海軍軍医、高木兼寛は、壬午事変の際、派遣された軍艦の惨状を目の当たりにし、研究した結果、医務局長を通じて川村純義海軍卿にある案を上申します。それは、「2・3年の間、3隻の軍艦に限り洋食を支給し、他軍艦は従来通りとする。そして、脚気病調査委員会を置き、両者の結果を調査比較してみる」「金給制度の改見直し」でした。それに対して部内からの回答は、「食事の問題は長年の嗜好・慣習が染みついており、変更が容易でない」「洋食への切り換えは予算の増大を見る」でした。このような回答は、なんだか時代が変わっても変わらない気がします。同時に、将校はじめ主計官等からの同意も得られませんでした。結果、高木案は不採用になりました。
しかし、日々患者は減らず、死者も増えていきます。そこで高木は海軍医務局独自で、米食と洋食の比較調査を行うことにしました。そしてその調査で洋食に分がある結果を得て、仁礼景範中艦隊司令官に比較調査と同じ洋食の献立を実施してくれと要請します。しかし、この要請も却下されてしまいます。その中でも、川村海軍卿から現在の食品やその支給方法の調査、その費用の調査などが依頼されます。そして、遠洋航海に出ていた練習艦龍驤の事件が起こりました。それは、練習艦龍驤で、乗員数が371人のなかで、脚気の延患者数が396人にも達したのです。
そのような状況の中、高木は「脚気病調査委員会」設置を要請し、直ちに認可され委員会が発足します。同時に、高木は政府筋の人間にも幾度となく脚気対応の話をしました。その執拗な嘆願に、伊藤博文が、「そこまで言うのなら、御上に腹蔵なく意見を申し上げろ」と言ってくれました。実は明治天皇も脚気に苦しんでいたのです。高木は、天皇に脚気は食物に原因が有る事、海軍の脚気を撲滅するには兵食改革が必要な事、それには天皇の英断が必要である事を奏上します。そして、明治天皇に賛同されます。その後、海軍としても消極的な態度を取る事が出来なくなります。
彼はまず、兵食の洋食化を進めようとします。しかし、嗜好の問題もさることながら、予算が増大します。そこで、彼は現行制度の改善から着手します。それは、「食料改良乃義上申」を上申し、その中で金給制度の改善をしていきます。その提案は、「食費の全額消費」「食料改良」です。これが元になって、翌年に「艦船営下士以下食糧給与概則」が制定、施行されています。この内容は、「下士以下の食料は定則金額の現品給与(金給制度廃止)」「食料品の種類の規定」というものでした。
上記制度が施行された直後、練習艦筑波が航海演習に出ます。この筑波艦で脚気予防試験を行いました。航路は先の龍驤と同じで航海日数もほぼ一緒です。すると、乗員数333人に対し、脚気患者延べ16人(日数14人)。死者0人だったのです。しかも、この患者中8人は肉を、4人はコンデンスミルクを飲食していませんでした。という事は、決まった食事を取らなかった人間が脚気にかかっていたのです。
そうは言っても、なかなか洋食にはなじめません。肉食に抵抗するだけでなく、乗員軍艦の四囲にはパンを放棄して、それは、カモメが浮いている様だという報告が来ます。そこで、高木は新しい対策を考えます。それは、パン食の代わりに麦飯の採用でした。その結果、海軍では麦飯が給与されることになります。海軍における主食は、白米、麦飯、パンの混用になります。そして、海軍では、明治18年で脚気はほぼ消滅することになりました。
では、陸軍では、どのような動きがあったのでしょうか?