模倣の進化4

チンパンジーもヒトも 新生児期にはある程度の模倣能力を持っているのに、ヒトだけが模倣能力をぐんと発達させていきます。それは、周囲の大人が無意識に子どもに模倣させるような育て方をしているからだと明和政子さんは言います。

それは、ヒトの大人、特にお母さんは、おせっ かいと言っていいくらい積極的に子どもに関わります。子どもの気持ちを勝手に解釈して声を掛け、「一緒にやってみようね」「こうするのよ」と同じことをやらせますよね。できたら「すごいすごい」「できたね」と大げさ に褒めます。このような行為を、私たちはこれを意識せずにやって見せているというのです。明和さんは、「これが実はすごく大事で、こうしたおせっかいな環境なしに模倣の能力は育たないだろうと思うのです。」と言っています。

明和さんは、「おせっかいな環境」と少し面白く表現していますが、実は、積極的な関わり方をヒトはするのです。それに対してチンパンジーは、しないようです。こんな例を挙げています。「大人のチンパンジーが硬い木の実を石で割っていると、子どものチンパンジーがやってみたそうに覗きこんできます。こういう場合、私達ならたぶん“やってみる?”と言ったり、手をとってやり方を教えたりするでしょう。しかし、チンパンジーの大人は子どもにそのような態度をみせません。“見ていてもいいよ、じゃましてもいいよ、でも一人でやってごらん”というのが、チンパンジーの育て方なんですね。」

大人から積極的に教育を受けずに、自分で試行錯誤することで学ぶのが、チンパンジーの子どもが育つ環境だというのです。しかし、これらの例を読むと心配になることがあります。たとえば、大人のやっていることをのぞき込んでいる子どもに、「やってみる?」と言わないで、「邪魔だから向こうに行ってなさい!」と言ったり、「危ないからあなたはやってはだめ!」と子どもにはやらせないとしたら、チンパンジーよりもひどい環境になってしまわないかと心配になります。しかも、チンパンジーは、自分で試行錯誤させることで学ぶように親は仕向けるのですが、それもさせないとしたら、どうなのでしょうか?発達を促す環境とは、なにも周りに用意するものであるだけではなく、関わり方も発達に影響する環境なのです。

ヒトは、他人の模倣をすることによってコミュニケーションを円滑に行うようになります。それは、生きていくために欠かせないものです。その模倣は、言語による情報伝達を獲得するまえに、自分の心と他者の心をしっかりと重ね合わせることによる情報伝達の手段だったようです。その模倣には、少し前のブログで取り上げた「同時性」という要素があるのです。では、最も同時性があるであろう、鏡に映る自分の顔に対する反応はどう作用するのでしょうか?鏡の中の自分が自分であると感じるのは、実は非常に高度な認知機能が必要であると、「ソーシャルブレイン入門」を書いた藤井直敬さんは言っています。そして、この自己認知能力を獲得するには、3~4歳まで待つ必要があるといっています。この考え方は、多くの研究者が述べているところですが、私は、この部分に疑問を持っているのです。

研究者たちの根拠に、有名な「口紅実験」とか「マークテスト」などがあります。そして、これらのテストは、ヒトの場合、ある程度の年齢以上でなければパスできないということから認知機能の獲得の年齢が考えられています。しかし、私は、実際に子どもを観察していると、認知しているかどうかではなく、認知しているという行動を起こすのが34歳頃だと思うのです。

模倣の進化3

共認充足するために、相手を自分と重ねて見て、相手になりきり、相手の期待を捉えて応えていけばいいのですが、その「相手になりきる」ために獲得した機能が「模倣」ではないかと考えられています。すなわち、人類が危機を乗り越えるために、社会を作り、協力して生存してきたキーワードが、「模倣」だといえるのでしょう。

しかし、チンパンジーも人類と同じように新生児模倣が行われるということから、「模倣」という遺伝子を持って生まれます。しかし、その後、どうして人類のみが「模倣機能」を獲得していったのでしょうか?それは、私が考える発達観によりますが、その機能を引き出すための環境が影響しているのではないかというのです。

「チンパンジーもヒトも 新生児期にはある程度の模倣能力を持っているのに、ヒトだけが模倣能力をぐんと発達させていくのはなぜなのか?それは、周囲の大人が無意識に子どもに模倣させるような育て方をしているからだと思います。」と言うのは、明和政子(京都大学大学院教育学研究科准教授)です。彼女は、どのような環境が模倣という能力を増していったかということを言っています。

ヒトの場合は、模倣を中心としたコミュニケーションを通じて、他人からたくさんのことを学びます。まずは他人の模倣をすれば、一人でゼロから試行錯誤的に学ぶ必要はないわけです。これは、よく保育でも言っていることで、まず、真似してみることからはじめるといいと思います。どうしても真似ることに抵抗があり、「いちから見直してみます。」と言ったところ、その後試行錯誤しながら構築していくのには、かなりの時間がかかってしまいます。それよりも、まず真似て、そこから修正していった方が効率的です。人類の脳の機能も、まずいろいろとすべてをつけ、そこから削っていく方が効率的だということで、そのようにできているのです。

そして、人類は、身につけたこと、獲得した高度な機能を次の世代に伝えていかなければなりません。そのときの手段では、もちろん言語によることが多いのですが、この模倣によるところが非常に大きいと思います。模倣は、ヒトの文化を大きく発展させた一つの要因だと考えられています。ここで面白い研究があります。ヒトと同じように育てられたチンパンジーは、ヒトの2~3歳児程度の模倣能力が育つそうです。しかし、それ以上には育たないのは、遺伝子レベルの違いによるところが大きいのではないかと考えられています。この研究を見ても、遺伝子とその後の環境が影響していることが分かります。

チンパンジーの模倣能力の発達でも、少なからず環境の影響を受けるということがあるのですが、逆にヒトもまた、ヒトらしい環境で育てられない限り、ヒト特有の模倣能力を発達させることはできないのです。

それでは、ヒトらしい環境とはどのような環境なのでしょうか?なぜヒトは他人の身体 の動きまでそっくりそのまま模倣するように進化してきたのでしょうか。ヒトにとって模倣とは、コミュニケーションを円滑に行うための手段であり、生きていくために欠かせないものだということは、コミュニケーションをとる相手の模倣から始まります。まず、身近なお母さん、次第に、きょうだい、祖父母、次第に友達、地域の人たちへと広がっていきます。そして、思春期になると、スポーツ選手や、イメージの中の理想の人物だったりするでしょう。さまざまな人と出会い、まねしたりまねされたりする経験の中で、ヒトは幅広い知識や技能を身につけ、心を発達させていくのです。

模倣の進化2

他者の身体の動きに注目した模倣は、他者と同じ経験を忠実に繰り返すことを可能になっていきます。ヒトは、社会を形成することによって、何かを他人に伝えることが必要になってきました。その手段として、言語による情報伝達を獲得するまえに、自分の心と他者の心をしっかりと重ね合わせることにより、他者がなにを考えているのか、何を意図しているのか、といった心的状態を、他者の行為を観察するだけで読み取ることができるようになったに違いありません。それが模倣という手段で、自分が属する社会のメンバーと円滑にコミュニケーションするうえで、欠くことのできない能力だったのです。

この模倣能力は、「ミラー・ニューロン」と関係があるのではないかと考えられました。しかし、そのニューロンの発見は、サルがある特定のものの操作をするときと、ヒトであった他者がそれと同じ操作をするのを見て、両方で同じように活動したことからです。つまり、このニューロンの存在は、認知できる行為は実行できる行為であることから、模倣できることを示唆しているのではないかと思われたのです。しかし、サルがこうした行為を模倣することは困難であるということがわかり、その関連については今後の研究が待たれているようです。

このように、「サルまね」と言われますが、実は、ものを操作しないような「身体の動き」の情報しか含まない行為を模倣するのは、サルにとって非常に困難であるようです。ヒトとチンパンジーの模倣能力の違いの実験をテレビで見たことがあります。それは、こんな実験でした。くま手を使って遠くの物を引き寄せるという行為を、チンパンジーとヒトの赤ちゃんがどう模倣するかを比較した研究です。くま手を「くるっと回転 させる」という意味のない行為を挟んだ後に、物を「引き寄せる」行為を見せた場合、くま手を「回転させる」 行為まで模倣したのは、ヒトだけでした。チンパンジーはこの行為は無視して、「引き寄せる」という部分だけを模倣したのです。どうやら、チンパン ジーは他人の行為を模倣するときに、他人が扱う物の機能や因果関係、最終目的といった情報を手掛かりにしているようなのです。

 それに対し、ヒトは、例え意味のない行為であっても、他人の身体の動きまで忠実に模倣します。つまり、見たままにまねる「サルまね」をするのです。サルまねという言葉には、独創性に欠ける、考えなくてもできる、などあまりよくないイメージがありますが、実はわれわれ人類が進化の過程で独自に獲得した極めて重要な能力だといえるようです。

ということから、サルとヒトが分かれていく進化の過程で、ヒトは「模倣」という行為を発達させていったようだと考えられています。では、なぜ、人類だけが模倣する能力を発達させたかというと、社会を形成し、その中でコミュニケーションをとるために必要だったのです。

霊長類に固有の機能として「共認機能」というものがあります。これは、同類と言われる周りの期待に応えることによって、安心や喜びなどの気持ちの充足を得る回路で、サルや人類は、この周りの期待に応える充足(期応充足)を最大の活力源にしているのです。 そして、人類は、この期応充足というニューロンによって、皆で状況を共認し、課題を共認し、役割や規範を共認していきました。そして、意識を統合することによって、秩序化をはかり、その秩序によって、集団を統合し、次第に社会を統合していったのです。

模倣の進化

 赤ちゃんがヒトのまねをするという発達についての研究があります。この研究の経緯を見ると、いつ頃からするようになるかということが最初はテーマだったような気がします。そして、その模倣は、人類にとってどのような意味を持っていたか、他の生き物でも模倣をするかなども併せて研究されてきました。

 そのなかで、最近分かってきていることは、生まれたばかりの赤ちゃんでも、すでに他人の表情を模倣する能力をもっているということです。自分には舌があり、どこをどう動かせば舌が出るのかということは分からないはずの赤ちゃんが、目の前でゆっくりと舌を出してみせると、同じように舌を出し、口を開けてみせればやはり口を開けるということが分かっています。しかも、その赤ちゃんは新生児頃から模倣をするのです。

 ただし、この模倣は「新生児模倣」と呼ばれ、生後6-8週ほどで消えてしまいます。その後、生後812ヵ月ぐらいから赤ちゃんは再びまねをし始めます。この頃になると、大人のまねをして「おつむてんてん」や「ちょちちょち あわわ」などをやり始めます。しかし、同じ模倣と言っても、新生児のころとはまったく質が違います。まねをしながら楽しそうに声を出し、笑顔が見られます。それは、お互いの気持ちが共感し合い、重なり合ったコミュニケーションになっているのです。こうした模倣が、自然発生的に出てくるのはヒトだけだそうです。

 たとえば、よく「猿真似」ということがありますが、サルの中で優れた知能を持ったチンパンジーでさえ、まったく真似をしないわけではありませんが、とても苦手です。とくに、意味のない行為の真似は、その行為が簡単なものであってもほとんどしません。京都大学霊長類研究所で言葉や数を憶えたボルボというチンパンジーは、瞬間的な記憶能力は人間より優れていますが、そのチンパンジーでさえ模倣するのは苦手だそうです。

 しかし、生まれたばかりのチンパンジーには、ヒトと同じように新生児模倣が見られることが分かっています。これは、自力で母親にしがみつくことができないヒトとチンパンジーの赤ちゃんが、母親の注意を引きつけておこうとして行う、生まれつき備わった能力ではないかと考えられています。母親と生まれてすぐの赤ちゃんのコミュニケーションにおいて、模倣は大切な役割を果たしているのです。しかし、チンパンジーにおける模倣は、ヒトと違って、その後再度行われることはほとんどないそうです。

 では、この模倣は、どのように進化してきたのでしょうか?サルと人類が同じ祖先を持ちながら、どこで分かれてきたのでしょうか?現在の研究では、模倣は、われわれヒトの祖先がチンパンジーの祖先と枝分かれした後、およそ500万年前に比較的に獲得してきた、ことばに匹敵するほど重要な能力であるということが分かっています。

 ではなぜヒトは身ぶりを模倣できるようになったのでしょうか。ヒトは、社会を形成し、そこで助け合い、協力して生きてきました。当然、そのためには他者とのコミュニケーションが大切になってきます。その際、言葉だけに頼るのでなく、他者の身ぶりを頻繁に模倣し、また同時に模倣されていることに気付きます。他者の身体の動きに注目した模倣は、他者と同じ経験を忠実に繰り返すことを可能になっていきます。その結果、自分の心と他者の心をしっかりと重ね合わせることができ、他者がなにを考えているのか、何を意図しているのか、といった心的状態を、他者の行為を観察するだけで読み取ることができるようになります。それが対人知性と呼ばれるスキルで、現在生きていく上で、最も大切な知性であるといわれています。これは、自分が属する社会のメンバーと円滑にコミュニケーションするうえで、欠くことのできない能力であるからです。

 

私の発達観

 私は、人間の発達とはどういうものかを、よく考えます。というのは、日々目の前にいる乳幼児を観察すると、発達過程という考え方に疑問に思うことが多いからです。というのは、乳児においての発達過程は、本人が意識的にその行為を行っているのか、そうではなくすでに遺伝子に組み込まれている行為なのかを考えます。しかし、たとえば「人は歩く生き物である」とか「人は言葉を話す生き物である」「人は道具を使う生き物である」というように表現をすることがあります。では、人は誰でも歩くのか?言葉を話すのか?道具を使うのか?というと、必ずしもそうとは限りません。オオカミに育てられた子は、歩く年齢になっても歩きませんし、暗闇の中で育てられたり、拘束されて育てられた子は、歩きはじめると発達過程で書かれてあるおおむねの年齢になっても、歩きません。言葉を話すことも、言語における障がいがなくても、人と話す機会がなかったり、言語を話す人と接することがなければ、話すようにはなりません。

 また、たとえ、ヒトとしての遺伝子によって歩いたり、言葉を話したりする機能を持って生まれたからと言って、産まれてすぐに歩き出すわけでも、話すわけでもありません。そうなるように適切な環境や学習が必要になります。だからといって、そのような環境、学習すれば、他の生き物でも話すことができるようになるのか、直立で歩くことができるようになるかというとそうなりません。

 と言うことは、様々なヒトとしての機能は、人類という種の中で、持って生まれた遺伝子と、それを引き出していく環境が必要になってきます。そして、それを引き出していくことが、保育であり、教育なのです。また、特に遺伝子で受け継いできた生存戦略としての社会という環境なのです。その社会の中で、社会の形成者としての資質を育てるために、乳幼児期は、非言語、非認知的な手段によってのヒトとの関わり、すなわちコミュニケーションのあり方を学んでいき、次第に言語を手段として、コミュニケーションをとっていき、また認知的なものを学習することによって、次第に社会の一員として自分がどのような能力を持って社会に貢献していくことができるかを学んでいき始めると思っています。

 このように発達をとらえると、保育所保育指針に書かれてある「子どもの発達は、子どもがそれまでの体験を基にして、環境に働きかけ、環境との相互作用を通して、豊かな心情、意欲及び態度を身に付け、新たな能力を獲得していく過程である。」という文章の中で、「環境」というとらえ方、「新たな能力を獲得」という意味がはっきりします。新たな能力とは、決して認知的なことだけを言っているわけでもありませんし、何かができるようになるという能力だけを指しているわけでもないのです。また、「獲得」と言うことも、教え込まれて得ることではなく、引き出されていくという意味が含まれていることも理解できると思います。

 このような発達観を持つと、「おおむね○○歳になると△△ができるようになる」ということは、元々そのような機能を持っている遺伝子を持ち、それが現れるようになるためにそれまでの環境、準備も大切になります。また、それが現れるということも、目に見えるようになるとか、自分で表現できるようになるということもあり、それができない年齢においては、そのような機能が備わっていないということにはならないのです。ですから、乳児のおける発達は、気をつけないといけないと思っています。最近の研究では、思っている以上に赤ちゃんに能力が備わっていることが分かってきたというのは、目に見えないものもわかり始めてきたということもあるような気がしています。

間を埋める

 コミュニケーションにおいて「間」が重要な役割を果たしていることが、研究から分かっていました。さらに、赤ちゃんの実験では、赤ちゃんが見るお母さんの映像を、過去に記録していたビデオに切り替えると、やはり注視時間が短くなることが分かりました。この場合は、お母さんの映像は、時差があるだけでなく、赤ちゃんの反応にまったく呼応していないそうです。それについて、藤井さんは、赤ちゃんがモニターを見るのは、モニターを通じて赤ちゃんとお母さんとの間に、「あー」と言えば「うー」のような即時的かつ双方向的なコミュにケーソンが成立しているからなのだと考えているようです。

 やはり、コミュニケーションには、ライブ感が必要なようです。それは、コミュニケーションを成立させるためには、双方の時間の流れが同期していないといけないということを示しているのです。特に、親子の場合とか、赤ちゃんに対しては大人同士と違い、いったん途切れた時間の流れを意識的につなげることができないようなのです。と言うことは、脳科学的にいうと、他者とのコミュニケーションは、同期したリアルタイムの時間で行うということが、脳の中での前提条件となっているようなのです。もともと、人類が社会を形成し、他者とのコミュニケーションをとる場合、自然環境の中では、時差のある会話を行われることは、ほとんどないわけですから、当然、人類が得てきた当たり前の機能だということです。

 もし、現代の私たちが、時差を持ってコミュニケーションをとっても理解できるとしたら、その能力は生後獲得されるもので、認知的に高度な処理を必要とすると考えられています。この認知的な処理とは、時差を生じさせる間の悪さを間の悪さととらえず、時系列的に断絶した情報を、自分自身の時系列に再度並べ直して理解するという作業になるであろうと藤井さんは言います。そのコミュニケーションは、実時間で行われるモノと異なる種類のコミュニケーションになるのではないかと藤井さんは思っているようです。

 たとえば、こんな例を挙げています。ふたりが対話している様子を録音して、それを音声で聞くと、両者の間で交換される情報の内容は明確で間違えようがないのです。しかし、その対話を文字に起こすと、意味が変わってきます。音声では完璧に意味が通っていたはずの会話が、まったく意味が通らなくなることも多いのです。最近の原稿は、対話を文字に表したものが多いのですが、校正してほしいと依頼が来て読み返すと、ずいぶんと文のつながりが変であったり、誤解されるような言い方であったりすることが多く、訂正の赤を入れる部分が多くなります。そのときの対話では、聞き流すということや、語尾が変でも内容を読み取れるのですが、それを文字化すると意味が通じなくなることも多い気がします。

 これを藤井さんは、「リアルタイムでの情報伝達には、文字化したときに抜け落ちてしまうような、同時性に依拠したなんらかの時系列情報が含まれている可能性があるようです。」と書いています。子どもに注意するときでも、後になって「あの時は悪かった!」と言われても、悪かったことを理解するのがこんないなのでしょう。できるだけ、リアルタイムで注意をしてあげた方がいいのかもしれません。

 また、間の悪さを持っている職員に対して、リーダーは、認知的に高度な処理をするために、時系列的に断絶した情報を、自分自身の時系列に再度並べ直して理解する能力を身につけていかなければならないかもしれません。そうすることで、職員ともコミュニケーションがとれるようになるはずですから。

 「間が悪い」という言葉を辞書で引くと、「運が悪い」という言葉が出てきます。なぜ、「間」というものが、運につながるのでしょう。では、「間が悪い人」というのはどのような人であるかというと、たとえば、「遅い人」とか、「タイミングが悪い人」という特徴があるようで、「空気が読めない人」の時にいう「空気」と「間」とは似ているようで、ちょっと違うニュアンスがあるようです。今日、保護者の人に年長さんに向けて講話をしてもらいました。そのときの話は、私が聞いていて、間の取り方がとても上手でした。特に子どもを相手に話すときには、間の取り方が子どもたちを引きつける上で重要な要素です。

 この間の取り方は、会話をするときにも重要になります。会話の「間」をいかに適切にとるかということはだれでも実感として感じているはずです。藤井さんは、間を外さないためには、けっこうな努力が必要とされると言います。間のいい人は、会話をどんどん進めてくれるので、そういう人と話をするのは非常に快適だと言います。逆に間が悪いと言われるのは、何となく気恥ずかしいものですし、間の悪い人は実際に会話の流れから脱落してしまうので、生活の上でも損をすることが多いようです。間のいい人と話して気持ちのよいのは、おそらく、間のいい人が、こちらが間を読む手間を省いてくれるリズムを与えてくれるので、会話における脳の負荷が少ないためなのでしょうと藤井さんは言っています。

 この「間」についてのこんな研究があるようです。それは、コミュニケーションを通して「間」が重要な役目を果たしているということを、赤ちゃんとお母さんのコミュニケーションを通して明らかにしたものです。

 まず、赤ちゃんとお母さんをビデオカメラとテレビモニターを介してつなぎます。赤ちゃんはテレビに映ったお母さんの顔を見ることができ、お母さんもテレビモニターに映った赤ちゃんを見ることができるようにします。お母さんが話しかければ、赤ちゃんはそれを聞くことができますし、赤ちゃんのつぶやきをお母さんが聞くことができます。そのとき、映像と音声に時差を与えてみます。赤ちゃんは、時差がゼロの時は、お母さんが映っているモニターを注視します。そして、そのお母さんに対していろいろな語りかけをしているように見えます。しかし、このお母さんの映像に時差を与えて、数百ミリ秒から数秒遅らせた過去の映像を見せると、赤ちゃんに対するお母さんの反応が遅れることになります。この時差を両者の間に入れると、赤ちゃんがモニターに注意を払う時間が短くなります。つまり、時差がある場合には、赤ちゃんとお母さんの間に双方向性のコミュニケーションが成立しにくいということになります。

 なぜ、このようなことが起きるかというと、おそらく、両者の間に発生しているコミュニケーションの流れが、人為的な時差によって断絶するからではないかと藤井さんは考えています。今朝のテレビで、フランスで起きた飛行機事故の実況中継をテレビでしていました。最近は、かなりよくなっているはずですが、かなり現地のアナウンサーとスタジオとのやりとりに時差がありました。すると、分かってはいても、聞いていても、その流れがスムーズではなく、わかりにくくなってしまう気がしました。このとき、コミュニケーションの流れを維持するのには努力が必要ですが、赤ちゃんの場合、それがいったん途切れてしまうと、注意を維持し続けることは難しいと藤井さんは指摘します。

同期性

 昨日のブログで紹介した実験で、ラバーハンドに筆で触れてもらうと、自分の腕に触られている感じがしてくるという内容でしたが、その状態で、ラバーハンドの腕をめがけて実験者がハンマーを振り下ろそうとすると、自分ではなくラバーの腕に起きることなのに、まるで自分の腕がハンマーの打撃を受ける気がして、実際に手を引っ込めてしまうということも、よく観察されているそうです。

 つまり、たとえ自分の体の一部ではなくても、視覚的に見ることができる刺激と、自分の体性感覚で感じる刺激のタイミングがきちんとマッチしているなら、私たちは目で見えているオブジェクト、つまりラバーの腕ですら、自分の体だと感じてしまうのです。自分が自分であると感じる感じ方が、非常に曖昧で、ちょっとしたきっかけで再構築が起きうることを示しているのです。

 藤井さんは、別の実験も紹介しています。頭にヘッドマウントディスプレイをかぶって、仮想空間の中に入ります。その空間では、自分の体が本来の自分とは異なる、伊勢エビのような変な生き物になっています。その生き物は、腹から本来ないはずの腕が数本は得ています。そして、自分の身体のどこかを動かすと、その腕が動くようになっています。すると、短時間のうちに、まったくあたらしい自己身体像を獲得し、不思議な腕を自在に操れるようになるそうです。それは、そのオブジェクトが自分の行動とリンクして、それを自在に操ることができるようになると、自分自身の身体イメージがそこに投射されて、あたらしい身体イメージが脳内に構築されるのです。そのイメージは、マスクを外すと、即座に元に戻るそうです。私たちには、複数の身体イメージを脳内に保持し、それを自由に切り替えることが可能だということになるのです。

 どうして、人類はそのような機能を持つことになったのでしょうか?そのような機能はどのようなときに活用するのでしょうか?それは、人類が渡具を使うようになったことと関係するようです。身体と異なる仮想的なオブジェクトが自分の行動とリンクして、自在に操ることができるようになるということと同じことは、シルクハットのような背の高い帽子をかぶったり、スキーを履いたり、ドライバーのような工具を持っているときにも起きているのです。それは、生活の中で、道具の使用に習熟すると、道具を自分の身体の一部のように感じてきます。つまり、自分の身体イメージの拡張が起きているのです。

 ここで、藤井さんはこう示唆します。もし、他者というものを、その延長上にあると考えるならば、そして他者の身体が自分の意思で自在に動くとしたら、私たちはそれを自己の一部として認識するはずです。つまり、私たちが絶対間違いなく存在していると考えている、自己と他者を区別する境界線は、思った以上に脆いものだというのです。このように、自他境界が曖昧な脳が、自己と他者を区別するために利用している最も重要な要素は何なのでしょうか?このような問いは、なんだか哲学めいてきますね。「自分とは何か?」「なぜ、自分なのか?」そんな哲学的なことが、人類の生存戦略に意味があったと思うとわくわくしますね。

 どうも、それは、身体感覚視覚刺激のタイミングがマッチしているかどうかという同期情報だそうです。ラバーハンドと実際の腕の両方を刺激するタイミングを同じにすること、つまり、脳が新しい身体性を獲得する、もしくは単なるオブジェクトを自分だと錯覚を起こすのは、同時に起きるイベント間に限るようです。この同期性に、脳の持つ情報処理の秘密があるようです。

自他

 コメントにもありましたが、私たちは早くからミラーニューロンの発見に感動し、その働きに注目してきました。それは、現在の若者に見られる共感力のなさや、人の痛みを感じる力の欠如がこのミラーニューロンの発達に関係しているのではないかと思っていました。そして、そのミラーニューロンについてよく知ったのは、ミラーニューロンを発見したジャコモ・リゾラッティとも親交があり、リゾラッティがサルによって発見したことを、人間のミラーニューロンに関した共同研究を行っているマルコ・イアコボーニの著書である「ミラーニューロンの発見」という2009年に刊行された本によります。

 藤井さんは、この発見を賞賛し、支持しているとしつつ、リゾラッティらのグループのようにミラーニューロンをミラーシステムというブラックボックスに閉じ込めるのではなく、脳内に比較的普遍的にあるシステムの一断面ととらえようとしています。それは、ミラーニューロンの持つ、他者の行動意図を自動的に理解してくれるという特性を、ミラーモジュールという特別なモジュール機能が表現している特別な情報機能と考えるか、それとも単なるネットワークの中で共有される一つの情報に過ぎないと考えるかの違いだと言っています。彼は、高次機能のほとんどが、複数の脳領域がつながるネットワークの中で、柔軟かつ動的に実現されているという考え方であるというのです。

 すなわち、私が最近考えている対人スキルという機能は、相手の気持ちを読み取り、予測し、その動機を感じる力ですが、それは、超能力者や占い師のように自動的に分かってしまうものはないということのようです。と言うことで、他者の運動の認知と、意図の理解という二つの機能を一つのシステムとして理解せず、別の物としようと言います。

 他者もしくは他の生物を見つけられる感覚は、きわめて鋭敏で、機械でまねをしようとしても結構難しいことのようです。たとえば、伝統芸能の保存の目的で、日本舞踊や能の名人の動きを記録して、それをロボットが表面上の動きを完璧に再現しているようでも、名人の動きの本質は計測機械とロボットの性能を超えた、もっと微細な領域にあるのです。そして、私たちが、それを特に訓練なして違和感として感じ分けることができるのは面白いところだと藤井さんは言います。そして、この違和感というものが、私たちの生活の中で非常に大きな要素となっていることは、あまり神経科学では問題にされないようです。

 では、ヒトは、自分と他人の違いを普段から意識したことがあるでしょうか?その意識は、当たり前のようですが、脳にとっては本当に当たり前かと藤井さんは問うています。それは、そうでもないからです。私たちの脳は、自分自身の動きと他者の動きを区別することがあまり上手ではないそうです。もちろん、ほとんどの人は自分を間違えることはあルはずはないと思っていますが、実は、簡単な心理実験でそれは崩れてしまうそうです。

 人の身体感覚があまり当てにならないことを表す有名な実験に、ラバーハンド実験というものがあるそうです。ボトヴィニックとコーエンの実験とも呼ばれる実験ですが、この実験を実際にやってみると面白いかもしれません。まず、テーブルの上に実験参加者の左手を置き、スクリーンで遮蔽して見えないようにし、目の前の見える場所に実物大のラバーハンド(マネキンの腕)を置きます。参加者の視点をラバーハンド上に固定した状態で、左手とラバーハンドを10分間絵筆で同時になでます。すると、絵筆でなでられている感覚を、ラバーハンドのある位置に感じるのです。これは、「触覚の位置の錯覚」と呼ばれます。そのうちに、ラバーハンドが自分の手であると感じます。これを「身体保持感の錯覚」と言います。自分が自分であると感じる感じ方は非常に曖昧なようです。

他者の意図理解

 ミラーニューロンが反応しているのは、他者の行動意図の理解に関与しているという発想は、「心の理論」と密接なつながりを持つ重要な主張となり、私たちが様々な学習を行うとされる模倣行動を通じて行動の意図が共有できるということにつながっていきます。そのような意図の共有は、感情を他者に共有する共感へと拡張可能ですので、私たちが人の痛みを理解できるのも、ミラーニューロンのおかげということになると藤井さんは言っています。これらの考え方は、すでに、私たちが持っている共通に認識であり、特に現場において乳児期からの行動を見ていると、それに気がつく場面が多いような気がします。そして、それが共感につながるというのも、常々提案していることです。

 もう一つ、藤井さんは、神経科学の中で示唆されていることを書いています。それは、F5という脳領域は、ヒトの言語中枢であるブローカ野に相当する場所のすぐ近くにあるそうです。そのため、言語の進化的発生とミラーニューロンの関係性について、たくさんの議論がなされています。なぜヒトだけがこのような言語能力を獲得したのかはまったくわかっていませんが、その一つの説明として、ミラーニューロンとの関係性が示唆されているのです。

 このミラーニューロンが、人だけが言葉を話すようになった理由に関係しているという説があるのですね。自閉症という障害は、言語獲得の遅れを特徴としていますが、同時に他者と注意を共有することが困難で、社会的なコミュニケーションを確立することがなかなかできない発達障害と言われています。この論理は、治療法の一つとして模倣を主体とした行動療法を繰り返すことで、症例によっては自閉症の症状の改善が可能であるという臨床的な事実と結びつき、自閉症とミラーニューロンの間に強固なストーリーを展開すると藤井さんは言います。

 私たちは、自閉症ではありませんが、ダウン症の園児が、他の子と同じ場にいることによって、その模倣を主体とする行動を繰り返すことで、その症状が改善に向かったことを体験したことがありました。その経験から、障害と言われる子を、他の子から隔離して保育するのではなく、場を共有する必要があるということを確信したのです。

 藤井さんは、多少の問題をはらみつつも、この魅力的な理論であるミラーニューロン仮説は、議論の対象をサルからヒトへと移し、あっという間に世界中のあらゆる領域へと広がっていったのだと言います。

 ここで、ヒトへ移っていくときの問題があります。ミラーニューロンは、その相手の動作に注意を払っていても払っていなくても、自動的に意図の推察が可能であるシステムと言われています。しかし、本当に私たちは、自動的に相手の意図が自動的に推察できるかというと、そう簡単ではなりません。それは、ヒトのミラーニューロンの存在は、サルのそれのように明確に実証されていないのです。そこで、藤井さんは、しぐさから意図を自動的に理解するミラーシステムという一元的な便利のシステムよりも、しぐさはしぐさとしてそのまま認知し、その意図を理解するのは別の意識的な認知操作を必要とするという考え方をしています。それは、もう一つの理由があります。それは、私たちが持っている、他者の意図理解に関する認知性能もあまり高くない事実を考えると、しぐさの認知と意図を認知する子とを分離する方が背前であると考えています。

 では、それを分けて考えると、どのようなことがわかるのでしょうか?