心の道具

 ポールは、幸福と成功に満ちた人生を示すほかのしるしを、やりがいのある仕事や健全な家族、安定した家庭などとしています。このような人生を送るための具体的な提案をポールはしています。例えば、総合的な子ども健康センターのようなもので、心的外傷に焦点を合わせ、社会福祉による支援も織り込んだケアがすべての患者に行うようにする。これは、望ましいアタッチメントを築くための親への支援策にもつながっていきます。

 ここで、ポールは、就学前の幼児教育にも触れています。それは、幼い子どもの実行機能の能力と、自制心を育てる『心の道具(ツールズ・オブ・ザ・マインド)』のようなプログラムを使うこともいいのではないかと提案しています。ポールがこの保育に出会ったのは、彼の息子が生まれた数週間後、取材のために訪れた時です。このときの印象が、「成功する子 失敗する子」の序章に書かれてあります。

 「最初にざっと見たかぎり、教室は普通の様子だった。壁は明るい黄色に塗られ、ホワイトボードの横にアメリカの国旗が立てられていた。4歳児たちは部屋中で就園前の児童がよくやる遊びを楽しそうにやっていた。レゴブロックで塔をつくったり、サンド・テーブルでトラックを動かしたり、何人かで一緒にジグソーパズルを組み立てたり。」このような保育の風景は、アメリカではほとんどの園で行われている様子です。この保育室は普通の様子だとポールは言っていますが、実は日本ではまだまだこのような保育を行っている園は少ないようです。先生が前に立ち、子どもたちが椅子に座り先生の話を聞くか、先生によって指示された課題を一斉に行っている園が多いような気がしています。しかし、ポールは、数時間この保育室にいることによって、ここの保育の普通と違うところを目にします。

 「まず、子どもたちが非常に静かで行儀がいい。この日は泣く子もいなければぐずぐず言う子も癇癪を起こす子もおらず、けんかもなかった。だが意外にも、ミズ・レオナルドという名前の黒髪の若い教師は秩序を保つためにわざわざ何かをするようなことはなく、あからさまなやり方で子どもたちの行動を誘導しているふうでもなかった。お説教もなければ、金の星もなし、休み時間もなし。“ケリアンヌはちゃんとお話を聞いていてえらいわね!”といった言葉もない。実際、行儀の悪い子への罰も全くなかった。」

 ポールが出会ったこの保育は、『心の道具(ツールズ・オブ・ザ・マインド)』というプログラムだったのです。幼稚園児童と就学前児童のための比較的新しいカリキュラムで、デンバーの二人の教育者によって従来とは違う児童発達論に基づいて作られたものです。こんにち、アメリカの早期教育プログラムのほとんどは学習準備のための特定スキルを伸ばすように作られています。特定スキルとは、大半がテキストを読み解くことと数字を操ることに関係したものです。これに対して、この保育は、読み書き計算にあまり重きを置いていません。手助けをするのは、それとは異なるスキルを子どもたちが身につけようとするときなのです。衝動を抑えること、手元の作業に気持ちを集中すること、気を散らす罠を避けること、感情をコントロールすること、考えを整理すること、こうした「自主管理能力」の範疇にあると考えられるスキルが、従来のメニューどおりの学習準備よりも1年生以降の成果につながると信じているのです。