戦後間もないころの給食

第2次世界大戦の終戦の年、日本では大凶作に陥りますが、アメリカでも小麦粉の在庫量が前の年に比べて半減しており、その年の収穫も豊作が見込めませんでした。小麦の需要状況が非常に厳しい年だったのです。ドイツもその年に降伏しますが、ドイツの食糧はドイツ国内の生産でまかなえると当初思っていたのですが、それは大きな誤算だったのです。それは、ドイツの食材の収穫地である穀倉地帯は東部にあり、その地はソ連軍が占領しており、西側諸国への食糧輸送を拒否したのです。したがって、西側の占領地域の食糧事情は悪化していくばかりでした。そこで、アメリカをはじめとする連合国側はドイツへの食糧援助もしなければならず、さらに小麦の需要状態は厳しくなりました。

こんな状況でしたから、日本はアメリカに300万トンの食糧の輸入を申請しますが、アメリカ政府は、結局60万トンの小麦しか認めませんでした。コメントにもありましたが、本当に戦争というものは、勝っても負けても、他国のことであってもいろいろな問題が起きるものです。

こんな状況で小麦の輸入はあてになりませんから、日本政府の関係省庁の実務者が知恵を絞り、小麦にこだわらず、なにしろ食糧になるものを小麦の代わりに輸入できないかと考えます。トウモロコシ、コウリャン、大麦、大豆かす、脱脂粉乳など、とにかくカロリー面では人間の食糧に十分通用するものを選んだのです。それは、対日感情のあまりよくないアメリカ本国でも、小麦でなければ食糧援助品として拒否されないだろうという思惑もあったようです。また、こんな家畜の飼料にしかならないようなものまでも食べようとすることから、どれだけ困っているかという事を訴えようとした意図もあったようです。こうして、配給が数十日間も滞っていた北海道の札幌や函館を中心とした地域に、昭和21ん年4月末に最初の輸入食料が放出されたのです。

そして、その年の末の12月、「学校給食実施の普及奨励について」の通牒が、文部、厚生、農林の三省次官名で公布されました。極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目ざして全校児童を対象とする学校給食を行おうとするものでしたが、このころになると、占領軍の対日政策が変わっていったことも後押しをすることになりました。翌22年1月から、占領軍総司令部(GHQ)、アジア救済連盟(LARA)などといった諸機関からの寄贈食糧、元陸海軍用かんづめの放出を得て、全国の都市小学校児童300万人に対し、週二回学校給食が実施されたのです。しかし、まだまだその内容は、一人一回の熱量180カロリー、たん白質15グラム程度の補食給食でした。

また、この年の秋には、あの味として悪名の高い米国援助の脱脂粉乳が配給され、当時はそれによって学校給食が大いに普及されていったのです。23年になると、この脱脂粉乳と文部省のあっせん物資とによって都市・町村を通じて週五回の給食が実施され、ようやく給食を教育的に取り扱う風潮が盛んになってきました。さらに国際連合児童緊急基金(UNICEF)寄贈の脱脂粉乳による給食が各都道府県単位に実施校を指定して24年10月から開始され、25年末まで続けられたのです。

 パン・ミルク・おかずの三種による完全給食は、米国政府によるガリオア資金(GARIOA)という「占領地域統治救済資金」寄贈の小麦をもって、25年7月から六大都市に広島、福岡を加えた八大都市の児童135万人に対して開始され、26年2月には、全国の市制地域一都246市の児童400万人に発展していったのです。