新しい見解

ピアジェは、幼い子どもたちが、ある状況では年長の子どもや大人とは異なる考え方をすると主張しました。彼は、知的発達には、不変な年齢段階があると仮定しました。そして、幼児の思考は具体的で抽象性がないため、幼児には幼児に特有なカリキュラムが必要であると確信していたのです。しかしながら、後の研究では、ピアジェが主張したのとは違い、幼児の思考が非論理的でもなければ、抽象で井がないわけでもないことが示されています。

彼は、よくかくれんぼを例に出して、子どもはまわりの世界を自己中心性に取らえるとしました。この考え方は、幼児の精神構造の特徴を表わすために用いた概念で,もっぱら自己を中心に据えた視点から外界に働きかけ,視点を変えたり,視点と視点の関係をとらえたりすることのできない時期の特徴をさします。かくれんぼをすると、幼児は自分の頭を隠し、自分から他が見えないと、他からも自分が見えないと感じてしまうというのです。このように、自分自身の視点を中心にして周囲の世界を見ることが、子どもの思考の特徴として指摘したのです。

しかし、このようなピアジェの考え方や彼の提出した証拠には、その後多くの反論が寄せられ、ピアジェが考えていたよりも子どもたちは有能な存在であることが次々と明らかになりました。それらの研究の中から、最近3歳から4歳にかけて、ピアジェの指摘しなかった重要な変化が子どもたちに生じることが明らかになってきました。その一つが、以前ブログで紹介した「標準誤信課題」というものです。ピアジェは主として、子どもの数・量・時間などの物理的な世界に対する理解を探求したのですが、この3歳から4歳にかけての変化は、心理的な世界の理解についてのものでした。しかし、3歳から4歳へかけて標準誤信課題以外にも、いろいろな点で変化が生じることが確かめられています。とくに、これもブログで取り上げた最近の発達心理学者たちが提案している子どもの「心の理論」の成立です。

もちろん、子どもであれ大人であれ、十分な経験、教育、専門的知識がなければ、物理的・社会的世界について、直観や常識に頼った誤った見方をしてしまいます。このように構成された知識の多くは、学校教育では帰るのがとても困難であると言われています。そうだとすれば、教師はどうすればいいのでしょうか?旧ソビエトの心理学者であるレフ・ヴィゴツキーの研究が、古典的ではあるけれども再評価されています。彼の研究は、この点に焦点を当てていました。ピアジェの理論に付け加えたのは、子どもが知識を構成するとき、まわりの人々に助けられたり影響を受けたりするという洞察でした。

すなわち、子どもはまず親や教師・仲間などに教えられたり、ちょっとしたヒントをもらったり、模倣をしたりしながら、新しい問題に対処していき、やがて自分だけでそれをやり遂げることができるようになってゆくと考えたのです。それが、「発達の最近接領域」と言われるもので、「まったく解決不可能な領域と、独力で解決可能な領域の間に、他からの援助があれば解決できるという領域が必ずある」という考えです。発達と教育の相互関係において、各々の子どものこの領域(近い将来の水準)を発見し、この「最近接領域」に働きかけ、新しい活動や発達を可能にして、発達を引き上げてゆくことが重要だと説いたのでした。

しかし、最近、また新しい考え方が付け加えられています。

子ども観の変化

 子どもたちが何かを学習しようとするときに、様々な観点に関連づけ、それが意味ある結びつきを作り出していきます。そこには、もちろん、保育者や教師の意図と計画が必要になります。しかし、それを受けて、次々の行動に移していく子どもたちは、私たちからすると未知の世界にまで及ぶことがあります。特に幼児期においては、まだ、経験も少なく、認知的な学習はしておらず、誰に教えてもらったわけでもないのに、どうしていろいろなことが分かるのでしょうか?そこには、子どもに関連した、最近の研究の多くが、その答えを教えてくれている気がします。

 「Science Experiences for the Childhood Years」という本の中にこんなことが書かれてあります。「幼い子どもたちの心は、まるで白紙のページか粘土のようなもので、熟練して思いやりのある教師が、書き込んだり形づくったりするもののように思えることがあります。実際、経験の浅い多くの教師や保護者たちは、教えることを“お話しすること”と同じことだと思い込んでいます。残念ながら、教育について書かれたものの多くでも、教えることが“教授という配達”と見なされています。子どもたちの心はまるで、教師が知識や技術という荷物を積み下ろす場であるかのようです。

 このことは、ブログでも再三書いていますが、子どもは白紙で生まれて、そこに絵を描いていくというイメージの教育は、早く見直さなければ、効果的な教育は行えません。また、ここでは、「認知的なものを子どもに伝達することが目的であるかのような教育」を、「教授という配達」が教育であるというような捉え方、しかも、配達される荷物は、「知識や技術」という言い方も同じことを言っています。その考え方を早く見直すべきだと提案しているのです。

こう提案しています。「認知心理学研究の流れでは、子どもの心がどう働くかについて、もっと現実的な見方をしています。子どもは、常に理解しようと取り組む存在だとみなされているのです。また、毎日子どもに接する親や教師による日常的な観察(最近その評価が見直されてきました)でも、同じような見方がされています。」やはり、最近の研究では、現場における母親から見る子どもの姿、園に見る子どもの姿の日常的な観察から子どもの心を探ろうとしています。

過去において、様々な幼児教育者が、その研究において様々な見解を示し、大きく子ども像を提案し、大きな貢献をしてきました。ピアジェは、子どもの思考発達の道筋と内容の細部に焦点を当てて、彼らの研究を発展させました。彼の研究は、後進の研究者たちとともにさらに深まり、今日の優秀な認知理論である「構成主義」へと発展しました。構成主義的な見方では、子どもたちは世界とやり取りすることで、世界がどのようにふるまっているかを学び、意味づけを行い、そして内的に知識を構築すると考えます。構成主義は、知識を構成するために経験が必要であることを示しています。ピアジェは、論理数学的知識の発達を特に価値あるものと考え、それを科学知識と見なしています。

ピアジェは、偉大で、幼児教育に多大な貢献をしたことは確かですが、どこか少し違和感を抱きます。何となく古い考え方がある気がするのです。

統合的アプローチ

 科学概念の周りにある関連させる様々な学習活動の中に、「園(校)外での学習活動」があります。この活動は、園内、学校内で学んだ科学的な情報に関連性を付け加え有効なものにします。子どもたちは、保育室内で身につけたことが、もっと大きな世界でも意味あることだとわかり誇らしくなります。子どもたちが学んだ科学概念を仕事で使っている人をクラスに招くことも、やはり現場を園に持ち込むという意味で重要です。これは、最近園でも課題とされている「地域の人による参画」です。以前から、地域の人材を活かすということが、小学校で行われていました。学校から地域の人に向けて「何か特技を持った人」を募り、その特技を子どもたちに教えてもらうために学校に来てもらうことがあります。

 教室の窓も、科学学習を確かめるための即席の素材となることもあります。たとえば、窓から、料理をしている匂いがどこからかしてくることがあったり、窓から道路工事をしている人たちの姿が見えたり、鳥の鳴き声が聞こえたりすることがあります。それは、注意をそらす材料というより、ちょうどよい実例となるときもあるのです。

 園(校)庭が、教室で学んだ概念をもっと大きな世界に結びつけるための格好の場所となるときもあります。園(校)庭は、保育室と同じように、学びに大きな影響を与えますから、その質を高める必要があります。子どもたちが生活と学習の時間の大部分を園庭で過ごす保育の場では、特にそうです。幼児教育者や、環境教育や野外活動に関心のある教育者は、戸外の大切さを長らく伝えてきました。最近の研究で、その重要性が再認識されています。その研究では、教師が、どんなカリキュラムであっても、戸外の環境での学習を重視していると、伝統的な教育で育った子どもたちよりも、高等教育で高い成績上げることが見出されているのです。園(校)庭をもっと良くしてためのアイディアが必要となるのです。

 このことも、ドイツに行った時に感じることです。また、ドイツの保育家具メーカーの人が、日本の園庭を見て、こう考えたそうです。「体育器具(うんていや鉄棒などの筋肉強化器具が多く、ハウスや築山、樹木に囲まれた空間はほとんど無い)が壁に沿って整然と並び、中央が大きい何もない空間があるだけの園庭で構成された空間で、指示に従い動く、受動的に見える子どもたち。」

 このように科学教育への統合的アプローチでは、カリキュラム全体に、身体的、感覚的、感情的な活動を織り込みます。意識的な思考と、非意識的な思考を、どちらも使った方が良いと考えられています。このアプローチは、全米乳幼児教育協会のスタンダードで支持されてきています。また、たくさんの教師、科学者、政策立案者の合意に基づいて作られた全米科学教育スタンダードの勧告とも合致します。これらのスタンダードでは、カリキュラムが発達に適切であることが必要だとされています。そして、この発達に適切なカリキュラムは、他の教科と関連付けられ、算数のプログラムと調和し、子どもにとって興味深く、適切でなければなりません。

 どうも日本では、スタンダードの議論は、独自性という言葉にかき消されてしまいがちです。

新しい発見

 科学概念を取り巻く様々な知能は、学ぶことを楽しみ、学ぶことに意味を見出すことが可能になります。「創造的な思考活動」は、概念を新しい関係性の中で自由に構成しなおすときに促されます。視覚化したり、想像力を駆使したりしながら、できごとを逆にしたり、概念を壊して空想的な解決をしてみたり、概念を新しい見地から見直してみたりして見ます。このような思考活動は、より子どもの方が強い気がします。ですから、素晴らしい発見は子どもにひらめくことが多いのかもしれません。大人にとっての長い経験が、概念をより強固なものにしていくからかもしれません。

しかし、この創造的思考活動は、科学概念がテストされたり、明確化されたりします。さらに、このような活動は、理性的な思考スタイルと直感的な思考スタイルとの間を行ったり来たりする柔軟性をもたらします。また、科学的なトピックに新しい関心を呼び起こすこともできます。創造的な思考活動は、内省的な知能を使うからです。

ここで、「食べ物を使った活動」ということが取り上げられるのは、この提案のもとになっているのがアメリカで出版された「Science Experiences for the Childhood Years」という本だからかもしれません。この本の内容は、全米乳幼児教育協会の指針や全米科学教育スタンダードに準拠しているのです。日本でも、食育という分野がありますが、あくまでの食についての造詣を深くしようというものであって、科学概念を深める活動という観点は薄いかもしれません。

「食べ物を使った活動」は、味やにおいといった感覚が使われることで、概念が思い出しやすくなります。食べ物を用意したり、試食したりするときの楽しさは、感情的な高まりをもたらし、記憶を長続きさせます。私たちは、誰でも特定の食べ物と、それにまつわる感情の記憶とが、生き生きと結びついていることを知っていると思います。また、科学的な体験活動の中で食べることは、身体・運動的な知能を使うことによって、概念の保持を強めると言われています。それを考えると、せめて、食べることを楽しみ、自発的な活動にしておきたいものですね。無理矢理に食べさせられる。食べることを強制される体験は、消し去りたい記憶として残ってしまうことでしょう。

逆に、こんな昼食を園で提供したことがありました。焼きそばを子どもたちの前で作りました。ただ、キャベツは紫キャベツを使ったのです。紫キャベツを炒め、ほぐした焼きそば麺をほぐしならその中に入れていきます。すると、何と焼きそば麺はきれいな緑色に変わりました。しかし、いくらきれいといっても、子どもたちからすると、少し気味悪いもので、口に入れるのをためらっています。そこで、こんどは、その面にレモン汁をたらします。すると、こんどはみるみるピンク色に変わりました。これは、料理でしょうか?科学実験でしょうか?どちらでもいいかもしれません。どちらにしても、子どもたちにしてみれば、不思議で、面白い体験なのです。そして、焼きそばの味とともに記憶に残ることでしょう。

このような劇的な変化だけでなく、そういう意味で、料理は科学実験の一つかもしれません。あの固い米粒が、ふっくらとしたごはんに変わるのですから。

統合されていく知能

 子どもたちは、[遊び」の中で様々な学びをしていきます。それは、再三このブログでも強調しているように、普通に使う大人のあそびとは本質的に違っています。子どもの遊びは、時に意図を持って行うときもあれば、無意識に遊んでいるときもあります。それは、子どもは体全体で遊ぼうとするからかもしれませんし、子どもの行動はすべて遊びと言ってもいいくらいに、一つのしぐささえも遊んでいるかに見えます。

 当然、子どもの遊びの中では、幼い子どもたちが、科学的な考え方を想像の中で試したり、適応したりしています。このような活動を、子どもたちの劇遊びに見ています。私の園で、おたのしみ会では劇を演じます。345歳児は、子どもたちの好きな絵本を題材にします。そのために、劇の練習は、セリフを覚えるというよりは、絵本を十分と読み込むことをします。まずは、そのストーリーを理解します。ストーリーから自然とセリフが出てくるようにするのです。そこで、先生は、その絵本の登場人物のペープサートを作ります。子どもたちは、その人形を使って、ストーリーを展開させます。年長にもなると、子どもたち同士で話し合いながら、セリフ、振り付けを考えていきます。このように実際の身体表現をする中で、より絵本の内容を理解していきます。

 科学的な概念を子どもたちは実際に使うと、記憶が強められると言われています。劇遊びをするとき、子どもたちはすでに絵本や先生の語りで知っている物語は、その場で演じることができます。また、そのストーリーを知らなくても、子どもたちは自発的に遊ぶときのテーマを持ちます。そのときに、自らペープサートが作れるように、割りばしとか画用紙を用意しておくと、遊びのアイディアが刺激され、ますます、劇遊びが充実していきます。

 バーバラ・バイバールは、「劇遊びは、洞察を深め、知識を統合し、個人的なレベルで確認するための手段として見なされていた」と言っています。75年近く前、幼児学校の草創期には、劇遊びは正当な学びの形態と考えられていたのです。後の研究では、自発的な遊びと科学とは、問題解決を行うとき、補い合って働くことが示されています。科学は、活動の枠組みを提供します。遊びは、問題解決に積極的な態度をもたらし、創造的な行動を引き出すのです。

 しかし、大人が子どもにまつわりついて「教えてあげよう」と待ち構えてはいけないのです。くつろいだ楽しい活動としての価値を失ってしまうからです。くつろいだ楽しい活動としての価値を失ってしまうからです。遊びでは、言語的、空間的、身体・運動的、そして対人的な知能が使われる可能性があります。このいくつかが関連し合って、より統合的な活動になっている状態を「ゾーン」というのです。

 この活動は、「創造的な身体表現」と科学との関係に移行していきます。ゾーン体験の中で大切な要素として、気楽さを感じるということがあります。楽しくくつろいだやり方で概念的な理解が促され、情報の保持が強められていきます。抽象的な概念が、直観的に、具体的で物理的な体の動きに変換されます。それで、物理的な出来事が記憶の中に定着するのです。ハナフォードという人が、「筋肉が骨を動かす前に、心の中で何かが起きる。注意の焦点が、物理的な課題をうまく成し遂げることに合わされていなければならない」と言っています。動きを通して自発的に表現するときには、空間的知能と身体・運動的知能が使われています。音楽的知能や対人的知能が発揮されることもあるのです。

科学と造形

 現場で日々保育しているものにとって、具体的にどのようにすればいいのか、それは、具体的にどういうことを言っているかよくわからないと、具体的な行動に移すことができません。「本当にそうだね」と納得はするものの、では、それは何を目指し、何のために、どのようにしていくのかがわかりにくいのが保育、教育です。特に、保育、幼児教育では、目に見える教科の様な到達度が示されていませんから、職場で到達度を決めてしまうようになってしまいます。それは、総合的学習が小学校で提案された時でも同じようなことが起きました。

 よく、子どもに寄り添い、子どもの考えていること、子どもの心の動きを理解する手法が述べられることが多いのですが、「へえ、子どもって、そんなことを考えてるんだ」「子どもは、こんな気持ちでいるんだ」という子ども理解をしたところ、現場の保育は、子ども研究ではありませんので、そのレベルで終わるわけにはいきません。だから、次に何を子どもたちに経験してもらうのか、そんな子どもにはどのような環境を用意したらよいのか、など次の保育が見えてこなければ意味はありません。子どもの行動を、様々な観点から分析し、それは次の方法を提供するも出なければならないのです。

 一昨日のブログの最後に掲載した科学概念を中心にした図は、科学的な概念を多重知能により、発展的な活動をいろいろと提案するものです。例えば、「算数の活動」は、観察結果を測定し、記録するための方法を提供します。

また、「音楽的な活動」との関係は面白いですね。思いもよらない関係があるのです。この活動は、科学の理解をいろいろな意味で強めると言われています。メロディーは、その概念に肯定的な感情を引き起こします。詩も、概念を直接的にあるいは比喩的に表現することで、思い出しやすくなります。リズムは、パターンを繰り返すことで、歌詞の含まれている概念を強化します。聞くことは、本質的に強い記憶を引き起こす感覚系です。旋律が子どもたちの耳に入ると、子どもたちは詩に表された概念を思い出せるのです。覚えやすいメロディー、詩、リズムは、しっかりと定着するので、消費者に物を買わせるためによく使われているそうです。たしかに、いくつかの単純なCMソングが何となく頭の中で繰り返されることがあります。

では、「造形的表現の活動」とは、どのように関連し合うのでしょうか?この活動は、子どもたちに自分のアイディアを直接的、創造的に表現させるためにあります。科学的なできごとを自分なりに解釈できるように、自由な表現方法が意図的に使われています。子どもたちは、自分が学んだことを示すのに、線画で表現したり、絵を描いたり、造形をしたりするのを楽しみます。その時には、空間的知能と、身体・運動的知能が使われています。芸術活動の中には、科学の体験活動で使ったことのある素材を使うときもあります。子どもたちがある素材を別の方法で使うことを思いつくと、拡散的な思考が促されます。そのため、子どもたちが、特定の指示に従って何かを作らされるような作業は、造形表現の活動には含めません。あくまでも、自発的な活動でなければならないのです。

発展的な活動

 いくら子どもの心を分析しても、そこから次の保育が見えてこなければ意味がありません。私は、保育は、次々と子どもの発想に合わせて展開していくものではなく、発達を豊かに遂げさせるために、その発達を促すさまざまな観点からの環境を用意すべきだと思っています。それは、早く発達は遂げさせることでも、先を目指すことではなく、その時々が大切だからです。そのような環境を用意することは、私は「発展」と考えています。

 科学概念の学習における発展的な活動についても、いろいろと考えることが必要になります。その学習活動は、ガードナーが見出した多重知能のうちの複数の関連において行うことが重要です。それは、昨日のブログで紹介した「算数の活動」のほか、「音楽的な活動」は、私たちはあまり意識したことがないものでした。そこには、なぜ、本や学校が出現する前の何世紀もの間、人々を教育するのに歌や民謡が使われてきたかという答えのヒントにもなります。

 学習するうえで、音楽的知能と関連させることで、学びをよりやさしく、さらに長持ちさせることができると言われています。就学前の子どもたちにキーボードを使わせて、リズムやメロディーのパターンを訓練すると、時空間的な推論が向上すると言われています。時空間的な推論は、科学と数学の基礎です。最近の脳スキャニング研究によると、音楽が処理されるのは、短期記憶と長期記憶とを、感覚的、感情的、運動的に結び付ける部位であることが明らかにされています。そのため、私たち人間は、音楽に対して、感情的にも身体的にも、記憶したり反応したりしやすくなっているようなのです。それは、人類の長い進化の歴史からみてもいえるようです。

 つぎに、「書物や絵本」との関係です。私たちの園にも、絵本ゾーンに書物や絵本が置かれていますが、観察ゾーンには図鑑などが置かれていますし、自然散策のときには、図鑑を持っていくことがあります。それは、書物や絵本は、科学概念を、生き生きとした言葉やイメージと結び付けてくれるからです。また、比喩的な意味でも、物語としても科学概念を拡張させてくれます。物語の中に科学概念が偶然含まれているときもあります。科学的な読み物や詩の中心的なテーマとして科学概念が紹介されるときもあります。どちらの場合でも、なじみ深い知識に新しい状況で出会うことになります。そして、子どもたちの心に感情的に焼き付けられます。子どもたちに自分自身の物語や詩を書かせたり、語らせたりすることは、言語的知能を使って事実、空想、感情を創造的に統合させることになります。就学前の子どもたちが、関連した指遊びを楽しむときにも、身体・運動的な知能を科学学習に組み込んでいることになるのです。

 この説明を読むだけで、いかに子どもたちの活動は、統合的であるということが分かります。私は、以前、自発的な活動を保障するために、子どもたちが選択できる環境として「コーナー」を設置しました。しかし、本コーナーにある絵本は、他のコーナーに持ち出すことは禁止していました。それは、持ち出した先にも、自発的に活動している子どもがいて、その子の活動を保障するということからでした。しかし、絵本、書物は、決して読むだけのものではないのです。調べるための資料であったり、制作するためのヒント集であったり、もしかしたら、楽器を演奏するための楽譜であったり、他人とのコミュニケーションツールであったりします。そして、科学的概念を学習することもあるのです。絵本、書物を通じて、様々な活動を発展させていくのです。

領域の統合

 ガードナーが多重知能理論の提唱から、八つの知能を見出しました。その知能の発達はまだはっきりしてはいませんが、これらの知能が見出されたことで、幼児教育者が統合的なカリキュラムを用いる理論的根拠が強くなったと言われています。さらに進めて、現在の研究では、いろいろな文脈で教えることの意義が世界中で確かめられています。これらの多重アプローチを使うことで、子どもたちは科学のような社会的に価値ある知識を、効果的につくり上げ、使うことができるようになるのです。

 これらの動きは、2000年前後に世界で取り組み始めていますが、日本では、この認識が幼児教育者、また小学校教員たちにあるでしょうか?まだまだ、狭い価値観の中に子どもたちを押しこめ、単一的なアプローチからのカリキュラムをつくり、そこからはみ出る子を気になる子として位置付けてはいないでしょうか?ですから、もし日本で「科学する力」を子どもたちの中に育もうとすると、科学を教えるということになりかねません。それは、領域の考え方にも言えることのように思えます。領域別に保育計画を立て、その領域を教えるかのようなカリキュラムを立てます。しかし、それぞれの領域は、それぞれに関係し合い、子どもの行動の中にすべて含まれているのです。

 同じように、意味ある科学経験は、他のカリキュラム領域と統合することによって、初めて子どもたちの心的な能力を高めることができるのです。決して、ひとつの経験には、一つのある特徴を持っているのではなく、様々な特徴を持つことによって、それらは脳の中の異なった様々な場所でコード化されるのです。そして、それぞれの経験の特徴は、脳の奥深くにある長期的な記憶システムで結びつきます。さらに時間をかけて情報をもっと十分に処理すると、もっと多くの結合が作られます。多くの結合が作られれば作られるほど、よく記憶できるようになります。

 この内容は、よく理解できます。何かを覚える時に、何かに関連付けて覚えると覚えやすいこと、その関連が多いほど記憶される内容が豊富になることなど、普段から感じることがあります。また、私は、何かを覚える時には、できるだけまわりの多くの他人に話をして覚えてもらうようにしています。誰かは覚えているだろうと思うことと、それぞれが覚える中でその記憶はより多くの情報も合わせて覚えてもらうことが可能になるからです。

 これは、何も自分が記憶する時だけでなく、子どもたちに何かを教える時でも、情報を吸収し、関連付け、それらを使うための様々なスタイルと用い、多様なつながりを提供することによって、子どもたちの記憶に残るようになるのです。子どもたちが自分たちが集めた情報についてじっくり考え、すでに知っていることに関連づけ、意味ある結びつきを作り出せるように、子どもたちを援助する必要があります。

 特に抽象的になりがちな概念は、実際に身近な世界で機能していることが分かるように子どもたちに伝えなければならないのです。これは、幼児期においてはなおさらです。そうすると、ガードナーが言う様々な知能を持つ子どもたちが、それぞれのアプローチから、学ぶことを楽しみ、学ぶことに意味を見いだせるのです。togoteki

多重知能

 以前のブログで、ハワード・ガードナーによる多重知能理論を紹介しました。彼は、知性のキーワードを「多重知能理論」を提唱しました。そして、「そろそろ才能というものをもっと広範囲にとらえるべき時期にきていると思います。子どもの発達のために教育がなしうる唯一最大の貢献は、その子が自分の才能に最もふさわしい方面に進んで能力を発揮し、満足して生きられるよう応援してあげることです。私たちは現在、そのことが見えなくなっています。今の学校教育は、生徒全員を大学教授に仕立てようとするかのような内容です。そして、そのような狭い基準にあうかどうかだけですべての学生を評価しています。」と警鐘を与えています。

 この提案は、心理学者の間で物議をかもしました。それにもかかわらず、教育者の間では、彼の理論は、着実に受けいれられていきました。それは、教育者たちの常識的な意見をうまく説明してくれていたからです。また、彼の理論は概念を教える時に幅広い伝達手段を使った方がよいことも支持しました。それは、子どもには様々な知能スキルを持っていて、それぞれの方面に進んでいけるような能力をつけることが教育だと提案していますが、また、この多重性の違ったとらえ方をすると、子どもたちは、いろいろなものを学習するうえで、それぞれが持っている様々な能力から理解をしているため、様々な手段から子どもたちに伝えた方がいいということです。

 それは、日本で現在行われている全国一斉学力試験は、子どもたちの論理・数学的知能という「算数」と、言語的知能である「国語」の二教科だけで子どもたちをランク付けしているのはおかしいということですが、同時に、知能テストも、主に計測しているのは、論理・数学的な処理能力をテストしているもので、ガードナーは、知能というものは、そのような単純なものではないと信じているのです。彼は、知能をいろいろな場面での問題解決、問題創造、問題発見として見ています。

 これも以前のブログでも書きましたが、彼は、八つの異なった、しかし、互いに組み合わされて働く知能を見出しました。「論理・数学的知能」(数学的、論理的、科学的な概念を理解したり、使用したりする能力)、「言語的知能」(考えを表現するために言葉を使う能力)、「音楽的知能」(音楽で考える能力や、パターンを聞いたり、認識したり、記憶したりする能力)、「空間的知能」(空間的な世界を心の中で思い描く能力)、「身体・運動的知能」(身体を使って問題を解決したり何かを作り出す能力)、「対人的知能」(他の人々を理解する能力)、「内省的知能」(自分の感情について考えたり、自分自身を理解する能力)と、最後に後になって付け加えられたものに、「博物学的知能」(生き物を見分けて分類することなど、自然界でパターンを見出す能力)の八つの知能です。私たちが、環境について学び、応答するときには、これら八つの知能を様々に組み合わせ、様々な程度使っているとガードナーは考えたのです。

 しかし、その後にガードナーが提案しているように、それぞれの知能がどのように発達し、また、どう関連しながら発達し、それをどうやったら伸ばしていけるかが課題になりますが、それは、まだはっきりしていないようです。

思考方法

 現在、幼児施設に「認定こども園」という施設が誕生しようとしていますが、その創設にあたって、あらためて「幼児教育」とは何かが問われています。この考察を、少し互い角度から考えてみたいと思い、「科学する心」を取り上げています。幼児教育者が、普段あまり目にすることにない研究や切り口から考えると、また違った視点が見えてきます。

 子どもにおける科学する力を考察するにあたって、いろいろな形式を組み合わせて学びを拡張していこうとする実践が行われています。そのために、約1世紀の間、幼児学校や進歩的な教師たちによって取り組まれてきました。同時に、脳の解剖学構造についての新しい知見が得られました。その知見によって、現場で直感的に知っていたことが正しかったことが分かってきています。それは、子どもたちの学習の可能性はとても大きく、それを効果的に伸ばすには、様々な学習の道筋が用意されていなければならないことが分かったのです。この解明について、現在、私が現場から感じている乳幼児における発達、それは、乳幼児期における学習、教育のあるべき考え方が、次第にいろいろな研究知見から説明されることと似ている気がしています。

認知神経科学者は思考方法について研究しています。その結果、思考方法には異なった二つの形態があり、それが一緒になって働くことを確信しています。それは、「意識的な思考」と「非意識的な思考」という形態です。「意識的な思考」とは、自分がしていることを意識していて、情報を獲得したり、情報を使ったりするときに言葉を使います。一方、「非意識的な思考」は、潜在学習とか無意識思考とも呼ばれています。意識下で常に働いていて、言葉は使われません。この二つの思考形態は、お互いに影響し合いますし、普通心的活動でもこの両方が働いています。幼児の思考の多くは、社会的行動や言葉から、無意識のうちに複雑なパターンや暗黙のルールを学んでいきます。

実は、科学には、この非意識的思考が重要なのです。科学的というと、情緒的と正反対な世界のように思えますが、実は、そこにはかなり人間の能力の中で五感以外の感覚が必要のようです。「ははぁ、やっとわかった!」という、思いがけない解決を経験することがよくあります。そのとき、意識的な思考では思いつかなかった解決を、非意識的なプロセスが導き出したものなのです。このようなことを、たぶん、「ひらめき!」というのでしょうが、科学的思考の領域では、想像力と同じように、直観的な洞察力も大切なのです。解決すべき問題を見つけ出したり、解決方法の目星をつけたりするときに、なくてはならない思考法だというのです。「確かにね!」と同感します。理詰めで考えを展開していくと息づまることがあり、ふと、直観的にひらめくことがあります。

私たちの周りで進行している様々なことを意識して知覚できるのはほんのわずかで、ほとんどは非意識的プロセスによって取り入れているのです。そして、情報処理も、意識的思考よりも早く処理しています。さらに、非意識的プロセスは、まとまりを見つけ出したり、他の情報とのつながりをつけたりするときにも、とても効率的であるということが分かっています。

この意識的素行と非意識的思考の両方が、教育手法に利用されています。それは、なじみ深い教育手法の中にもあるようです。