熱意

KIPPの学校での取り組みは、独特の儀式や規則やエネルギーに満ち溢れていました。最初のクラスの入学したヴァンスは、「宿題はやってもやらなくてもいいものだと思っていた。」ところが、KIPPでは強制でした。7年生の時に、クラス全員が遠足に行っている間、宿題をやっていないヴァンスは終わらせるように残されました。このやり方とヴァンスが思っていた考え方の相違について、KIPPの教員との間で長い闘いが繰り広げられてそうです。

それでもKIPPの教員が熱意をもって彼やクラスメートを教えているのは明らかでしたので、やがてヴァンスも熱意で答えるようになりました。「もう一つの家族みたいなものだった。」とヴァンスは語り、「最後にはそんな感じになったんですよ。家族みたいに」

クラスの他の生徒と同じようにヴァンスも数学が得意で、全市統一テストで高得点を取り、8年生の時に9年生の課程を終えたほどでした。しかし、高校にあがり、向上心のたぎる溶鉱炉のようなKIPPのクラスから離れると熱意を失ってしまったのです。「KIPPにいたときにあった意欲がなくなった。」ということで、ヴァンスは努力をしなくなり、成績表は、ミドル・スクールの頃にはAやBが並んでいたのですが、高校ではCで埋まるようになりました。「今になって振り返ると、KIPPのおかげで学業への準備ができたけれど、感情面、心理面の順位ができていなかったと思う。」とヴァンスは語っています。「自分がやっていることをみんなが知っているような、家族みたいに密な集団から、放っておかれることの多い高校に行きました。宿題をやっていっても、だれもチェックしません。となると、高校生活のことは全部一人でやれるように成長するしかなかった。おれたちには、その準備ができていなかったんです。」

ヴァンスは、高校を出た後、ある4年制の公立大学に入り、コンピューター情報システムを学ぼうとしましたが、その科目を退屈に感じるようになります。そこで、専攻をカジノ・ゲーム管理に変えました。その後、学長とそりが合わずに退学し、少しのあいだ靴屋で働いてから別の州立大学に入りました。歴史を専攻するつもりでしたが、間もなく学費が底をつき、こんどは完全にやめることになってしまいました。ここ数年は、コールセンターで働いているそうですが、「たくさんの可能性があった。それをもっとなんとかするべきだったかもしれません。」と後悔することもあるそうです。

このようなKIPP最初の卒業生が大学生活で苦戦している様子を見て、レヴィンは心を痛めます。毎月のように、また一人というように大学を辞めた話が耳に入ります。そこで、レヴィンは、データを集め、どこを変えればよかったのだろう?何が足りなかったのだろうか?と考えます。それは、もちろん、KIPPでの取り組みは、将来とまでいかないまでも、大学でうまくやっていくのに必要なものをすべて与えることが目的だったからです。

このように大学を中退してしまう子たちは、最初のクラスの子たちだけでなく、2年目も、3年目も多く聞くようになりました。そこで、レヴィンは興味深い事実に気がつきました。大学で粘れるのは必ずしもKIPPでトップの成績を取っていた生徒たちではありませんでした。最近のブログを読んでいると、何となくわかると思いますが、レヴィンは、どのような力が必要だと思ったのでしょうか。

熱意” への9件のコメント

  1. なるほど、熱意をもって一生懸命に学び、家族のような人間関係だったKIPPの頃、しかしその後の高校、大学は?・・・大学の退学、再び別な大学に入り再起を図ってもまた退学・・・。これはどうやら一人の生徒だけではなく、「最初のクラスの子たちだけでなく、2年目も、3年目も多く聞くようになったということで、これはKIPPとしても放っておけない問題になったのですね。「独特の儀式や規則やエネルギーに満ち溢れて」いた学校から「宿題をやっていっても、だれもチェックしません。」という高校へ移り、入った大学の科目が「退屈に感じるようになり」、やがて「学長とそりが合わずに退学」。レヴィン氏は卒業生の「粘れな」さに気づき、その対策を講じ始めるのでしょう。次回のブログがまたまた楽しみになってきましたね。ところで、最近のブログで取り上げているKIPPというミドルスクールにとても興味を持っています。ネットで調べてみようと思います。

  2. KIPPでの取り組みはそのような方向のものだったのですね。向上心のたぎる溶鉱炉という表現が印象的です。私も周りの人の影響をたくさん受けて、日々いろいろなことを学んだりしていますが、集団の力はそれぞれに違った働きをするのかもしれません。「勉強した?」、「いいや、全然」、「俺も俺も」という会話を学生の頃はよく聞きましたが、これは周りの人も勉強しないようにと無意識のうちに、そんな雰囲気を作ろうとしているのかもしれません。熱意のある集団のなかで勉強に邁進している生活から、そうではない集団に移った時でも変わらない力を持っておくことが大切なのかもしれません。ん〜少し、話がズレているような気がしてきました。「憤せざれば」というブログの回で、「何かを指示するときでも、自分で考える余地を残しておいてあげるほうが良い気がします」とありました。そんなことの大切さも感じました。

  3. ヴァンスの「たくさんの可能性があった。それをもっとなんとかするべきだったかもしれません」と、過去の栄光を振り返りながら思った人は世の中にどれくらいいるのでしょうか。「なんとかするべき」の“なんとか”とはいったいどんなことであるかを知っている人はどのくらいいるのでしょうか。「全市統一テストで高得点を取り、8年生の時に9年生の課程を終えたほどでした」とあるように、1年もの先にある学びを会得してしまうことには、学び以外におけるそれなりの犠牲があるという印象を受けます。家族的な集団、家族的な熱意のもと、勉学に努めた人が、いったんその環境を離れてしまうと、熱意を失ったり退屈という感情面や心理面の準備がうまくいないのは、やはり、自分発信の意欲的な部分を無視してきてしまったり、困難において自分の思考から実践をする環境でなかったことが大きいのではと感じます。就職率や年収という点からも見られるように、高校の学力だけでなく、忍耐やと我慢という、粘り強さを学ぶ場が必要であったということでしょうか。

  4. KIPPの熱意は十分に伝わってきます。でもこれだけでは十分ではなかったんですね。認知スキル、性格スキルの話がずいぶん前に取り上げられていましたが、この性格スキルがどれだけついているかがポイントになってくるように思います。「真面目さ」「開放性」「外向的」「協調性」「精神的安定性」といったものが育っていることは大きくなればなるほど重要になってくるんでしょうね。私たちが子どもたちにすべきことは、認知スキルではなく性格スキルをいかに高めていくかであると思います。どうしても世間は認知スキルの方に注目しがちですが、そうではないことを地道に訴えていかなければいけませんね。

  5. 以前のブログにあった「非認知能力」、「実行機能」こそが大学などでの不利な局面の打開や粘りに繋がるのでしょうか。特に「高校生活のことは全部1人でやれるように成長するしかなかった。」とあることから協調性が最も足りていなかったのではと思いました。人間1人では生きていけない、共に助け合い、競い合う仲間や支えてくれる両親や恩師の存在も必要であるように思えます。ヴァンスの場合、壁にぶつかったときに仲間やKIPPの頃の恩師に頼る術を知らなかったようにブログを読んで感じました。
    レヴィンさんは大学で粘れるには具体的にどのような力が必要だと思ったのか。興味深い事実とは何なのか。明日のブログも楽しみです!

  6. 家族みたいな存在でなんでもやってあげる教育だったのでしょうか。困難にぶつかったときもやってあげてしまうこで、以前ブログにもあったようにリジリエンスの力がつかなくなってしまったのでしょうね。少し距離感が近かったのではないかと予想します。はやり、自発的に物事を行える環境でないと縛られた生活から離れてしまうと一気にやる気はなくなってしまいます。このKIPPの場合は先生対子どもの関係を強く感じます。一体集団生活での様々な学びはあったのか、人と関わることよりも机に向う時間の方が長かったのでしょうか。「たくさんの可能性があった。それをもっとなんとかするべきだったかもしれません」という後悔から少し違和感を感じていたのか。やはりそこは教育者の質が問われるところですね。

  7. 高校に進学すると同時に熱意が無くなってしまった…なんだか少し分かる気がしますけ。高校の時に部活をしていた時は顧問の先生も厳しいくらい熱心に指導してくれたので、自分もそれに何とか答えようと必死についていきました。お陰さまで大学もスポーツで進学できましたが、環境が全くの真逆で監督と言っても普段は仕事をされているので基本的に自分達で練習をしなければいけないので、少しずつ熱意が薄くなっていくのを実感してむした。今となれば言い訳ですね。ヴァンスが感じたように、感情面と精神面が育っていなかったかもしれません。高校の時の顧問の先生は教えてくれていたのかもしれませんが、それに気づかずにいた自分に責任があるように思います。KIPPの現状を聞くと、やはり早期教育を連想してしまいます。保育士、教員が子どもたちに熱意を持って指導したら、子どもは喜ばせようと頑張ると思います。それが果たして将来役に立つのか…今回のブログを読むと、答えが書いてありますね。

  8. 『「もう一つの家族みたいなものだった。」とヴァンスは語り、「最後にはそんな感じになったんですよ。家族みたいに」』というところが印象的ですね。先生が熱意をもって指導し、それに対して熱意をもって答えている。そうしていくと熱意をもって指導してくれない人に出会ってしまった時にどうしていいかわからなくなってしましますね。そうならないためにも小さいころから教え込むのではなく、自発的に何でも行動できる子の方がどんな時でも自らできる子どもになって行くのではないかと思いました。

  9. なるほど、KIPPのプログラムを読んでいるととても熱心な様子は受けます。一見、良いように見えるのですが、長い期間を見て、大学入学後の生活を見ると、こんなにも影響が出ていたんですね。ヴァンス氏の「高校生活のことは全部一人でやれるように成長するしかなかった。おれたちには、その準備ができていなかったんです」という言葉はとても印象的です。まさに今の保育の現状を見せられているようで「ドキッ!!」としました。本来、「熱意」というものは他から与えられるものではなく、「自発的」に出てくるものでなければいけないのが、そうではなくなる。教育というものの奥深さ、難しさを感じます。「人格形成」をどこかで「勉強ができる人」というように置き換えているのかもしれませんね。教育のあり方を改めて考えさせられます。

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