給食とお弁当

 わが子は、小学校では昼食は給食でしたが、幼稚園、中学、高校とお弁当でした。現在、園では給食を出していますが、栄養計算を毎日きちんとして提供しています。しかし、わが子は、基本的には、栄養計算をしたものを食べていたのは小学生の時だけという事になります。しかも、幼稚園の最初の保護者会では、「お弁当で好き嫌いをなくしたいとか、いろいろな栄養をバランスよく食べさせようとは思わないで、毎日子どもの好きなものだけを入れてください。」と念を押されました。それにしては、保育園では、毎日の栄養計算と衛生についてはうるさいですね。

また、給食というと、昼食を思い浮かべますが、日本では、昼食は基本的にはとっていなかった時代が長く、給食には、もともとはどんな目的があったのでしょうか?以前のブログで、東大寺で青銅の鏡を作る仕事をしている雑工と雑役夫に給食を出していた記録が残っているという事を書きましたが、それは、食材や調味料を支給していたという事でした。それらの経緯が「日本人のひるめし」に書かれてあります。

日本における給食の始まりは、兵士食だったようです。大和朝廷は日本本土を統一しようと各地に兵を送ります。軍隊を派遣して、それぞれの豪族を従えさせ、統一政権後も各地で起こる反乱にも軍を派遣して平定をしなければなりませんでした。派遣された軍団は、食料を持参し、兵士に食事を支給しなければならなかったのです。持参したものは、もち米を蒸してから天日で乾燥させ、湯や水に入れて柔らかくして食べる乾飯と、モミのまま炒ってから搗いてモミガラを取り除き、そのまま食べる焼き米だったそうです。
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このような乾飯や焼き米などの食事は政権の側から支給されるものであり、給う食という事で、「給食」となったようです。このような兵士への食事の支給は、天平に施行された養老律令にも、平城京が開かれた時の長屋王の邸宅から発見された木簡にも、その内容が記されているようです。このような兵士食としてだけでなく、最初に書いたように大規模工事などの際にも必要でした。平城宮跡から多く出土している土師器や須恵器は、役人に出されていた給食に使われたようです。それは、次の平安京でも役人に対して給食が行われていたようです。

「和風たべかた事典」(小野重和著)には、こう書かれてあります。「平安京には厨町という名の町が数多くあった。当時の中央政府は太政官の下に八省、各省にはいろいろな職、寮、司があった。これらの役所には、役人たちに食事を提供するための台所があり、これが厨町なのである。当時の食事は1日朝夕2食で、朝食は午前10時ころ、夕食は午後4時ころであった。役人たちは出勤日の朝夕2食とも役所から食事を提供されたようだ。今の事業所給食のはしりである。この事業所給食は武家政権には受け継がれなかった。江戸城に登城する大名、旗本、御家人は弁当持参であった。」

武家社会では、弁当持参だったのですね。弁当の「弁」は、「辨」と書き、「わける、わきまえる」という意味です。「当」は、「あたる」という事で、「弁当」とは、「外出先で食事をするために持ち歩く食べ物」という事になります。広辞苑には、面桶(めんつう)から転じたものとか、便当の意ともいうと書かれてあります。

弁当は、自宅で作って持って行くものでしたが、次第に、外出先で仕出し屋から弁当を取りよせるようになり、仕出し弁当も生まれてきます。これを支給するような給食も生まれてきます。