改善への取り組み

 脚気という病気が、その原因が分からないまま多くの人々を苦しめ、特に軍隊では、なかなか改善されませんでした。それには、以前のブログでも書きましたが、兵隊への志願者を増やすために、特に、農村出身者に入隊すると白米を食べさせてあげるという誘いをしていたために、麦飯を食べさせることはできなかったのです。

 そのためもあって、多くの兵隊たちが犠牲になるのですが、そのいきさつは、同じ軍隊でも陸軍と海軍では随分と違っています。給食の時にも感じたことですが、陸軍と海軍とはずいぶんと競い合い、お互いのネットワークはなかったのですね。研究の対応の随分と違っていたようです。

まず、海軍で起きた大惨禍です。当時海軍における脚気患者は、海軍総疾患者の三分の一余りが脚気患者だったようです。さらに、脚気患者は、明治14年度では、東京および横須賀の両海軍病院の入院患者の四分の三にもなっていたようです。しかし、戦況は悪化の一途をたどり、ただでさえ兵士の数が必要になります。明治15年に朝鮮の首都ソウルで起った壬午事変に海軍を派兵しました。ところが、わずか40日で朝鮮に派遣した金剛、比叡では、乗組員の3分の1が脚気になり、戦闘力なし、品川沖で待機していた扶桑では、乗組員309人中180人、約5分の3にあたる58%が罹患してしまったと記録にあります。

そこで海軍ではこの事態を解消すべく1人の軍医が立ち上がります。その人は、前のブログで紹介した海軍軍医、高木兼寛です。彼は、嘉永2(1849)年、宮崎の生まれの薩摩藩士です。若い頃に蘭方医学を学び、戊辰戦争に軍医として従軍し、そのまま東京に出て、英語と西洋医学を学びます。その後、海軍に出仕し、海軍軍医の御雇外国人の推挙で、イギリスに医学留学しています。そして、海軍軍医としての重要ポストを歴任し、明治181885)年にはその最高職・海軍軍医総監を務めています。彼は、「病気を診ずして病人を診よ」という信条のもと、海軍の脚気撲滅の責を負うことになります。

 明治13年末、まず、脚気の発生状況の調査から始めました。脚気の発生場所、患者の着用している衣類や住所、様々調べましたが、それらはどうも患者の多寡には関係していないことが分かりましたが、階級によって脚気の発生状況が違っていることが分かりました。食料品購入がしやすい場合には、患者は発生していないのです。特に食料費が多い階級には脚気患者は発生せず。患者は下士卒に多く、将校以上では全くいませんでした。

 この状況を見て高木は、「原因は食物にあるのではないか」と考えます。下士卒と士官たちの食べ物が違っており、下士卒の食事に偏りが見られるのではないかという事でした。その理由は此処にあるのではないかと、高木は考え、ある実験を行います。それは、イギリスの栄養学書をもとにして各兵員の食事の摂取量を計り、分析試験を行ったのです。その結論として、「脚気はタンパク質と炭水化物の比例の差による」ことが分かり、「兵食は洋食化されなければならず、兵食制度の改革が必要」としました。本当は、脚気はタンパク質と炭水化物の比ではなく、ビタミンB1不足によって起こるものですが、「脚気は兵食に問題があるのではないか」という結論は評価されます。

しかし、「脚気は伝染病」論が当時は主流だったので、いくら高木が問題点を唱えた所で当初は問題にもされませんでした。海軍内部でも殆ど顧みられなかった。ですから、少しも改善されてはいかなかったのです。