性格教育

 「生まれつきの性格」という言葉をよく聞きます。それは、性格とは生まれつきのもの、人の本質を決める核となる性質という意味に多くの人が使うからです。しかし、セリグマンとピーターソンの定義はそれとは異なるものなのです。二人は、「性格」を、変わることのおおいにありうる、適応できる力を備えた、強みや能力の組み合わせであると定義しました。性格とは習得でき、実際に使える、そして何より人に教えることのできるスキルであるとしたのです。

 しかし、教員がそれを教えるとすると、たいてい道徳の壁にぶつかります。1990年代に、アメリカ国内では性格教育の大きな波が起こったことがありました。きっかけは、クリントン大統領が1996年に行った一般教書演説でした。ブログでもオバマの一般教書演説を取り上げましたが、この一般教書演説は様々なところに影響を及ぼします。その内容は、「アメリカのすべての学校が、性格教育を行い、正しい価値観と正しい市民感覚を教えることを求める。」というものでした。しかし、やがてこのクリントンの性格教育キャンペーンは政治の両サイドにおいて不信と指弾へと発展していったのです。右派は、この性格教育の主導はじわじわ広がる差別禁止の動きを隠す偽装ではないかと疑います。左派は、ひそかにキリスト教の教義を植え付けようとする試みではないかと疑います。いまでは、何百ものアメリカの公立学校が何らかの形で性格教育のプログラムを実施しているのですが、多くは漠然とした表面的なもので、厳密な観察の結果、ほとんど効果がないとわかったのです。

 教育省の付属機関である国立教育研究センターが2010年に実施した性格教育プログラムの全国評価では、小学校で普及率の高い七つのプログラムが2年にわたり調査されました。その結果、児童の行動にかんしても、成績にかんしても、校風にかんしても、プログラムの効果はまったく見られなかったそうです。現在、日本でもいじめに対する対策として、道徳を強化しよう、道徳を教科としようという動きがあります。しかし、道徳の教科化は効果がなかったというアメリカの先行事例をぜひ参考にしてほしいと思います。

 このような取り組みに対してセリグマンは、道徳を振りかざすのではなく、個人の成長や達成に焦点を合わせているのです。そこに、レヴィンとランドルフが惹かれたのです。

 実は、KIPPは、擁護者からも批判者からも道徳主義的であると思われているようです。ホイットマン著の「小さなことへのこだわり」の中では、KIPPアカデミーや同種のチャータースクールが採用している方式を「あたらしい家父長制」と呼んでいます。こうした生徒たちに「物事を考える方法だけでなく、従来の中流階級の価値観に従って行動する方法」も教えると書かれているのですが、これにレヴィンはうんざりしていたのです。KIPPの狙いが生徒に中流の価値観を教え込むことであると思われるのは心外だったのです。それでは、まるで裕福な子どもは正確に深みがあり、貧しい子どもにはそれが欠けているかのようだからです。レヴィンは、「性格の強み式アプローチは、価値判断が全く入らないところが美徳だと思います。」と言っています。「“価値観”“倫理観”式のアプローチでは、“それは誰の価値観なのか?”“誰の倫理観なのか?”という問題に行き着くことが避けられませんから」と話しています。

 これらの問題点を、4人で出会ったことで次第に研究されていくことになるのです。