ドイツ報告2014-19

レーヴェンはフンボルトの陶冶概念を蘇らせるために、二つの点において解釈し直しました。一つは曖昧であった「世界習得」という概念を、現代の心理学の用語を用いて、「子どもがさまざまな経験や行為をとおして“世界の像”をつくること、そして同時に、この世界の一部としての自己自身の像を造ることである」としました。世界の像を造るというとき、その像は単純に世界の写像ではなく、子どもの構成したもの、構築したものを指すとしたのです。

すなわち、保育者は、子どもたちの活動を予測し、環境を用意します。そこにおいて子どもたちは、日々、準備されたさまざまな事象、自然や人為的に作られたもの、芸術作品や日用品などと自分たちなりにかかわり、そしてそのかかわりをとおして、自分たちの世界を創っていきます。「世界についての像」を創るのです。すなわち、子どもたちが日々、保育施設においてさまざまな経験や活動を通して自己形成していくプロセス、それを「世界の習得」のプロセスとして、レーヴェンは捉えたのです。

 したがって、子どもたちが自己形成していくためには、保育者は環境を用意しなければなりません。さらに、用意するだけでなく、子どもたちが世界のどのような事象に注目し、そこからどのような像を構成していくのか、その活動を促すためには、保育者側の働きかけがなければならないと考えます。子どもの世界習得のプロセスが陶冶であるとすれば、それを成立させるのに必要な保育者側の働きかけを「教育」として捉えたのです。ここで実は、陶冶と教育を分けたのです。フンボルトの陶冶の概念では、その区別があいまいなままに混在していたのを、きちんと定義しました。これで、ドイツでは「教育と養護と陶冶」という他の国にはみられない「ECECB」となったのです。

 レーヴェンは、フンボルトの考えた陶冶という概念にもう一つ捉えなおしをします。それは、フンボルトのいう陶冶を、自己形成としての陶冶と、それを成立させ拡張し要求する教育、つまり陶冶と教育という、二つの別個の、だが相互に不可分にからみあう概念として、捉え直しました。この捉え直しは、現場で保育者が保育するうえで、大きな影響を及ぼすことになります。そして、これは、日本語で「陶冶」という「陶器」と「冶金」を語源とする言葉に訳されることとになったのではないかと思います。

多くの幼児教育界では、フレーベル以来、100年以上にわたって受け継がれてきた伝統的な考え方では、教育の作用に関して、粘土型モデルと区別される植物型モデルが推奨されてきました。つまり、子どもを粘土のように「形作る」のではなく、よけいな介入をせずに子どもの自発的な成長を見守ることこそが重要だと考えられてきました。その考え方に従えば、大人の必要以上の介入は、子どもの自発性を損ね、子どもをある方向へと「もっていく」ことになると考えられたのです。

しかし、この考え方には、子どもはもともといろいろなものを持っていて、それを引き出していくというよりは、子どもは、大人から庇護され保護される存在であるという考え方が根底にあるのです。ですから、いくら子どもの尊重を提唱しているのですが、そこでは子どもは、大人の介入によって容易にその自発性を損なわれてしまう、か弱い存在、保護されるべき存在として捉えられていたのです。

これに対してレーヴェンは、子どもとは「自分で自分をプログラムするシステムである」と捉え直すのです。