模倣の進化3

共認充足するために、相手を自分と重ねて見て、相手になりきり、相手の期待を捉えて応えていけばいいのですが、その「相手になりきる」ために獲得した機能が「模倣」ではないかと考えられています。すなわち、人類が危機を乗り越えるために、社会を作り、協力して生存してきたキーワードが、「模倣」だといえるのでしょう。

しかし、チンパンジーも人類と同じように新生児模倣が行われるということから、「模倣」という遺伝子を持って生まれます。しかし、その後、どうして人類のみが「模倣機能」を獲得していったのでしょうか?それは、私が考える発達観によりますが、その機能を引き出すための環境が影響しているのではないかというのです。

「チンパンジーもヒトも 新生児期にはある程度の模倣能力を持っているのに、ヒトだけが模倣能力をぐんと発達させていくのはなぜなのか?それは、周囲の大人が無意識に子どもに模倣させるような育て方をしているからだと思います。」と言うのは、明和政子(京都大学大学院教育学研究科准教授)です。彼女は、どのような環境が模倣という能力を増していったかということを言っています。

ヒトの場合は、模倣を中心としたコミュニケーションを通じて、他人からたくさんのことを学びます。まずは他人の模倣をすれば、一人でゼロから試行錯誤的に学ぶ必要はないわけです。これは、よく保育でも言っていることで、まず、真似してみることからはじめるといいと思います。どうしても真似ることに抵抗があり、「いちから見直してみます。」と言ったところ、その後試行錯誤しながら構築していくのには、かなりの時間がかかってしまいます。それよりも、まず真似て、そこから修正していった方が効率的です。人類の脳の機能も、まずいろいろとすべてをつけ、そこから削っていく方が効率的だということで、そのようにできているのです。

そして、人類は、身につけたこと、獲得した高度な機能を次の世代に伝えていかなければなりません。そのときの手段では、もちろん言語によることが多いのですが、この模倣によるところが非常に大きいと思います。模倣は、ヒトの文化を大きく発展させた一つの要因だと考えられています。ここで面白い研究があります。ヒトと同じように育てられたチンパンジーは、ヒトの2~3歳児程度の模倣能力が育つそうです。しかし、それ以上には育たないのは、遺伝子レベルの違いによるところが大きいのではないかと考えられています。この研究を見ても、遺伝子とその後の環境が影響していることが分かります。

チンパンジーの模倣能力の発達でも、少なからず環境の影響を受けるということがあるのですが、逆にヒトもまた、ヒトらしい環境で育てられない限り、ヒト特有の模倣能力を発達させることはできないのです。

それでは、ヒトらしい環境とはどのような環境なのでしょうか?なぜヒトは他人の身体 の動きまでそっくりそのまま模倣するように進化してきたのでしょうか。ヒトにとって模倣とは、コミュニケーションを円滑に行うための手段であり、生きていくために欠かせないものだということは、コミュニケーションをとる相手の模倣から始まります。まず、身近なお母さん、次第に、きょうだい、祖父母、次第に友達、地域の人たちへと広がっていきます。そして、思春期になると、スポーツ選手や、イメージの中の理想の人物だったりするでしょう。さまざまな人と出会い、まねしたりまねされたりする経験の中で、ヒトは幅広い知識や技能を身につけ、心を発達させていくのです。

模倣の進化3” への16件のコメント

  1. 模倣というのは自分以外の人からの贈り物のようでもありますね。それは身近な人からであったり、もっと広がればずっと昔の人からの贈り物でもあるような、そんな印象を受けました。「人類は、身につけたこと、獲得した高度な機能を次の世代に伝えていかなければなりません」という部分からは伝統ということにつながっていったりするのかなと思ったりもしましたが、どうなのでしょうか。どうして人類だけが模倣機能を高めることができたのかということで、周囲の環境や育て方が関係しているとありました。無意識に大人がしているということですが、それはやはり周囲の人とコミュニケーションをとることで、円滑に物事を進めたり、生活をしていくための生きる術や知恵という経験則が無意識という部分に表れているのかなと感じました。様々な人の名言が時に自分に気づきを与えてくれる時がありますが、そんな名言に言葉や言い方は違えど共通した部分が多々あることがあります。そんな名言を残した人々の生きる知恵を真似る、模倣することで、世間との付き合い方、円滑な生き方などを人々は学んでいるのかもしれませんね。模倣は幅広いですね。

  2. ヒトが生存し、生き延びてきた理由に、以前のブログでもありましたが、協力し合うとことがありました。
    そして、゛「相手になりきる」ために獲得した機能が「模倣」ではないかと考えられています゛とあり、協力するためには自己主張ばかりしていては、協力することができない、お互いの考え方が一致したり、方向性があったときに初めて互いに力をあわせてという形になると思います。そのために、まずは相手を知ること、つまり、相手の気持ちがわかるための模倣という機能が必要なことだと思いました。゛人類は、身につけたこと、獲得した高度な機能を次の世代に伝えていかなければならない、言語だけではなく、模倣からのほうが非常に大きい゛とも文章にあり、この模倣という能力が、ヒトの機能として、よりよく生きる、次の世代への必要な生きる力となると考えると、模倣は、自己の生きる力として、受け継がれたものだと考えられます。私自身も、他者から学び、こうすればいい、ああすればいいなどと考えたときには、必ず、模倣する相手がいたと思いました。それは、人的環境としても、様々な特徴をもったヒトを見る経験が必要であり、そういった環境を作るのも、時代に合わせた配慮だと思います。

  3. 人類のみが「模倣」を発達させてきたという点において、明和政子氏が言う「周囲の大人が無意識に子どもに模倣させるような育て方をしているから」といった視点は非常に面白いですね。遺伝子に組み込まれているだけでなく、その能力を発揮したり表現できるような環境がそこにあることで、「模倣」を獲得し、極めていくということであると感じました。また、その「模倣」の役割として、多く分けて2つあると読み取れます。まずは、「模倣」を通してたくさんのことを学ぶということは、それが結果的に“生きていく知恵”になると思います。そして、その知恵をつなげるための、“次世代への伝承”が必要になってきます。それらが、「模倣」を模倣たらしめる要因になるのではないかと読み取れました。しかし、その2つはサルでも行うのではないかと思ってしまいました。「ヒトらしい環境」とは何なのでしょう。最後に「ヒトは幅広い知識や技能を身につけ、心を発達させていく」と書かれてあったということは、やはり“心”が「ヒトらしい環境」のポイントであるように感じます。

  4. 子どもの時に、「人のまねをしないで自分で考えなさい」と言われたことがあります。もしろんこのことは大切ですが、効率的なことを考えても、まずは真似をしてから少しずつ修正する方がより効率的だと最近は特に感じています。また、文章にあった「思春期にはスポーツ選手のまねをする」というとですが、私の周りにも真似から入る人がたくさんいました。特に野球選手やサッカー選手は投げ方打ち方、蹴り方をまねてなんでこんなことが出来るのかと考えたものです。当時はもちろん「模倣」という考えは全くなかったのですが、一から考えるよりも、真似から考えや知識が広がることの方が多いような気がしました。

  5. 赤ちゃんの頃の記憶はないので最近のことになるのですが、自分が何かの模倣をするときは結果的にその方法が効率的だったと分かりますが、やっている最中は効率非効率はほとんど考えず、ただ単に好奇心のみで行動していることが多いように思います。好奇心からどうしてもやってみたくなり、我慢できずに行動しているというパターンです。遺伝子の働きであったり周りの環境であったりと理由は様々なのでしょうが、その元には強い好奇心があるんではないかと思います。そして模倣を促す環境を考えたとき、身近な存在からスタートして少しずつその対象を広げていくことは重要な点だと思います。子どもたちの発達や興味関心に合わせて世界を広げていくことなんかも、大人の大事な役割なんでしょうね。

  6. 今日のを読んで分かったのですが、共認充足のために、相手と自分を重ねてみて、なりきり、相手の期待を捉えて応えていくのですね。昨日のじゃ、あまり理解ができていなかった気がします。
    ブログにもありますが、保育もそうで、まずは真似してみることからはじめるのが大切というのは、その通りだと思います。しかし、真似をするのに抵抗があると思う人がいるのも確かです。それは周りにも、どうせ真似でしょというような雰囲気があるようにも思います。人類が模倣をしてコミュニケーションをとっていたのに、なぜこのような、真似を良しとしない風潮があるのか、疑問です。

  7. わが子が小さい頃、その頃私はタバコを吸っていました。ある時、わが子を見たら、お菓子のポッキーを人差し指と中指で押さえ口に入れたポーズをとっていました。その時、私は咄嗟にまずいと思いました。しかし、その後もニコチンの誘惑から逃れられずに月日の経過をみました。まもなくして喫煙を止めると、わが子もそうした仕草をしなくなりました。正直ホッとしました。卒園式の時、卒園児は「大きくなったら〇〇になりたいです」と自分の夢を表明します。その中に「保育士さんになりたいです」ということを耳にすると、あぁ、うちの先生たちは立派なモデルになっているんだと嬉しくなります。わが子や卒園児のことを振り返りましたが、共に大人の模倣の産物としての仕草であったり表明であったりします。真似はどういう動機によって成立するのでしょうか。カッコいいと思うのでしょうか、素敵だと思うのでしょうか。考えられることは、少なくとも、模倣によるプラスのマインドを子どもは持つのではないかと思うのです。「プラスのマインド」は自己実現に繋がるマインドと先天的に思うのでしょう。しかし、喫煙の姿をプラスと捉えられると困ります。やはり私たち大人はわが子の前と言えども居住まいを正し、規律ある生活をお手本として示す必要があると思います。子ども及び子どもたちの姿は、やはり私たち大人の姿の反映だと真摯に捉えることが大切でしょう。「今どきの子どもは」と言った時点で、その評価はすぐに「今どきの大人」に向けられるのでしょう。

  8. 模倣により人らしい能力を身につけていくこと、改めて大切なものということを知りました。
    保育園で生活している自分たちは子どもたちにとって模倣したくなる存在であり、いつも見られていることを考えると、身が引き締まります。
    自分も子どもの頃は野球選手の投げ方、打ち方などまねして遊んでいました。
    このブログを読み、その頃はなんとなくしていたこの真似も実は意味があることであったのではないのか、と思いました。
    普段何気にしていたものが実は、祖先の頃から遺伝子に組み込まれていた、人としての心を育てていく行為であったと考えると人間の面白さを感じます。

  9. 「相手になりきる」ために獲得した機能が「模倣」ではないかと考えられているのですね。「相手になりきる」ことは、相手を理解する上でも大切なことですね。模倣をする環境下で育つことで、いずれ意識して憧れや尊敬の念を抱いている相手や理解したい相手を模倣をすることができるのでしょう。「ヒトらしい環境とはどのような環境なのでしょうか?」という投げ掛けがありました。人らしい環境とは、集団に属している環境でしょうか。狭い人間関係では、模倣する相手が限られてしまい、他人への理解の幅が狭くなり、やがてそれが悪い刷り込みや思い込みとなってしまうように思えました。よく保育園は、初めて集団に属する場と言われますが、このことからも保育園の存在意義を改めて感じています。そして私も子どもたちの模倣対象であることを忘れずに子どもたちとの関わりを深めていきたいと思えました。

  10. ヒトだけが模倣能力をぐんと発達させてきた理由の一つとして「周囲の大人が無意識に子どもに模倣させるような育て方をしているからだと思います。」とあります。この無意識に模倣させる育て方というのを今まで伝承してきたことにすごさを感じます。その伝承は生きていくために必要な能力だからこそ自然と伝承されてきたのではないかとも思います。生きていて足りない能力があればそばにその能力を持った様々な見本がいます。その見本を本能で模倣し、その能力を獲得していくことで成長していくのでしょうね。幅広い人間の能力があります。模倣してその能力を自分の力へと獲得しているところを保育で見ることができました。ブロックゾーンでブロックを綺麗に箱に入れている男の子がいました。その子に「お片づけ上手だね」と声を掛けると「違うよ、これは⚪︎⚪︎先生の真似をしてるんだよ。」という返事がありました。こんな獲得が日々現場であると思うとかなりの幅の可能性を感じます。

  11. おそらく多くの人は模倣をして色々な事を学んでいくと思います。その中でも、自分のオリジナル、例えばエジソンのように1から生み出す力を持っている人が「天才」と呼ばれる人で、それは生まれ持った才能であり、役割だと思います。ですから私のような人は、藤森先生はもちろん、色々な人の真似をして、そこから自分なりの考え方や形を作っていく事が、自分の役割を知る一番の近道のように思いました。
    ただ摸倣だけで見て、少し視点を変えるとどんな動物も模倣をしているかもしれません。例えばライオンの子どもは親の狩りの姿を見て、狩りの方法を覚えます。しかし人間しか出来ない摸倣は「考え方」ではないでしょうか?例えば見守る保育を実践する上での理論、まずは藤森先生の考え方を模倣して、その中から少しずつ自分に合った形になると思います。摸倣は決して恥じることではなく、むしろ人として生きていく上での重要で当たり前の行動なんですね。

  12. 私の場合、模倣による学びや学習は師匠と弟子といった職人の世界を連想してしまいます。言葉で伝える部分もありますが、多くは師匠の技を見て真似て吸収して自分のものにしていくということが、実は私たちの生活の中でも自然と行われているように思えました。保育においても私の動作や行動を子どもたちが真似ていることがよくありますが、そこからも様々なことを感じ、学んでいるとしたら、そのことをより意識することが私自身にも必要だと思います。そのことを含めた上で、ヒト特有の模倣能力を発達させる環境のあり方というものをしっかりと考えていきたいと思います。

  13. 〝他人の模倣をすれば、一人でゼロから試行錯誤的に学ぶ必要はない〟とは至言で、これほどまでに効率的で生産的な方法はないと思います。〝もし真似をすることに抵抗があるとしたら、その人は我が強いのだ〟とは先日読んだ本の中の言葉なのですが、オリジナリティを追求すると言えば言葉は格好いいのですが、時間にしても何にしても、僕からすると少しもったいないことだと思います。その意欲は、全てを真似た後に発揮すれば、更に進化を遂げたものへとなっていくかもしれないからです。
     〝ヒトらしい環境〟の中で育てられていくことがとても重要であることを感じます。僕が知っている保育園では、製作をする時間というのが日によって設けられていて、その時間に、隣の子が描いている絵を真似して描いた子に、「好きな絵を描いてって言ったでしょう。真似をして描いてはいけません。」と怒る先生がいました。このようなことを思い出す度に、ヒトらしい環境で子ども達が過ごせるようにどんどん発信していかなくてはならないという気持ちを改めて強くします。

  14. 人類が身に着けた生きるための知恵といった高度な技術を次の世代に伝えるために「模倣」を選んだというのは、いろんなところから感じ取ることができると思います。よく言われる「子どもは親の背中を見て育つ」という言葉や、だんだん年を重ねるごとに自分の親がどんなことをしていたか思い浮かべるようになったり、そういったことを表していると思います。それほど人類にとって大切な「模倣」ですが、どうして真似ることということに抵抗があるのでしょうか。私なりには、「模倣」ということが大切になりすぎて、人類からさらに、各種族といった形に分かれ、そこから各技術を守るために「模倣」に対して敏感になったということではと感じました。人類としての生存を考えた時、種族を気にせず「模倣」できる関係を目指していきたいですね。

  15. 「他人の模倣をすれば、一人でゼロから試行錯誤的に学ぶ必要はないわけです」とありましたが、この言葉は以前に藤森先生が園内研修で環境を観ていた際に、おっしゃっていた言葉で、相手の園の先生が「ここはせいがさんの真似をさせてもらいました」「あそこも真似させてもらいました」と説明をしながら案内をしていました。そこで藤森先生が、「いちから見直して試行錯誤し構築していくのには、かなりの時間がかかってしまいます。それよりも、まず真似ることで取り込みそこから自分らしさを出していけばそれはオリジナルになります。そしたら今度は、こちらから勉強をさせてもらうことができます」とおっしゃっていました。それまで「真似をする」という事は、自発性が無く人のアイディアを盗んでいるといった感覚だったのですが、藤森先生からのこの言葉を聞き「先ずは、真似してみることからはじめる」という事の大切さを感じました。

  16. 保育において真似をするということの大切さはよくわかるのですが、いざ自分がなにかを「真似をする」ということはあまり良いイメージを持っていませんでした。しかし、そこから学んでいることは多いんですね。そして、そうはいっても、自分が生きてきた過程で他の人の真似をすることは数知れなかったですし、そっくり真似をしないまでも「影響を受けた」ということは計り知れないです。すべて自分から発想してきたということは深く考えると無いのではないかとすら思います。それほど、模倣するということは生きていくなかで非常に重要なプロセスであると思います。そして、そこには「周囲の大人が無意識に模倣させるような育て方をしている」ということがあるんですね。チンパンジーがヒトと同じように育てると2~3才の模倣能力が育つというのは驚きです。遺伝子だけでなく、環境の影響は大きいですね。保育をしていても言葉だけで伝えるのは難しいです。そこで周りにいる子どもをモデルにして、気づくようにします。それも一種の模倣ですね。ヒトは人に影響され、日々学んでいるんですね。

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