改善の苦労

  海軍軍医、高木兼寛は、壬午事変の際、派遣された軍艦の惨状を目の当たりにし、研究した結果、医務局長を通じて川村純義海軍卿にある案を上申します。それは、「2・3年の間、3隻の軍艦に限り洋食を支給し、他軍艦は従来通りとする。そして、脚気病調査委員会を置き、両者の結果を調査比較してみる」「金給制度の改見直し」でした。それに対して部内からの回答は、「食事の問題は長年の嗜好・慣習が染みついており、変更が容易でない」「洋食への切り換えは予算の増大を見る」でした。このような回答は、なんだか時代が変わっても変わらない気がします。同時に、将校はじめ主計官等からの同意も得られませんでした。結果、高木案は不採用になりました。

  しかし、日々患者は減らず、死者も増えていきます。そこで高木は海軍医務局独自で、米食と洋食の比較調査を行うことにしました。そしてその調査で洋食に分がある結果を得て、仁礼景範中艦隊司令官に比較調査と同じ洋食の献立を実施してくれと要請します。しかし、この要請も却下されてしまいます。その中でも、川村海軍卿から現在の食品やその支給方法の調査、その費用の調査などが依頼されます。そして、遠洋航海に出ていた練習艦龍驤の事件が起こりました。それは、練習艦龍驤で、乗員数が371人のなかで、脚気の延患者数が396人にも達したのです。

  そのような状況の中、高木は「脚気病調査委員会」設置を要請し、直ちに認可され委員会が発足します。同時に、高木は政府筋の人間にも幾度となく脚気対応の話をしました。その執拗な嘆願に、伊藤博文が、「そこまで言うのなら、御上に腹蔵なく意見を申し上げろ」と言ってくれました。実は明治天皇も脚気に苦しんでいたのです。高木は、天皇に脚気は食物に原因が有る事、海軍の脚気を撲滅するには兵食改革が必要な事、それには天皇の英断が必要である事を奏上します。そして、明治天皇に賛同されます。その後、海軍としても消極的な態度を取る事が出来なくなります。

  彼はまず、兵食の洋食化を進めようとします。しかし、嗜好の問題もさることながら、予算が増大します。そこで、彼は現行制度の改善から着手します。それは、「食料改良乃義上申」を上申し、その中で金給制度の改善をしていきます。その提案は、「食費の全額消費」「食料改良」です。これが元になって、翌年に「艦船営下士以下食糧給与概則」が制定、施行されています。この内容は、「下士以下の食料は定則金額の現品給与(金給制度廃止)」「食料品の種類の規定」というものでした。

上記制度が施行された直後、練習艦筑波が航海演習に出ます。この筑波艦で脚気予防試験を行いました。航路は先の龍驤と同じで航海日数もほぼ一緒です。すると、乗員数333人に対し、脚気患者延べ16人(日数14人)。死者0人だったのです。しかも、この患者中8人は肉を、4人はコンデンスミルクを飲食していませんでした。という事は、決まった食事を取らなかった人間が脚気にかかっていたのです。

  そうは言っても、なかなか洋食にはなじめません。肉食に抵抗するだけでなく、乗員軍艦の四囲にはパンを放棄して、それは、カモメが浮いている様だという報告が来ます。そこで、高木は新しい対策を考えます。それは、パン食の代わりに麦飯の採用でした。その結果、海軍では麦飯が給与されることになります。海軍における主食は、白米、麦飯、パンの混用になります。そして、海軍では、明治18年で脚気はほぼ消滅することになりました。

  では、陸軍では、どのような動きがあったのでしょうか?

改善への取り組み

 脚気という病気が、その原因が分からないまま多くの人々を苦しめ、特に軍隊では、なかなか改善されませんでした。それには、以前のブログでも書きましたが、兵隊への志願者を増やすために、特に、農村出身者に入隊すると白米を食べさせてあげるという誘いをしていたために、麦飯を食べさせることはできなかったのです。

 そのためもあって、多くの兵隊たちが犠牲になるのですが、そのいきさつは、同じ軍隊でも陸軍と海軍では随分と違っています。給食の時にも感じたことですが、陸軍と海軍とはずいぶんと競い合い、お互いのネットワークはなかったのですね。研究の対応の随分と違っていたようです。

まず、海軍で起きた大惨禍です。当時海軍における脚気患者は、海軍総疾患者の三分の一余りが脚気患者だったようです。さらに、脚気患者は、明治14年度では、東京および横須賀の両海軍病院の入院患者の四分の三にもなっていたようです。しかし、戦況は悪化の一途をたどり、ただでさえ兵士の数が必要になります。明治15年に朝鮮の首都ソウルで起った壬午事変に海軍を派兵しました。ところが、わずか40日で朝鮮に派遣した金剛、比叡では、乗組員の3分の1が脚気になり、戦闘力なし、品川沖で待機していた扶桑では、乗組員309人中180人、約5分の3にあたる58%が罹患してしまったと記録にあります。

そこで海軍ではこの事態を解消すべく1人の軍医が立ち上がります。その人は、前のブログで紹介した海軍軍医、高木兼寛です。彼は、嘉永2(1849)年、宮崎の生まれの薩摩藩士です。若い頃に蘭方医学を学び、戊辰戦争に軍医として従軍し、そのまま東京に出て、英語と西洋医学を学びます。その後、海軍に出仕し、海軍軍医の御雇外国人の推挙で、イギリスに医学留学しています。そして、海軍軍医としての重要ポストを歴任し、明治181885)年にはその最高職・海軍軍医総監を務めています。彼は、「病気を診ずして病人を診よ」という信条のもと、海軍の脚気撲滅の責を負うことになります。

 明治13年末、まず、脚気の発生状況の調査から始めました。脚気の発生場所、患者の着用している衣類や住所、様々調べましたが、それらはどうも患者の多寡には関係していないことが分かりましたが、階級によって脚気の発生状況が違っていることが分かりました。食料品購入がしやすい場合には、患者は発生していないのです。特に食料費が多い階級には脚気患者は発生せず。患者は下士卒に多く、将校以上では全くいませんでした。

 この状況を見て高木は、「原因は食物にあるのではないか」と考えます。下士卒と士官たちの食べ物が違っており、下士卒の食事に偏りが見られるのではないかという事でした。その理由は此処にあるのではないかと、高木は考え、ある実験を行います。それは、イギリスの栄養学書をもとにして各兵員の食事の摂取量を計り、分析試験を行ったのです。その結論として、「脚気はタンパク質と炭水化物の比例の差による」ことが分かり、「兵食は洋食化されなければならず、兵食制度の改革が必要」としました。本当は、脚気はタンパク質と炭水化物の比ではなく、ビタミンB1不足によって起こるものですが、「脚気は兵食に問題があるのではないか」という結論は評価されます。

しかし、「脚気は伝染病」論が当時は主流だったので、いくら高木が問題点を唱えた所で当初は問題にもされませんでした。海軍内部でも殆ど顧みられなかった。ですから、少しも改善されてはいかなかったのです。

白米

 日本で、様式軍隊が発足してすぐ、軍の首脳部の頭を悩ませたのは「脚気(かっけ)」でした。それ以前の江戸時代から、江戸などの都会に住む人々のあいだでは、脚気が多かったのです。それ以前では、皇族や貴族などの上流階層で脚気が少しずつ増えていたのです。それが、江戸時代になって庶民まで脚気にかかりやすくなったのです。それは、江戸時代に入って、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまったからです。そのころ、その原因はわかりませんでしたが、江戸をはなれると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」と呼ばれました。また、京都や大阪でも流行っていたために、特に大阪では、「大阪腫れ」と呼ばれました。

  なぜ、平安時代では上流階層、江戸時代では大都市に脚気が多かったかというと、彼らは、主食として白米を摂っていたからです。しかもおかずは、たくわんだけという事が多かったため、非常に栄養の偏った食生活をしている人が多かったからです。原因がはっきりわかりませんから、治療法もわかりません。しかし、江戸に出てきた人間が脚気にかかっても、田舎に帰れば不思議と治りました。また、江戸にいても小豆飯、麦飯を食べれば不思議と治りました。また、経験的に米にかえて蕎麦を食べると、快復に向かうことが分かっていたため、漢方医学では療法として用いられていました。

 それは、田舎に行くと、白米の代わりに、玄米食や麦食が主流でした。また、対処療法としてそばを食べると治るという事から見ると、白米には含まれないビタミンB1の欠乏から起こることが分かります。ビタミンB1は、豚、兎などの肉類、大豆、枝豆、エンドウ豆などの豆類、そして玄米、麦に多く含まれています。

 この脚気の問題が明治時代になると、青壮年男子の集団である軍隊で起きました。明治11年(1878年)以前の海軍の統計には、海軍軍人が1552人だった時、1年間に6366人の脚気患者が出たとあり、一人年4回も脚気になったことになります。また、明治11年から16年まで、1000人当たり年間250人から400人が脚気になったという記録もあるそうです。兵隊が、脚気によってバタバタ倒れるようになってしまったのです。

 こんな状況でも、その対策が練られなかったことにいくつかの原因があります。まず、明治になって、西洋文化に刺激され、あこがれ、全体的に「西洋化」が行われました。そこで、明治8年に、政府は医制改正をします。その結果、正式に漢方が廃止され、西洋医学が本格的に導入されることになったのです。しかし、西洋医学には、脚気という病気はありませんでした。それは、欧米の食事は、小麦から作られるパン食だったからです。ですから、西洋医学伝授の為に来日した外国人医師は、困りました。御雇外国人として来日していたE.ベルツや、H.B.ショイベらは、脚気患者の診察結果から、脚気の治療法、原因を調査し脚気は伝染病だと考えました。ベルツは当時、東京大学医学部の教授でした。その権威、信望は当然高かったため、彼の唱えた「脚気は伝染病」説は大きな影響力を持ち、漢方医が築いた「脚気は栄養関与」説が否定されてしまいます。

 陸軍は漸次ドイツ式に移行していきました。勿論医学もドイツ式が採用されました。そのため陸軍では、脚気は伝染病であるという説が大勢を占める事になります。そこで、兵隊は脚気で続々と倒れてしまうことになるのです。

米食

  アメリカのパン食へのキャンペーンが確実に人々の間に浸透していったのです。それが、いかに浸透していったかの例を、酒井さんは紹介しています。それは、昭和33年(1958年)の朝日新聞連載漫画「サザエさん」の一コマです。夕食の食卓を囲んで、フネが波平にご飯のお代わりの盆を差し出しながら、「アラ、たった1ぜん?」と問いかけるのに対し、波平は「いらない。米食は長生きしないらしい」と答えている場面があるそうです。ちょうど、私が小学生の時のことです。

  また、昭和39年に、アメリカのマクガバン上院議員が語った言葉も紹介しています。「平和のための食糧法を通して米国農産物になじんだ膨大な人々の地域が大食糧市場になった。米国がスポンサーになった日本の学校給食で、米国産のパンやミルクが好きになった子どもたちが後日、日本を米国農産物の最大の買手にした。」

  さらに、酒井さんはこんなことを指摘しています。米飯はそれだけでもおいしく食べることができますが、小麦粉は基本的においしくない食べ物で、小麦粉だけではとても食べることができません。そんなわけで、小麦粉を食べる場合には、イーストの発酵によって香りをつけてパンにしたり、麺に加工して汁の味で食べるなど、小麦粉プラスなんらかの香味という形で食べざるをえないのです。米と小麦の両方が収穫できる地域では、世界中のどこでも、経済的にゆとりが生まれてくれば、価格とは関係なく必ず小麦粉食から米食へと消費が移っていくと言います。このように世界的な食生活の推移を見ても、小麦粉食から米食へ転換する地域はあっても、いまだかつて米食から小麦粉食へ転換した地域や民族はないと言います。

  このように小麦粉食から米食へという世界の穀物消費の傾向がある中、現在の日本では大掛かりな米食から小麦粉食への転換の実験が進行中であるといえるようです。広く普及している学校給食は、アメリカの食糧戦略の上に成り立ったものだったのです。その結果、現在では米飯給食の機会がふえたのはいえ、いまだにパン食から抜け切れない学校給食によって、世界の食文化史上に類をみない食生活変換の実験が進行中だという事になります。

  しかも、改訂を繰り返してもなお、「乾燥脱脂ミルクの利用について」が取り決められています。そこには、「学校給食に乾燥脱脂ミルクを利用することについては、特にこの法律には規定していないが、文部省においては従来どおり学校給食のために利用する方針であり、乾燥脱脂ミルクの輸入および配給等については、財団法人日本学校給食会をして、できうる限りの便宜の方途を講じさせることになっているから、その利用については従来どおり指導されたい。」と書かれてあります。どこまでが子どものためなのでしょうか?

  では、米飯食にすれば問題はないかといえばそうではありませんでした。明治に入って日清日露戦争を通して富国強兵政策が行われます。そのために日本の軍隊は、陸軍やフランス式、海軍はイギリス式と定められて発足します。このあたりは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」についてにブログでも紹介しました。そのような洋風化の中で、食事は米飯が中心でした。しかし、日頃から麦飯しか食べていない農民から兵隊志願者を募るために「軍隊に行けば白米の飯が食べられる」という謳い文句で訴えました。そのように、軍の給食には米飯を主食とする定量定額方式という給食方式が採用されました。

  そこには、違う問題が発生したのです。

戦略

 給食の献立が洋風あるいは中華風の料理であることが多く、大人になった時の嗜好がどうしても和食離れになってしまっています。それは、給食の主食が長い間パンだったからです。その点、米飯というものは素晴らしく、和風はもちろん、洋風にも、中華風にも合います。洋食屋に行っても、「ライスにしますか?パンにしますか?」と聞かれますし、中華料理店に行っても、ライスを頼むことができます。しかし、和食屋に行って、パンはたのみません。

  このように万能な米飯給食は長い間学校給食では行われませんでした。「日本人のひるめし」の本の中で、酒井さんはこう指摘します。「パン中心の学校給食では煮魚ではなく魚のムニエル、ホウレンソウのおひたしではなく、ホウレンソウのバター炒め、つまり洋風の味付けをしたおかずが主役をつとめることになる。そのような給食のメニューを通して、児童の好みは次第に変化していき、成人した後の嗜好にも影響が現れてくるのである。」

  最近の家庭の食事から、日本の伝統的な食事である和食が次第に姿を消してきたのは、これだけの理由ではないともいますが、酒井さんの指摘には一理あるかもしれません。それは、今に始まったことではありません。戦後、食糧難の時代では、日本人には食べ物を選択する自由はなかったと言います。米が手に入らないのであれば、とにかく小麦粉をはじめとする放出の食糧を食べる以外に、生き延びる道はなかったのです。こうして、日本人は知らず知らずのうちに小麦粉を食べる習慣を身につけてきたと言われています。

  誰にでも悪評の高い脱脂粉乳でも、戦後の子どもたちの栄養をまかなうために、大いに貢献したのです。こんな時期では、好き嫌いも、残食もなかったでしょう。食べられるだけでありがたかったのですから。

  酒井さんは、このころの食事に影響したのは、それだけでなく、豊かな国アメリカの食生活へのあこがれもあったと言います。その憧れもあって、日本で昔から行われてきた小麦粉を使ってうどんなどの麺類を作ることから、パンを作るようになり、戦前のパンがアンパンやジャムパンなどの菓子パンとして米飯の補助食やおやつとしての食べ物から、米飯にかわってパンが主食として食べる食習慣が広まっていったと言います。

  私が子どもの頃、朝食はパンが中心に変わりました。その理由の一つに、パンを食べた方が賢くなるという説が信じられていたからです。どの家庭でも競ってパン食に変わっていきました。その説は、今は、どこにいったのでしょうか?

  このように、各家庭における朝食がパン食になってきたのです。しかし、それだけではなく、実はここにアメリカの食糧援助戦略が関係していたのです。学校給食はアメリカで余った食料のまたとない受け入れ先だったのです。その主なものが、脱脂粉乳や小麦だったのです。同時に、その食糧援助が日本人の食習慣や嗜好少しずつ変えていったのです。その経緯が、祖田修氏の「コメを考える」という本の中に書かれてあります。

  「昭和20年代から30代にかけて、“米を食べると頭が硬直してバカになる。小麦を食べると頭脳が弾力的になって賢くなる”、“三度三度コメを食べるとガンになる”などというまことしやかな説が、こともあろうに一部の農学者やジャーナリズムによって流布された。そして、最近アメリカは、これらのキャンペーンがアメリカの余剰穀物を処理する目的で、膨大な宣伝費を使い、意図的になされたものであることを認めている。」

  いつの時代でも、どんな分野でも根拠のない説がまことしやかに語られることがあるようです。

給食の影響

 

昭和23年ころの給食風景(食育白書より)

昭和23年ころの給食風景(食育白書より)

 

昭和51年ごろの給食風景(食育白書より)

昭和51年ごろの給食風景(食育白書より)

 学校給食が学校における子どもたちへの影響だけでなく、家庭の献立と個人の嗜好への影響があることを「日本人のひるめし」の著者である酒井伸雄氏は指摘しています。それは、育ち盛りの6年間食べてきた学校給食が、個人の嗜好や食生活に無関係であるはずはないし、日本人全体の食の傾向にも大きな影響を与えているはずだというのです。

 給食の献立の中で、日本全国どこに行っても、カレーライスやハンバーグなどが幅をきかせるワンパターンの給食になるのは、必ずしも子どもの要求に応えるものではないと言います。学校給食では、作る側は子どもたちが食べ残すのを少しでも減らそうとするため、子どもが残さない味付けのもの、いいかえれば子どもたちが好きな料理を中心に献立をつくろうとするからだと言うのです。そのため、かえって幅広い食べ物を食べる機会が少なくなり、新しい味に対する学習の機会が減ってきてしまっていると言います。

 以前のブログでも紹介したと思いますが、私の園でも以前残菜について話し合ったことがありました。どうしたら残菜を減らすことができるかという事で、各クラスの担任に毎日アンケートを書いてもらいました。すると、ある職員は味が濃すぎるから、ある職員は味が薄すぎるからとあり、調理員さんたちが困ったことがありました。どうも味は好みによるので、多くの子どもの好みは、家庭の味によるので、個々の好みに合わせるのは難しいことが分かりました。また、子どもにとって食べたことがないものだから、子どもが普段から嫌いなものだから、などでてきました。

 では、残菜をなくすとしたらどうしたらという事になると、毎日子どもの好きなものを出せばいいという事になります。毎日ラーメン、毎日カレーライスという事になります。そこで、そもそも何のために給食を出すかという事を見直し、あまり残菜に対して神経質にならないことにしました。学校給食を含めて残菜をなくすことが、かなり優先順位が高い気がします。様々な食材を子どもたちが体験し、その食材を味わうために薄味にするとか、子どもが意欲的に食べるとか、楽しんで食べるとかする中で、結果的に残菜が少なくなるのではなく、残菜をなくすという事が目的になってしまうのです。

 こんな調査があったそうです。昭和55年(1980年)に農林中央金庫が調査をした「国民食生活と学校給食」です。この調査によると、学校給食の味付けは大切であり、子どもたちのその後の好みを左右するということが分かったのです。学校給食を食べていた時代に好きだった食べ物は、大人になった現在でも好きであり、学校給食での好き嫌いと現在の食べ物の嗜好との間には強い相関がみられたのです。給食を食べて育った人たちは、平均的に塩辛く、濃い味付けの食べ物を好み、食べ物に好き嫌いが多く、魚離れが見られるという傾向がみられるそうです。給食世代の好きな献立は洋風あるいは中華風の料理で、魚や野菜の煮つけや酢の物など和風のものを敬遠する傾向になるというのです。

 最近の給食では、それが少しずつ改善されたメニューが多くなりましたが、保護者達が育った時代では、この調査の結果のような傾向があるために、家庭で子どもたちが食べている物とのギャップのため、最初は残菜があるかもしれません。しかし、給食は子どもたちが大人になった時の食生活に影響を及ぼしていきます。しかも、その中で最も影響を及ぼすものは、味付けではなく、食事に対する意欲かもしれません。いやいや食べさせられた経験は、大人になってどう影響するのでしょうか?

実施基準

 学校給食は、どうしても栄養摂取が目的の中に入ってしまうのは、仕方ないようです。それは、栄養に無頓着な家庭もあるからです。先日も、ある家庭では、子どもにはジュースとお菓子だけ与えていると聞きました。また、私が教員をしていた時のクラスには、毎日学校給食しか食べさせてもらえない子がいました。その子は、土、日は大変で、近所の人たちがかわいそうだと言って、食べさせてあげていました。その子にとっては、給食が命綱でした。これらは、何も戦後すぐの話ではないのです。

 そこで、学校給食には「学校給食実施基準(第8条)」が定められています。そこには、学校給食法の趣旨にのっとり、学校給食が適正に実施されるよう、学校給食の実施回数、児童又は生徒の平均栄養所要量等について規定されています。この基準は、学校給食法が制定された昭和29年に既に定められていましたが、学校給食法の条文上には規定されていませんでした。それが改正されたものでは、第8条において、文部科学大臣が策定する旨を明記し、学校の設置者は同基準に照らして適切な学校給食の実施に努める旨を規定しています。

 平成21年に出された「学校給食実施基準の施行について」の通知では、学校給食における摂取基準について、基準が書かれてあります。まず、「学校給食摂取基準については厚生労働省が定める「日本人の食事摂取基準(2005年版)」(以下「食事摂取基準」という。)を参考とし、その考え方を踏まえるとともに、文部科学省が平成19年度に行った「児童生徒の食生活等の実態調査」(以下「食生活等実態調査」という。)結果を勘案し、児童生徒の健康の増進及び食育の推進を図るために望ましい栄養量を算出したものである。」と書かれてありますが、留意点として、「児童生徒の1人1回当たりの全国的な平均値を示したものであるから、適用に当たっては、個々の児童生徒の健康状態及び生活活動の実態並びに地域の実情等に十分配慮し、弾力的に適用すること。」とされています。

 しかし、具体的な数値が示されると、どうもそれが義務と捉えられてしまうのは、保育の世界でもよくある話ですね。学校給食摂取基準についての基本的な考え方が例えばこのようにしまされています。「エネルギーについては、学校保健統計調査から児童生徒の標準体重を求め、食生活等実態調査結果を参考として、身体活動レベル1.75を用いて算出した1日の必要量の33%とした」また、「たんぱく質の推奨量が“第6次改定日本人の栄養所要量”より低い値となっている。しかし、主菜の量、児童生徒の嗜好及び学校給食においてカルシウムの供給源としての牛乳が通常毎日提供されていること及び食生活等実態調査結果などを勘案すると、基準値は現行程度が適切と考えられる。よって、食事摂取基準の推奨量(1日)の50%を基準値とした。また、高たんぱく質・高脂質の食事嗜好を助長しないよう食事摂取基準の推奨量(1日)の33%から食生活等実態調査結果の摂取量1日分の40%を範囲とした。」他にも、「脂質」「ナトリウム(食塩相当量)」「カルシウム」「鉄」「ビタミン類」「マグネシウム及び亜鉛」などの食事摂取基準の推奨量(1日)が示されています。

 とは言え、日本人は、「弾力的」とか、「柔軟に」とか、「創意工夫」とか、「実情に合わせて」というような対応は苦手なようですね。それは、「一斉、画一」の教育をされてきた影響でしょうか?

食育へ

 学校給食は、戦後の様々な紆余曲折がありながら、数年のあいだで日本中の子どもたちに広く食の安定とともに、食事における栄養バランスを与えることができるようになりました。戦後、給食実施児童数は年々増加し、その率は昭和21年に23%であったものが昭和25年には69%に達するなど、全国に普及拡大していきました。その後、昭和29年6月3日、学校給食法が制定されました。ここで注目すべきは、当時の文部大臣による学校給食法案の提案理由説明に「小学校等において、その教育の一環として学校給食が適正に実施されるということは、とりもなおさず、児童がみずからの体験を通して、望ましい日常の食生活の営みを学びとることであって、学校給食が児童の現在及び将来の生活を幸福にする所以であり、教育的に実施される学校給食の意義はまことに重要であると存ずるのであります」とあるとおり、まだ食料事情も十分でない状況の中でも、学校給食を単なる栄養補給のための食事と捉えるのではなく、教育活動の一環として明確に捉え、実際に同法第2条において、「小学校教育の目的を実現するため」と明記している点です。しかし、ここでの問題も、「教育」という捉え方です。決められた摂取量を無理やりに子どもの口の中に押し込むことが教育だと思ってしまう人がいることです。

この学校給食法は、学校給食の根拠法として戦後の学校給食の復興と発展の基盤となるとともに、その時々の状況に応じ、必要な改正を行ってきました。主な改正内容として、まず、「法律の目的(第1条)」があります。当然、学校給食の目的は時代によって変化をしてきます。まず、学校給食法において定める事項として、従来の「学校給食の実施」に加え、「学校給食を活用した食に関する指導の実施」を新たに規定しています。これは、学校給食が、教育の一環になったことに対する改正です。また、教育の一環というだけでなく、食の教育という事で、食育の考え方を示しています。それが、より具体的になったのが、平成17年6月に制定された食育基本法や、次の年の3月に策定された同法に基づく食育推進基本計画です。ここには、食育の推進が我が国の重要な課題となっていることや、学校における食育の推進に学校給食は大きな役割を果たしていることから、その改正では、法の目的として従来の「学校給食の普及充実」に加え、「学校における食育の推進」を新たに規定したのです。

 次に改訂されていったのが、学校給食の目標(第2条)です。昭和29年の学校給食法制定当初から、学校における教育の目的を実現するために学校給食の目標が規定されていたものの、そこに設定されていた事項は、当時の状況を色濃く反映したものでした。そこで、食育の観点を踏まえ、新たな目標も加えつつ改正が行われています。そこには、7項に整理・充実しています。

「適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること」「日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと」「学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと」「食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと」「食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと」「我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること」「食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと」

 これを読む限りでは、学校給食が単なる栄養補給のための食事にとどまらず、学校教育の一環であるという趣旨がより明確となっています。明らかに口の中に栄養のためと言って食べ物を押し込むことは間違いです。

教育としての学校給食

 順調に学校給食が普及していった26年6月末、講和条約の調印に伴い、完全給食実施の基本となっていた占領地域救済資金(GARIOA)による小麦の贈与が打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となってしまいました。そこで、政府は、学校給食を継続すべしという熱烈な世論にこたえて、学校給食継続の閣議決定を行なうとともに、その必要財源を国庫負担することにしたのです。しかし、27年度予算においては、従来行なわれてきた脱脂粉乳に対する国庫補助が中止され、また、小麦粉に対する国庫補助はいわゆる100グラム、一円補助となったので、学校給食費の父兄負担額が半額負担に大きく跳ね上がりました。そのため、当時の給食実施校11,600校中約3,200校、給食実施児童数約800万人中約200万人が給食中止をせざるをえなくなり、給食継続校においても給食費未納者が増加していきました。

こんな状況の中で、保護者たちの間では、学校給食を法制化し、制度の安定を図る気運が急速に高まってきました。そこで、文部省は、27年3月「昭和27年度の学校給食実施方針」を示し、都市と町村を問わず、真に教育的な完全給食の励行に努めるよう要望しました。さらに、同年10月「学校給食を中心とする学習指導」の手引を発行し、学校給食に関する指導の内容と方法を示唆したのです。これは、学校給食が単に空腹を満たすだけでなく、学習指導のひとつであるという考え方を示したことになります。

その後、学校給食が質の面、量の面で急速に充実するようになったのは、昭和29年に学校給食法が制定されてからのことです。この制定によって学校給食は学校教育に一環として実施することが定められ、給食の目的は明らかになり、学校給食に対する法律上での位置づけもはっきりしたのです。この法律は、現在まで引き継がれています。そこに書かれてある学校給食のこの法律の目的は、「第一条 この法律は、学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資するものであり、かつ、児童及び生徒の食に関する正しい理解と適切な判断力を養う上で重要な役割を果たすものであることにかんがみ、学校給食及び学校給食を活用した食に関する指導の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実及び学校における食育の推進を図ることを目的とする。」とあります。

さらに、昭和33年に定められた新学習指導要領により、学校行事としての給食の位置づけもはっきりしました。学校給食が、明治時代に貧しい家庭の児童たちへの救済をすることを目的として一部で行われていたものから、次第に子どもたちの体位や健康を維持するため、そして、戦後、重要な学校行事の一つになってきたのです。

このように学校給食は戦後生まれの子どもたちの食に大きな影響を与えることになります。戦後生まれの子どもたちは、どの子も少なくとも小学校6年間はパンにミルクとおかずによる完全給食である学校給食を食べて育つことになるのです。それは、子どもたちの嗜好や食生活に影響し、日本人全体の食の傾向にも大きな影響を与えているはずだと酒井さんは書いています。
昨日の園内研修では、久しぶりに、一定量の給食を無理やりに食べさせている小学校の実情を聞いて、未だに私の子どものころと変わっていないことにびっくりしました。

戦後間もないころの給食

第2次世界大戦の終戦の年、日本では大凶作に陥りますが、アメリカでも小麦粉の在庫量が前の年に比べて半減しており、その年の収穫も豊作が見込めませんでした。小麦の需要状況が非常に厳しい年だったのです。ドイツもその年に降伏しますが、ドイツの食糧はドイツ国内の生産でまかなえると当初思っていたのですが、それは大きな誤算だったのです。それは、ドイツの食材の収穫地である穀倉地帯は東部にあり、その地はソ連軍が占領しており、西側諸国への食糧輸送を拒否したのです。したがって、西側の占領地域の食糧事情は悪化していくばかりでした。そこで、アメリカをはじめとする連合国側はドイツへの食糧援助もしなければならず、さらに小麦の需要状態は厳しくなりました。

こんな状況でしたから、日本はアメリカに300万トンの食糧の輸入を申請しますが、アメリカ政府は、結局60万トンの小麦しか認めませんでした。コメントにもありましたが、本当に戦争というものは、勝っても負けても、他国のことであってもいろいろな問題が起きるものです。

こんな状況で小麦の輸入はあてになりませんから、日本政府の関係省庁の実務者が知恵を絞り、小麦にこだわらず、なにしろ食糧になるものを小麦の代わりに輸入できないかと考えます。トウモロコシ、コウリャン、大麦、大豆かす、脱脂粉乳など、とにかくカロリー面では人間の食糧に十分通用するものを選んだのです。それは、対日感情のあまりよくないアメリカ本国でも、小麦でなければ食糧援助品として拒否されないだろうという思惑もあったようです。また、こんな家畜の飼料にしかならないようなものまでも食べようとすることから、どれだけ困っているかという事を訴えようとした意図もあったようです。こうして、配給が数十日間も滞っていた北海道の札幌や函館を中心とした地域に、昭和21ん年4月末に最初の輸入食料が放出されたのです。

そして、その年の末の12月、「学校給食実施の普及奨励について」の通牒が、文部、厚生、農林の三省次官名で公布されました。極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目ざして全校児童を対象とする学校給食を行おうとするものでしたが、このころになると、占領軍の対日政策が変わっていったことも後押しをすることになりました。翌22年1月から、占領軍総司令部(GHQ)、アジア救済連盟(LARA)などといった諸機関からの寄贈食糧、元陸海軍用かんづめの放出を得て、全国の都市小学校児童300万人に対し、週二回学校給食が実施されたのです。しかし、まだまだその内容は、一人一回の熱量180カロリー、たん白質15グラム程度の補食給食でした。

また、この年の秋には、あの味として悪名の高い米国援助の脱脂粉乳が配給され、当時はそれによって学校給食が大いに普及されていったのです。23年になると、この脱脂粉乳と文部省のあっせん物資とによって都市・町村を通じて週五回の給食が実施され、ようやく給食を教育的に取り扱う風潮が盛んになってきました。さらに国際連合児童緊急基金(UNICEF)寄贈の脱脂粉乳による給食が各都道府県単位に実施校を指定して24年10月から開始され、25年末まで続けられたのです。

 パン・ミルク・おかずの三種による完全給食は、米国政府によるガリオア資金(GARIOA)という「占領地域統治救済資金」寄贈の小麦をもって、25年7月から六大都市に広島、福岡を加えた八大都市の児童135万人に対して開始され、26年2月には、全国の市制地域一都246市の児童400万人に発展していったのです。