仕草からの情報

 少し前に、テレビで昔の番組を放送していましたが、そのなかに「ジェスチャー」という番組がありました。この番組は、1953年から1968年までNHKテレビで放送された超人気番組です。この番組は、テレビ放送が始まって少したって始まった番組ですが、それまで中心だったラジオ番組と大きく違うテレビの特性を生かした物です。それは、声だけでなく、姿が映るようになったことを利用して、人が示す姿から何を伝えたいかを当てるゲームです。ジェスチャーゲームは、今でもレクリエーションなどで行われているゲームですが、そのジェスチャーという言葉は、和製英語です。このような遊びは、英語ではcharadesといいます。しかし、ジェスチャー(gesture)という英語もありますが、それは、本気でやる気がないのにかっこうだけして見せる「思わせぶりな言動」という意味で使われます。

 このゲームではありませんが、顔の表情や目からの情報だけでなく、ヒトは、「しぐさ」からも情報を伝えることをします。特に、その情報は、言葉では伝えることができない、心の内面を伝えることができるのです。この伝達方法も、私は、子どもの方が大人より繊細な気がします。ですから、大人は、とかくその言いたいことを見逃してしまうことが多いような気がしています。私の園では、「見守る保育10か条」それぞれのポスターを作っていますが、その8条は、「8条 子どもが自立していくこと、自己の意思を表明しようとすることを、保育者は妨げてはならない。」とあります。これは、子どもの権利条約12条を元にしているのですが、子どもの意思の表明の多くは、態度で表すことが多いのです。

何か言いたいことがあるのかな?
何か言いたいことがあるのかな?

このように身体による表現は、内的な情報伝達に有効な方法ですが、それは、脳の働きから見ると、どのようなことなのでしょうか?

 それを説明するのが、何回もブログに登場している「ミラーニューロン」の働きに関係するようです。このニューロンである神経細胞は、自分の動きでも、他人の動きでも同じように反応するという物です。この発見は、まだまだ懐疑的な意見ももちろんありますが、近年の神経科学の中で、最も重要な発見で、画期的と言われています。それは、この発見によって、神経科学のみならず、多くの周辺領域に影響を与えることになりました。

 このミラーニューロンの最も重要な点は、他者の動きそのものに反応することではなく、他者の行動の目的に応じて反応することです。こんな例が提示されています。たとえば、実験者がボウルの中に入った果物に向かって手を伸ばします。すると、それを見ていたサルのミラーニューロンは、自分の手を伸ばしていないのに、他人が行う行動をただ見るだけでも活動します。しかし、まったく同じような運動を行ったとしても、サルがボウルの中に果物が入っていないとわかっている場合には、反応を見せないというのです。

 つまりこれは、ミラーニューロンが単純な視覚刺激に対する反応ではないことを示しています。この結果を通じて、ミラーニューロンを発見したリゾラッティらは、ミラーニューロンが反応しているのは、他者の行動意図の内容を理解した反応だと主張したのです。この他者の行動意図の理解に関与しているという発想は、非常に斬新的なものでした。これは、やはりブログに何度か登場したEQ力である「心の理論」とも密接なつながりを持つ重要な主張ですし、私たちが様々な学習を行うとされる模倣行動を通じて行動の意図が共有できるというように発展できるからです。

 ここで、私たちが提案していることに共通の課題が見えてきました。

顔や目の表現以外の情報伝達

 私は、乳幼児期は、大人になってから失われてしまう能力を持っていると思っていますし、それは、科学ではなかなか解明できないものが多くあるということを考えていますが、その理由の一つには、乳幼児期では、大人と違って、また、様々なところが未発達であるが故に、違う手段でそれを補おうとすることがあるのではないかと思っているからです。ですから、その未発達な部分は、未熟だとか、遅れているとかと言うよりも、違う方法を持っているということにもなると思います。たとえば、言葉で十分と情報を他人に伝えることができない乳幼児では、言葉を使わないで他人に伝える違う手段を持っているということになり、その能力においては、大人より優れているのかもしれないと思うのです。

 その手段の一部が、顔の表情であったり、目による表現なのです。もちろん、その機能は、大人も持っています。私たちの脳には、そのような言葉にならないメッセージを伝え合うコミュニケーションのチャンネルが備わっていることを藤井さんは言っています。さらに、そのような非言語的な情報の方が、むしろ私たちの意思決定に強い影響力を持つというのは、現実の日常生活の中で実感することだと言います。藤井さんは、スムーズなコミュニケーションを構築するために、自分の意思を伝える手段として目の動きや表情を上手に使うこと、そして、相手も同じことをしているという自覚を持ちながら他者と対することだと言います。

 これらの認知機能は、ソーシャルブレインと呼ばれる社会脳の働きの一部ですが、他者とのコミュニケーションの基本をなす機能だと言います。しかし、この機能は常に使う必要はなく、必要なときに自由に使えるようになると、おそらく日常生活が少し過ごしやすくなると藤井さんは言います。さらに、意識的に使えるようになれば、戦略的な「賢い」人になれると言います。しかし、実際は、これは難しいことのようです。

 現在、社会脳についての研究は、視覚的な社会情報の認知機能と心理的な社会情報処理の大きく二つに分けられ、社会的認知機能として、顔や表情の機能がありますが、もう一つ、「しぐさ」に認知機能があります。私たちホモサピエンスは、世界中で生活している人類の共通の先祖です。その中でホモサピエンスの生存戦略が功を奏した物の一つに、「笑顔」があります。世界中の人類は、笑うときに皆同じ表情をするそうです。その表情によって、敵意がないことが相手に伝わりました。それは、顔や目には、自分自身の意図や感情を効率的に表現するための決まったフォーマットがあると言います。

 藤井さんは、面白い分析をしています。「私たち日本人は感情表現が苦手だとされますが、それは表現の起伏が激しい欧米から見た場合のことで、逆の見方をするなら、私たち日本人は微妙な感情表現の差異を表現し、感じることのできる能力を持っているという意味になります。」と言うことは、私たち日本人にとっては、欧米の大げさな感情を理解するのは簡単ですが、逆に日本人の微細な感情表現を理解できないという欧米人がいることをよく聞きます。しかし、それは感情間の差異の幅に関する違いであり、笑いは笑い、怒りは怒りという点は、共通のフォーマットに乗っているはずだと言います。

 そのような非言語メッセージによる情報伝達は、顔や目の表現だけではないのです。

前を向く

onbuhimo ジャレド氏は、「昨日までの世界」のなかで子育てにおいて、伝統的社会から学ぶべきであると提案していることについては、ブログで何度か紹介しました。その一つに、「乳児を抱きかかえ、正面を向かせる」ということがあります。一時、赤ちゃんとは向き合った方がいいということで、だっこが多くなり、ベビーカーに赤ちゃんを乗せるとき親子が向き合えるようなスタイルのものが発売されました。しかし、今でも、日本では、だっこはほとんど親の方を向かせて抱く親が多いようです。

 しかし、Newsweek日本版の抱っこひもの広告ページの写真は、赤ちゃんは正面を向かせて抱いている写真が掲載されています。それは、赤ちゃんは好奇心が強く、いろいろな物に興味関心があり、いろいろな物を見たいと思っています。また、そのときに精神的に安心するのは、信頼の置ける人と同じ物を見ているということが大切であることをやはり以前のブログで取り上げたと思います。それが、「共同注視」とか「共同注意」と呼ばれることで、日本では長いあいだ、赤ちゃんをおんぶするということが普通でした。そのときには、赤ちゃんはおんぶされながら、おんぶしている人と全く同じ物を見ていたということが言われています。そうすることによって、赤ちゃんは落ち着いていたと言われています。

 この共同注視という機能は、目を使った情報伝達の重要な要素として、何かの対象に対して注意を他者と共有するという機能なのです。ですから、共同注意とも言われます。藤井さんは、この機能をこんな例で説明しています。「電車の中で、向かいに座っている人が、ハッとした様子で中吊り広告に見入ったとします。たぶんみなさんも、その中吊り広告がどんなものか気になるでしょう。もしかしたら、向かいの人が見ている間に一緒に見上げることは躊躇して、しばらくたってからそっと見上げたりするかもしれません。」いずれにしても、自分がどこを見ているのかということをはっきり周辺に伝えるという意味で、目の動きを認知する機能というのは、重要な働きをしているのです。

 特に赤ちゃんとお母さんの間で行われる共同注視から、赤ちゃんはお母さんの仕草を通じて様々な学習を獲得していくと考えられており、共同注視がは子どもの心理的発達に関わる重要な要素でもあると言われているのです。ですから、おんぶは、赤ちゃんにとって大いなる学習の場だったのです。

 藤井さんは、社会は、お互いがこの機能を持っていることを前提にしていると言います。ですから、コミュニケーションの相手がその機能を失ったときには、それを機能不全のせいだと思うのではなく、むしろその原因を各自の性格に求め、その人の人格を疑ってしまうことになりがちであると藤井さんは指摘します。

 どちらにしても、ヒトは他者の目を見ること、そしてそこから何らかの情報を読み解くことは、私たちの社会的行動において重要な働きのようです。

目からの情報

 「壁に耳あり、障子に目あり」という言葉がありますが、これは、どこでだれが聞いているかわからず,秘密はとかく漏れやすいということを表していますが、壁は、その向こうから誰かが耳を押し当てて聞いているかもしれないということから、「壁」を例に出しています。特に、昔の長屋では、隣の声が壁越しによく聞こえたのでしょう。それに対して、「目」という誰かが見ている象徴として「障子」を例にしています。それは、障子に穴を空けて、中をのぞくことがあったからでしょう。秘密のことを相談したりするとき、誰かが見ているかと不安になることがあります。その象徴が、「目」なのでしょう。

 また、昆虫の目玉模様が鳥除けになる機能があることから考案された防鳥グッズがあります。大きな目玉をぶら下げておくと、カラスなどが怖がるということで、今ではジェット機のエンジンから駅のホームにまで使われているようです。鳥の天敵の姿をつるすよりも、目玉だけをつるすことで効果があるようです。同じように、人の目に似たような物に私たちは敏感に反応するようです。たとえば、天井にある目のように見えるシミとか節などは子どもの頃怖かった気がします。それは、人の機能として、目の動きに関して、意識的に注意を払わなくても、自動的にそれを見つけてくれるシステムがあると藤井さんは言います。

 このシステムは、側頭葉の一部、上側頭溝と呼ばれる場所にあるとされています。この場所は、人の顔を認知するときと同じように、人の目の動きに敏感に反応する特別な場所だとされているようです。この場所から、神経活動を記録すると、目の動きに強く反応することが知られているようですし、この部位が障害を受けると、他人の視線の動きを理解することができなくなるようです。この場合は、顔自体はきちんと見えているにもかかわらず、視線からの情報を読み取ることがとても難しくなるのだそうです。しかも、顔の認知における障害同様、本人はおかしい反応をしているという自覚があまりないそうです。ですから、昨日のブログと合わせると、人は、どうも顔認識と目の認識の二つから情報を読み取っているということになります。

 しかし、これらの障害は、音は聞こえるわけですから、電話ではコミュニケーションはとれますし、メールなどでもとることができます。では、どんなときに困るのでしょう。人は、音声だけでなく、なぜ、顔からや目からの情報が必要なのでしょう。必要でないのであれば、そこから認知する脳の部位も必要でないはずで、進化の過程で衰えてきているはずです。その理由を理解することで、最近、人とのコミュニケーションをメールやラインで行うことについて考えることが必要になると思います。

 藤井さんは、目を使った情報表現は、意識的、無意識的の両方で行われると言います。特に、無意識に行う情報表現は、本人に期待しつつも、それが帰ってこない場合に妙な違和感を覚えるということになるらしいと言います。この相手の違和感は、会話が続くほど蓄積していくのです。そして、「どうもこの人とはうまく意思の疎通がはかれないなあ」という感想を相手から持たれてしまうと言います。しかし、相手が違和感を持っているとは、当の本人は気がつかないのです。しかし、違和感をもった相手の行為がそれによって少し違うものになることだけは気がつきます。しかし、その原因はわからず、本人はどんどんストレスがたまってしまいます。それだけ、目から受ける情報は、コミュニケーション上、問題になることが多いのです。

顔からの情報

 藤井さんは、人が顔を認知するときには、「目」と「顔」の二つからしていると考えています。それは、それぞれが破壊されてしまった患者が存在するそうです。しかし、これまでの視覚の研究では、物の形を認識する機能について行われてきたために、顔の認識の機能も、顔という物に対する視覚の機能として取り扱われてきました。それに対して、顔の認知は、物の認知と全く違う機能であるという考えがあります。この問題については、現在を続いているようです。

 藤井さんは、顔を認識する経路は、完全に独立したものとは考えていないようです。顔を認識する機能は、やはり進化的には物を認知する一部として始まっている可能性が高いからです。脳の基本的な戦略は、重要な物に必要に応じて余分なリソースを割くことで、その場合は、まったくあたらしい処理経路を作るのではなく、既存のシステムを使ってある要素に特化させる方法が効率的だからです。どちらにしても、他者の顔という視覚要素に対して特別な働きを見せる脳領野が存在していて、その部位が壊れるとその機能が選択的に失われるということは確かなようです。

 では、その機能が失われてしまうと、どうなってしまうのでしょうか?いろいろな物が見えても、顔だけが認識できなくなるとどうなるかです。このようなケースは、高次認知機能の障害ですが、その感覚機能そのものが脳の中から存在しなくなることが多く、本人にはその機能が欠損したことがわからないというケースも多いそうです。いわゆる、高次機能がやられてしまうと、客観性を保つことが難しくなるそうです。

 では、もう一つの認識機能の「目」についてはどうでしょうか?まず、目の動きにはどのくらい情報があるかという点です。誰かと話すとき、相手の目を適度に見て話を進めることが重要であるとよく言いますが、それにはどのような意味があるのでしょうか?藤井さんは、それをこう考えています。一つには、相手の目を見て話さないことは失礼であるという社会的な意味があります。これは、きわめて人為的な要求で文化的違いもありますが、上下関係が明らかな場合に、上位の人から要求されることが多いようです。先生から、子どもにむかって「目を見て話しなさい!」と言う場合が多いということです。

 藤井さんは、こう考えています。「目を合わせるという行為は、一種の競合であり、通常回の人が先に視線を外すことで両者の上下関係が確定するからです。つまり、不安定な上下関係をとりあえずの確定状態に置くという意味で、その場の不安定な社会関係を一時固定して、話を先に進めるという役割がある。」と考えています。

 もし目を合わせようとしない相手との打ち合わせは落ち着かないと言います。これは、お互いの間に社会的上下構造の設定ができず、その場にいる人々は常に不安な状態にさらされるからだと考えています。ということから、適度に目を見て話すということは、「場の社会的構造を安定させる一つの社会的な知恵」ということになります。

 もう一つの意味は、相手の目の動きから情報を読み解くという役割です。目の使い方によって様々な駆け引きが可能になります。それは、非言語的な行為ですが、現代社会で生きていく上で必須条件です。それは、目に対して特別に敏感に反応する場所が脳の中にあるからのようです。

見知る

 赤ちゃんは、いわゆる「人見知り」をするようになります。「見知り」とは、「見知っている人。面識のある人。」という意味と、「見て知ること。見おぼえ。」という意味の二通りあります。赤ちゃんは、人のどこを見て、知るのでしょうか?そして、何のために人の顔を区別しなければならないのでしょう。「昨日までの世界」を書いたジャレド・ダイアモンド氏によると、「小規模集団の社会では、集団の内でも外でも、移動の自由が制限されている。そのような社会では、人は自分の友人か、敵か、それとも見知らぬ他人かで識別される。」と書いています。この「敵」とは、「自分の集団と敵対関係にある近隣の血縁集団や村落の人々であるが、その人物の名前や自分とどのような関係にあるかということや、時にはその人物の風貌まで知っている。」と分類しています。

 それに対して、「見知らぬ他人」とは、自分が属する小規模血縁集団との関係や接触をほとんど持たない、遠く離れたどこかの集団の人物で、どこの誰であるかを自分が全く知らない人間のことである。」彼らとは、基本的には遭遇することはほとんどありませんが、もし、彼らが、自分たちのすむところに来る場合には、彼らのとって非常に危険なことなのです。ですから、自分たちにとってもそんな危険を冒してまで来るということは、彼らは、何か魂胆がある、略奪しようとしてやってきたのか、自分たちを殺そうとしてやってきて、その斥候があたりの様子をうかがっているのではないかと思うことが、現実的には最もあり得る話ということになるのです。

赤ちゃんは、612カ月頃になると、ハイハイやよちよち歩きによって、自分の意思で移動することが可能になります。それは、外に向かって行動し始めるということです。そこには、見知らない人がいる可能性が大きくなります。そこで、その時期には、しっかりと戻るべきベースキャンプのような安心基地を確保しておこうという、防衛的な行動も同時に取り始めます。そして、その判断を、母親など、明らかに信頼の置ける人の表情を見て判断し始めます。それは、生きていく上で、非常に大切な行為なのです。いわゆる、赤ちゃん自身が他人を判断するときの基準を、信頼する母親などに合わせていて、その人の反応によって他人を評価しているのです。赤ちゃんは、親などの目を通して他人を見るのです。この行為が「人見知り」です。

そして、この人見知りによって、見る力、区別する力、記憶力、とっさの判断力を養っています。このとても重要な行動のために、人は、視覚的に社会的情報の認知機能と心理的な社会情報処理の二つを持ち合わせています。そして、視覚的なものとして、顔や表情の認知機能、しぐさの認知機能などがあげられます。心理的なものとしては、心の問題、他者との関係性欲求などさらに高次の認知機能が上げられます。

これらの認知機能として、簡単にいうと、まず私たちは、人と出会って、その人が誰かを判断しようとするときにどこを見るかです。藤井さんは、人が顔を見たときの目の動きを観察してみました。すると、ほとんどの人は、写真の目と口、鼻を中心として視点を動かしているということがわかったそうです。特に視線を左右の目に向ける回数は、顔の他の部分に向ける視線と比べてはるかに多く、目には何か必要な情報があると考えます。それは、他の人の研究でも同じ結果が出ているようです。それはどういうことになるのでしょうか?

 

部分から全体へ

 人類が社会を形成して生存してきたことは、自明の理だと思います。しかし、自明であるが故に、それがはっきり証明されていないという矛盾を含んでいます。それは、社会を構成するための要素の主な部分が、私がダークセンスと名付けた、人として持っている何かしらの感覚があるからだと思っています。ですから、その多くは哲学的に語られることが多かったのでしょう。しかし、そこを何とか科学的に解明しようとする試みが、現在様々な学問によって行われています。特に、脳と社会の関係をネットワーク的視点から見るあたらしい方法は、徐々に広まっているようです。その基本的な取り組みを、「ソーシャルブレインズ入門」という本の中で藤井直敬さんが解説しています。

 地球に生存している生物は、それぞれが不思議な能力を持っています。それは、生きるということは非常に微妙なことだからです。行為として生きていくということは、あらゆる状況を判断して、そこに対応していく必要があるからです。それは、母親の中にその兆しが見えたときから始まっています。それに対して、死ぬという行為自体は簡単です。ほんの一瞬のことでも、ほんの些細なことでもその条件が崩れたときには死に直面してしまいます。そのような生物の中で、特に人間にとってはとても生きていくということは、大変なことだと思うのです。ですから、そう簡単に自ら死を選択してはいけないと思いますし、他人の生を脅かしてはいけないと思っています。それは、生の神秘の研究が進めば進むほど実感してきます。あかちゃんの研究が進めばよりそれを強く思えてきます。

 人類にとって、その機能を科学的に解明するときの困難さは、人それぞれが社会というネットワークの中でそれぞれの役割を持って構成していると同様、一人の人の中のそれぞれの機能がネットワークを持って機能しているからということもあります。私たち保育の現場では、それぞれの機能が複合して、それぞれが関連し合って行動している姿を見ているために、その解明は偏りが生じますが、逆にそこから部分的な推測を立てるしかありません。しかし、科学的な解明では、その逆で、それまで行われてきた個別研究からヒントを得て、社会的能力を司ると言われているソーシャルブレインを理解していくことが必要になるのです。

 しかし、通常、細分化された問題を再び組み立てて全体像を理解するということには、ある困難さが伴います。それを、藤井さんはこう説明しています。「1000ピースのジグソーパズルがあるとします。試行錯誤の結果、何個かのピースをつなげると一つの丸い輪郭ができることがわかりました。そうなるとしめたものです。後はその囲い込んだ領域の内側を埋めていけば一つの領域が完成です。」この作業は、今まで科学が行ってきたやり方だといいます。ところがそのやり方では、細分化した部分への集中のあまり、本来なら連続しているはずの近接した問題の関わりが徐々に失われてしまうと藤井さんは指摘します。外側とのつながりを失い、内側の問題解決にのみ専念してしまいがちであるというのです。

 だからといって、部分が重要ではないということではありません。それらの部分が全体を作っているからです。

 では、今までに研究されてきた部分についてみていきたいと思います。その一つは、視覚的な社会的情報の認知機能で、もう一つは心理的な社会情報処理です。

脳と社会

私たちを取り巻く社会にはさまざまな“ネットワーク”が存在しています。もちろん、その基本は人間関係です。そして、その人間関係において、噂が広がり、感染症が広がっていきます。また、複雑に込み入った食物連鎖や生態系も種のネットワークといえます。さらに、生物の本質もネットワークだといえます。それは、その本質と言われる脳は、軸索によって接続された神経細胞のネットワークであり、さらに神経細胞自体も生化学反応でつながった分子のネットワークなのです。

 こうした複雑なシステムは多種多様でばらばらに見えますが、実は重要な特性を共有しているのです。それらを「ハブ」と呼ばれる中継点が、数百、数千、中には数百万ものをつなげているものもあります。もちろん、多くのハブはそれほど多くをつなげてはいませんが、こうした点でスケール(縮尺)が存在しない(フリー)ように見えることから、「スケールフリーネットワーク」と言います。このネットワークは重要な性質をいくつか持っています。その1つは、偶発的な障害に対しては非常に強いことが挙げられます。フリーネットワークと対象にされるネットワークは、ランダムネットワークと言います。それは、たとえば、高速道路網のようなネットワークですが、このランダムネットワークは中継地点がいくつか破壊されると、システムは動かなくなり、孤島に寸断されてしまいますが、スケールフリーネットワークではいくつかの経路が残り続けます。このネットワークの代表的なものにインターネットがありますが、その上では常に数百台のルーターが故障しているのですが、大きな混乱はほとんど生じていません。脳の中のネットワークは、そのようなネットワークです。

 こうした性質を理解すれば、さまざまな分野に応用できるといわれています。例えば、インターネットのようなネットワークをコンピューターウイルスから守る効果的な戦略を編み出したり、病巣だけをたたく医薬品の開発に役だったりするでしょう。また、消費者の購買行動を科学的に理解できるようになる可能性もあるといわれています。このように、さまざまな現象をネットワークの視点で捉えると、新たな発見があるかもしれません。

 脳の領域には、ハブとして機能する領域があります。そこでは多くの領域から入力を受けて、ある一定の処理をした後に別の脳領域へ情報を返す領域があるのです。また、領域間のネットワークと同じように、神経細胞レベルでも、局所神経回路を横断的につなげるような、ハブの性質を持つ神経細胞の存在がいろいろと知られているそうです。

 この脳のおかげで神経細胞一つから始まり、それが集まって小さな機能単位を作り、その小さなたくさんの脳領域が相互に、さらにその他の脳領域とつながることで作られる多層的な神経ネットワークとしての脳があります。そして、一つの脳から始まり、家族、地域、職場、国といった多層的なネットワークとして構成される社会、この身体を教会としてつながる二つの異質の階層性ネットワークが、私たちが暮らしている社会であると藤井さんは言います。

 しかし、この見方は神経細胞から見たボトムアップ的な見方であり、逆に社会からトップダウン的に見ると、脳はその中に組み込まれているサブシステムといってもいいのではないかと藤井さんは言っています。どちらにしても、社会とは、多くの要素が形作る多層的構造を持つネットワークといえるようです。

宇宙から細胞へ

 人間の発達を、宇宙の成り立ちから人間の進化の過程から考えてきました。それは、ビッグバンから始まり、次第に宇宙という空間の中に緊張したそれぞれの関係から銀河系などが創世され、その中でそれぞれの星がお互いの距離感を保ちながら存在していきます。一方が強ければ、そこに吸収されてしまい、また、弱すぎると離れていってしまいます。その緊張関係は、太陽系の中にも存在し、また、地球と月の関係にも存在します。それぞれ、太陽、地球を中心に回ることによって、離れようとする力と、それをつなぎ止めようとするバランスを保ちながら、一定の距離間を常に保ち、均衡を図っているのです。

 その距離感は、地球上にすむそれぞれの生物間にも同様な緊張感があります。ある種が滅びてしまったり、少なくなってしまったら、逆に増えすぎたりしてその均衡が乱れてしまうと、どこかに弊害が生じます。その距離間を保つための約束が行動制限ということになるのでしょう。ですから、それは当然、国同士にも隣の人との関係の中にも、あるでしょう。それが、社会という人間同士を保っているのです。このような社会的ネットワークのあり方は、なんと、ある意味でマクロの世界だけでなく、ミクロの世界にも通じるものがあるのです。それは、脳の構造と仕組みが、社会の構造と仕組みに非常に類似しているということです。それが、ソーシャルブレインと言われる社会脳です。

 しかも、社会が人一人から始まり、人々が互いにつながることでその多層的なネットワークシステムを実現していると同じように、神経細胞一つから始まり、それが複雑なネットワークを構成することで、脳という多層的なネットワークシステムが構築されていると藤井さんは言うのです。

 もちろん、非常に類似していると言っても、神経細胞ネットワークと社会ネットワークでは流通している情報の質もそこで行われている活動の質も異なってはいますが、両者は独立したネットワークではなく、同じ人を介してつながっているのです。藤井さんは、その関係をこう言っています。「脳は人の中にあります。社会の最小構成単位である人一人の外と内に、身体の境界面を境にして階層的な質の異なる二つのネットワークが存在することは、両者の間に共通するコミュニケーションプロコトルが存在しないことには、うまく回らないのではないかと思うのです。」

 一時、日本には真の意味でのハブ空港がないため、羽田空港のハブ空港化構想が話題になりました。この「ハブ」とは、車輪の中心にあるもので、自転車で言うと、そこから放射状にスポークが張り巡らされて車輪を支えています。そのように、さまざまな地域からの航空路が1ヵ所に集まり、人や物がそれぞれの目的地に向かって乗り換えや積み替えできるような拠点空港をいいます。

 この「ハブ」のように、人と人をつなぐために、明らかに他の人と比べて突出したボリュームのつながりを持っている人が存在します。言い換えれば、「顔の広い人」ですが、そういうハブになる人が散発的に現れることで、社会というものができあがっています。こういうハブを持つネットワークの性質をスケールフリー性と呼ぶそうです。それは、スケール(縮尺)が存在しない(フリー)ように見えるネットワークのことを言います。脳のネット絵ワーク構造も、このようなスケールフリー性を持つと考えられています。

 

行動制限がなかったら

 たまに人との関係に疲れるということを聞くことがあります。誰もいないところにいきたいと思う人がいます。たしかに、人との関係の中にいると、ぶつかることもありますし、遠慮しなければならないこともあります。好きなことを自由にやりたいと思うこともあるかもしれません。そんなときに、誰もいない無人島へ行ってみたいと思うかもしれませんし、透明人間になってみたいと思うこともあるかもしれません。「ソーシャルブレインズ入門」という本を書いた藤井直敬さんは、本の中でこんなことを書いています。

 「透明人間になったらどうしますか?たぶん、最初は好きなことを好きなだけするでしょう。(ドラえもんの中で透明人間になったのび太がしずかちゃんの部屋に行ったように)好きな女の子の部屋に忍び込むこともあるかもしれません。普段は入ることのできないペントハウスでくつろいでみるのもよいでしょう。しかし、そういう制限のない生活にはすぐに飽きてしまうでしょう。なぜなら、そこには他者との相互作用が生まれないからです。みなさんのふるまいは誰にも見えないので、誰かが反応することはありません。透明人間になって相互作用のネットワークから完全に外れ、これまでできなかったことを思う存分やれたとしても、そのような社会のルールを破る楽しさは、やはりそれを誰かと共存してこそ面白いのであって、誰とも共有できないとしたら、あまり面白くないように思えます。」

 私の園には、見学者が多く来ます。そんなときに「大変でしょ?」といわれることがありますが、私はこう言います。「女性も見られる人がいるからきれいでいようとするのです。」「見学者がいることで、いい保育をしようとするものですよ。」と答えることにしています。ですから、「できるだけ公開保育をすると、保育を見直すことができ、かえって自信を持つことになりますよ。」と助言をします。確かに、無人島で生活するのであれば、化粧する必要もないかもしれませんし、透明人間であれば、おしゃれする必要もないかもしれません。もしかしたら、何をしてもいいというのは、見方を変えれば、何をしても誰も気にしていないとか、誰も見ていないということかもしれません。

 つまり、社会から与える行動制限は、一見私たちの生活をつまらないものにしているように見えますが、じつはその平板な毎日の中で他者とつながる喜びとのトレードオフになっているのかもしれないと藤井さんは言います。さらに、こう言っています。私たちの創造性を狭めているように見える「空気」による社会的抑制は、一方で、他者とのコミュニケーションをもたらしているのです。そこで得られた想定外の情報や刺激がわたしたちに働きかけ、一人で過ごしているときには決して手に入れることのできないダイナミックで多様な創造性が立ち現れる気がすると藤井さんは言います。

 私は、このように思える人は、鬱にもならず、引きこもりにもならない気がします。最近、人との関係における想定外の情報や刺激に対応できないことがストレスになってしまう人が多くなった気がします。それは、小さいうちから空気を感じないで育って来たことが一員の気がします。というよりも、空気を感じる必要がなかったともいえます。少子化により、兄弟の葛藤が少なくなり、また、親が何でもかなえてしまおうとし、子どもは、自分の思い通りに過ごすことが可能になってきたため、人の気持ち、行動、動機を察する必要がなかったのでしょう。