味噌

 料理物語に書かれてあるうどんやそばの味付けを「汁はにぬき(煮貫)叉たれみそ(垂れ味噌)よし」と書かれてありますが、それを見ると、味付けのベースは「味噌」と書かれてあります。現在、うどんやそばの味付けのベースは「醤油」です。それは、その歴史に関係があるようです。

 味噌と醤油は、日本食には欠かすことができません。この二つが、日本食の特徴である「うまみ」をつくり上げるからです。特に、醤油は、ただしょっぱいだけではなく、甘味、酸味、苦味、塩味、そして旨味という、5つの味の成分を兼ね備えた万能調味料だ。甘味、苦味、酸味、そしてうま味を兼ね備えた、この類まれなる複雑な調味料であると言われています。この醤油は、実は室町時代に「ある副産物」として生み出され、各地で様々な製法の改良を経てきた調味料です。

 日本酒、味噌、醤油と日本の味覚を代表する食品は、日本風土に関係して出来上がります。それは、どれも日本の高温多湿な風土で育つ「麹菌」というカビによる発酵食品で、その発酵が風味を醸し出しているのです。

 そんな日本の食の代表格のような醤油ですが、実は、やはり、そのルーツは中国大陸から伝わったとされています。ただし、中国では調味料というよりも中国由来の保存方法に使われたのです。それは、「醤」(ひしお)と呼ばれる保存食なのです。狩猟生活だった時代、狩った獲物の肉を保存しなければなりませんでした。そこで、肉を塩漬けにしました。これを「肉醤」(ししびしお)と言います。それがしだいに農耕生活に変わっていきます。すると今度は、大豆や小麦などの穀類を保存しなければなりません。そこで、やはり塩を加えて漬けて保存しました。それを「穀醤」(こくびしお)と言います。この保存方法に「醤」が使われています。

この「穀醤」の作り方が、日本に6世紀の仏教伝来の頃と同じ時期に伝わったと言われています。しかし、この醤づくりは、まだ調味料としてではありませんでした。それでも、日本で日本独特なものとして進化していきます。まず「未醤」(みしょう)なるものが生まれます。これは、この字のごとく、「豆の粒が残っている醤」という意味です。この未醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化していきます。しかし、醤同様、味噌も調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べることができました。徒然草には、北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話が書かれています。

その味噌が室町時代になると、各地で発達していきます。そして、戦国時代には兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源になりました。そして、江戸時代になって、現在のように調味料として認識されるようになっていったのです。ですから、まず味付けのベースは味噌だったのです。味噌を作っている過程で、その味噌から液体がしたたり落ちます。それを「たまり」と言いますが、その液体の調味料として独立していきました。この偶然に見つけた産物が「醤油」となっていくのです。そのうちに、大豆を主原料とするたまり醤油とは異なる醤油のつくりかたが生まれます。関東地方で「濃口醤油」が誕生するのです。

「つゆ」と「たれ」と「汁」

 ホテルに行くと、朝食がバイキングのときサラダにかけるドレッシングに迷うことがあります。私が子どもの頃は、野菜には塩や砂糖をかけて食べました。それが、マヨネーズが出て、サラダにはマヨネーズというようになりました。しかし、最近は、様々なドレッシングが出ていますし、手作りのドレッシングもかけることも多くなりました。「サウザンド・アイランド」は、マヨネーズとケチャップをベースに、細かく刻んだ玉葱やピーマンなどの野菜やピクルスを加え、香辛料で風味をつけたものです。また、「イタリアン・ドレッシング」は、水、酢またはレモン汁、油、塩、胡椒、砂糖、刻んだ玉葱やピーマン、ニンニク、オレガノ、フェンネル、ディルなどを混ぜ合わせたものです。そして、「フレンチ・ドレッシング」は、甘酸っぱいドレッシングです。そして、さっぱりと食べたいときには、和風ドレッシングがあります。これには、青じそ風味、醤油ごま味、わさび醤油味など日本独特の食材が使用されています。中国風のドレッシングもあります。これは、ごま油などで甘辛く味付けされ、中華料理に合うように作られています。

 同じように、鍋物や焼き肉には、様々な「タレ」があります。私の園の新年会は、みなで鍋を囲みますが、新年度のクラス担任ごとにどのタレの鍋を食べるかをくじ引きで決めます。「醤油」や「塩」がベースですが、他にも「トマト」「キムチ」「カレー」「味噌」などがあり、また、つけるタレには、「ポン酢」とか「胡麻ダレ」があります。

 このように脇役と思える「タレ」に対して、麺類には、「ツユ」という言葉を使います。

しかし、同じ麺類でも、冷やし中華には「タレ」を使います。また、「ツユ」や「タレ」には、ともに「つける」という言葉を使いますが、食べる様式によって、「つゆ」に「つける」ときには、漢字で「付ける」を使い、「タレ」に「つける」場合は、主に「漬ける」という意味に使われ、タレの味をなじませたり調味用語として使われます。また、「タレ」には、「かける」あるいは「からませる」という言葉を続けて、食べる動作をさす場合よりも、むしろ麺なり素材を調味する過程の動作をさすことが一般的であるようです。ただ、これは、関東のことで、地域によって違うようです。

 他にもさまざまな麺の食べ方がありますが、それによって、「タレ」か「ツユ」か迷うことがあります。そばやうどんを食べる時に、「ぶっかけ」という言葉があります。この食べ方は、茹で上げたソバやウドンをドンブリにいれ、ツユにつけずに、ブッカケて食べる食べ方で、屋台での食べ方ではやったそうです。また、最近多くの店でメニューに書かれてあるのが、「ツケ麺」です。このばあいは、ツケジルは、「ツユ」か「タレ」か迷います。

また、タレとして使われる味噌、醤油という発酵調味料はダシと大きなかかわりがあります。このダシがものを言うのは、麺類を「汁」に入れて食べる場合です。昨日のブログで紹介して様々な味付けのラーメンは、汁の違いです。同じように、うどんやそばでも汁がものをいいます。「料理物語」の中にうどんの味付けが書かれてあるようです。「汁はにぬき(煮貫)叉たれみそ(垂れ味噌)よし」とあります。また、そばの食べ方にも、「汁はうどん同様」と書かれてあります。

そして、「味噌一升に水三升入、もみたてふくろにてたれ申候也」というものを「生垂」、「みそ一升に水三升五合入、せんじ三升ほどになりたる時、ふくろに入たれ申候也」は、垂味噌(たれみそ)、そして、「なまだれにかつほ(鰹)を入、せんじこしたるもの也」を「煮貫」と言うと書かれてあります。これらが、うどんやそばの汁として使われていたようです。

ラーメンの味付け

 日本では様々な麺類を食べます。それは、同じラーメンでもスープの味付けに様々あります。私の子どものころには、あっさりした醤油ラーメンである「支那そば」でした。支那そばは中華そばと全く同じですが、ラーメン博物館のHPにはこう書かれてあります。

「明治初期の頃は“南京そば”と呼ばれていました。“南京”“支那”“中華”というのは全て中国を意味します。いわゆる中国の麺という意味なのです。その後、明治中期ごろは“支那そばや”や“柳麺”“老麺”などと呼ばれるようになり、戦後“支那”という言葉から、“中華”へと変化していったのです。では何故、地域によっては支那そばや中華そばと今でも呼ばれているのか?その答えはその地域でラーメンが普及した時代によるのです。例えば和歌山を例にとってみると、戦前に屋台は引かれていたのですが、和歌山でラーメン店が増えていったのが昭和20年の後半から30年代。その当時は前述の通り“中華そば”と呼ばれているのです。また、地域によっては九州のように昔は、“支那そば”と呼ばれていましたが、今ではラーメンと呼ばれている地域もあるのです。東京は一般的に支那そばと呼ばれていたのですが、戦後にオープンしたお店は中華そばと呼ばれています。(春木屋など)同じ地域でも複数の呼ばれ方をしているのですが、そこにはオープンした時代によって変わっているのです。」

 面白いですね。その呼び方で、その地域にラーメンがいつ普及したかが分かるのですね。そして、こんなことも書かれてあります。「“ラーメン”という言葉は、邪馬台国以上に説があり、今でもその論争が続いているのですが、昔は“柳麺”“老麺”“らぁめん”などと書かれ、カタカナで“ラーメン”と呼ばれるようになったのは昭和33年に発売された世界初の即席麺“チキンラーメン(日清食品)”の誕生後です。」

また、『補足トリビア』として、その呼び方で時代がわかるのは、「カレーライス」と「ライスカレー」の違いも同じく時代によって呼び名が変わっているという事を紹介しています。ですから、「ライスカレー」はご飯とカレーが別々になっているといいますが、それは違うと書いてあります。

また、ラーメンの味付けというと、私の子どもの頃はもうひとつ「たんめん」という塩味のラーメンがありました。多分、これをこの時期から食べていたというのは、かなり早いと思います。もともと「たんめん」とは、中国語の「湯麺」を日本語読みでタンメンと発音するところからきているようですが、中国ではこれは単なる「スープ麺」のことを指します。しかし、私が食べていたのは、茹でた麺に、もやし・ニラ・ニンジン・キャベツ・キクラゲ・タマネギ・豚肉等をごま油などの油で炒めたのち、鶏ガラなどのダシを加えて主に塩味の味付けしたラーメンです。

また、札幌に行った時に食べたのが最初だったのが、「味噌ラーメン」です。このラーメンは、「札幌味噌ラーメン」というように、札幌が発祥の地です。テレビなどでその開発エピソードが主解されることが多いのですが、1955年に札幌の「味の三平」で、大宮守人氏が味噌ラーメンを開発し、これが今の札幌ラーメンにつながります。それは、お客さんの「豚汁に麺を入れて食べさせてよ」という言葉をヒントに作り上げたとされています。

そして、次に代表的なものが「とんこつラーメン」です。福岡県久留米で1937(昭和12年)創業の「南京千両」は、うどん屋台「たぬき」を営んでいました。その創業者の宮元時男さんが、東京横浜で人気を集めていた支那そばと、出身地長崎のちゃんぽんを組み合わせてとんこつラーメンを創作したといわれています。

他にも今は様々な味付けのラーメンがありますが、うどんやそばは、どのような味付けで食べられていたのでしょうか?

麦の奨励

 日本は米飯が主食ですが、それは日本文化にかなり影響していると最近は強く思います。また、炊くという技術も食に様々な影響を与えているような気もしています。米を炊いて食べると、それだけで十分とおいしく食べることができます。それに引き換え、小麦は、それだけではおいしくありません。何か加工が必要です。ですから、小麦を加工する技術が発明されるまでは、小麦はまずい食べ物だったことでしょう。ですから、大名や貴族は米を食べることを好んだに違いありません。ということは、年貢として米を出させることは当然だと言えます。しかし、米を年賀として出させたら、町民、農民は食べるものが少なくなります。

 そこで、江戸時代に入って、各地で城下町が発達してくるにつれ、城下町へ食糧を安定供給するシステムを作り上げることが重要になってきます。そこで、幕府は、まず新しい水田の開墾を進め、米の収穫量を増やすことをします。もう一つは、水田の裏作として麦の栽培を奨励します。これは、裏作で増産させた麦を米の代わりに農民に食べさせ、年貢として徴収する米の量を増やそうとしたのです。そのために、裏作の租税を軽くしたり、裏作の奨励策を幕府はとるのです。

 農民たちは、それによって小麦を自分で食べるものとして栽培し、米を年賀で納めるのと違って、小麦を売って生活するようになり、江戸や大坂をはじめとした城下町ではその量は増えていきます。それのよって、町ではうどんやそばは城下町に住む人々にとっては屋台で食べるファーストフードになっていくのです。お金になる小麦は、農民にとって大切な生活費を稼ぐものですので、めったに日常的にはうどんやそばは食べずに、ハレの日の食べ物となっていったのです。

このように、米どころか麦まで貴重な食べ物だった農民にとって、特に米や雑穀そして年貢を納めた後に残るくず米でさえ貴重でした。しかし、くず米で炊いた米飯はベチャベチャしておいしくありませんが、これを石うすで挽いて粉にしてから団子などに作れば、一応おいしく食べることができます。そこで、戦国時代から江戸時代にかけて農村に石臼が急速に普及していきました。臼と杵で粉を作るより、石臼の方がはるかに粉にする能率がいいからです。そうして、農村にとって石臼は必需品になって、農村の隅々にまでいきわたっていきます。

 この様子が、「日本人のひるめし」の本の中で紹介しています。それは、1682年の「百姓伝記」に書かれてあるようです。「石臼は、農民の世帯道具の中で第一に重要なものである。五穀、雑穀を挽いて粉にするのに、臼で搗いたのでは能率が悪い。石臼にも善し悪しがある。柔らかな石で作った石臼では砂が混じるので、食物にはつかいにくい。今頃では摂津国のみかげ石、伊豆石で作ったのが上等である。」

 このようないきさつがあるので、江戸っ子といえば「そば」のイメージがありますが、元禄時代までは、江戸の町はうどんの天下だったようです。そばは、うどん屋で食べるものだったようです。江戸時代の職業紹介所が「饂飩杜氏宿」と呼ばれていたそうで、それは、うどんが中心だったことをうかがわせます。江戸の街づくりのために大勢の職人や人足が働いていましたが、彼らの食事からみても、うどんが中心だったようです。

麺類の普及

 麺類というと、日本ではそうめん、うどん、そば、ラーメンがその主だったものです。それぞれが日本において日本食になってきたのは、今までのブログで書いたように、大体わかりました。それを整理して、酒井伸雄著である「日本人のひるめし」という本の中で書いています。

 「唐菓子の一種として伝わってきた索餅がそうめんの元祖であるのかないのか、結論がはっきりしているわけではない。しかし、日本のひも状の麺をよじりあわせたような形、蛇に化けたほどの太さなどから、索餅が手延べそうめんのルーツであるとすることには疑問符をつけたい。また、同じように唐菓子の一種である餛飩をうどんのルーツであるとするのには大きな無理がある。そうなると、日本最初の麺類は鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わってきた「うどん」と「そうめん」ということになる。日本の本格的な小麦粉食はこのときにはじまったのである。引き続いて、室町末期から戦国時代にかけて、「そば切り」が登場し、江戸時代に入ってから小麦粉をつなぎとして使うことを学んで、今日の「そば」が生まれた。明治時代には「中華そば」は伝わってきたが、中華料理そのものの普及が進まず、中華そばを人々が口にするようになったのは大正時代に入ってからのことであった。」

 このブログを書いている時間にはまだ放映されていませんが、録画予約をした番組があります。それは、NHKテレビ“歴史秘話ヒストリア「和食はどうしておいしくなった!?」”という番組です。この番組紹介には、こう書かれてあります。“日本が誇る文化、「和食」。「食材の尊重」「栄養バランス」「季節の表現」など、和食の持つ特色は世界で高く評価されている。しかし、その完成までに多くの曲折があったことは、あまり知られていない。鎌倉時代の禅僧、室町時代の武士、さらには茶人まで、各時代をリードした彼らは、期せずして和食の発展に貢献することになった。番組では、秘伝の史料をもとに当時の料理も完全再現。和食、その美味しさの歴史に、多角的に迫る。”

 この番組でも、鎌倉時代の禅僧による影響、室町時代の武士による影響、茶道の影響が取り上げられるようです。彼らは日本文化を担っていただけでなく、確かに、日本食に対しても大きな貢献があったようです。

 文化は、しきたりとして、習慣として、生活の中で試行錯誤しながら形作られていくものですが、ときどきの発明、発見によって飛躍的な変化を起こします。麺類の普及のキーワードの大きなものに、小麦粉の存在があります。小麦粉食は唐菓子として伝わってきましたが、平安時代には忘れ去られてしまったようです。それが、禅宗の伝来とともに、小麦粉を食べる習慣が禅寺で復活し、点心が町民や農民の間に普及してゆくにつれて小麦粉も社会へと広まっていったようです。

 鎌倉時代の半ばころから、水田の裏作として麦の栽培が盛んになったことも、小麦粉食が普及する大きな要因になりました。江戸時代に入って、各地で城下町が発達してくるにつれ、城下町へ食糧を安定供給するシステムを作り上げることが重要になってきます。そこで、幕府は新しい水田をつくり、米の収穫量を増やそうとしました。それともう一つが、水田の裏作として麦の栽培を奨励することだったのです。なぜ麦の栽培を奨励したのでしょうか?麦が多く食べられていたわけではなかったのです。

中華そば

 ラーメンは「日本そば」に対して「中華そば」とも言いますから、「中国製のそば」というイメージがありますが、実は中国には「麺」という料理はないのです。「麺」とは、小麦粉または小麦粉を原料として作られる食品のことで、この麺をうどんのようにひも状に細くしたものを「麺条」といい、餃子の皮のように平たく伸ばしたものを「麺片」または、「麺皮」と呼びます。そして、麺条にするために細くする方法には二通りあります。

 一つの方法は、練った生地をひも状に引き延ばしていって麺を作る方法です。この方法は、華北地方の麺の作り方だそうです。引っ張る、引き延ばすという意味を「拉」といいます。ですから、このようにして作る麺のことを「拉麺」と表記します。「拉麺」という表記を使っているラーメン屋を見かけることがありますが、実は、拉麺というのは、小麦粉を練って手で引っ張って延ばした麺のことを指しますので、日本でいうラーメンのことを指しているわけではないのです。また、「老麺」という表記を使っているラーメン屋もありますが、老麺というのは中国語ではパン生地のことで、ラーメンとは似ても似つかないものです。というわけで、「拉麺」も「老麺」も日本での当て字であり、中国語の表記としてはラーメンの意味では使いません。

麺条にするためのもう一つの方法は、中国では最もポピュラーな作り方で、中国全土で行われている方法です。それは、練った生地をうすくおし延ばしてから、刃物で細かく切ってつくる方法です。この方法で作られた麺を「切麺」と言います。切麺は、手打ち麺のことです。

中国では、この麺条に具として豚肉などをのせて、豚や鶏のガラでダシをとったスープをかけて食べます。しかし、日本では、江戸時代までは、肉食は基本的にはタブーとされていたために、麺を動物性のスープと豚肉で食べるようなことはしませんでした。それが、明治になって開国とともに西洋人が来日するようになり、同時に香港などかも中国人もやってくるようになりました。そして、横浜、神戸、長崎などに彼らが集まって住みつき、現在の中華街が出来上がっていきます。当時は、南京街と言っていました。という事かわかりませんが、最初は、南京ラーメンというメニューが登場します。このような中華料理のメニューの中で、日本人に一番親しみやすかったのはスープに入った麺類だったのです。

横浜ラーメン博物館のHPによると、「1872年に、明治維新により開国された港町に中国人街が出現。横浜南京街に数軒の中華料理店が営業開始。1884年になると、函館「養和軒」にて「南京そば」というメニューがあった。函館新聞に広告が載せられた物で、日本で最初に、正式に中華麺が宣伝された可能性がある。ただし、この「南京そば」が、現在のラーメンにつながる汁そばであるかどうかは不詳である。」と書かれてあります。しかし、このラーメンが、元祖である可能性は大きいようです。

明治中期になって、横浜の南京街で、南京そばの屋台が引かれ始め、この前後に相次ぎ本格中華料理店も続々と開店します。そして、1905年に、長崎『四海楼』の陳平順氏が長崎ちゃんぽんを考案したと書かれてあります。そして、1910年には、浅草「来々軒」が創業。屋台ではなく、店舗を構えたラーメン専門店としては、日本初のお店が開店します。この店のラーメンは、絶大な人気を博します。こうして、徐々に日本人の間で、中国の麺の食べ方が日本人の間にも広まって、日本食のひとつとして、その地位を獲得していくのです。

ラーメン

 

 現在、NKH朝の連続ドラマで「マッサン」という番組を放映しています。この物語は、大正時代、ウイスキーづくりに情熱を燃やす造り酒屋の跡取り息子が、単身スコットランドへ渡り、そこで出会ったスコットランド人の女性と国際結婚するところから物語が始まりました。そのヒロインは日本とスコットランドの違いに戸惑いつつも、異なる文化を学びながら成長していきます。このモデルとなる人物は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝とその妻リタです。この時代、国際結婚は珍しかったでしょうし、日本国内で外国人を見ることは珍しかったでしょうか、奇異の目で見られたことでしょう。リーフデ号

リーフデ号

そのヒロインは、イギリスのスコットランド人ですが、日本に初めて来たイギリス人は、ウィリアム・アダムスです。彼は、1600(慶長5)オランダ船リーフデ号の航海長として渡船しますが、豊後(大分県)に漂着し、その後、三浦按針となって徳川家康の外交顧問として、今の神奈川県横須賀市に250石を与えられ、召し抱えられていました。彼の力で、慶長年間、オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったと言われています。そして、長崎平戸に1613(慶長18)にやって来て、平戸イギリス商館長コックスのもとで活躍し、1620(元和6)平戸で病死しました。彼の墓地と言われている墓が平戸にあります。

 

三浦按針墓三浦按針墓 

先日、長崎で昼にちゃんぽんを頂きました。長崎の麺といえば、「ちゃんぽん」ですね。という事で、夕食の鍋料理でも、最後はちゃんぽん麺を入れて食べました。このルーツは福建料理の「湯肉絲麺(とんにいしいめん)」で、麺を主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープです。この料理に影響を受けて、日中混合の庶民の味として産みだしたのがちゃんぽんと言われています。tyanponnabe明治30年代ころは、福建省の人たちが長崎市内に出て、庶民相手に商売をするようになっていました。その中で、四海樓の初代陳平順が貧しい中国人留学生に安くて栄養のあるものを食べさせようと、野菜くずや肉の切れ端などを炒め、中華麺を入れスープで煮込んだボリュームたっぷりの料理を作り上げ、「ちゃんぽん」と名付けたと言われています。他にも説があるようですが、どれにしても、鎖国時代、日本で唯一の開港地として外来文化を受け入れ、独自の文化を育てた長崎は、料理にも異国の味が漂うと言われます。麺好きの日本人の嗜好を巧みにとらえた、その名の通りまさに日本と中国が混合(ちゃんぽんになった)した料理と言えます。

このようにいろいろな形で広まった麺の中で、小麦粉を麺にして食べる中華めんは日本ではどのように発展していったのでしょうか?この中華めんは、もともとは中国の漢民族によって発明された調理法で、石臼とともに、シルクロードを通って西域から華北地方に伝わってきたのは、前漢の末頃(紀元前202~後8)と言われています。伝来した当時の小麦粉の食べ方は、水でこねて小さくちぎり、手のひらで抑えて平たくし、ゆでて食べるすいとん状のものであったようです。これが、麺らしくひも状に延ばしたものになるのは、中国の記録によると、後漢(25220)の時代になってからのようです。

もともと中国では、「麺」というのは、小麦粉または小麦粉を原料として作られる食品」のことを意味します。それが、どのように「らーめん」になっていくのでしょうか?

つなぎ

 「つなぎ」を使わずにそば粉のみのそばは「十割(とわり)そば」と言い、小麦粉2に対してソバ粉8の比率のそばは「二八(にはち)そば」、同様に、「三七そば」「半々そば」なども誕生しました。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二そば」なども誕生しています。このように粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持ち、自分ながらのおいしい食べ方を求めているという証拠です。

そのように家庭で食べられていた「そば」が、外食として食べられるようになります。いわゆる「そば屋」の誕生です。江戸時代、江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げました。「更科そば」とは、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもので、信州からの直売を売り物にし、江戸中で評判になったそうです。その後、次々に特徴のあるそば屋が誕生していきます。

 ソバの実の中心のみを挽いた白い上品な「更科そば」に対して、そばの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばが、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂で誕生した「藪ソバ」です。更科そばや藪そばをメニューにするそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたといわれています。よほど、江戸っ子の味覚に合っていたのでしょうね。

 この時期、そばに対するイメージの大きな変化が起きます。奈良時代、ソバは凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられました。いわば、ソバは、飢饉をしのぐ「救荒食」だったのです。それが、江戸時代に、そばは縁起のよい「ハレの食品」として位置付けられてきます。たとえば、晦日に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」、引っ越した時の「引っ越しそば」などの習慣が庶民に定着していきます。もともとは、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、ソバ粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったことからのようです。そのげんかつぎが、「細く長く生きる」とこじつけて、晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説があります。また、「引っ越しそば」という、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされています。こうして、麺となったそばは、江戸の人びとに愛され、縁起物になっていったのです。

 長い歴史を持つソバの存在は、粉にする技術の発明、麺にする技術、小麦粉の使用、そば屋の誕生、そしてハレの食品への転換、それらによって大きく変化を遂げてきました。そばの食べ方によって、もり、ざる、かけ、ぶっかけなどがあり、そばに入れるもののバリエーションによって、たぬきそば、きつねそば、てんぷらそば、月見そば、とろろそば、鴨南蛮、カレーそば、きのこそば、山菜そば、ワカメそば、おろしそば、にしんそば、キリがありません。他にもそば湯など独特の味わい方がありますし、地域によって特徴のあるソバがありますね。

 今年の新緑の季節に、ブラヘイジで八王子にある高尾山に上りました。そして、下山して、「とろろ蕎麦」を頂きました。このそばは、大正時代、山を登る参拝客に精をつけてもらおうと麓の店が提供したのが始まりといわれています。takaosoba

そばの発展

 最近は、子どもたちが食事のメニューで「粉もん」を摂りすぎることで問題になっていますが、それだけ、実を粉にする技術は、食事のメニューを大幅に広げていったようです。それは、ソバの実を粉にしたそば粉としての料理は現在も様々あることからわかります。同時に、鍋で煮るという文化も食事には画期的なことでした。そば粉を丸めて鍋で煮たり、平面状にして鍋に入れたり、薄く焼いたり、中に餡を入れる「そば饅頭」や丸めて串に刺す「そば団子」なども現れてきます。

 鎌倉末期には、そばが人々に盛んに食べられるようになることから、年貢として課せられた記録がたくさんあります。たとえば元亨四年(1324)の「山城国上久世庄年貢御公事用余事」には「麦七石八升八号 秋畑蕎麦代五石九升五合」という記述があります。また、室町時代になると、そばはさらにさかんに食べられるようになり、庵の近くでソバを栽培していたことを示す記述もあるほどです。

 しかし、同じように粉にする技術によって、多くの人々に食べられたものに小麦粉があります。小麦粉は、奈良時代から麺として食べられていたのですが、そば粉は、水でこねても粘り気が少なく、まとまりにくく、細長く伸ばすことができず、切ってゆでるとバラバラにちぎれてしまうため、麺にして食べることはまだしませんでした。現在でも、そば屋に入って食べることができるソバ粉を湯でこねて餅状にした「ソバがき」や「ソバもち」という食べ物こそ、そばの長い歴史の中では「そば」という言葉に代表される食べ物だったのです。

その後、盛んにそば粉を消費していきながら、食べ方に様々な工夫をしていきます。そして、ついに、戦国時代になって、現在の「そば」といわれる「そば切り」に行き着きます。麺状にしない「そばがき」に対して、切って麺状にしたものは「そば切り」とも呼ばれます。いわゆる、現在私たちが「そば」というとイメージする麺の形をしたそばは、工夫を重ねて日本で生みだされた発明なのです。「料理物語」には、そば切りの作り方として、「めしのとりゆ(取り湯)にてこね候て吉。叉はぬる湯にても叉豆腐をすり水にてこね申事もあり」と書かれてあります。重湯のような取り湯やぬるま湯を使ったり、豆腐をすって水を加えたものを使うなど、そば切りを作るときのつなぎにいろいろと工夫を重ねている様子がくみ取れます。このそば切りによって、「そば文化」が江戸時代になって花開くことになるのです。

では、誰がそんなことを考え出したかという事については、実はその起源は今も謎のままであり、どこまでさかのぼって「そば切り」の記述を見つけられるかは現代でも争点となっているそうです。ひとつの説として、この問題を解決してくれたのが、朝鮮から帰化してきた元珍という僧侶だという説があります。彼は、寛永年間に奈良の東大寺にやってきて、そば粉につなぎとして小麦粉を混ぜて「そば切り」を作ることを教えたのだと言われています。どちらにしても、そば切りは16世紀に誕生したものと考えられています。そして、江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃になって、そば粉に「つなぎ」としての小麦粉を混ぜたり、ヤマイモ、鶏卵などが使われ、そばの製法が打ち立てられたとされています。

そば

 「そば」に「日本そば」というように日本という名前の特別についたことからみても、日本のそばの歴史はかなり古いものです。そのもとになるソバの栽培が始まったのは、何と縄文時代なのです。この時代に、どのように伝わってきたかという事をDNA分析で調べてみた結果、やはり元をたどれば大陸から伝来したもののようです。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっているそうです。

 もともとはそうであっても、やはり、日本でソバの栽培が始まった時期はかなり古くまでさかのぼれるようです。高知県内で9000年以上前の縄文時代の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられています。また、さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からもソバの種子が見つかっています。

 しかし、だからといって、いわゆる主食としてソバを食べていたわけではなかったようです。それは、その時代には、大量の製粉が難しかったために、ソバ粉が作れなかったからです。それは、小麦も同様に小麦粉にして食べませんでした。縄文時代は上下の石ですり潰すという摺り臼を使っていましたし、弥生時代になっても、杵で搗く「搗き臼」を使っていました。これらの道具では、製粉は多大な労力が必要なため、この頃は粒のまま食べるのが主流だったようです。

 静岡県の登呂遺跡からソバの種が出土していますので、ソバは、すでに弥生時代には栽培されていたことが分かります。しかし、当時の食べ方は、「ソバ粥」というもので、ソバの実から殻を除いた玄ソバを水に浸してとろ火で煮て食べました。まだ、粉にはしていません。

 また、「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』です。奈良時代前期の女帝だった元正天皇が出した「勧農の詔(みことのり)」で、救荒作物として挙げられています。「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」

 ソバは、日照り続きで稲の収穫が見込めない中、普通より遅く実る晩禾とよばれる稲や小麦とともに、栽培が推奨されたのです。また、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられたのです。

 それが、大きな変化が起きるのは、当然、粉にするための挽き臼が中国から伝来したからです。鎌倉時代に、点心とともに伝わってきたのです。中国から挽き臼が伝来すると、事情は変わってきます。挽き臼によって大量の製粉が可能になったため、ソバや小麦などを粉にした料理が急速に普及していきます。ですから、鎌倉時代から室町時代の文献には、ソバがさかんに登場するようになっています。

  鎌倉時代以降、ソバ粉を使った料理のバリエーションは確実に増えていきました。ソバ粉を湯で練ってそのまま味噌や醤油のたれにつけて食べる「そばがき」を筆頭として、様々な食べ方が生まれます。