最近の赤ちゃん研究

最近の赤ちゃんの研究の多くは、受動的な子ども観の見直しが多いような気がします。赤ちゃんをはじめとして、子どもは大人から何かをしてもらう存在であり、また、何も知らない白紙であるという認識がまだまだあります。しかし、実は、もしかしたら人生の中でもっとも能動的な時期かもしれないということが研究されてきています。そんな観点からの研究成果が様々なところで紹介されています。

昨年、20140912日の毎日新聞に、こんな見出しの記事が掲載されていました。「赤ちゃんは、“教えたがり”…受動的な子供観見直しも」というものです。何も知らない赤ちゃんは、大人が教え、赤ちゃんは教わる存在であるということが言われてきましたが、実は、赤ちゃんは教わる存在というよりも、教えようとする存在でもあるということです。

この研究は、九大の橋弥和秀准教授(比較発達心理学)らが、生後13〜18カ月の赤ちゃん計32人を対象に行った研究で、米オンライン科学誌プロス・ワンに掲載され、子どもは大人から教わるだけという受動的な子ども観を見直す研究として注目されています。

 こんな実験をしてみました。ボールや鈴などのおもちゃ12個を準備します。そして、ボールで大人と1分間遊んだ後、その大人の背後にボールと鈴の二つを見せるなどおもちゃを替えて繰り返します。ボール遊びをした後は、鈴を指さすなど赤ちゃんは計64回のうち41回(64%)は遊んでいない方のおもちゃを指さしたそうです。一方、ボール遊びの後で、遊んだ相手とは別の人が来て背後にボールと鈴を置くなどしたところ、遊んでいないおもちゃを指さしたのは63回中30回(48%)で、遊んだおもちゃとの差はありませんでした。この傾向は、赤ちゃんがおもちゃに注視する時間から、おもちゃに関する好みとは関係ないことも確かめられました。

 この結果から、赤ちゃんは目の前の大人を認識し、相手にとって未知の新しい物を指さして教えているということが分かったのです。大人同士の会話で「これ、知っている?」と相手の注意を引くのと同じで、教えたがる欲求を持っていると考えられるようです。橋弥准教授によると、近年、乳児が教わる側として有能であることを示す研究成果は多くあります。しかし、今回の研究は1歳半の時点で相手の認識を推し量る能力を備え、自発的に情報を提供していることを示しています。橋弥准教授は「教えたがるという新しい子ども観を示すことで教育活動にも影響を与えるだろう」と話しています。

九州大の研究チームが初めて解明したのですが、実は、このような場面は、現場ではよく見かけることがあります。1歳半の赤ちゃんが「あのおもちゃ、見たことないでしょ」などと相手にとって未知の物を推測し、指をさして教えようとします。また、それを手に取って、渡そうとします。赤ちゃんは、いろいろなものを渡してくれようとします。「ちょうだい!」と言うと、手渡してくれることもありますが、渡すふりして、渡さずにじらすこともします。もらえると思って手を出すと、「あげないよ!」というかのように渡してくれず、何となく「にたっ!」とします。大人を、からかっているかのようです。

昨年10月ごろから「パパのくしゃみを全力でからかう双子の赤ちゃん」の動画が人気があります。おもちゃで遊んでいる双子の赤ちゃんの後ろにいたパパが、くしゃみをすると、片方の子がそのマネをします。その後ふたりして、くしゃみのマネを連発するのです。大人より、赤ちゃんの方が一枚上手ですね。

いつから?

 保育所保育指針の中には、乳幼児の発達過程が書かれてあります。そこには、「おおむね○○歳になると、こんなことができるようになります。」と書かれてあります。そのおおむねとは、同年齢の子どもの均一的な発達の基準ではなく、一人一人の子どもの発達過程としてとらえるべきで、いわば平均値を表わしているのですという意味合いが強いと思います。しかも、その発達というのは、外から見える行動なりが表れる時期を示している内容が多く、その行動がまだ内在している時期、または、観察したり、学習したりしている時期とはずいぶんと離れていることが多く、そこに保育をするうえで誤解を生じていることが多くみられる気がします。

 例えば、赤ちゃんは物を大人から食べさせてもらいます。ですから、大人は、食べさせてあげなければと思います。それは、赤ちゃんにはまだ自分で食べる能力がない、いわゆる無能である存在として扱うようになります。最近の研究のいくつかは、そこにはもっと深い役割があることがわかってきているのです。

 実は、人は自分自身の自由が外部から脅かされると、その自由を取り戻そうという意識が働くと言われています。すなわち、自由の回復を目指す動機づけ状態にあるというのです。それを社会心理学に難しく言うと、「心理的リアクタンス(psychological reactance)」という概念らしいです。このリアクタンスは、もともと説得理論のひとつとして、セールスなどでの押しつけがましい説得が逆効果をもたらすことの根拠とされてきたようです。よく、保育園の思い出として「給食」が挙げられることがありますが、実は、その理由にこのリアクタンスが生じるためであると言われています。

食事場面における自由とは、一般に、好きなものを、好きな方法や手続きで食べることができるということで、その中のどれか一つでもできないとなると、食事における自由を奪われたと思ってしまいます。もし、好きなものでも、ペースを無視して他者に食べさせられたら、手続き的には強制されていることになるので不快を生ずることになってしまいます。あくまでの自発的、能動的行為としての食事でなければならないのです。これは、保育だけでなく、介護場面でも常に考慮されるべき事柄なのです。

そう考えると、乳児が、大人に食べさせてもらい始めたとき、乳児から見ると受動的役割だけにしか見えませんが、じつは、養育者に対して能動的役割を取れる可能性を意味しているのではないかと言われています。そうなると、養育者の差し出しを受け入れることも、また拒否することもひとつの選択肢となるのです。食物がどのように扱われるか、食物を介したコミュニケーションがどのような手続きで行われるかは、参加者の心理状態に影響を与えます。心理的対象となった食物は、食の中のコミュニケーションを複雑にする機能を持っていると考えられます。乳児は、食べさせてもらうことで、他者からの行為をその中に自己を知覚しているとうのです。つまり、食べさせる行動が可能になった乳児は、受動的に食べさせられている自分も、能動的に食べさせている自分も、まだ、それほどはっきりとは意識していない段階ですが、モニタリングしているのだと考えられています。

こうした自己意識が、母親から介入を、自分の自由を脅かすものと認知させ、その反動で、受動的摂食拒否を生じさせるのではないかと考えられています。

ちょっと難しい説明ですが、無理矢理に給食を食べさせようとする行為は、かえって食べることを拒否することにつながっていくということがわかってきたということですし、それは、大人から食べさせてもらうほんの小さな赤ちゃんの頃から培われていくものであるということなのです。

幼児教育の中の科学活動

Science Experiences for the Childhood Years」に書かれてある科学活動の特徴である「活動例が、著者らが子どもたちと実際に行ってきた体験活動から書かれているために、身近な素材を使って簡単に行える形で、とても分かりやすく示されていること」「室内の活動に加えて、園外の活動のヒントや、園庭の改善のヒントまでも示していること」「学習における感情の大切さや、科学以外の学びとの統合を強調していること」「家庭との連携をとても重視していること」が挙げられています。それによって、他の科学活動の提案よりも、現場での実践に直接役に立つものが多い気がします。それは、著者の経歴のよるものかもしれません。

この本の著者の一人であるジーン・ハーレン博士は、オハイオ大学で子どもの発達について教鞭をとり、退職後の現在、家族や子どもとの臨床的な実践を続けているそうです。この本を執筆しながら、自身が大学の付属校で思考力豊かで好奇心にあふれる幼い子どもたちに科学を教えたのがきっかけで、幼年期の科学教育に関心を持ったそうです。同時に、大学の教員志望学生が基礎的な科学知識を欠いていることに気がついたそうです。そこで、彼女は、基礎的な科学概念知識と、そうした知識を幼い子どもたちの体験や思考に織り交ぜる統合的な活動方法を提供するものとしてこの本をまとめたということです。ですから、ここには認知と感情に関する新しい知見を加えながら、その基本的な考え方が貫かれています。

子どもの科学活動での提案は、臨床的な実践が大切です。そして、その活動を行っている子どもの姿から教え方や取り組み方を検証し、何が足りないのか、何が必要なのかを考えます。まず、実践の子どもの姿があるのです。彼女の取り組みは、Do,See,Planによって提案されたものですので、わかりやすく、実践に移しやすいものになっているのです。

一方、もう一人の著者であるメアリー・リプキン博士は、メリーランド大学ボルティモア校の准教授で、現在、教育学部長を務めています。彼女は、幼児教育プログラムのコーディネーターとして、科学、数学教育法を教えていました。とりわけ、子どもたちの野外での遊び活動に関心を持ち、子どもたちの野外活動経験が失われたことの影響について、多数の論文や著書を発表したり、ワークショップを開催したりしているそうです。現在は、環境汚染が乳幼児期に及ぼす有害な影響に関心を持って研究しているそうです。いわば理系である科学や数学教育法を、乳幼児教育において研究しているのは、日本でもあるのでしょうか?また、これも刷り込みですが、科学活動の本ということで、その著者が二人とも女性というもの意外でした。

この本には、まず、最初に基礎的な理論が書かれてあります。科学的な知識や体験をどのように深化、拡充していけばいいのかについて考えるために、基礎的な理論が必要であることを言っています。現場では、そこの部分が抜けてしまっている活動が多くみられるため、私はこのブログで、その理論の方を私の考えを交えながら読み進めていったのです。

また、過去のカリキュラムを提案した人たちの共通点があります。例えば、現在オランダで提案されている「イエナプラン」を最初に提案したペーターセンは、イエナ大学に着任して間もなく、まず、10歳までの小学生を混合した実験教育が行われ、その後徐々に実験教育の対象は中等教育にも広げていき、そして、イエナにあったカール・ツァイス社の工場に勤める女性の子どもたちのための保育施設を設け、児童研究所を開設します。この本の著者である彼女らも、実験校なる場所での実践を行っています。そして、幼児期に興味を持っていきます。最終的課題は、乳幼児期に存在しているのです。

今後の課題

 今回、科学活動について検証するのに、主に「Science Experiences for the Childhood Years」を読み進めながら私の考えを足していきました。「Science Experiences for the Childhood Years」は最初、1976年にアメリカで刊行され、ほぼ4年ごとに新版が出され、今回参考にしたのは2004年第8版に出版されたものです。対象は、ほぼ3歳くらいから8歳くらいまでの科学活動が中心ですが、もちろん、中学生でも十分と役に立ちますし、3歳児未満の子にも応用ができます。

この本は、多くの日本から出版される保育、教育書と少し違っています。それは、理論ではなく、マニュアルでもないのです。それは、この本の訳者によるあとがきに書かれてある特徴に見られます。まず、本に取り上げられている活動例は、著者らが子どもたちと実際に行ってきた体験活動が、身近な素材を使って簡単に行える形で、とても分かりやすく示されていることです。この姿勢は、今回ドイツバイエルン州の学校局から預かっている「小さな科学者たち」という教材でも言えることです。

二つ目の特徴は、園外や校外での活動を重視しているところです。今回のブログでは具体的な活動の例は紹介していませんが、その内容はほとんど屋外の活動なのです。私たちは、科学実験、科学活動というと部屋の中の活動を思い浮かべることが多い中、この本の中では室内の活動に加えて、園外の活動のヒントや、園庭の改善のヒントまでも示しています。その活動は、実際の世界で生きて活用できることを知った子どもたちに、科学の意義や重要性をさらに知らせることとなるのです。

三つ目の特徴として、学習における感情の大切さや、科学以外の学びとの統合を強調していることだと言います。感情や、統合的な学びの大切さは古くから言われてきたのですが、今回の提案は、最新の理論によって裏付けられたものになっています。これまでの科学活動では、珍しいものやびっくりするような現象で子どもたちを引き付けることはあっても、そこで得た体験を、子どもたちの生活の中で生きて働く知識に転化させていく視点は弱かったと指摘しています。その意味で、本書の提案は科学活動の一層の質的な向上に有益な示唆をもたらしてくれるものだと言います。それが、知識から知恵として子どもたちの身に着くということなのです。

最後の特徴は、家庭との連携をとても重視していることです。これまで日本で行われてきた保育や教育は、どうしても園や学校の中に閉じがちでしたが、家庭は、どちらかと言えば、園や学校での成果を持ち帰ったり、補完したりする役割として捉えられることが多かったのではないかと指摘しています。この本では、園や学校と家庭とがお互いに高め合う関係として捉えられ、望ましい連携の仕方が具体的に示されているのです。

これは、今後考えていかなければならない課題です。特に保育園では、保護者が働いていることもあり、なるべく保護者の手を煩わせないことが福祉の目的であるかのように思われています。しかし、食事の時の会話にしても、休日の外出にしても、一緒に風呂に入るときにも子どもと科学活動を行うことができるのです。少し、遠慮をし過ぎている気がします。共に学習をする仲間であるという意識をもっと持つことで、子どもたちの科学好きが増えてくるのです。

師とは

『孟子』巻第七 離婁章句上に、「人之患 在好爲人師」という言葉があります。この言葉は、「人の患は、好んで人の師に為るに在り」ということで、「人の悪いところは、大したこともないのに、とかく他人の先生になりたがることだ。」ということです。その言葉を評して、吉田松陰は、『講孟余話』のなかで、「而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自から人の師となるべし。人の為にする学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云はく、記聞の学は以て師となるに足らずと。」と書いています。

この言葉は、「自分を磨くための学問は、願わなくとも自然に望まれて師になるものである。ところが人のためにする学問は、人の師になりたいと思っても、結局、人の師となることは出来ない。だから孟子は、こう言っている。単に古い書物を読んで暗記する人の講義は、質問を待つだけで、聴く人の意欲や学力を考えることが出来ないので、師となる資格はない」と言っているのです。

この考え方が、一昨日のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の中で、松下村塾を開塾するにあたり、久坂玄瑞とのやり取りに見られました。塾で人を教える立場になる松陰が、彼の下に来た門下生に対して、「共に学び共に育つ」者として接したのです。師弟といっても、同じ学ぶ仲間であり、「共に学んでゆこう」と言うのです。PAP_0023

この考え方は、米国密航に失敗し萩の野山獄に投じられたときにも表れます。獄中で、松陰は、無気力な囚人たちを励まそうと、勉強会を開き、囚人たちと盛んに交流しました。その時の松陰は、武士や町人の身分の区別もなく、また牢獄の囚人にまで分け隔てなく接し、また、自らが一方的に指導するのではなく、俳諧や書道などそれぞれが得意な分野を指導し、共に学びあうという形式をとります。その徹底した平等主義と一人ひとりを生かす教育のスタンスは、囚人たちに生きる希望を取り戻させたのです。

また、孟子の性善説に傾倒し、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける人間観と教育観に貫かれています。彼は繰り返し、人間には賢愚の差はありますが、どのような人間にも潜在している才能があり、これをうまく引き出すことができれば、必ず立派な人間になることができると述べています。不要な人間は一人もいないというのです。

そして、「自分が塾を開くのは人に教えるためではない。世にすぐれた人を見つけ、親しく交際し、自分のとらわれているところを解き放ち、愚かなところを矯正したいためである」というのです。松陰にとっての塾生達は、共に学ぶ仲間であり、彼にとっての師匠でもあったのです。

私たち自身も、子どもたちと同じ学習者であるのです。教育というのは、共に学び、共に持っているものがお互いに刺激し合いながら引き出されていくということなのです。科学活動でいえば、興味のある疑問について調べたり、共通の関心ごとを一緒に探究したり、いっしょに博物館に行って感動したりする仲間なのです。もし、科学活動を子どもたちに提供するとしても、それを通して教師も日々成長していく仕事なのです。教えることをこのようにとらえることで、素晴らしい成果が得られるようになるのです。

評価からの見直し

 子どもの活動を評価するのに、たとえばSICSというものが提案されています。この評価方法は、ヨーロッパの保育学会会長のLaevers教授によって考案されたものです。よく評価というと、その成果なり、子どもの力なり、保育の影響や子どもが経験した内容を評価したり、保育環境やカリキュラムなどの「背景」を評価するなど「アウトプット」にのみ焦点が当てられています。それに対して、SICSでは、保育の「プロセス」は子どもが保育環境の中にいる瞬間にこそ存在すると考え、その様子を「安心度 (well-being)」と「熱中度 (involvement)」という二つの指標を通して観察・評価しようとしたものです。

 この評価は、今まで見逃されていた部分に焦点を当てた点では評価されますね。しかし、ここで、一つだけ問題が起きます。それは、私たちが提案する乳幼児教育の一つの側面である集団でのかかわりであり、そのかかわり方の学びにおける評価です。いわゆるグループ活動や、話し合いにおける評価をどのようにするかという問題です。今までの評価は、子ども自身や、子ども個人の活動における評価が多かったのですが、社会の形成者としての資質を備えるための学びの評価はどのようにしたらいいのでしょうか?

 グループ内に活動に子どもたちはどれだけ深くかかわっていたのか、科学の素材をきちんと整理できていたか、資料をどれだけ調べていたか、家や教室の外から何をグループに持ち込んできたのかなどを評価しなければなりません。いわゆる、グループの活動にどれだけ寄与したかも評価すべき項目なのです。そして、それらの評価は、教師が自分の教育の有効性を評価することにもなりますし、自分自身の教育内容を見直す手がかりとなると言います。

 アメリカでの保護者相談会でどんな評価方法を保護者は望んでいるかを調べた結果、評価尺度にチェックをつけたものではなく、それぞれの子どものファイルに貼られた附箋の何気ない走り書きだったのです。コンピューターに、一人一人の子ども用のフォルダやクラス全体用のフォルダをつくって、そこにデジタルカメラで撮った作品や絵やプロジェクトの様子などを保存することを提案しています。写真はプリントして、昔ながらのファイルに保管してもかまいません。例えば、レッジオ・エミリアでは、子どもたちの学びを「ドキュメンテーション」にまとめ、クラスに掲示をするのもいいかもしれません。科学に関する活動をデジタルカメラに収め、コンピューターに保存すると、その写真を眺めることで、子どもたちと行った授業のテーマを、写真を通して感じることもできるかもしれません。このような記録は、科学知識を通して、人生を豊かにする世界を子ども他に伝えてきた証拠にでもあるのです。

 日本では、相変わらず文書主義です。保護者へのおたよりも、日誌も、計画も、すべて文字で書く書類です。しかも、子どもたちが帰ってから思い出しながら書くことが多いのです。それに対して走り書きのメモは保育中に書いたものであり、デジタルカメラでの写真は、保育中に撮ったものです。すると、あとで書くとなると、特に印象に強く残ったものだけを記録することになりますが、その時の記録は、偏りが少なくなります。しかし、保育中に記録するとなると、当然保育、授業のあり方が変わってきます。常に教師からの認知的なものを伝達する授業ではそんな時間は取れません。子どもが自発的に行動し、教師はそれを観察しながら傍らに座って見守るスタンスが必要になってくるのです。

世界共通

 話し合いは、それぞれの持ち物を増やしてくれます。決して相手を打ち負かしたり、自分の考えに従わせようとねじ伏せたりするものではありません。お互いの意見を交換することで、相手の考え方を取り入れることです。それは、以前のブログでも書いたところですが、ロウダ・カネフスキーが、こんな効果も話しています。「科学のトピックについてグループで話し合うと、子どもの理解の仕方もわかりますし、その理解を伸ばすことにもなります。」ロウダは、小学1年生の児童を自分の周りに円にして座らせ、ある科学トピックを紹介し、どの子にも発言したり質問したりする機会を与えました。enkeijugyoそして、子どもの発言や質問をすばやく書きとめ、次の日にはそれをプリントにし、みんなが見えるドアの横に貼るようにしたのです。そうしていると、子どもたちは、興味を持ったトピックについて、自ら本を読んだり、両親と話し合ったりし始めたのです。

 最近、入学試験や入社試験で、グループで話し合いをさせ、そこで理解度をはかるということを行うようになりました。しかし、その話し合いは、理解度の評価だけでなく、次の活動への動機づけにもなるのです。その話し合いをより効果的にするための簡単なルールを提案しています。「怒鳴らないこと」「他の人の考えが間違っていると言わないこと」「けんかをしないこと」です。いくつかの話し合いの記録を見ると、ひとりひとりの子どもがどのように自分の思考を修正し、磨いていったのか、そして新しい考えを質問でお互いを助け合っているのかがわかります。子どもたちの思考に関するこうした記録は、カリキュラムと評価をしっかりと関連付けるのに役に立ちます。そして、次に教師が何を教えるべきかの判断に役立つのです。

 この一連の教育のあり方を見ると、授業形態だけでなく、評価、記録、計画のあり方が、現在日本で多く行われているものとだいぶ違います。そして、そこには、子ども集団のあり方とその活用、結果、成果の評価ではなく、プロセスの評価、保護者のため、監査のための記録から、子ども理解と次回の活動への考察としての記録、そして、その考察により次回への計画といった、いま私たちが幼児教育で取り組もうとしていることが、すでに海外では提案されているのです。ですから、このような考え方、取り組みはとても参考になります。

 プライスとハインは次のような提案をしています。「子どもたちの科学活動を判定する、世界共通の絶対的な基準がないことを忘れてはならない。6歳児にはどんな観察が“適切”で“優秀”なのかを判断したり、10歳の子どもにどのようなレベルの実験デザインを求めるべきかを判断するための、十分な情報と研究結果はまだ得られていない。」のです。では、実際に現場ではどのようなことをすればいいのでしょうか?何を指針としたらいいのでしょうか?

現段階では、最良の方法は、時間をかけて観察を多重に行うことだと言います。例えば会話、プロジェクト、描画など、観察することはいろいろとありますし、個人やグループで作ったさまざまな作品を集めたりもできます。しかし、それだけではなく、教師はその上に、グループ全体も評価しなくてはなりません。しかし、その評価は、本当は保護者も真にいる物なのです。

様々な評価

 乳幼児教育の主たる目的は、子どもたちの発達を保障することです。この発達は、子どもが自ら環境に働きかけ、その相互作用により保障されてくるので、あくまでも自発的でなければならないのです。しかし、認知的な知識の習得となると、教師なり大人が子どもに伝達し、教えていかなければなりません。そこには、自発性のような能動的というよりも、受動的な学習が多くなっていくと思われていました。しかし、最近の研究からは、認知的な学習でも子ども自身が知識を構築しているのだということが、だんだんと認められるようになってきたようです。知識は、教わるだけでは子どもの身にならず、教わった知識を子ども自ら構築していかなければならないというのです。

 このような立場に立つと、学習を評価する時にも、子どもとともに行うことが望ましいことになります。こんなことが提案されています。たとえば、子どもに「これについて学んだことを教えてくれるかな」と聞き、知識を表現してもらいます。その時の表現方法は、何も口で説明するだけでなく、記録ノートに書き込んだり、絵に描いたり、物語にしたり、ダンスで表現することも考えられます。異年齢保育の中でのメリットとして「教えることにより能力を定着させる」ということが挙げられていますが、学んだことを様々な方法で表現し、人に伝えようとすることは、知識を構築するうえで非常に役に立ちます。そして、子どもたちが表現したことや説明したことを子どもごとにフォルダーを作り、ポートフォリオとして記録をしておきます。

 さらに、「他にどんなことが不思議だなと思いますか?」という質問をすると、その子どもが課せられた以上のことを、どれだけ学んだかを評価できると言います。これらの評価は、子どもとともに行うものです。もともと評価という「asscess」という単語は、「傍らに座る」という意味のラテン語の「assidere」を語源としているそうです。子どもに、知っていることや知りたいことを自分なりのやり方で説明させるとき、私たちは子どもたちの「傍らに座って」いることになります。それは、学んだことを引き出していることになります。それがまさにエデュケーションなのです。そして、それが評価なのです。

また、個々人の評価だけが、子どもが学んだことを知る手段ではありません。子どもは小グループで活動して知識を豊かにしたのですから、同じように、学んだことを発表する時にも共同できるはずだと言います。年長の子どもたちなら学んだ概念を絵に描いて壁に貼ったり、劇に仕立てたりするのもいいかもしれません。幼い子どもたちは一緒になって動きで表現するのもよいかもしれません。そして、その表現したことや、表現しようとした活動を記録しておきます。それは、文字でだけでなく、写真を撮ったり、絵に描いたりすることも有効です。

 子どもによる知識の習得を確かめるために、いわゆるテストを行いますが、そこでは回答するために文字を使って書きます。文字を書くことが困難な子たちは、文字を書くことに意識を集中させてしまいます。そうでなくても、句読点のうち方、漢字の間違いなどにも意識がいってしまいます。すると、文字で表現されたテストの成績は悪くなります。すると、習得できていないと判断してしまうことになります。それは、真の評価ではないのです。

難しい評価

JSLカリキュラムにおいて、学習活動における展開を子どもたちが行うに当たっては、当然教師からの支援には「理解支援」「表現支援」「評価支援」という3種類の支援を用意することが提案されていますが、科学活動を行う上でその前に行わなければならない大切な支援があります。それは、子どもの「好奇心」の支援です。この支援により、子どもたちは問題解決能力を伸ばすだけでなく、学び方も学べるようになるのです。

Science Experiences for the Childhood Years」には、大切な評価の考え方が書かれてあります。現在、評価というと、学校教育を中心に特定の学習成果を数値化するために、いまだに何ができるようになったかという行動的な目標が使われています。幼児教育でさえ、領域においてそれぞれの子どもがどのような発達を遂げているかという観点ではなく、療育の内容がどのくらいできるようになったかを目指しますし、行事などでは、子どもたちがどのくらい、何ができるようになったかを当日に完成品を披露するように見せようとするところが多くみられます。しかし、この本の中では、このような疑問を投げかけています。

「子どもがある活動で本当に学んだことは、その場ではっきりとわからないかもしれません。家に帰り、寝る前に親と会話をするときに、その成果が見られることもあります。学習したことが断片的なままだったのが、統合的な活動に参加することでまとまってくることもあります。また、活動から何週間も後になってから、学んだことが行動の中で応用されることもあるでしょう。子どもは限られた行動目標で決めたこと以外は学んでいないと想定してしまうと、教授・学習プロセスの本質を見失ってしまいます。」

このように考えると、評価は難しくなります。どの時点で、何を持って理解の度合いを評価したらいいのでしょうか?特に、発見的な科学活動ではなおさらですが、それでも正当性を持って総合的に評価しなければなりません。しかし、1990年のHeinの研究では非常に興味深いことが報告されています。それは、そのむずかしさが認識されているかどうかは、科学教育が成熟しているかどうかの目安にさえなるというのです。

難しいといっても、ある評価がないと次の活動への取り組みが見えなくなってしまいます。その時には、発見科学の理念に最もかなう評価形式の一つが、子どもの言葉を観察することであると言います。言葉を観察すると、子どもが誤った理解をしていて、もう少し説明が必要かどうかを判断することができるのです。素材を使いながら科学の作業をしているとき、子どもの発言に耳を傾け、質問してみることです。それで多くのことがわかると言います。

例えば、「これについて何がわかりましたか」や「こうすると何が起こるか見せてくれますか」などの質問をすると子どもの理解度がわかると言います。また、植物や動物、天気といった観察期間が長いものについては、終わりに「これについて何がわかりましたか」と尋ねると、概念学習の成果の判断基準が得られると言います。

そして、簡単なチェックリストに子どもたちの回答を記録すると便利であると提案しています。このようなチェックリストは、基本概念の理解、活動の達成度、子どもが興味や満足感を示しているかを把握する項目を中心に作成できれば理想的としています。このようなデータは、学習活動が成功したか、意義はどうであったかについて評価するのに、子どもの理解度を評価するのではなく、教師が自己評価をするときに役に立つのです。

展開

JSL理科では、学習活動の局面の展開パターンを、「課題をつかむ」→「予想」→「観察・実験・調査」→「考察」→「発表」と整理しています。この整理は、普通に教室で行われている理科の授業の多くが基本としている展開パターンです。しかし、このパターンは、学習テーマや対象の違いによって大きく3つのバリエーションに分けられます。

その一は、「観察型」です。直接体験を比較的長い期間にわたって繰り返すことにより、認識を深めるタイプの学習です。例えば、植物の観察などにはこのような型をとります。その場合、比較的長期間にわたって観察をしていくわけで、その中では「予想」→「観察・結果」→「考察」→「発表」という展開パターンは何度か繰り返されることになります。

次が「実験型」です。この型は特に科学において行われる方法で、構造化された実験場面のもとで行われる直接体験のなかで認識が深められるタイプの学習です。小学校では、電気、流水の働き、てこの働き、水溶液などを理解するときに行われます。そして、「調査型」があります。これは、直接体験が困難な対象について、調査等に基づいて体験を先行させるタイプの学習です。これには、天体、人の誕生などについて学習するときに用いられます。

このような学習活動における展開を子どもたちが行うに当たっては、当然教師からの支援が必要になります。このために必要な支援として、「理解支援」「表現支援」「評価支援」という3種類の支援を用意することが提案されています。まず、「理解支援」とは、子どもたちが学習活動の展開を理解し、局面に応じて意識を適切に方向づけ、学習に必要な体験を得ることができるようにするための支援です。つまり、活動に取り組むときに「学ぶ力」に対する支援で、「トピック型」JSLカリキュラムにおける「学習支援」に対応するものです。

そして、「表現支援」とは、子どもたちが体験を整理し、思考を展開し、それを他者に伝えていくための支援です。つまり、体験のとらえ直しにかかわる「学ぶ力」に対する支援です。そして、もう一つが、「評価支援」です。これは、子どもたちが活動の流れに乗れているか、体験の科学的なとらえ直しがうまくできているかを子どもたち自身に確認させるための支援です。いわゆる自己評価力です。どうしても日本では、他者評価によって行動することが多く、自分を見つめ、自分の取り組みを評価することに慣れていません。私は、これは活動自体からの学び以上に、子どもたちにとっては大きな学びになると思っています。さらに、この評価は、グループ活動において他の子どもたちとのコミュニケーションを媒介するツールともなり得ると言われています。

 さらに、このような評価を取り入れるのも、これらの活動には、知識を獲得させるという目標だけではなく、一人一人の子どもたちの学習への感情やアプローチの仕方にも焦点を当てる必要があるからです。自分を振り返ってみることで、ものの世界や自然の世界にある調和を見出すことができ、子どもには安心感と自信がもたらされていきます。知らないものへの恐れがなくなってくると、達成感と、力を得たという感覚が得られるからです。