えられます。つまり、ひとやまにした食物のときには協力をしないという結果だったことです。一般的にチンパンジーは食物に関して、競合的であるため、彼らが行為を同期させられるのは、獲物の分配問題がなんらかの形で、解消に向かう場合に限られてしまうのです。

このような行為は、人間に最も近く、より協力的であると言われているボルボでさえ、それほど大きな差は出ないのです。それが、ヒトの子どもの場合は、食物が凝集しているからといって協力行動が妨げられることは全くなかったそうです。それどころか、彼らは、小競り合いすら起こさずに等分するために様々な手段を講じるのです。しかも、この実験の子ども同士の関係には兄弟はいなかったそうです。

 そして、興味深いことに、このような中で子どもたちは互いに、公平性を巡って異議を申し立て合うことがあるそうです。実験した中で、一人の女の子が、パートナーと一緒に引き寄せたキャンディーを独り占めしてしまったことがあったそうです。しかし、キャンディーがもらえなかった子は、異議を申し立て、欲をかいた方の子はすぐに折れることになったと言います。二人とも同じだけ分け前を手にした時には、異議申し立てをするのを見たことがなかったそうです。

寛容

 ヒトにおける協働活動は、ヒトだけに備わった多くの資質の鍵を握っているようです。他の生き物のように、常に競合し合っている場合は、協力することが進化的な意味で前進することはないのです。それに比べて、私たちの祖先は、洗練された協働的スキルの獲得を選択してくるためには、なんらかの形で寛容と信頼が生まれる必要があったと言います。特に、生きるためには、食べ物を巡って争いが起きたでしょうが、もしそれだけであったならば、人類は滅びてしまっているはずです。そこには、いうような、寛容と信頼があったのでしょう。

 進化の過程で、どうして社会性が身についてきたかというと、通常、「自分たちを食べようとするものに対抗するために、みんなで協力して戦ったために社会的になった」と言われます。それは、たいていの場合は、集団となることで防衛が最も首尾よく成し遂げられるからです。もし、防衛が必要とされない場合には、どの個体も自力で採取した方が有効的です。食物を巡って常に競合している必要がないからです。それは、食物が分散している場合には、一般的にまったく問題はありません。しかし、食物が凝集して見つかる場合には、順位制が生まれ始めます。霊長類の群れが果実のたわわに実った木を発見したら、まずたいていは奪い合いと競合が起こり、食べる際には、個体は互いに少なくとも23メートルの距離を取って採食を行なうそうです。決定的に凝集的な食物資源となるのが、獲物となった動物です。当然ながら、狩猟が単独で行なわれたならば、獲物にまつわる問題の引き金になることはありません。

 群れをなして皆で協力して獲物を捕らえる動物がいます。たとえば、ライオンやオオカミなども社会を作ります。しかし、集団で雄物を捕った後の問題は、「獲物をどのように分け合うか」です。これを解決するには、ある個体たちが多めに食べたとしても他の個体たちにも十分行き渡るくらい、獲物が十分に大きければ特に問題はありません。ある個体が獲物を仕留めたとしても、他の個体がそこにやってくれば、いくぶんかを食べるのを許容しなくてはなりません。というのも、競合者を払いのけようとすることは、他の個体の獲物を失わせることになるからです。この行為を、「食物分配におけるかすめ取り許容モデル」と呼ばれているようです。

 チンパンジーは、主に果実をはじめとする植物を食べて生きています。果実はゆるく凝集的な、価値の高い資源であり、競合を促進しやすいものです。しかし、たまに集団で得雄物を捕るときもあるそうです。この集団狩猟は一見、ゴールの共有と分業的労働を伴う、真に協働的なもののように見えます。それは、獲物を捕ると、狩猟をしたものたちは、狩猟に参加しなかった傍観者たちよりも多くの肉を得るそうです。このことは、「フェアな獲物の分配を伴うゴールの共有」ということを示していると思われていました。しかし、最近の研究では、そうではないことを示しているそうです。

 では、チンパンジーは、本来はどのような行動をとるのでしょうか。では、どうしてそのような行動をしているように見えているのでしょうか?そこからヒトの特徴的な行動が見えてくるようです。

白目

 現代の幼い子どもたちに見いだされるような強固な協働行為は、ヒトの進化における最初期の協働活動とほぼ変わらないとマイケル氏は考えているようです。このことも、私が常々主張していることと同じですが、赤ちゃんを見ていると、人類の進化を見ているようであり、人類が受けつないできている遺伝子を見ることができるのです。そして、その行為、活動は、生存するために最も効果的であった行動なのです。大きな獲物を協力して狩ることや、ある個体が他の個体の木登りを援助して、後で分配すべき食物を手に入れるといった協働的な果実採集のそれと、幼い子どもたちがとる協働行為は、基本行動は同じなのです。

 それどころか、マイケル氏は、こういった技能やモティべーションを発達させた生態学的文脈こそが、ある種の協働採食だったのだと信じているようです。人間に近い霊長類がそうではなかったことを考えれば、ヒトは、協働で食物を収集しなくてはならないようななんらかの選択圧の下に置かれ、絶対的な協働者にならざるをえなかったのだと考えられるのです。

 私は、よく講演で、赤ちゃんは他人からどこを向いているか分からないように黒目がちだという話をします。ですが、大人になると、白目が多くなり、どこを向いているかわかりやすくなります。しかし、それは、獲物を捕る場合に非常に不利です。それなのに、200種類以上の霊長類の中でも、彼らと比べて人の白目は3倍ほど大きいのです。視線が分かるということは、生き物にとって不利でもかかわらず、人類はどうしてそうなっているのでしょうか?最近の実験では、チンパンジーは、他者の視線方向を追う際に、ほぼ例外なく頭の向きを手がかりにするそうです。実験者が目を閉じていても、実験者の頭の向きを追うそうです。それに引き換え、ヒトの赤ん坊は、おもに実験者の視線方向を手がかりにします。頭部が正面を向いたままでも、実験者の視線を追うのです。進化的に考えれば、私たちの視線をたやすく追うことができることは、どんなときに有利になるのでしょう。

 進化の過程で白目が大きくなるのは、多分、それによってなんらかの利益があるはずです。それについてある仮説があります。それは、「協力する目(cooperative eye)仮説」と呼ばれるものです。自らの視線方向をみんなに知らせることが進化しうるのは、そこに他者からつけこまれて自分が不利益を被ることがなさそうな、協力的な社会環境においてのみであるという考え方です。つまり、一つの可能性として、ある個体の視線を他者が追うことを促進するような目は、共有された課題において互いの注意の向け先をモニターし合うことが各個体の利益になるような、協力的な社会集団において進化した、と考えることもできると言っています。

 大人になったヒトに白目があるのは、赤ちゃんにとって、母親や、他の人の視線を知るためであることは分かっていました。しかし、大人同士にとって、どのような意味があるのかは、はっきりしませんでした。やはり社会を構成する中で、援助するとか、分かち合うとか、その基本となるべき共有のためであることは頷けますね。しかも、それが必要となる協力的な社会集団において進化していったというのもわかります。

 しかし、この協働行為は、ある意味での中間ステップであるとマイケル氏は言います。より初期の段階が存在すると言います。

ウサギと鹿

 私たちは、どんなときに指さしをするでしょうか?指さしをして、何をしようとしているのでしょうか?大人の私たちの場合、それはかなり明確です。それは、指差す方向にあるものを教えようとするコミュニケーションの手段です。指さしは、ヒトに特異的なコミュニケーション行為の中で最も基本的なものであることは以前に述べました。その指さしには、なんらかの共有がなければ意味をなしません。しかし、マイケル氏はこんな説明をしています。もし、私たちがみんなで木の実を集めているような協働行為をしている最中だとすれば、指さしは、「木の実はそこだよ!」というように、ほとんど場合即時的かつ明確な意味を持ちます。

 私たちは、コミュニケーション行為が組み込まれる生活形式次第で、1枚の紙を指し示すこともできれば、その色、かたち、または他の様々な側面を指し示すこともできるのです。このときの生活形式の典型的な一つが、協働行為なのです。なんらかの、このような生活形式と結びつくことで、共有された社会的実践における指さし行為の基盤が与えられると考えられています。

 ヒトは、協働行為の中で協力的コミュニケーションの手段を発達させてしばらくたってからはじめて、そういった行為の枠外でも協力的コミュニケーションを行えるようになったと考えられているのです。ようするに、ヒトの協働行動をヒト特異的なものたらしめている構造とは、「注意の接続と参加者それぞれの視点とによって相互調整された、おのおのが役割を果たしながら一つのゴールを共有する構造」に他ならないとマイケル氏は言っています。

 私たちは、何かのゲームをするとき、そのゲームの決着は、相手を打ち負かすことの場合が多いようです。特に、将棋や囲碁、かつての軍人将棋などのボードゲームは、ほとんど相手を打ち負かして終わります。以前のブログで紹介しましたが、少し前から、オランダやドイツでのボードゲームは違ってきています。それは、「cooperative game」と言われ、日本では、「協力ゲーム」と訳されています。数年前に、オランダでこのゲームを普及しているオランダの方に園に来ていただき、子どもたちを相手に実践をしてもらったことがあります。このゲームは、複数のプレイヤーによる提携 (coalition) 行動が可能であるとされた場合のゲームです。協力ゲームを扱う理論を協力ゲーム理論といいます。協力ゲームにおいては、プレイヤー間でどのような協力関係(提携)が形成され、提携を形成した結果得られた利得を提携のメンバーの間でどのように分けあうかが問題となります。

その中で有名なゲームとして「スタグハントゲーム」というのがあります。このゲームでは2人のハンターは、それぞれ兎を捕らえて利益1を獲得するか、協力して鹿を捕えて利益2を獲得するかを選択することができます。しかし、鹿(スタグ)は2人で協力しないと捕えることができない為、1人だけで鹿を捕えようとしても利益0になってしまいます。一人のプレイヤーが鹿を捕まえようとしても、もう一方のプレイヤーが、ウサギを捕まえようとしたら、そのプレイヤーが被る損失は2であり、両者の積は4です。しかし、もしプレイヤーがウサギを捕まえようとすれば、もう一方のプレイヤーがどちらを捕まえようとしても、それによって被る損失は0です。

スタグハントは、行動に関する基本的選択原理を示すものだとされています。以前紹介した「囚人のジレンマゲーム」も、実際にはスタグハントと同じ協調ゲームであると考えることができます。このような選択が、強固な互恵的利益をもたらす行為に従事する技能や、モチベーションを進化させてきたと考えられているのです。

ゴールの共有

 マイケル氏は、注意の接続における「視点」は、ヒトのコミュニケーションにとって重要な役割を果たしていると言います。1歳児に対して、こんな実験を行ないました。

 大人が一人部屋に入ってきて、ほどほどの距離のある角度から複雑なおもちゃを眺め、「かっこいい!あれ見てよ!」と言います。そのとき、この大人と会うのは初めての子どもたちは、「かっこいいと彼女が反応しているのはその玩具を初めて見たからだ」と考えます。しかし、すでにこの大人と一緒にその複雑な玩具でたっぷりと遊んでいた子どもたちは。玩具は目新しいニュースではなく、その大人との間で共有している基盤の一部となっています。この場合、子どもたちは、「おとなが玩具全体について話しているはずがない」と考えます。だれも、二人ともよく知っているものについて、興奮してもう一人に大げさに語りかけたりはしません。「大人は、何か他の対象か、その玩具の何か他の側面に興奮しているのだ」と考えたのです。

 1歳児でも、とっさにこれらのことを察するのですね。しかも、このような行動は、大型類人猿は行なわないことが分かっています。さまざまなデータが、同じ群れの仲間が獲物のサルを見ていることをチンパンジーが理解していることを示しているそうですが、そのチンパンジーが、自分がそのサルを見ていることを群れの仲間が理解していること理解しているという証拠はまだないそうです。すなわち、大型類人猿は、あらゆる共通概念基盤の認知的土台をなす、「再帰的に心を読むこと」の第1段階さえパスしていないことになると言います。

 それは、このようなことを意味しているとマイケル氏は考えています。もし、相互知識、共通知識、注意の接続、相互認知環境、間主観性、など呼ばれるものに至る最初の段階が、ゴールを共有した協働行為の中で実現されるとすれば、大型類人猿が他者との注意の接続を行なわないのは、そもそも彼らがゴールを共有した協働行為を行なうことがないから、ということになるのではないかというのです。

 ということで、マイケル氏らは、大型類人猿を対象として協働に関する研究をしてきたようです。その結果、かれらがゴールや注意を共有するための明示的なコミュニケーションを取ろうとすることは、一切なかったそうです。それに対して、ヒトの子どもは、ゴールや注意を共有し、当該の協働にまつわる様々な役割を調整するために、あらゆる言語的、非言語的コミュニケーションを行なうと言います。

 やはり、人類の協力的コミュニケーションは、まずは、様々な協働行為の中で進化していったということが分かります。私は、園での子どもの姿から、ゴールを共有するために、まず、相手に共感するところから始まると考えています。共感し合うことで、同じゴールを見つけることができるのではないかと考えているのです。それは、ある意味では、相手の立場に立ってものを見るということにつながる気がします。このような考察が、マイケル氏らが研究してきていることと関係するかは分かりませんが、たしかに、共感することで協働的行為が始まり、その協働の中で、非言語コミュニケーションをとっているのではないかと推測しています。

視点

 マイケル氏の研究では、「生後9ヶ月頃、乳児はボールを転がして大人とやりとりしたり、一緒にブロックを積んだりするようになりますが、これは、非常にシンプルなゴールの共有です。」と言っています。一緒に何かをやるという行為は、ゴールが共有されているからです。これは、子どもと大人の関係を中心に述べられていますが、園では、子ども同士の関係でも、2歳を過ぎた頃から見られると思います。これが、集団遊びの芽生えでしょう。たとえば、ままごとをやるのにも、お母さん役とお父さん役、作る側と食べる側というように役割を分けて遊ぶのは、ゴールの共有があるからでしょう。この活動は、保育の中で非常に大切なものだと感じています。

 このゴールの共有に関して、こんな例を挙げています。「“この道具を一緒に作る”というゴールを共有していることを私たち二人が理解しているならば、注意の向け先自体が二人とも同じなのだから、もう一人がどこに注意を向けているかをそれぞれが知ることは比較的容易になります。わたしたちは、“わたしたちのゴールに関連しているのは何なのか”に焦点を合わせるのです。」

 その後、乳児はゴールの共有がなくても注意の接続に至れるようになるといます。たとえば、大きな音が響けば、赤ん坊と大人は一緒にその音に注意を向けます。心理学ではそれを「ボトムアップ的注意の接続」と言うそうです。注意を引きつけるような出来事が起きることによって、お互いの関係が開始されるのです。しかし、これは少し大きくなってからで、最初に注意の接続が生まれるのは、ゴールが共有された文脈においてのみだと言います。これは、「トップダウン的注意の接続」と言うそうです。

 最近、この二つの認知について脳科学でも説明されていますが、その説明は難しいのですが、私なりに簡単に解釈すると、空間的注意は、空間上のある位置からくる感覚入力に対して、検出力・弁別力が高まる現象として知られています。そのときに、なにかに注意を払うとき、顕著な刺激に対して受動的に感じることがあります。それは、いわば、外発的に注意を払うということで、「ボトムアップ」に誘導されるといいます。それに対して、あるものに対して自ら目的を持って注意を払うことがあります。それは、目的指向性に能動的に注意を払うということで、内発的に誘導されるといい、「トップダウン」で注意を向けると言います。

 このように協働行為において参加者たちは、共通のゴールに関わる物事に一緒に注意を向けるわけですが、それがまったく同じ見方であるならば、昨日のブログで紹介したような「協働」という行為にはなりません。一人一人がそれぞれに固有の視点を持たないといけないのです。そもそも視点という概念は、ある注意の接続先をまず共有した上で、異なる視点を持てるようになるということだとマイケル氏は言います。確かにNHK「今日の視点」という番組も、まずその日の課題に関して何をどう見るのかということを共有したうえで、解説者の考え方、すなわち他人の視点を聞くことによって、自分自身の固有の視点を持つということです。

 このような視点は、ヒトのコミュニケーションにとって重要な役割を果たしています。それを、マイケル氏は、1歳児の実験で説明しています。

共同ではなく協働

 「きょうどう」するというと、漢字に書くときに迷うことがあります。それは、「協働」と書くべきか、「共同」と書くべきか、「協同」「共働」などどれを使うかを迷います。わたしたちはかなりいい加減に使うことが多いのですが、実は、どの漢字を使うかは、かなり深い意味があるようです。たとえば、「共同」と使う場合は、その字のごとく、「共に同じ目的」「共に同じ条件」など、「複数の人や団体が、同じ目的のために一緒に事を行ったり、同じ条件・資格でかかわったりすること。」に使います。「―で経営する」「―で利用する」「三社が―する事業」それは、「協同」に同じとあります。と言うことは、「共」か「協」の違いよりも、「同」か「働」の違いになるようです。

 と言うわけで、「協働」とは、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」とあるように、「ともに活動する」ということが込められています。そして、このときの「ともに」には、深い意味があります。単純に「共同して」というように力を合わせるということだけでなく、目的意識を共有し共通の目標に向かって達成に力を尽くすことや、お互いが対等の立場でそれぞれの特性を活かすことが重要なようです。

「協働」という言葉は、比較的新しい言葉のようです。協働の概念を最初に発案したのは、アメリカのインディアナ大学の政治学教授ヴィンセント・オストロムだといわれています。彼の著作の中で、「Coproduction」という造語が用いられています。「共同の、共通の…」という意味の「Co」に、「Production(生産、産出、成果)」を結びつけて作り出されました。1977年のことでした。これを訳すときに、「協働」と訳したのです。この「協働」は古くから日本社会において使われてきた概念ではありませんが、おおむね、次のような定義がされています。

まず、「目標の共有化」が必要です。そして、その目標に向かって、協働する各主体はお互いに自主・自律性を確保し、他の主体から支配されないことが必要になります。また、目標が効率・効果的に達成されるために、各主体は能力や資源を互いに補完し、相乗効果をはかる必要があります。ですから、関わる主体は成果に対してもそれ相応の責任をとらなければなりません。このようにそれぞれが主体であり、その能力や資源を補完し合うためには、考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです。

そこで、協働とは、「様々な主体が、主体的、自発的に、共通の活動領域において、相互の立場や特性を認識・尊重しながら共通の目的を達成するために協力することを言う」と定義されてもいいかもしれません。

 このような協働活動を行なうには、互いに行為を調整することが必要になりますが、同時に各個体は、注意状態も調整しあっていると言われています。乳幼児発達の文献には、「最初期の協働行為は、しばしば“注意接続的行為”と呼ばれているそうです。生後9ヶ月頃、乳児はボールを転がして大人とやりとりしたり、一緒にブロックを積んだりするようになります。そのときに、お互いに相手と相手における注意状態をモニターしていると言われています。それは、ゴールがまず共有されているからこそと言われています。

協働活動

 大人から子どもに「いっしょに遊ぼう!」と誘って、子どもが「うん、いいよ!」と言って遊びだして、突然大人が理由もなしに遊ぶのをやめてしまう場合と、子どもが一人で遊んでいるところに、大人が黙ってその遊びに加わり、しばらくしてやはり理由なしにやめてしまう場合、3歳児の子どもは、異なる反応を見せたといいます。大人から声をかけて誘った場合には、遊ぶのをやめたとき、遊ぶことを続けるようにという子どもからの要求は強くなり、結局二人は合意していっしょに遊びをやることになったそうです。

 また、少しバリエーションを変えてみて反応を見てみたそうです。遊んでいる子どもに対して、別の大人が今野よりもっと楽しそうな遊びに誘った場合、大人が誘って、それに同意していっしょに遊んでいた子どもの方が、そうでない子どもよりもずっと頻繁に何かを言ったり、おもちゃを手渡したり、去り際に顔をのぞき込んだりしながら別の遊びの方に行ったそうです。子どもたちは自分から遊びに入ることを表明したことを破ろうとしていることを自覚して、最初にそれを認めることによって和らげようにしたのです。

 こんな研究もある研究チームによって行なわれました。生後18ヶ月前後のごく幼い子どもたちとの協働活動に携わった後に、順番でその子たちと役割を交換し、これまで担当したことにない役割につかせてみたそうです。こんな幼い子どもたちでさえ、新たな役割に直ちに適応し、彼らが最初の協働活動中に大人の視点や展望を理解していたことが示されたそうです。たぶん、自分の役割をしながら、相手の役割も理解していたということなのでしょう。私が以前、乳幼児でさえ、自己中心的でありながら、同時に自分を客観視しているのではないかと思うことがあると書いたことがありますが、この実験ではそれを少し証明していると思います。

しかし、人に育てられた幼いチンパンジー3頭については、同じような役割の転換は見られなかったそうです。このような役割転換を、研究者たちによって、「ヒト幼児が協働活動を、ゴールの共有や相互補完的役割とともに、すべて単一の表象フォーマットで俯瞰的視点から理解している」ことを示すものと解釈されているそうです。

 対照的にチンパンジーは、自分自身の行為を一人称的な視点から、パートナーの行為を三人称的な視点からそれぞれ理解しているものの、活動そのものやそれぞれの役割に関する俯瞰的な視点は備えてはいないそうです。ヒトの協働行為は、このようにどちらの参加者から見ても、潜在的には自分自身を含めた誰がその役割を果たしていても構わない、一般化された役割の組み合わせによって実現されると言います。哲学者の中には、これを「エージェント中立的役割」と呼ぶ人もいるそうです。エージェントとは、よくプロスポーツ界で聞かれる言葉ですが、選手本人に代わって契約の交渉を行う者のことを言います。

最近は、IT会で使われることが多くなりました。コンピュータ科学の研究としてソフトウェアエージェントという分野があります。これは、ユーザが何らかの目的を達するための代理として機能し、他のユーザやソフトウェアなどと通信しながら、自らがある程度の判断能力を持って自律的に振る舞い、永続的に活動するソフトウェアを意味します。この研究は、人類の知能の一部を人工的なものに代えていこうというものです。このようなロボットの行為が、幼い子どもの行為と同じような部分があるとは、なんだか不思議ですね。

連携

 マイケル氏は、こんな実験を二つしてみました。研究者の実験は面白いですね。わたしたちは現場で実際の子どもの姿を多く見ているので、その結果には納得する子どもの姿があるのですが、そこからどのようなものが見えてくるのかというと、研究者の視点とは違ってきます。そこで、こんなことを思いました。研究者たちが行なう実験などと同じような場面を、わたしたちは園での日常の中で動画なり、記録をして、どこかで発表したりしてはどうかと思います。わたしたち現場では、たくさんの事例があるわけですから、そこから研究結果を考察してみるということは、育児、保育への提案として大切なことのような気がします。

ここで紹介する実験の一つは、協働行為を行なうパートナー二人ともが報酬を手に入れない限り、両者とも満足しないかどうか、つまり、パートナー同士である二人ともが利益を得ない限り共有されたゴールは達成されないのかどうかをテストするものでした。それを三歳のペアでやってみました。

 1本のポールを持ち上げ、階段状の装置を上ってもらいます。ポールの両端を一人ずつが持ちます。両端には報酬の引換券が入ったボウルが取り付けてあり、数フィート先で報酬と交換することができます。ここでの仕掛けは、階段を覆うアクリルガラスに開けられた穴越しに、子どものうち一方だけが報酬を先に手にすることができるというものです。この位置にいれば子どもは自分の報酬を得られるのですが、もう一人の子どもが報酬を手に入れるには、二人で協力してもう一段上らなくてはなりません。運の良かった子どもの中には、先に自分の報酬を交換したものの、戻ってきて運の良くなかった方の子どもが報酬を確実に得られるよう最後の一段を協働した子どももいたそうです。また、自分の報酬を交換する前に、まだ報酬を得ていない子どものことを待ち、援助する子どもさえいたのです。全体としてみれば、ほとんどの子どもが、同様の文脈に置かれているものの協働は行なわない他者を援助する統制条件よりもはるかに熱心に、共有された自分たちのゴールに取組もうという課題を完全にこなして、どちらもが報酬を得られるようにしよう、としているようだったそうです。

 確かに、このような姿を見ることができますね。先日、職員が撮った動画を見せてもらいましたが、3歳児一人と5歳児二人が一緒にカルタをやっている姿でした。カルタ取りでは、当然、3歳児はまったくとれません。そこで、一緒にやっている5歳児が二人で話し合い、途中で何度か自分たちが取った札を3歳児に渡します。自分たちだけの一方的な勝ちにしないようにです。どちらも同じくらい札が取れたことにして終わろうとしているのです。この姿には、両者とも報酬を手に入れない限り両者とも満足しないということの実例だと思います。

 二つ目の実験は、大人一人と子ども一人とで、明示的な言質を共有することをきっかけにして協働行為を始めてもらいます。「ねえ、あのゲームやろうよ。いい?」などと大人が言い、子どもが明示的にそれに同意した場合にだけ、一緒にそのゲームで遊ぶことになるのです。統制条件では、子どもは一人でゲームを始め、大人は、求められてもいないのにそれに加わりました。その後、どちらの条件でも、大人は理由もなしに遊ぶのをやめます。このときの反応は、ちょうど2歳児と3歳児を境にして違っていたようです。どういう行動を起こしたのでしょうか?

誘導

 子どもたちは幼年早期に、アイデンティティを持った公的な存在に変わっていく中で、公的な評判を気にするようになり、社会規範に従い、罪悪感や恥感情という形でそれを自分自身にも強要するようになります。そのために、幼い子どもたちの手本となり、伝えられるべきものとしての社会規範も、やはり需要です。子どもは、今までは一般的に互恵から得られる様々な利益や罰への恐れだけで社会規範を尊重すると思われてきました。しかし、現在はそうでないどころか、協働的行為において、他者と相互依存していることに幼い時期から敏感であり、集団のアイデンティティの指標として、集団への同調の度合いを測っていると言われています。このように様々な形態の「わたしたち」という意識が、子ども自身が社会規範を尊重することや、社会規範を他の人が守るように強制することの重要な源であるとマイケル氏は言っています。子どもたちは、やはり、集団の一員である意識は、とても大切なようです。

 そういう意味では、子どもが社会規範を外からの押しつけとしてではなく、自分の気持ちから守ろうとか、その規範と折り合いをつけようとするのは、「子どもはもともと援助的なわけでも協力的なわけでもないので、外的な強化や罰によってそう仕向けてやろう」と考える大人たちのおかげではないということを大人たちは知るべきであるとマイケル氏は言っています。この考え方と、研究の結果は、現在日本で進められているような、道徳の教科化とか、道徳の幼児期への前倒しの風潮に対して、警告を発しているような気がします。と同時に、乳幼児教育の大切さも感じます。

 乳幼児期のおける教育の大切さは、他者に対する行為の効果や協力的な社会行為の合理性について、大人が子どもに伝えるというような「誘導的養育」が、社会規範や価値の内面化を促進するのに最も効果的な養育スタイルであることを多くの研究が示してきたとマイケル氏は言います。この言葉を日本では多くの誤解を生じてきました。それは、他の場面でも多く見られることですが、言葉はその文化を背景としているわけで、違う国の言葉に翻訳してしまうと、翻訳された言葉がその国で使われている内容としてとらえられてしまう可能性が大きいのです。今回の彼の提案も、たとえば「誘導」というのも、無理矢理に大人の価値観に子どもを引っ張っていってしまうようなイメージがあります。しかし、彼の言う誘導とは、もともと持っているのだから、それを引っ張っていけばいいということなのです。それは、「誘導的養育」の必要性の理由をこう述べているからです。

 「子どもたちにすでに、他者や集団機能の対する自分の行為の効果が子ども自身にとって

自明である場合、協力を選択する傾向があるということを正しく踏まえているからです。子どもは生来利他的であり、それこそが大人が養育しようとすることの前提なのです。」としています。

 このような機能を人類は生まれながら兼ね備えているのは、生まれながら道徳的であるとか、生まれながら「善」であるというよりも、生物はすべて生存していくのに最も効果的な方法をとります。