体育会系

 よく、「体育会系」ということが言われます。学生時代に体育会系のクラブ活動をしていた人のことを指すのでしょうが、それは、彼らにある特徴があるからでしょう。まず、体育会系と言うと運動部のことでしょう。しかし、最近、クラブ活動で文化部というものがあるのでしょうか。私は、運動は好きですし、自分でいうのも変ですが、運動音痴ではありません。どちらかと言うと、得意な方です。しかし、運動部に所属したことはありません。小学校の時は「算数部」、中学の時は「科学部」、高校の時には「生徒会」、大学の時は「帰宅部?」でした。

 クラブ活動では運動部ではありませんでしたが、中学1年生の時には、毎朝授業の始まるまで1時間友達と卓球を体育館でやっていましたので、息子が小学生の時に、PTA卓球大会で優勝しました。また、中学3年生の時には、クラスメイトにバスケット部のエースがいたので、彼から毎日バスケットボールの特訓を受け、小学校の教員試験の時に、バスケで好成績を取りました。また、高校時代には、やはりバレーボールクラブの友達といつもバレーボールをして、彼とクイックの練習をし、園長になってから、市内保育園バレーボール大会でエースアタッカー(まだ、9人制)としてまあまあ、活躍しました。と言うことで、私のイメージの体育会系とは、運動が得意な人ということではありません。

 では、どういうイメージかと言うと、偏見かもしれませんが、縦社会の中で、礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守る人というイメージです。ですから、何かを頼んでもいやと言わず、いろいろなことに率先してやるというイメージで、会社や、組織の中では、好まれ、就職に有利と聞きます。しかし、以前のブログにも書きましたが、私は、あまり体育会系が好きではありません。それは、物事を考えないですぐに返事をしてしまうとか、心から信頼するというよりも、地位や歳が上だから言うことを聞くというようなところがあるからです。実際はそうではないのでしょうが、どうも、物事に対する分析力に弱いような気がしていたのです。

 最近、上場報道で注目を浴びるリクルートホールディングスの活躍を目にすることがあるのですが、この会社における人材登用のあり方が変わってきたと言います。同社の好調を支えるのは「データサイエンティスト」集団であると言います。今まで、元気でノリが良い「体育会系集団」とされていたのが、ここ数年は、マーケティングや物理学など多様な分野で分析力を磨いた人材を登用するようになったと言います。いわゆる、「体育会系」から「分析集団」へ変化してきたというのです。

リクルートは、分析力を武器に、ネット分野でさまざまなサービスを展開する会社です。今までは、「足で稼げ」「体力勝負だ」と言ってきた働きから、現在の時代は、データ分析力が必要になってきたからです。そこで、中核となるデータサイエンティストの採用、育成に積極的に取り組み、博士号を持つ「超高学歴」人材も登用しはじめているそうです。

数年前、マイクロソフトやグーグルなどが統計学の重要性に気付き始め、分析人材の需要が高まってきました。それは、情報系ではもちろん増えてきていますが、他の分野でも、たとえば、医療系などでも次第に求められ始めているようです。もしかしたら、教育、保育分野でも、分析力が必要になってきているかもしれません。

体育会系” への12件のコメント

  1. 藤森先生の運動遍歴からは、運動が好きで、そして得意なんだなということが伝わってきます。身体の使い方が上手なのかなと勝手に想像して、なんだか嬉しくなりました。身体をうまく使える方を尊敬していますし、現場で活躍される藤森先生の姿とその身体の使い方が上手いということが繋がっているような気がします。では、運動ができない人はダメなのかと言われるとそういう訳でないのですが、うまく表現できませんが、身体の使い方と現場で試行錯誤しながら活動することがリンクしているように感じます。私も体育会系という言葉は好きではありません。黙って言う事を聞くというように、全体を強制的に動かすイメージが強くあります。私は剣道をしていましたが(今でもたまにやっています)、他校の体育会系集団を見ると「怖いな」と思っていました。その怖さは行動を強制される怖さでもあったのかもしれません。そんな体育会系から会社が求める人材が分析集団へと変化してきているのですね。分析ばかりの集団も居心地がよくなさそうですが、様々な人材が集団を形成する組織はいいですね。偏りではなく、バランスの良い集団を作るためには様々な人を受け入れるリーダーの価値観も大切なのかもしれませんね。そして、私自身も様々な人を受け入れることのできる気持ちを持っていたいと思います。

  2. 卓球やバスケット、バレーなどで活躍されている藤森先生の姿をうまく想像できないのは、保育を含めたあらゆる事の大師匠というイメージを持ってしまっているからかもしれません。これも思い込みで人を見ている証拠ですね。お好きではないかもしれませんが、いつか東京マラソンでもご一緒しませんか?とお誘いしておきます。
    さて体育会系の話ですが、以前の仕事、特に営業はとにかく目上の人の意見は黙って聞いて行動する、断られても粘り強くお願いする、10件でダメなら20件といった、かなり強引な手法がとられていたと聞きます。それが体育会系の良さと言われていたようですが、そのまま突っ走るのではなく、方向転換が必要なときで、分析集団が求められているのもよく分かります。求められている力は確実に変化してきていますね。

  3. 物事に対する高い分析力は、いったいどこで得られるものなのでしょうか。言われたことだけをする、年功序列のような意識を崩さない、深く思考しないまま答える習慣がある、などといった興味関心を持ったことに対して、追求・探求したりする姿がないとそういった力はつかないのかもしれません。そういった機会を持たずに社会に出て来た人より、物事の意味や道理などと、様々な「分析」をしてきた人の方が、これからの時代には求められる存在であるようですね。子どもの行動を観察し、発達を理解するにも「分析力」はきっと必要ですね。分析は、物事を噛み砕いたりして分解と結合とを繰り返したり、点と点が結ばれる過程に着目して思考し、そこから正しい真理を見つけ出していくことでもあるように思います。体育会系に必要不可欠な外見的な統一と、規律に縛られ個人の意見をシャットダウンすることは違うと思いますが、どうもそれを同じ意味でとらえてしまう傾向が、世の中にはあるのではないでしょうか。少なくとも、私がそのひとりでした。その固定観念を、少しずつ取り除いていかなければなりません。

  4. 僕が子どもの頃から体育会系という言葉はありました。その後何年経ってもその言葉はなくならないどころか、しっかりとした概念、イメージを確立させて今の時代に残っています。体育会系とされる人や、そういった雰囲気、いわゆるそういったノリの学校があるのでしょうし、それが求められる会社も往々にしてあるのでしょう。礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守る人。それだけを見ればとても好印象に感じられますが、物事を考えないですぐに返事をしてしまうとか、心から信頼するというよりも、地位や歳が上だから言うことを聞くというようなところがあるという見方は、決して大きく外れたものではないように思います。
    アメリカで日本の醤油をつかったBBQソースを開発し、大成功を収めている『ヨシダソース』の社長、吉田潤喜氏の成功までの道のりをTV番組で見たことがあります。彼の信条の一つとして、『なんでもまず「はい!」と言え』というものがありました。彼もまた、1949年・昭和24年生まれ、64歳の方です。3歳の時に片目を失明し、その後も不屈の精神で生き抜いてきた彼だからこその人生哲学は、見る人を圧倒し、奮起させるものを感じます。
    時代は流れ、体一つ、身一つで生きる中で、礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守ることこそが重要とされていた時代から、個人の力量や能力を重視し、それぞれが役割をもった人であり、ありのままで生きて良いことを認めてもらえる時代へと、少しずつ変わっていっているのかもしれません。

  5. この「体育会系」的傾向の人々は若い人たちというより、年輩者に多いような気がします。また、大都会より田舎に多いような気がします。まぁ、これらは私の主観なのですが、そうしたことを経験してきました。今では、私以上に理屈を並べる人々に囲まれているので、私の屁理屈も影をひそめてはいますが、田舎にいた時は、「黙れ!」と一喝、恫喝されることがしばしばありました。いろいろ言われるのがいやなのでしょう。私としては、良かれと思って言っていることが逆にとられてしまう、というか、年功序列、長幼の序、なのでしょうね。若い者は黙って年寄に従う、的な雰囲気充満でしたね。ですから、さまざまなアイディアをもって活動しようとしても、そういうことでなかなかうまく軌道に乗らないということもありましたね。保育園でも「体育会系」的保育園があると聞きます。さぞかし息苦しいのだろうなと思ってしまいます。私などは絶対に勤まりません。(笑)

  6. 私も「体育会系」という言葉・意味合いが嫌いです。しかし、今まで一般的に「体育会系」と呼ばれる縦社会で部活動を行ってきた自分も認めたくないものの「体育会系」に属しているのかもしれません。認めたくないもののと書きましたが、しっかり認めて改善した方が得策ですね。しかし、いわゆる体育会系で生きてきて、自分が後輩の立場で先輩から「先輩の言うことは絶対、先輩は神様」などと後輩に植え付けようと散々な無茶振り、無理強いを強要された経験がありますが、逆に自分が先輩となったとき後輩に自分のような辛い経験をさせたくないと思えたのは唯一の救いかもしれません。
    体育会系の最も欠点な部分は組織としての意思疎通能力が損なわれることにあると思っています。組織内が縦社会だと人間関係で大切な距離感などを良い学びは何一つ得られないだろうなと思えてしまいます。組織が縦社会なら求める人材は体育会系で育ってきた人でしょう。しかし、ブログにあるように「体育会系」から「分析集団」へ変化してきたとあることからこれからの組織の在り方が見直されていき、「体育会系」を必要とした時代は過去のことだと言える時代になって欲しいものです。

  7. 私はどちらかというと体育会系で育ちました。だからというわけではないのですが、物事を見たり考えたりするときに、どうしても、視野が狭くなりがちです。GTや藤森先生のブログを通して、視野を広げて物事に対し柔軟に考えられるようにと思っていますが、現実はそううまくはいきません。そんなことを考えならがら初めてのコメントをしました。

  8. 今社会が求めているのは「体育会系」ではなく「分析集団」が求めらてきているのですね。確かに体育会系というのは物事を考えないですぐに返事をしてしまうという傾向は否めないですね。先輩の言うことは絶対という印象です。その中にいたのでよくわかります。データ分析と聞くと非常に頭の良い集団のことが思い浮かびます。そんな集団だけをイメージするのもなんだかすごいですね。体育会系の縦社会ように言われたこをするだけだったり、返事だけはいいというような個人をあまり尊重することない社会もありますが今求められているデータ分析力というのは少しづつ社会を中和していき、バランスの良い社会になっていくのでないかという印象を受けました。

  9. 私は中学から大学卒業までほぼ体育会系に所属していました。特に大学は厳しかった印象です。もちろん練習や仕事が厳しい分には我慢できますが、それこそブログに書かれてあるように、先輩の言うことには嫌とは言えない関係は正直、窮屈でした。それが嫌で自分が上級生になった時には悪い伝統は無くしました。確かに体育会系は就職に強いという印象は当時、大学の時はありましたが、今は時代も変わって、特に有利な感じはしませんね。それよりも違う能力を企業は求めています。それこそよく言うのは「コミュニケーション能力」「問題解決能力」ですね。そして今回の「分析力」も加わってきました。教育、保育の分野で「分析力」はどのように力を発揮するのでしょうか、少し考えてみましたが、おそらく保育士、幼稚園教諭などは、子どもの姿に対してつい情緒的になり、肝心な部分が抜けているかもしれません。そんな時に、冷静に分析できることができると、子どもに対しての声かけ、関わり方が違うかもしれまんね。

  10. 「体育会系」というと、まさに礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守る人イメージもありますが、ブログにある通り、物事を考えなずにすぐに返事をしてしまうとか、心から信頼するというよりも、地位や歳が上だから言うことを聞くというようなところも感じてしまいます。
    ここまで書いていて、私はどうしても保育のイメージと重なり、「体育会系」のスタイルが「一斉保育」のスタイルの様に感じてしまいました。
    逆に「分析集団」は自分でしっかりと考えることを大切にし、「見守る保育」に近いということでしょうか。
    いずれにせよ、時代とともに求められるものは変化し、現在は統計学の重要性により分析力が求められているということですね。

  11. 私も中学、高校と運動部に所属していました。中学ではそこまでではありませんでしたが、高校ではここで書かれているような「体育会系」でした。私もどちらかというとそういう文化自体はあまり好きではありませんでしたが、高校3年間やり続けました。コメントを書きながら思い出したのですが、何年か前にいじめが原因で部室で自殺をしたというニュースがありましたが、「縦社会の中で、礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守る」という風習のせいだったのかなと思うと胸が痛みます。話がはずれてしまいましたが、「子ども理解」や「子どもの発達」を見極めたりするのには「分析力」は必要ですね。

  12. 私は大学のときの部活で「文化系」のブロックに所属する部活に入りましたが、その実情が「体育会系」の集団で「詐欺だ!!」といいながらも4年間その中に入りました。確かに自分が年下の間はしごかれることが多かったのですが、そのときは「YES」と言えばいいという状況で、あまり考えるということはなく、しごかれるまま行動していたように思います。上の立場になっても、下の学年はやはり基本的に「YES」です。今思えば、新しい文化に変わることはこの状況では難しいかもしれませんね。体育会系にはこういった「文化」が根付いているように思います。だからこそ、「分析」するという行為が「悪」に感じられるのかもしれません。しかし、新しい時代や文化、変化のために異を唱える「分析力」は必要になってくると思います。よくブログに出てくる「そもそも」という考え方は一つの分析するための大切な目線ですね。

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