ヒトの文化の根底にあるもの

 ヒトの文化にしか見られない特徴である、「生み出された物事の累積」と「社会制度」というものは、どのようなヒトという種独特のものが根底にあるのでしょうか?それは、「協力する技能」と「協力しようとするモティべーション」とがセットになっていると言うのは、マイケル・トマセロです。このことは、社会制度の場合を見れば特にはっきりすると彼は言います。非協力者への強制に関する規則も含めて、様々な社会制度はどれも、協力によって生み出され合意によって成り立つ相互行為と言えるからです。地位機能も、「夫、親、通過、首長といったものが存在し、それぞれがなすべき権利と義務とを果たす」という協力的な合意があってこそ成り立つものだからです。

 こういったユニークな形態での協力を可能にしている心理的な基礎過程における知見は、様々な行動哲学者たちによって研究され、その知見によれば、「志向性の共有」と呼ぶことができると言います。このときの「志向性の共有」とは、他者と協力しようとする際に、意図やコミットメントを自他間で接続し合う能力のことを言います。これらの意図やコミットメントの接続は、注意の接続や相互知識といったプロセスから成り立ち、他者を助けよう、あるいは他者と分かち合いたいという強力への動機の基礎となっていると言います。

 これらの考え方のなかには、私たちがブログでも何度も取り上げている、ホモサピエンスの生存戦略が功を奏し、誕生以来生き延び、遺伝子をつないできたキーワードが使われています。「協力」「共有」「助けよう」「分かち合いたい」これらが、ヒトという種が特徴ある文化を形成してきたことにつながるのです。

 このようなものは、社会制度においてだけでなく、ヒトに見られる超協力的傾向は、文化的歯止めにおいても、重要な役目を果たしていると言います。文化的歯止めに関わる最も基礎的なプロセスが模倣による学習であることも、模倣による学習の本質は、協力的と言うよりは、むしろ搾取的であることも確かであるといいます。ヒトは、長い間、模倣による学習をきわめて忠実に採用してきたと言われています。しかし、これらに加えて、協力における二つの根本的なプロセスもまた、ヒトの文化的歯止めに不可欠であると言います。

 これらの考察は、私たちは園で子どもたちの姿から感じることがあります。また、協力とか助け合うという姿だけでなく、教えよう、援助しようとする姿も観察することができます。それは、紹介した職員の観察ではありませんが、相手のためにしてあげるという意識は、本人は持っていない気がします。しかし、ヒトは、様々なことを積極的に教えようとします。しかも、その教える対象者は、近親者だけに限定しません。教えるとは、援助しようという動機に基づく利他的行動の一つであり、別の個体が使用するための情報を贈与することであるとマイケルは言います。

 この教えようとしているような行為は、ヒト以外の数種でも、見ることができますが、その多くは、単一の行動を実子に対して行なう行為に限られるようです。ヒト以外の霊長類における積極的な教授行動を、体系的に、実例を重ねて確認した報告はないそうです。

 ヒトの特徴として「教える」という行為も、「助けよう」「分かち合いたい」というヒト独特の文化であるようです。いろいろと考えていることとリンクしてきますね。

文化的行動

各国には、それぞれその地域独特の文化があります。そして、その文化はいろいろな形で私たちに伝えられています。その形に残されたものを「文化財」と言います。その形は様々で、日本では、文化財保護法によって文化財は守られていますが、そこでの定義は、「有形文化財」,「無形文化財」,「民俗文化財」,「記念物」,「文化的景観」及び「伝統的建造物群」とされています。

このように、多様な文化が各国、各地に作られてきたということは、他の生物に比べて、人類の特徴です。これは、文化の量の問題ですが、人類が形成してきた文化の質にも特徴があると考えられていま。そのひとつは、「文化の累積的進化」と呼ばれているものだそうです。それは、このような進化のあり方だそうです。ヒトが生み出すものや行動慣習は、時間とともに複雑さを増していきます。それは、「歴史」を持つということです。たとえば、克服すべき課題が存在しているとき、その課題を解決するような道具やものごとのこなし方を誰かが発明すれば、周りがそれを速やかに学習します。しかし、また別の誰かがなんらかの改良を加えれば、誰もが、成長過程にある子どもでさえも、新しく改良を加えられたバージョンの方を学習するという傾向が見られるといいます。このことが、一種の文化的歯止めとなり、慣習の各バージョンが、誰かがもっと新しくて改良されたものを思いつくまで、集団のレパートリーとして、しっかりと留まるのです。

一人一人のヒトが、従来適応的であった遺伝子を生物的に継承しているのとまったく同じように、先祖たちの集合的な知識のようなものとしての道具や行動慣習を文化的に継承しているということになるのです。ヒト以外の生物に見られる身体、生態などが次第に環境などに適応するように進化していくのと同様、改変を蓄積して時間とともに複雑さを増していくような文化的行動の存在は、人類だけの特徴で、それ以外の種ではこれまでのところ観察されていないそうです。

もう一つ、ヒトの文化をユニークにしている質の特徴は、様々な社会制度を生み出される行動慣習のセットだそうです。それは、どういうことかというと、たとえば、あらゆるヒト文化では、それぞれの規則の下で交配、および婚姻が行なわれます。誰かがこの規則に違反すると、なんらかの方法で制裁が加えられ、もしかしたら完全に追求されさえします。実際にヒトは、このプロセスの一部として、たとえば夫と妻、または両親といった、文化によって定義された存在を新たに生み出し、これまた文化によって定義された権利と義務とをそれぞれに負わせていると言います。これは、面白い観点ですが、ちょっとわかりにくいですね。そこで、こんな例もあります。あらゆるヒト文化には、食物やその他価値のある対象の分配や取引に関する規則や規範が存在します。交換の過程では、なんらかのものに、貨幣という文化上の地位が与えられ、この地位によって貨幣は、文化に裏打ちされた一定の役割を果たします。

さらにまた別の規則、規範のセットは、族長、首長や社長、大統領といった集団のリーダーを生み出します。リーダーたちは特別な権利と義務とを負い、集団のために決定を下し、新たな規則を生み出しさえするというのです。このような文化的歯止めと同じことが、社会制度にもいえると言います。ヒト以外のいかなる種においても、いささかなりともこれに似たものの存在が観察されたことはないそうです。

ユニークな文化

 臥竜塾生がブログを書いていますが、先日、こんな内容を書いていました。

「現在、1歳児は昼食時にエプロンをしています。イスに座った子どもから、職員がその子のエプロンを付けていくのですが、先日、ある女児がその行為を真似して、他児にやってあげていました。保育園などではよく見られる姿であると思うのですが、よく考えると、不思議です。なぜ、そのような行為をするのでしょうか。様子を見ていると、褒められるためでも、相手のためでも、喜んでもらうためでもないかのように、ただただ淡々とやってあげています。エプロンのマジックが付いたことを確認すると、相手の様子をうかがうことなく、また別の子のエプロンを付けにいきます。- 略 -

面白いことに気がつきました。それは、エプロンを付けている女児ではなく、自分のエプロンを付けられている男児にスポットを当ててみたのです。よく見ると、そのエプロンは本来の向きではなく、逆向きで付けられているのです。そして、その男児はそれに気がついています。4月生まれの高月齢である男児は、懸命にそのエプロンを直そうとしますが、しばらくするとやめてしまいました。職員に向きを変えてほしいと訴える様子もなく、そのまま「いただきます」をしていました。「別にこれでもいっか…」と思ったのか分かりませんが、ただ事実として、「やってもらっていた」ではなく、「やらしてあげていた」といった主体的な受動であることがうかがえます。その男児には、きっと、コミュニケーション能力の「ゆずる」とか「任せる」とか「委ねる」とか相手の気持ちを尊重することにつながる力を培っているとも考えることもできるのではないでしょうか。」

 アメリカのマックス・ブランク進化人類学研究所共同所長であるマイケル・トマセロは、「ヒトはなぜ協力するのか」という本の序章のいちばん最初に、「動物の多くの種では、個体は、他の個体が経験することや奮闘する様子をうまく利用して、様々なことを社会的に利用します。」と書かれてあります。そして、このこなすやり方は、種によって、集団によって違っています。それが、その種による文化となるのです。この文化によって、その種の生存をつないできたのです。とくに、ヒトは優れた文化を持っています。

 以前のブログで、グレートジャーニーということを書きましたが、中央アフリカで誕生したホモサピエンスは、数万年で地球上に散らばっていきます。ヒトという種の特徴はいろいろと言われますが、「南極大陸以外の陸地すべてに生息している生き物である」ということもあります。他の動物は、それほど広く分布していません。最も近縁な大型類人猿たちが、アフリカおよびアジアの赤道付近にしか生息していないのに対して、ヒトは、この地球全体に生育域を広げています。なぜ、それほど広く生息しているかというと、その地に合わせた文化を創ってきたからということもあるでしょう。と言うことで、ヒトは、「文化を持つ種」ということも言えるでしょう。どこにいっても新たなものや行動慣習を生み出すことで、それぞれの環境から降りかかってくるピンチをしのいできたのです。一人一人が社会的に学ばなければならない物事の数は、コミュニケーションのための言語的慣習を含めて、ヒトの文化は、他種のそれと比較して量的にユニークなものであると、マイケルは言います。

 しかし、そのユニークさは、量的な問題だけでなく、質的にもユニークなものなのです。

社会脳の研究の今後

 「ソーシャルブレインズ入門」という本の著者である藤井さんは、「経済的利益を求めること自体に問題はありません。一般には、利益追求と、他者へのリスペクトは互いに相反することのようにとらえられがちです。しかし、どちらも必要ですし、おそらく共存できるはずです。僕には、過去の世界と比べてはるかに成熟した余裕のある現代社会では、この二つを上手に回すことで、より人々が幸せに過ごせる社会を作りことができるのではないかと思えます。」と書いています。

 少し違うかもしれませんが、渋沢栄一は、『論語と算盤』という本の中で、利殖について、「真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない」と書いています。それは、すなわち「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」と言っているのです。そして、最後に、渋沢は、自己と国家の関係においては、自己のことよりも、国家社会のためを考えるべきことを説いています。ここには時代性を感じますが、ここでいう国家社会のためと言うことは、己の利欲ではなく、仁義道徳に基づいた利殖が真正のものだと言いたいのでしょう。それは、国家社会によって自らは満足に世に立つことができるからであり、その恩恵に報いて、社会のために助力すべきだというのです。その方が、心が楽しめると言っています。

 この考え方は、少し前のブログでセリグマンのうつ病についての考え方を紹介しましたが、「うつにならないためには、あなたの持っている時間とお金のほんの一部でいいので、人のために使ってみてください」という問いかけにも通じることです。そして、この人のためと言うことは、他者との関係性において無条件で他者の存在を肯定するリスペクトを少しでも持つということかもしれません。

 ヒトは、リスペクトとそれを求める関係性欲求があり、他者とのコミュニケーションにおける相互の「承認」作業が重要であるという研究が盛んに行なわれているようです。また、逆に「承認」作業の背後にあるメカニズムを、リスペクトを通じた関係性欲求を満たすものと考えるならば、リスペクトを前提と知るヒトの理想的なコミュニケーションのあり方を、ソーシャルブレインズ研究を通じて理解できるかもしれないと藤井さんは考えています。なぜなら、ソーシャルブレインズを理解するということは、コミュニケーションのメカニズムを理解し、他者との関係性を最適化するメカニズムをあきらかにすることだからと言います。

 今後、ますます研究が進み、次第に解明されていくであろう社会脳と言われるソーシャルブレインズは、コミュニケーションを前提とする社会のありかた、そのときにヒトの行動、その機能の獲得の過程における環境のあり方などを提案することになるかもしれません。しかし、私が「情動の科学的解明」についての委員会に参加していたときに、これらの研究は非常に困難であるという話を聞きました。それは、多くの神経科学の実験では、課題遂行中の被験者や実験動物は、閉じた環境での課題で要求される行動レパートリーを学習し、課題の要求に応じて行動を切り替えるようになるのです。その場合の脳の働きは、適応機能というよりも、むしろ課題条件に応じて行動を切り替える機械的なものとして見えるのです。

 しかし、現実の社会は、課題の中に予測不可能な要素があり、外部に開かれた環境の中で行動します。そこで、現場にいる私たちが、その姿、行動をもっと見ていかなければならないのです。私は、社会脳の研究は、臨床検証が必要となる分野のような気がしています。

経済優先

 社会の中にリスペクトがない場合は、社会ルールによって認知コストを下げることになります。そして、社会全体で消費される認知コストを減らします。しかし、もし社会の中でリスペクトが浸透していったのなら、社会的ルールがなくても社会が必要とする認知コストは減ることになるはずです。しかし、そうならずに、ルールが一般化しています。それは、どうしてなのかを藤井さんは説明しています。

 リスペクトを前提としない経済優先型の行動戦略がもたらす利益が、認知コストの削減から来るメリットと比較して大きなものであるからではないかと考えています。つまり、他者とのコミュニケーションにおいて、リスペクトという利益に直結しない態度より、戦略的に効率を重視した態度で振る舞う方が、短期的には経済的利益が得やすい構造があるからなのです。

 しかし、このような状況は気をつけなければならないことがあると藤井さんは警告します。それは、リスペクトの欠如が与える影響は短期間では出てこないので、なかなか気がつきません。おそらく、その欠如はボディブローのように社会を徐々に疲弊させていくのではないかと危惧しています。それは、個人のレベルで、関係性欲求の不全という形で浸透し、さらに認知コストの増大という形で私たちを追い詰めていくのです。短期的な経済優先戦略は、余裕にないときの最適な戦略だと藤井さんは言います。何よりも、経済的利益を確保することが、現代社会での幸せに直結すると考えられているからです。もちろん、金銭が保証してくれる快適さはあきらかに存在しますし、それを否定する必要もないと藤井さんはいいます。たしかにお金を払えばおいしいものを食べることはできますし、快適な住居を手に入れることも可能です。私たちの戦略的行動に必要とされる高い認知コストは、言ってしまえば所詮エネルギー需給の問題ですから、金銭を支払うこと、つまり快適な生活を手に入れることで相殺できるのではないかと言います。

 しかし、他者との関係性の欠如は経済的成功では保証されないのです。そのため、リスペクトのない社会というのは、人々の心が荒廃していくのではないかと危惧されます。ちょうど、乳児院の子どもたちが他者との接触がないせいで、発育障害を起こし、ひどい場合には死んでしまったように、現在の日本の状況を見ると、それがそのまま起きているような気がすると藤井さんは心配しています。

 このように、今の日本の状況を説明することは、違う観点から人と関わることが少なくなってきたリスクを考えることができます。人の行動、考え方は、短期的な利益だけで、またコスト論で考えるべきではないのです。しかも、人類の取ってきた生存戦略を、現代の環境によって、忘れてはならないのです。

 しかし、この経済優先戦略は、私たちの生活に余裕がないことも原因の一つです。余裕のないサルは、上位のサルに対する抑制も弱く、我先にエサをとろうとするそうです。この傾向は、私たちの社会行動にも共通していると言われています。余裕のない人は、他者へのリスペクトが少ないか、もしくは全くないように見えます。それはある意味で未熟な社会性であり、それを一歩進めることで、より高度な社会性を身につけることができるのです。

 はやく、それに気づいて、経済優先ではない、豊かな生き方をして欲しいものです。

成熟

 4月当初、園では新入園児の泣き声があちこちで聞かれます。初めての場所、初めての人に不安だからでしょう。そのときの赤ちゃんの脳の認知コストは高くなっていることでしょう。それは、脳にとっては望ましくないでしょう。次第に赤ちゃんは環境に慣れていきます。それは、この場所、この人が安心する場所であり、人であるということが分かってきたからです。これは、社会環境の変化に応じて適応的に行動を変化させるための脳の機能の働きによるものであり、それがソーシャルブレインと呼ばれるものです。その機能は、生まれたときから徐々に後天的に身につける他者とのコミュニケーションをベースとする適応能力なのです。ですから、そのときの赤ちゃんに起きる、人見知りのような態度、知らないヒトになくという行為は、ある程度必要なことなのです。その時期に、かわいそうだということで、見知った人とだけ接するということは、社会脳が後天的に育つことが困難になってしまう気がします。

大人でも、ある人が自分にリスペクトを示してくれたとしたら、おそらくその人との間に存在する社会的な緊張感は低下し、その人に対して割かなければならない認知コストは大きく減るはずです。これは脳にとっては望ましい状況です。つまり、社会的な環境の中で人と人が共存するために、他の個体の存在から派生する認知コストを下げるということは望ましいということになります。そこで、子どもの頃は、相手が自分に対してリスペクトを持って接していることを前提として振る舞うと言われています。子どもが示す無垢な純真さはそこに現れると藤井さんは言います。しかし、徐々にそれを前提として振る舞うことが必ずしも社会的に正しい、もしくは自分に対する最大の利益が得られるわけではないことを覚えていきます。

そのため、他者とのコミュニケーションの機会が増えるにつれて、わたしたちは相手が示すリスペクトの有無を気にしなければならなくなります。なぜなら、リスペクトのある社会文脈では、相手は自分の利益に考慮をはかってくれるのに対して、それがない場合には、相手の利益優先で物事が進むことが多々あると藤井さんは考えています。つまり、自分が考慮しなければならない社会的文脈の変数が増えることになるのです。これは、認知的に大きなコストとして、私たちの脳にのしかかってきます。そのために、人は社会ルールを作ってきたのです。

そこで、私はあることを思い出しました。それは、ネオトニーとよばれる幼形成熟という考え方です。人類の生存戦略の一つにこれがあるのではないかと言われています。それは、成熟してもある幼さを残すということで、霊長類の中では、人類がそれをいちばん持っていると言われていますし、黄色人種がより持っているとわれています。その幼さとは、人類が社会的な環境の中で人と人が共存して生きていくために、他の個体の存在から派生する認知コストを下げるために、相手が自分に対してリスペクトを持って接していることを前提としている幼児性を持ち続けているのではないかと思っています。

そのネオトニーをより多く持っている黄色人種に比べて、比較的少ないと言われている白人社会では、早いうちから社会的ルールが必要になってきたのかもしれないと思います。それによって、社会全体で消費される認知コストを減らしてきたのでしょう。

社会的行動

 他者の存在というものは、常に自分の存在に対して潜在的なリスクと持っています。しかし、お互いの間にリスペクトが存在したら社会的な緊張感は低下し、お互いの間での認知コストは大きく減るでしょう。これは、脳にとっては望ましい状況です。つまり、社会的な環境の中で人と人が共存するために、他個体の存在から派生する認知コストを下げるということは望ましいことといえます。そうでなければ、個体間のコミュニケーションにおいて、相手を疑い、その振る舞いの意味に関して膨大なリスクの可能性を考慮しなければならないために、立ち止まらざるを得ず、スムーズに回らないであろうと藤井さんは言います。

 気を許すことのできない他者に対して緊張して臨む戦略的態度はとても疲れますが、それに比べて、気心の知れた相手とのつきあいは、認知コストが低いので気楽であるということになります。そのような意味で、リスペクトが作る好意的な社会的文脈は、認知コストを下げるという意味でも、コミュニケーションの基盤として重要だということになると言います。

 私たちは、生まれ落ちた瞬間に、母親からの無条件のサポートを失います。このことは、あらゆる生物が、自立した個体として生まれ落ちるに当たっての必然だと藤井さんは言います。多くのほ乳類は、生まれ落ちた瞬間から、自分で立ち上がろうとしますし、歩こうとします。それは、母親からのサポートによって、外敵から身を守るのには限界があるからです。それに比べて、ヒトの子どもは他の動物種の子どもと違い、生まれた直後の自立性は高くありません。むしろ、ヒトの場合、放置されれば100%の子どもが生存できない状態で生まれます。そのために、生存のための機能として関係性欲求が過剰に組み込まれているのではないかと藤井さんは考えています。

 人間の赤ちゃんは、一人では何もできません。誰かにやってもらわなければならないのです。他者との関係があってこそ生き残ることができるのです。そして、それが関係性の中で生存してきた乳児期を過ぎた後にも、生物学的な行動選好のバイアスとして、つまり私たちの社会的行動の基盤として作用し、他の動物種とは異なる複雑な社会的行動へと導いていったのではないかと考えられるのです。

 社会脳と呼ばれるソーシャルブレインズは、社会環境の変化に応じて適応的に行動を変化させるための脳機能だと言われています。その機能は、生まれたときから徐々に後天的に身につける他者とのコミュニケーションをベースとする適応能力であり、コミュニケーションを必要とする以上、その根本に母子関係の持つ特徴が残っている可能性が強いのだと言います。

 ソーシャルブレインズは、母子間コミュニケーションをコアとして、発達の過程で、それを拡張した機能であるといえるのではないかと藤井さんは考えています。私たちの他者とのコミュニケーションの原型は基本的に母子間コミュニケーションから始まりますが、純粋な意味での母子間コミュニケーションはいつまでも続くものではなく、常に間に家族や他者が介入し、その介入の中で母子間コミュニケーションの割合は徐々に低下し、他者とのコミュニケーション機能へと一般化されていきます。その一般化プロセスでソーシャルブレインズが獲得されていくのだと言います。

 子どもにとってコミュニケーションが必要なのは、3歳まで母親で、それから後が他者との関係というのではなく、母親と他者との割合が徐々に変わってくるというものなのです。

リスペクトの性質

 コミュニケーションと社会脳の神経機構の解明を主要研究テーマにしている藤井さんは、あらゆる人にとって、生まれる前に母体から受ける生物としてのリスペクトが、生後の私たちの存在に重要な要素と考えています。では、そのリスペクトがどのような性質を持っているかという点について、こう説明しています。まず、いちばん身近な友だちにリスペクトを与えると考えてみるように言います。それは、「無条件の存在肯定」をすることです。これは簡単です。では次に、その友だちからリスペクトを受け取ることを考えてみるように言います。しかし、それは簡単ではありません。このように、欲しいと思っただけではもらえないこと、それがリスペクトの持つ、とても重要な性質であるというのです。

 つまり、自分に向かうリスペクトは自分自身で作ることはできず、他人に強制することもできないというのです。リスペクトはそこに存在するものであり、けっして受け手が作るものではないというのです。それは、友だちに与えるリスペクトについても同じことで、私たちが能動的にできるのは、自分がリスペクトを他者に示すことだけなのです。つまり、リスペクトは、発する人から受け手への一方通行の構造を持っているのです。そういう意味で言うと、見返りを求めるような男女間ののようなものとは違っているために、きちんと区別した方がいいと藤井さんは言います。もし、愛とリスペクトの関係を考えるのであれば、愛の前提条件としてのリスペクトが必須であると考えることが妥当であるといいます。

 この説明は面白いですね。言い換えれば、相手の人へのリスペクトは、一方通行の無条件の存在肯定だったのが、愛に変わるに従って見返りを求め始めるということなのですね。

 このリスペクトは、社会脳の構造とどのような関係があるのでしょうか?まず、リスペクトは、個人のレベルでしか発生しませんし、それが個人に帰属するうえに、一方通行の性質を持ちますから、双方向的なネットワークを作りません。二人の間で、お互いにリスペクトを表したとしても、それはあくまで二人の間にそれが存在するだけで、それ以外の人にはまったく意味がありません。とすると、そこで、二人が表現しているのは、「私はあなたの存在を100%肯定していますよ」という場であり、それが二人の間に流れる文脈に反映されているのです。それによって、それがないときとは異なる、特有の社会的文脈が生まれます。そして、その文脈に応じて、私たちは適応的な行動を選択していることになるのです。

 そのときに、もちろんリスペクトがなくても文脈は形成されますし、それに従う適応的行動を私たちがとることが可能ですが、双方向のリスペクトがあるときと、ないときでは、私たちが考慮に入れなければならない選択肢は大きく異なると言います。たとえば、ふたりの間にリスペクトが全くないとしたら、互いに油断はできませんし、いつ何が起きてもおかしくないというのです。つまり、他者の存在というものは、常に自分の存在に対して潜在的なリスクと持っているというのです。

 昨日のブログで書いた、首に貝殻の首飾りをかけるのは、「私はあなたを支えます」というメッセージとともに、「私はあなたにリスペクトを感じています」ということかもしれませんし、それは、「私の存在は、あなたにとって潜在的なリスクがありません」ということの表明なのでしょう。それは、特に血のつながりのない全くの他人から表明は、より必要な行為だったのでしょう。それは、彼らからは何をされてもおかしくないという可能性が高かったからなのでしょう。

絆を確かめる

以前のブログでNHK取材班による、カラハリ砂漠に住むサンの人たちを取材した内容を紹介しました。彼らは、特に女性ですが、驚くほど大量の首飾りを身にまとっています。それは、私たちの祖先であるホモサピエンスの最古の遺跡で見つかっている大量の首飾りにしたであろう貝殻の意味を探ることになるかもしれないという取材でした。脳における社会脳の研究から見えてきた「乳児の生存にまず必要とされるのは、自分以外の他者との関係性欲求を満たすことだったのではないか」というある答えが、この取材からも見えてくる気がしますので、もう一度その内容を振り返ってみたいと思います。

この取材から分かったのは、彼らサン族では、食料を基本的にはみんなで分かち合うということでした。「彼らの社会で最も嫌われるのは、ケチと自慢です。生き残るためには分かち合うことがとても重要だったのだと思います。最悪なのは身勝手に村の生活の歩調を乱す人です。サンの人たちの生活スタイルを見ていると、一番根源的な人間の生き方、私たち人間に共通している特徴が見えてきます。」それは、今回のブログで見えてきた「「人の喜びや幸せは、個人の中にあるのではなく、むしろ他者との関係性の中にあるのではないか」ということにつながりますし、私たち先祖が、生存戦略として他者との関係性を構築することを獲得してきたことを表していることになるような気がします。

さらに、彼らは、なぜそこまで分かち合う必要があるのかということに、取材の中ではこう答えています。「自分勝手な人は自分の家族だけでしか分かち合いませんが、私たちはグループの中の誰とでもシェアしつづけます。一緒に住んでいるのに、私たちがもし分け合わずに自分勝手にやっていたら飢えて一族もろとも死んでしまったでしょう。」そして、この分かち合う社会に装飾具が登場します。それが、サン族学部にかけている何本もの首飾りなのです。この首飾りは、誰かからプレゼントされたものです。彼らは、こう言います。「祖先たちがずっと交換し続けてきたから私たちも交換するのです。その交換は続いていくのです。だから、首飾りをたくさんしていない人は、交友関係が少ない人です。私のようにたくさんしている人は、交友関係が多いのです。困ったときに助けてくれる人が多いのです。」まず、赤ちゃんが生まれると、親戚はビーズを乳児にプレゼントし、血族の証にするのです。「いつまでもあなたのことを助けにいきますよと」

そのために、必死に貝殻を拾い集めます。その貝殻は、砂の混じった水に何度も洗われながら光を持っていきます。その光は、反射して光るだけでなく、光を通して、美しい明かりとなります。この光の宝を絆の印として、首にかけてあげたのでしょう。

 500万年とも700万年ともいわれる前に隆起した地形の中から、kaihiroi貝殻を見つけそれを磨き、人との絆をつないでいる人がいます。館山に仕事場を持つ福田さんです。今週日曜日に、彼と貝を拾い、貝を磨く体験をさせていただきました。磨くといっても、無理矢理に凹凸をなくすというのではなく、砂と波になって、その中で貝を転がすというイメージです。自然が、長い年月行なってきた営みを、体験するというイメージです。kaikizuna (2)

装飾品は、人との関係性があるからこそ、価値が出るのかもしれません。本当にいわれは別として、私は、結婚指輪という装飾品は、相手との絆を確認しながら首に首飾りをかけてあげた人類の祖先のように、相手との絆を約束して指にはめる装飾品かもしれないと思いました。

 

存在肯定

母子関係の構造が人のコミュニケーションの根幹にあり、子どもが期待するコミュニケーションのフォーマットは、母子関係のすべてに共通する何かに依存したものになるはずだと言います。それは、母親の性格に依存した何かを期待しても、それが裏切られる可能性があるのであれば、それを期待していては生後の自己生存を保証できないからではないかと藤井さんは言います。

乳児は一人では、自分だけでは生きていけません。当然、他者と関係を持たないと生存が可能になりません。その関係性を、母親が、どのような性格であろうが、自然と誰でも持っているとしたら、赤ちゃんからは何もしなくても面倒を見てもらえます。放っておいても、コメントにあるように、虐待など本当にまれな特別のことであり、ほとんどあり得ない話になってしまうはずです。しかし、現実は必ずしもそうとはいえない事件が起きています。

それが、もし胎児が母親の胎内にいるときには、その母体である母親がどのような性格であろうが、胎児は成長し、育っていきます。そして藤井さんは、「母体内で享受する無条件の存在肯定を、生まれてからも継続して期待しているのではないだろうか」と考えています。もし、胎児として母親の胎内にいるときに受けていた無条件の存在肯定を生存の前提条件として常に期待しているのなら、乳児期以降の他者とのコミュニケーションにおいてもその欲求が引き継がれていることは、十分に考えられるからだというのです。なぜなら、他者との関係性を持つことは、乳児期には生死を左右するほど重要な要素だからです。それが、乳児期以降に全くなくなるというのは不自然なはずです。

このようなことを考えるのは、私たちが行き続けるために必要なことであり、保育に携わる私たちが考えないといけないことのように思います。いまだに、保育というものを認知的な能力を子どもたちにつけていく幼児教育であると思っている人が多数を占めます。また、子どもにとっての母親の存在を、ただ情緒的に最も大切な存在であり、子どもは母親が育てるべきであるというような考え方ではなく、私たちが行き続けるために自己の存在を肯定してくれる関係を誰かと築いていくことの重要性として語らないといけないのです。そして、その存在として、母親や父親、もしくは新作の誰かが提供してくれるということは、人生の初期においては、多いかもしれませんが、年を取るに従って、それらの親族との距離も離れ、死別も重なり、血縁からの存在肯定は徐々に失われていくものであると藤井さんは言います。特に、自分自身が親の世代になれば、頼られることはあったとしても、自分が頼ることのできるよすがが、だんだんと少なくなっていくものであるといいます。

藤井さんは、「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」をリスペクトと呼んでいるそうです。そして、リスペクトの流れを考えることが、社会の中での個人の幸せの根幹にあるのではないかと思っていると言います。

 私は、藤井さんが、このような無条件な存在肯定をリスペクトと呼ぶのかがいまいち理解することが困難です。普通に考えると、母子関係における無条件の存在肯定は、とても生き物として崇高な行為ですし、生存戦略においてもっとも重要な要素であるということは分かりますが、どうも藤井さんはそのような意味で呼んでいるのではないようです。